ロシアによる戦争と、他の国への不信感の強まり―自と他のあいだの不信感の悪循環(spiral)

 ロシアがやっている戦争は、どういったことがもとになっているのだろうか。

 一つのもととしては、他への不信があげられる。自が、他に不信感を強くもつ。

 ロシアは、ウクライナへの不信感をもち、また北大西洋条約機構(NATO)への不信感をもっている。それらへの不信感が引き金になってロシアは戦争を引きおこした。

 他に不信感を持っているからといって、そのことでロシアが戦争を引きおこしたことを正当化できるわけではない。戦争を正当化することはできないが、自が他に不信感をもつことがわざわいしているのがある。

 日本の国の中でいえば、かつては家の戸じまりをやっていなかった。これは日本の国の中で、他の人に不信感を持っていなかったからだ。お互いに気心が知れ合っているどうしであれば、他に不信感を持つことがいらず、信頼できた。家の戸じまりをしなくてもぶっそうではなかった。

 近代の西洋のあり方だと、自我がしっかりしていて固いので、柔らかさがない。近代につくられた国のあり方は、固い自我によるのがあり、柔らかさが欠けている。お互いに固い自我をもつ国どうしが、ぶつかり合う。(ロシアが悪いのは確かではあるが)ロシアとウクライナのやっている戦争にはそれが見られる。

 いまは世界主義(globalization)がおきているから、国が流動化していっている。その中で国家主義(nationalism)が強まっているのもあり、国どうしのぶつかり合いがおきやすくなっている。

 近代の国のあり方だと、どうしても他の国に不信感を持ってしまいやすい。他に不信感を持ちやすいのは、社会契約論によって説明できる。個人が、他の個人と不毛な戦いをしつづけるのが、自然状態(natural state)または戦争状態だ。

 個人どうしが戦い合うのが戦争状態であり、それを国に置きかえると、国どうしが戦い合う。国どうしがお互いに不信感をもち合い、ぶつかり合う。はじめの自然状態で、自と他がお互いに信頼し合えるとするのは、性善説だが、現実にはそれはなりたちづらい。現実には自と他がお互いに不信感を持ち合う性悪説が当てはまる。

 国どうしが戦い合う戦争状態を改めて、いかに社会状態(civil state)にもって行けるのかがある。いかに社会状態にもって行けるかは、自が他に不信感をもつのをいかに無くせるのかにかかっている。

 自が他に不信感をもつことから、ロシアは戦争を引きおこしたのがあり、それは世界が戦争状態におちいっているのをしめす。戦争状態になっているのから、社会状態に移るためには、他にたいする不信感をいかに無くせるのかが試される。

 国の中でいえば、かつての日本のように、まったく家の戸じまりをしないようにはできづらいけど、そうかといって、たとえばアメリカのように銃社会になっているのは不健全だ。

 アメリカの国の中は銃社会になっていて、そのあり方そのものが戦争状態のようなところがあるから、いかに銃社会であるのを改めて、(銃がいらない)社会状態に移れるのかが求められる。それと同じように、世界においても、他の国への不信感をなくして、家の戸じまりをしなくてもすむようなあり方に近づけて行く。

 いまの世界の現実は、かつての日本のように、家の戸じまりをしないでいられるのとはほど遠く、戸じまりをしっかりとすればこと足りるのでもなく、アメリカの銃社会のようになっている。

 個人を国に置きかえると、国が銃をもち、なおかつその銃をどんどん強力なものにしていっている。より強力な銃を持てばもつほど、国がより安全になるとされている。銃社会のあり方が過激化していて、進むべき方向性がまちがっている。(自による)他への不信の強まりと、より強力な銃をもつこととが、正比例している。それだと、世界において戦争状態が深刻化するばかりであり、社会状態に移る見こみが立たない。

 自と他が固いものどうしなのを、それぞれを互いに柔らかくして行くことが、戦争を防ぐことにはいる。自と他が固いものどうしだと、戦争状態の中で個人どうしが不毛に戦いつづけるように、国どうしでも戦争がおきやすい。

 参照文献 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『リヴァイアサン 近代国家の思想と歴史』長尾龍一 『グローバリゼーションとは何か 液状化する世界を読み解く』伊豫谷登士翁(いよたにとしお) 「他者を信用するということ」(「現代思想」一九八七年八月号)今村仁司