若ものが、国を批判する。国に批判の声をあげた。民主主義の行ないを若ものがやったのは、良いことではなかった。悪いことをやったかのようなとらえ方を、朝日新聞は記事であらわしたという。
民主主義の行ないをやった若ものを、朝日新聞はどのように記事においてあつかうべきなのだろうか。
記事においてどうあつかうべきなのかといえば、若ものをはげます。良い行ないをやったのだと見なす。若ものが民主主義の行ないをやるのをどんどんうながす。そうすればよかった。
民主主義の行ないを若ものがやると、日本では浮いてしまう。出るくいのようになって、くいが打たれてしまう。朝日新聞は、くいを打つのではなくて、もっとくいが出るのをうながす。そうできればよい。くいが出るのをうながすのではなくて、くいを打ってしまっては、若ものが民主主義の行ないをやりづらい。
新聞社が記事のなかで、何をどのようにあつかうのかがある。何をどのようにとり上げるのかだ。そのことを、認知と評価づけと指令の三つの点で見てみられる。
若ものが民主主義の行ないをやったのを、記事のなかでとり上げる。そういう記事を作るのであれば、ふさわしい認知と評価づけと指令を朝日新聞はやるようにしてほしい。
認知においては、若ものが民主主義の行ないをやったことをとらえる。その行ないをどう評価づけするのかがある。若ものは良いことをやったのだから、良い評価づけをするべきだ。
指令では、どうせよとか、どうするなといったことをうったえて行く。若ものが民主主義の行ないをやるのはよいことなのだから、どんどんやって行くことを指令する。若ものが民主主義の行ないをしやすくなり、声をあげやすくなるようにして行く。そういう日本にして行くべきだと、記事のなかでうったえて行く。
新聞社が記事のなかで、ふさわしい認知と評価づけと指令をやって行く。そうすることがいるのがあり、そうでないと、日本の国がどんどんおかしな方向へ行ってしまう。朝日新聞や、その他の新聞社にも、ふさわしい認知と評価づけと指令を記事においてやって行くのを求めたい。
朝日新聞は(それでも)まだましな方だ。悪さがしばしば見うけられるとはいえ、まだよいほうだ。とくに右派や保守系の新聞社は、記事のなかでの認知と評価づけと指令がくるいまくっている。戦前のときと同じようなくるい方をしているから、改めないとまずい。
参照文献 『三人で本を読む 鼎談書評』丸谷才一 木村尚三郎 山崎正和 『右傾化する日本政治』中野晃一 『政治参加で未来をまもろう』首藤(すとう)信彦