総裁選と、その伝え方―候補者が言ったことをそのままたれ流してしまっている

 総裁選が行なわれている。与党である自由民主党では四名の候補者がたがいに競い合っている。

 総裁選においてどういったことがとり上げられるべきだろうか。その中の一つとして、報道においてどのようにものごとが伝えられるのがのぞましいのかがある。

 候補者がああ言っているとかこう言っているとかといったことがある。候補者がどのようなことを言っているのかをただたんにたれ流す。だれかがこう言っているとかああ言っているとかといったことを報道がただたれ流すのではのぞましいあり方とは言えそうにない。そこには伝えるにない手の記者の見識がまったくはたらいていないからである。悪くすると戦時中の大本営発表とまったく同じあり方になってしまう。

 いっけんすると、だれかがこう言ったとかああ言ったといったことをただ報道でたれ流すことは価値に中立であるかのようである。価値に中立であるかのようなよそおいではあるが、じっさいには中立にはなっていない。非中立になっていることはいなめないのである。

 客観に中立に報道をすることはむずかしいのがあるから、価値にふみこんだ形の報道がもっとあってもよいものだろう。価値にふみこむことがいるのは、テレビ民主主義の害がそうとうに大きくなっているのがあるからだ。テレビなどの報道が中立性をよそおいつつも、報じることのかたよりが大きくなっている。価値にふみこんではいないようでありながらも、じっさいにはそうとうに価値にふみこんでいるのである。

 どういったことが与党である自民党の総裁選においてあらわになっているのかといえば、報道のいたらなさだろう。報道において、だれかがこう言ったとかああ言ったといったことをたれ流してこと足れりとするのではなくて、それを記者はどう受けとめたのかとか、あらかじめどういった考えを記者がもっているのかがもっとあってもよいものだろう。

 報道においてどういったことが欠けているのかといえば、認知と評価と指令において、評価と指令が欠けているのがある。だれかがこう言ったとかああ言ったといったことを報じるのは、認知によるものだが、それを伝えるさいにはかたよりがつきまとう。どうせかたよりがおきるのだから、いっそのこともっとふみこむようにして、どういう評価づけをするのかや、どういったようであるべきなのかやどのようにせよといったところまで示すべきである。

 認知したことだけを伝えるのだと、評価や指令が欠けてしまう。報道で報じることは表面のことにとどまることが多いから、ふみこんだ形で伝えることが行なわれづらい。表面にとどまって報じられることを見こして、政権はそれを悪用している。政権が報道を悪用していることに報道機関は加担している。政権の悪いあり方に加担することから脱するためには、記者がもっと自分を出すようにするべきである。現実をくみ入れるとやや無理がある注文ではあるかもしれないが、伝えるにない手に自分はこうだといったような個人性がもっとあったら、報道の内容が少しはよくなるかもしれない。

 参照文献 『情報政治学講義』高瀬淳一 『絶対に知っておくべき日本と日本人の一〇大問題』星浩(ほしひろし) 『三人で本を読む 鼎談書評』丸谷才一 木村尚三郎 山崎正和