首相は、財務省の犬なのか―首相はなんの犬なのか

 財務省の犬だ。国会で首相はそう言われていた。

 財務省の犬なのが、岸田文雄首相なのだろうか。それはよくないことなのだろうか。

 岸田首相が、かりに財務省の犬なのだとしても、それは全面として悪いことを意味しないかもしれない。

 アメリカの犬なのが日本の国ではあるけど、それが全面として悪いことだとまでは言い切れそうにない。少なくとも、かつてにおいては、アメリカに日本が従属することにはいくらかの合理性はあった。

 アメリカの犬なのがよくないのだとしても、たとえば、中国の犬だとかロシアの犬だとかといったこともまた危険だろう。

 なにかの犬のようになっているのがよくないのはあるのにしても、逆からも見てみることがなりたつ。逆にいえば、財務省の犬なのが岸田首相なのだとすると、それをさらにおし進めて行く。さらに一歩よりすすめて行く。

 岸田首相が財務省の犬であるのをさらにすすめて行くのは、日本が不利益分配の政治を避けられなくなっているのを示して行くことである。

 アメリカの犬になっていることでは、日本にあるアメリカの軍事の基地は、沖縄県に集中してしまっているのがある。これは不利益分配の政治の文脈で見てみられるものだ。不利益の分配が沖縄県に押しつけられているのである。

 財務省アメリカの犬になっているのがよくないのであるよりも(それもあるかもしれないが)、不利益分配の政治をまともにやろうとしていないのが悪い。かつてのように利益分配の政治ができるかのようにしているけど、いまではそれができなくなっている。あたかも、かつてのようにいまでも利益分配の政治ができるかのような幻想をふりまいてしまっている。

 犬ではないようにするのではなくて、犬であるからこそ、それをより一歩おし進めるようにして、不利益分配の政治にとり組んで行くようにする。不利益や負担の分配をどうするのかを避けないようにして、どのようにしたらよりふさわしい不利益の分配になるのかを探って行く。

 多数派の犬になっているのがあり、多数派の専制になっている。少数派がないがしろにされてしまっている。大衆の犬のようになってしまうと、大衆迎合主義(populism)におちいってしまう。

 沖縄県アメリカの軍事の基地の負担が押しつけられているのは、日本がアメリカの犬になっていることに加えて、多数派の犬になっていて、多数派の日本人の利益が優先されてしまっているのがある。

 どこにどういった危なさがあるのかでは、財務省アメリカにだけあるとはいえず、多数派(の専制)にも危なさがあるし、大衆にも危なさがある。いろいろなところに危なさがあるのがあり、少数派がないがしろにされることがおきやすい。

 なにを問題化するべきなのかといえば、かりに財務省の犬に岸田首相がなっているのにしても、国民にきちんと十分に説明の責任(accountability)を果たそうとしていないところだ。説明の責任をはたさず、不利益の分配の政治をまともにやろうとしていないところに悪さがあり、そこを批判してみたい。

 かつてのように利益分配の政治ができれば、そのときの国民には好かれやすい。国民からの支持を得やすい。それができなくなっていて、不利益の分配の政治をやらざるをえないから、それをやるとそのときの国民から好かれづらく、支持されづらい。

 財務省はどちらかといえば国民からきらわれているから、財務省の犬もまたきらわれる。アメリカはどちらかといえば日本においては好かれている。国民からきらわれているものがまちがっていて、好かれているものが正しいとはかぎらない。逆であることもある。

 いまの日本では、国民に好かれようとして、好かれる方向に政治が向かっていって、危なくなっている。国民に好かれることや国民から支持されることだけをやり、きらわれるようなことや国民から支持されないことはやらないところに、いまの日本の危なさがある。

 参照文献 『「不利益分配」社会 個人と政治の新しい関係』高瀬淳一 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし)