等生や等性の後進国としての日本―生や性の平等化がいる

 日本の国のあり方にあるまずさはいったい何だろうか。

 いろいろなまずさがあるのが日本だが、等生化(normalization)と等性化の二つの点から見てみられる。

 戦後の日本では、標準の型がとられてきた。男性が優で、女性が劣とされるものだ。その標準の型が、いまでは時代に合わなくなっている。型がこわれている。それぞれの人の生が多様化しているのである。

 型においては、男性が優の階層(class)におかれる。男性が標準だとされる。その標準とされるものが、標準ではないことが明らかになってきている。なにが標準なのかが自明ではなくなっているのだ。

 どういったものが日本においては標準とされているのかといえば、愛国などがある。日本の国を愛することが、標準の日本人だとされている。これは人為や人工に構築されたものなので、自明性があるとはいえないものである。

 いったい何が標準のもので、何が標準ではないものなのかの、区別ができづらくなっている。分類づけができなくなっていて、分類の線引きが揺らいでいる。戦後に標準とされた型がこわれていて、通じづらくなっているのはいなめない。

 いまは、なにが標準なのかが定かではなくなっているから、等生化や等性化がいることになる。これが標準のあり方なのだとして、男性を優とする型をとると、等生や等性ではなくなる。優の階層と劣の階層が分かれることになる。

 等生や等性ではないのを改めて行く。等生化や等性化をやって行く。それらをやって行くのは、脱構築(deconstruction)をして行くことだ。脱構築をして行くようにして、男性を優としたり、(日本への)愛国を優にしたりするあり方を改めて行く。

 かつてをふり返ってみると、戦前の日本は、男性を優にしたり、愛国を優にしたりするのがそうとうに強かった。生や性がそうとうに不平等だった。これが標準だとされるものが定まっていて、男性や愛国が標準だとされていた。標準だとされたあり方が、国の全体をおおうことによって、日本はまちがった方向につっ走り、敗戦にいたった。

 戦前のころのあり方が、戦後にも引きつがれて、型がつくられた。その型がいまでは通じなくなっているところがあり、こわれている。そこでいることになるのが等生化や等性化であり、脱構築だ。いまやるべきなのは、これまでの標準の型がこわれているのを浮きぼりにして、なにが標準なのかが自明ではなくなっていることを明らかにすることだ。

 日本では、男性や愛国などが標準だとされているが、それは人為や人工に構築されたものだから、自然なものではない。構築性があるものだから、標準だとされているものを変えることができる。その見こみがある。生や性を等しくして行き、どんな生や性であったとしても等しくあつかわれる。そういった社会を日本は目ざして行く。日本がとり組むべきこととしてそれがありそうだ。

 参照文献 『だれか、ふつうを教えてくれ!』倉本智明 『社会を結びなおす 教育・仕事・家族の連携へ(岩波ブックレット)』本田由紀 『悩める日本人 「人生案内」に見る現代社会の姿』山田昌弘構築主義とは何か』上野千鶴子編 『福祉国家から福祉社会へ 福祉の思想と保障の原理』正村公宏(まさむらきみひろ) 『フェミニズム 思考のフロンティア』竹村和子 『クイア・スタディーズ 思考のフロンティア』河口和也 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『社会階層 豊かさの中の不平等』原純輔(じゅんすけ) 盛山(せいやま)和夫