選挙で政権に選択されるのがどこかと、政権に選択されないところがどうなのか―寛容性の低下と、排除の強まり

 自由で民主主義による体制か、それとも共産党が入った政権か。そのどちらかを選ぶことになるのがこんどの選挙なのだと、与党である自由民主党は言っている。

 自民党がいうように、自民党がになうものである自由で民主主義による体制か、それとも共産党が入った政権かを選ぶのかがこんどの選挙なのだろうか。それだと、どのような政権を選ぶのかを決めることになるが、そうではなくて、政権として選ばれないところがどうであるのかを重んじてみたい。

 どういったところが政権をとるのかよりも、政権をとっていないところがどうであるのかのほうがより重みをもつ。政権をとっていないところがどうであるのかは、野党などの反対勢力(opposition)にたいしてどれくらい寛容性(tolerance)があるのかどうかだ。

 野党などの反対勢力に寛容性をもてなくなっていて、そのことによって日本の政治が悪くなっている。それとともに、日本の政治が悪くなっていることで、野党などの反対勢力に寛容性をもてなくなっている。

 どのようなときであれば寛容性をもてるのかといえば、ゆとりがあるときだ。ゆとりがあるときであれば寛容性を持ちやすいが、そうでなくなると反対勢力を悪玉化(scapegoat)して排除する力が強まる。

 どういったときに日本の国は悪くなるのかといえば、国の中に寛容性がなくなるときだろう。どういうところが政権をとるのかよりも、国の中にどれくらい寛容性があるのかのほうが大きいのがあり、寛容性があれば国がまちがった方向に行きづらい。寛容性がなくなると国がまちがった方向に向かいやすい。

 かつてといまを比べて見てみられるとすると、かつてよりもいまのほうが日本の国の中に寛容性が失われている。そう見られるのがあり、反対勢力にたいする排除の力が強まっている。日本の政治は右傾化がすすんできている。

 わりあいに日本の国がうまく行っているときは、寛容性をもちやすい。それとともに、寛容性を持てているから国がそれなりにうまく行くとも言える。うまく行っているから寛容性がもてるのと、寛容性をもてているからうまく行くのとのどちらもがある。よい循環(spiral)がおきることになる。

 いまの日本の政治は悪い循環にはまってしまっていて、うまく行っていないから寛容性がもてないのと、寛容性が持てないからうまく行かないのとのどちらもがおきている。悪い循環に歯止めをかけるためには、反対勢力に寛容性をもつようにすることが必要だ。いかに科学のゆとりをもてるのかが大切だ。

 ゲシュタルト心理学でいわれる図がら(figure)と地づら(ground)によって見てみると、どこが政権をとるのかは図がらだ。図がらのところは目だちやすいが、それよりも目だちづらい地づらのところがどうなのかのほうがより重要だ。地づらのところの反対勢力がどれくらいしっかりしているのかによって、日本の国の政治がよくなるのか悪くなるのかが決まる。

 図がらと地づらは反転させることができるから、どこが政権をとるのかを地づらにして、政権をとっていないところがどうなのかを図がらにすることがなりたつ。目だっていないところを目だたせるようにしてみると、政権ではなくて、反対勢力のはたらきが大きいことが見てとれる。

 いまの日本がまがりなりにもかろうじて首の皮一枚で持ちこたえられているのだとすれば、それはどこが政権をとっているのかではなくて、政権をとっていないところがどうなのかによるところが小さくない。政権をとっていない反対勢力がどれくらいちゃんとしているのかで、日本の国の政治のあり方が決まる。

 だらしなさが目だつのが政権をになう自民党であり、いろいろな不祥事があとをたたない。これまでにいろいろな不祥事を引きおこしてきていて、それらがまともに片づけられていない。反対勢力への寛容性が失われていることによって、自浄の作用がはたらかなくなっていて、腐敗が深まっていっている。

 参照文献 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『右傾化する日本政治』中野晃一 『岩波小辞典 心理学 第三版』宮城音弥(みやぎおとや)編 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ)