防衛よりも抑制がいる―抑制のいちじるしい欠如

 防衛の力を高めることがいまの日本にはいるのだろうか。

 軍事の力を強めて行くような、(戦前のときのような)強兵が日本にはいる。日本の国を守るためにはそれがいると言われているのがあるが、いま日本にいるのは防衛であるよりも抑制(check)をかけることだろう。

 防衛であるよりも、抑制がいるのがいまの日本であり、抑制をかけることが欠けてしまっている。

 受けがよいことや勇ましいことが多く言われて、それがもてはやされる。抑制をかけることを言うことがほとんど言われない。日本はそうなっているのがあり、そこに危なさがある。

 薬と毒の転化(pharmakon)では、抑制をかけるのは毒である。受けがよいことや勇ましいことを言うのは薬だ。毒が薬に転じるのをねらうのが抑制をかけることだけど、それよりもじかに薬を得ようとするのが強い。じかに薬を得ようとすることで、薬が毒に転じることがおきている。

 戦前の日本は、抑制をかけることがほとんどなくて、受けがよいことや勇ましいことばかりが言われた。薬をじかに得ようとしていたのがあり、それが毒に転じた。戦争に負けて、日本の国の内や外に大きな害や損をもたらした。いまにも引きつづくような、消し去ることができない毒を日本はかかえつづけている。

 どうせだったら、受けがよいことや勇ましいことをいったほうがよいといったことで、どんどんそっちの方に流されてしまっている。受けがよいのや勇ましいことを言うと、とり上げられやすくなり、表面の効果は高い。

 表面における効果が低いのが、抑制をかけることだから、それが行なわれることがどんどんなくなっている。だれもやりたがらないことが、抑制をかけることであり、人気がない。やり手がいない。

 抑制をかけるにない手がほとんどいなくなっているのがいまの与党である自由民主党だ。党の中でだれも抑制をかけることを言う人がいない。受けがよいことや勇ましいことを言う人だらけになっている。

 あるていど日本のかつての歴史の事実を知っているのでないと、抑制をかけることの価値がわからない。そんなに深くくわしく知っていなくてもよいけど(それほど深くくわしく知っているわけではないが)、最低限の押さえるべきところの歴史の事実を知っていれば、受けがよいことや勇ましいことが言われることの危険性がわかり、それのもつ負の価値がわかる。歴史の失敗の教訓として、国をうしろだてにしていせいがよいことを言う危なさがある。

 かつての負の歴史が忘却されてしまっているのがいまの自民党だから、受けがよいことや勇ましいことがばんばん言われてしまっている。党の中で抑制をかける人がいなくなってしまっている。抑制をかけることの価値がわからない人だらけになっている。

 できるだけ表面の効果が高いことを言うのが、薬を得ることになるけど、それが毒に転じることがおきる。表面の効果が高いことを追い求めることが、日本では広く行なわれている。

 止める役目を果たす人がいなくなっていて、歯止めがかからない。抑制と均衡(checks and balances)がかからなくなっている。そのなかで、抑制をかけて行くのを行なうにない手をどれくらい増やせるのかがかぎになる。

 止め役のにない手が足りなくなっていて、そのにない手が枯渇しているのがあり、とくに政党では自民党でそれが深刻だ。自民党はまっとうな人材がほとんどいないことから、抑制がかからなくなっていて、右傾化に歯止めがかかっていない。

 右傾化への動機づけ(incentive)はきわめて高くなっているけど、抑制をかけることへの動機づけがほとんどなくて、(戦前の日本のように)戦争に向かうことがあと押しされているところがある。

 日本の国の中では、国家主義(nationalism)が強まっているから、賞罰(sanction)のあり方として、右傾化への動機づけが高まりやすくて、抑制をかけることへの動機づけが低くなる。支配の力がはたらいているのがあり、国家の公が肥大化することがおきていて、個人の私が押さえつけられている。

 国家の公に従うことの動機づけが高まっているから、そこにあらがうのでないと、抑制をかけることへの動機づけをもちづらい。国家の公に従うのにあらがうのは、支配をこばむことであり、不服従である。不服従よりも、従ったほうが(川の流れでいえば)流れにそっているから、従うことがおきやすい。不服従ではなくて、流れに従うだけだと、国家の公がどんどん肥大化して行き、右傾化しつづけることになりそうだ。

 参照文献 『思考のレッスン』丸谷才一 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『右傾化する日本政治』中野晃一 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫