アベノミクスで、どういう結果が出たのか―アベノミクスの語と、それによる言明や命題の式

 アベノミクスへの批判がおきている。このさいのアベノミクスとはいったい何なのだろうか。

 経済の政策なのがアベノミクスだけど、それを手段だととらえられる。アベノミクスが目的なわけではないものだろう。

 アベノミクスが手段なのだとすれば、こうした式がなりたちそうだ。アベノミクスをやるのであれば、日本の経済は絶対によくなる。安倍晋三元首相の頭の中にはこの式があるものだろう。

 手段はいろいろにかえがきくものなので、アベノミクスによらないのであれば日本の経済は絶対に良くならないのだとはいえない。日本の経済が良くなったのであれば、それはアベノミクスをやったからだともいえないものだろう。

 どういったことが事実なのかを見てみると、アベノミクスが行なわれたことは確かだ。それはまちがいない。式をもち出してみると、アベノミクスをやったのであれば、経済が絶対に良くなったのでなければならない。ところが、現実を見てみると、経済が良くなっているとはいえず、悪くなっているところも少なくない。

 式によるのであれば、こう言えるのでないとならない。日本の経済が良くなっていないのであれば、アベノミクスをやっていない。ところが、現実を見てみると、アベノミクスを行なったことは確かであり、実行されてはいる。

 どのようなことをアベノミクスが含意していたのかといえば、式にあるように、まちがいなく経済が良くなることではなかった。そう言えそうだ。アベノミクスをやることが原因になって、まちがいなく経済が良くなる結果が出るのではなかった。

 間接の証明や背理法で見てみると、式には矛盾がおきてしまう。矛盾がおきることから、式は正しいものではないことがみちびかれる。式が正しいものであるためには、矛盾があってはならず、アベノミクスによって経済がまちがいなく良くなっていないとならないのである。

 すべての人が益を得たのではなくて、アベノミクスで大きな恩恵を受けた人もいるし、そうではない人もいる。恩恵を受けた人とそうではない人がまばらになっている。恩恵を受けていない人は、アベノミクスにおける反例に当たる。

 恩恵を受けていない、反例に当たる人は、アベノミクスにおいてはいないことになってしまっている。反例にたいしては、アベノミクスが悪いのではなくて、その人が悪いとされて、自己責任論がもち出される。

 光と影があって、光のところは肯定性で、影は否定性だ。光のところだけを見ると、肯定性の認知のゆがみになる。確証の認知のゆがみだ。影の否定性のところを切り捨てないで、そこをよく見てみないと、アベノミクスがどうなのかは見えてこない。

 安倍元首相は、アベノミクスの光のところだけを見ているものだろう。安倍元首相の中では、アベノミクスはとんでもなく大成功したことになっている。語句と送り手の関係による語用論(pragmatics)からすると、安倍元首相の立ち場になってみることができなくはない。安倍元首相の視点からすれば、影を見ず、光のところだけを見たいはずだ。

 影の否定性をもつのがアベノミクスであり、否定の契機をもつ。その否定の契機があるのを切り捨てて捨象して、見ないようにすれば、あたかもアベノミクスが成功したかのようにしたて上げることになる。アベノミクスの(大)成功は、否定の契機を隠ぺいしたところになりたつ。否定の契機の抹消の上になりたつ。

 いち手段にすぎなかったのがアベノミクスなのだから、なんの目的のためになんの手段をとったのかをあらためて見直すべきだろう。目的はふさわしいものだったのかや、手段に目的合理性があったかを見て行く。

 目的はいろいろにあるものだし、手段もいろいろにある。なにがなんでもその手段(たとえばアベノミクスであればアベノミクス)でなければならないことは少ない。目的についてと、手段についての、どちらについてもおかしさがあり、政治がこわれているのがいまの日本だろう。目的の絶対化や手段の絶対化がおきているから、それらを相対化して行きたい。

 参照文献 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『正しく考えるために』岩崎武雄 『思想の星座』今村仁司