軍事ではなくて、非軍事の武装がいる―文化の力による武装

 日本の国を守って行く。そのためには軍事によるだけでよいのだろうか。

 国を守るさいに、軍事の力(hard power)と文化の力(soft power)の二つを見て行きたい。

 武装をするのでは、軍事の武装と、知や情報の武装の二つをあげられる。

 いまの日本では、軍事の武装ばかりが言われている。防衛費を増やすことが強く言われている。そのいっぽうで、知や情報の武装がぜんぜん言われていない。

 文化の力なのが知や情報の武装であり、これは報道の自由にあたる。日本は報道の自由(の世界における順位)が低くて、上から情報が統制されている。

 かつての戦前のころを見てみると、日本は軍事の武装はそうとうに強かった。強兵でやっていた。軍事の国だったのが日本だが、知や情報の武装が弱かった。

 かつての日本では、ものごとを正確に判断するための材料となるものがとぼしかった。海外の情報があまり日本に入ってこなくて、たとえばアメリカがどういった国なのかを国民はよく知らなかった。アメリカやイギリスのことをよく知らないで、鬼畜米英と言っていたのだ。

 かつての戦前のころに見られるように、日本の国は、軍事に力を入れるのはあるけど、文化のところに力を入れるのが弱い。軍事が強くて、文化が弱いことで、日本は戦争に向かってつっ走っていって、敗戦にいたった。

 武装においては、軍事のものをとくにやろうとして、文化のものはやろうとしない。日本はそうしがちなのがある。時系列で見てみると、かつての戦前のころから日本はそうだったのがあり、いまでもそれがとられている。

 軍事であるよりも、文化の武装のほうがよりいる。知や情報の武装をやって行く。それがいるのがある。

 戦前までさかのぼらないで、戦後を見てみると、だんだん日本はおろかになっていっていて、ばかになっている。日本は政治で右傾化がおきていて、頭がばかになっていっているとも言われている。文化の力が弱まっていて、知や情報の武装がなされなくなっているのをしめす。

 政治の右傾化は、知や情報の武装の弱体化だと見なせるものだろう。まだ政治が(いまほどには)そこまで右傾化していないころは、軍事は軽武装だったのがあり、そのかわりに経済に力が入れられていて、文化の力もそれなりにあった。

 いまは、政治で右傾化がおきていて、かつてのように軽武装でやって行くのではないようにしている。軍事で重武装のようにしようとしていて、文化では軽武装になっていて、文化の武装が行なわれなくなっている。

 軍事は重武装で、文化は軽武装または無武装にして行く。これはかつての戦前に見られた日本のあり方だ。それの行きつく先は、戦争につっ走って行き、敗戦することだ。戦前のときとおなじ轍(てつ)をふむ。そのおそれがある。

 なにが心配なことなのかといえば、文化の力つまり頭のかしこさが無くなっていて、日本がばかになっていることだ。ばかなのを改めて、少しでもかしこくなるためには、知や情報の武装をしっかりとやって行く。政治で右傾化がすすんで行くと、ばかになることに歯止めがかからない。知や情報の武装がどんどん行なわれなくなってしまう。文化の力が弱まって行く。そこが危ないところだ。

 参照文献 『武器になる思想 知の退行に抗う』小林正弥(まさや) 『知性の転覆 日本人がバカになってしまう構造』橋本治(おさむ) 『そして、メディアは日本を戦争に導いた』半藤一利(はんどうかずとし) 保阪正康(ほさかまさやす) 『情報政治学講義』高瀬淳一 『右傾化する日本政治』中野晃一