侵略のもつ二重性―侵略と連帯の分けづらさ

 ロシアが攻めてくる。中国が攻めてくる。ほかの国が日本に侵略してくるおそれがある。

 日本への侵略では、どういったことがとり上げられるだろうか。

 中国文学者の竹内好(よしみ)氏は、侵略についてこうしたことを言ったという。侵略と連帯の二つがからみ合う。東洋ではそれが見られるという。

 侵略と連帯の二つは、からみ合っているのがあり、完全に二つに区別できづらい。そうしたことがあるのだと竹内氏は言う。じっさいの具体の現実の中においては、侵略かそれとも連帯かが区別できづらいことがある。

 かつて日本はほかの国を植民地として支配した。日本が植民地主義をやったのは、連帯のようによそおった侵略だ。連帯のように見せかけて、日本はほかの国を侵略して、植民地にしたのである。

 侵略と連帯の二つのもつれ合いを見てみると、侵略の見かけはこわもてだけど、連帯の見かけはやさしいものだろう。いっけんすると連帯の見かけはやさしくて親切なようだが、むしろそこにこそ危険性があることがある。

 日本は見かけはあたかも連帯であるかのようによそおって、親切さをよそおった。あたかも日本が親切であるかのように見せかけたが、じっさいには侵略だった。見かけは連帯で、親切さがあるかのようなところがなくはなかったが、そうであるからこそ日本には危険性があった。日本には暴力性があった。

 親と子の関係では、親が子に愛をかけることが、支配につながってしまうことがある。子への愛が、利他ではなくて、親の利己による。それと同じように、かつての日本の植民地主義は、日本が利他であるかのようにしながら、じっさいには日本は利己だった。

 いまの日本とアメリカの関係は、アメリカの利己によっている。アメリカはいっけんすると日本にたいして親切さをよそおっていて、日本を助けているかのようではあるけど、じっさいにはアメリカの利己による。

 アメリカが利己なのは、アメリカの益になることをやることをあらわす。アメリカの益にならないことはやらない。そういうふうにアメリカは動いていると言えそうだ。日本の益になるようにアメリカは動いてくれない。子への愛があるかのようでいて、じっさいには子への愛がない利己の親のようなものがアメリカだろう。

 何に気をつけるべきなのかでは、日本が侵略されることに気をつけるようにするだけではなくて、連帯が侵略に転じることにも気をつけたい。連帯だと、見かけがやさしいから、ついゆだんして気をゆるめてしまうが、そこがかえって危ない。

 たとえ侵略のおそれがあるといっても、その緊張は作られたものであることがある。緊張が作られたものであるのなら、それをゆるめて、連帯を探ることがいるものだろう。外交の努力をしっかりとやって行く。

 侵略者や連帯者は、表象(representation)のところがあるから、カッコに入れるようにしたい。日本にとって侵略者(のおそれがあるの)はロシアや中国かもしれないが、それは表象に当たるものだ。連帯者としてはアメリカがあるが、それもまた表象だ。

 かつての日本は、連帯者のようによそおったが、その(連帯者の)表象とはちがってじっさいには侵略者だったのがある。表象とじっさいとがずれることがしばしばある。表象とそれじたい(presentation)とがずれる。

 連帯者または愛国者は、表象に当たるものであり、見かけはやさしいが、そこにこそ気をつけるべきだろう。表象にすぎないものなのが連帯者や愛国者だから、それがじっさいには侵略者(または売国者)であることがある。侵略者もまた表象に当たるものだから、たんに敵として作られているだけのことがある。侵略者の表象は、必ずしも固定化できないから、連帯者に転じる見こみもある。

 侵略者に気をつけるだけでは不十分であり、表象を見やぶることがいる。侵略が連帯だったり、連帯が侵略だったりすることをくみ入れないとならない。侵略(者)や連帯(者)にたいしてどういう表象をとるのかがあるが、いったん構築や生成された表象をいまいちどあらためて見直して修正や補正や調整をすることがあるとよい。

 参照文献 『アジア / 日本 思考のフロンティア』米谷匡史(よねたにまさふみ) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『構築主義とは何か』上野千鶴子