日本の国は、守るべきなのか―犠牲と、(国の)保存と、犠牲の重みと、(国の)保存の可疑性

 日本の国を守って行く。日本を防衛して行く。そのさいに、どういったほかのことが関わってくることになるのだろうか。

 日本の国を守り、保存して行く。そのさいに関わってくるのが、かつての犠牲(者)だ。

 いっけんすると、日本の国を守って行くのは、当たり前のことのようではあるけど、必ずしもそうではない。言わずもがなのことのようではあるが、そこをうたがえる。当たり前だとは言い切れないのは、かつての犠牲があるからだ。

 かつての犠牲をくみ入れると、日本の国を守ることの正当性がなくなる。十分な正当性が無いことが見えてくる。

 国家の公をどんどん肥大化させて行き、日本の国を守ろうとした。日本の国体(nationhood)を守ろうとした。国体は天皇制などだ。それによって、個人の私が押さえつけられて、個人が犠牲になった。

 日本の国さえ守られればよい。日本の国体さえ守られればよい。国体さえ守られれば、個人がいくら犠牲になってもよい。個人が犠牲になっても、替えはいくらでもいる。替えはいくらでもきく。そのようにやっていたのが、戦前の日本だろう。

 歴史では、自虐史観と言われるのがあり、日本を悪く言うような歴史はよくないのだと言われている。自虐史観だとされるのは、日本がかつて多くの個人の犠牲を生んだことをしめしている。犠牲を生んだことによって、日本の国体だけは守られたのだ。

 自虐史観だとされるような、日本の負の歴史をくみ入れてみると、日本の国を守ることに正当性がそこまで無いことがわかってくる。多くの犠牲を生んででも、国体だけは何としてでも守ろうとしたのが日本だから、個人は守らずに国体だけを守ろうとしている。個人はどうなってもよいのだとする日本のあり方に正当性があるとはいえそうにない。

 日本の国を守るといったさいに、それは国家の公を肥大化させて行くことをしめす。個人の私を押さえつけて行く。個人の私は、いくらでも替えがいるから、どうなってもよい。個人はいくらでも犠牲になってよい。国体さえ守られればそれでよいのである。

 かつてほどには、いまは天皇制が力を持ってはいないけど、いまでも天皇制を主とする国体のあり方は生き残りつづけている。個人の私を押さえつけて、国家の公を肥大化させるあり方だ。

 いったい何を守ろうとしているのかを見てみると、かつての日本は、国体を守ろうとして、個人の私は守らなかった。それによって、多くの個人が犠牲になった。その負の歴史があるから、日本の国を守ることの正当性は、それほどないことが浮きぼりになる。

 日本の国が、何を守ろうとしなかった(守ろうともしなかった)のかや、何を守れなかったのかや、何を守ることに失敗したのかがある。日本が守ることに成功したのは、国体であり、それはアメリカと取り引きしたからだ。日本が何を守ろうとしなかったのかは、国民だろう。個人の私を守ろうとしなかった。個人を守ることに大失敗した。

 守るべきものを守ることに失敗したのが日本の国だ。その失敗をずっと引きずりつづけているのが日本であり、それでいまにいたっている。失敗を抱えもつのが日本である。その日本を守ることには、そこまで正当性があるとはいえそうにない。

 これまでの日本が、どういったものを犠牲にしてきて、どういったものを排除してきたのかがある。日本が犠牲にしたり排除したりしてきたものを重く見ることがいる。それらを重く見るようにして、日本の国の秩序のあり方のおかしさを見て行くようにしたい。かつておよびいまの犠牲や排除によって、(それらの上に)秩序が形づくられているのがあり、そこにおかしさがある。

 参照文献 『国体論 菊と星条旗白井聡(さとし) 『公私 一語の辞典』溝口雄三現代思想を読む事典』今村仁司編 『歴史 / 修正主義 思考のフロンティア』高橋哲哉