ロシアの国がやっていること(もよおし)のおかしさ―毒になる国のもよおし

 ロシアが、ナチス・ドイツに勝ったことは、そんなに喜ばしいことなのだろうか。ナチス・ドイツに勝った日である、五月九日をロシアの祝日にして、軍事のパレードをするのはふさわしいことなのだろうか。

 あらためて見てみると、ナチス・ドイツに勝ったのは、当時のソヴィエト連邦であり、正確にはいまのロシアとは異なっている。ソヴィエト連邦は崩壊して、いまのロシアがあるのだから、それぞれがちがう国だとする見かたもなりたたなくはない。

 ソヴィエト連邦とロシアとでは、国の名前が変わっているから、その二つのあいだに完全な連続性があるとはっきりと言い切ることはできづらい。ソヴィエト連邦のときは国家社会主義だったのがあり、そのときの国のあり方はいまではとられていないものだろう。国のあり方が変わっているのがあり、ちがう国になったと言えなくもない。

 記号表現(signifier)と記号内容(signified)を見てみると、おなじ国の名前がつづいているからといって、ずっと連続しているとは言い切れそうにない。国の名前である記号表現が同じであっても、国のあり方である記号内容が変わっていることがある。記号内容が変わったのであれば、記号表現を変えるべきだとする見かたもなりたつ。

 ナチス・ドイツにロシア(ソヴィエト連邦)が勝ったことにはさしたる意味があるとは言えそうにない。さしたる意味があるとはいえそうにないのは、勝ったからといって正しいとは限らないからだ。そのいっぽうでロシアにナチス・ドイツが負けたことには意味があると言える。

 ナチス・ドイツは、まちがったことや悪いことをやって、なおかつ負けたのだから、それをふり返ることには意味があるだろう。定期的に、ナチス・ドイツの悪行をふり返るようにすることは、意味あいが大きい。

 たとえナチス・ドイツに勝ったのだとしても、意味のないことをやっているのがロシアだと言える。かんじんなことは、ロシアが意味のないことをやらないようにして、少しでも意味のあることをやるようにすることだろう。

 ロシアは、かんじんな押さえるべき点を押さえていなくて、そこと大きくずれたことをやっている。ナチス・ドイツに勝ったことを祝い、勝った日である五月九日を祝日にして、その日に軍事のパレードをすることは、いたずらにロシアが自国を増長させるだけにすぎないものだろう。自国を増長させるようなもよおしをやっても、たんに自国の自己欺まんの自尊心(vain glory)が高まるだけだ。

 どういったことをやれば、ロシアの国にとって少しでも意味があることになるのかといえば、自己欺まんの自尊心を高めるようなことをやることには無い。国にとって意味があるようにするためには、けんきょに歴史をふり返り、自国の負の歴史を想起して行くことだろう。

 国がおかす歴史の大きな失敗としては、人権の侵害や、むぼうな戦争や、権力の独裁があるという。ナチス・ドイツはそれらをやったから悪かった。ナチス・ドイツがそれらのまちがいをやったことを、自国に生かすためにロシアがふり返るのであればまだ意味はある。ただたんに、ナチス・ドイツにロシアが勝ったことを祝うだけでは、意味はない。勝つことよりも、負けたり、まちがったりしたことをふり返ったほうがまだ意味はある。

 ナチス・ドイツをもち出すまでもなく、ロシアは自国の中に、まちがったことをやった歴史をたくさん抱えている。ロシアの国の中や、または他国において、国がまちがったことをやった例はたくさんあるのだから、それらをふり返って行く。

 ロシアは、ナチス・ドイツに勝ったことを祝う軍事のパレードをやっているばあいではなくて、かつてロシアがナチス・ドイツに勝ったことにうつつを抜かしているばあいではない。自国の勝利を祝っているばあいではなくて、ナチス・ドイツがやったような悪いことをロシアがやっている(これまでにやってきている)のを十分に見て行くべきだ。

 ロシアをふくめて、いろいろな国で、人権の侵害や、むぼうな戦争や、権力の独裁がおきているのがあるから、まちがいをおかした歴史をふり返り、ふたたびまちがいをくり返さないようにすることが、国がやるべきことだろう。国が勝ちをおさめたことや、それを祝うことになど、とくに意味がないと言える。

 薬にも毒にもならないようなことをロシアはやっているとはいえず、はっきりと毒になるようなことをやっていると言える。毒になるもよおしをロシアはやっている。ロシアの国のたくらみや意図(intention)を見てみると、毒になるようなことをもくろんでいる。毒になることとは、国家主義(nationalism)を高めるのや、国民にうそをついたりごまかしたりすることだ。

 (たとえナチス・ドイツが悪かったのにせよ)ナチス・ドイツをもち出すことによって、ロシアの国がどのようなうそやごまかしや隠ぺいをたくらんでいるのかを見ないとならない。構造としては、ナチス・ドイツとロシアはそう遠くはないだろうから、構造としては類似性がある。構造としてちがいがあるのでないと、ナチス・ドイツを批判することはなりたたない。

 薬と毒の転化(pharmakon)で、薬が毒にひっくり返ったのがナチス・ドイツであり、ロシアもそれと同じになっているから、構造の類似性がある。ロシアだけではなくて、日本などのほかのいろいろな国でも、ナチス・ドイツのように、薬が毒にひっくり返ることがおきていて、ナチス・ドイツと構造が類似している。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『憲法という希望』木村草太(そうた) 『疑う力 ビジネスに生かす「IMV 分析」』西成活裕(にしなりかつひろ)