ロシアとウクライナの戦争と、戦争を語ること―戦争を語るべきか、語らないようにするべきか

 ロシアが戦争をやっている中で、どのようなことが正義なのだろうか。どういった正義を言うことがいるのだろうか。

 いろいろな正義が日本のテレビの番組などでは言われている。こうするべきだとか、ああするべきだといったことが、日本のテレビなどでは言われている。ロシアはこうするべきだとか、(ロシアに攻めこまれている)ウクライナはこうするべきだといったことが言われている。

 戦争についていろいろなことが言われているけど、そこには不快さや、こころよくないようなところがある。不快さや、こころよくないところがあるのは、それぞれの人が、戦争について、外野からいろいろなことをかってに言っているからだ。ツイッターのツイートではそうしたことが言われていた。

 野蛮なことをしているのは、必ずしも戦争をやっているロシアにかぎったことではない。哲学者のテオドール・アドルノ氏は、アウシュヴィッツのあとではすべての詩は野蛮であると言っている。ここで言われる詩は、せまい意味でのものにかぎらず、広い意味での文化だととらえることがなりたつ。

 たとえロシアの戦争のことに触れるにせよ、それとも触れないでほかのことをやるのにせよ、そこにはいずれにしても多かれ少なかれ野蛮さがおきてしまっている。野蛮さがあることから、不快さやこころよくないところがおきることになる。

 戦争をやっているロシアだけが野蛮なのであれば、野蛮であるロシアを批判すればこと足りる。そうではなくて、アウシュヴィッツのあとではすべての詩が野蛮だと言えるのがあるから、さまざまなことに野蛮さがおきてしまっている。

 いっけんすると野蛮ではないようなことであったとしても、啓蒙の弁証法がはたらいてしまい、啓蒙が野蛮さに転じることになる。ロシアがやっていることも、ロシアは(自国の行ないを)啓蒙だとしているのがあり、その啓蒙が野蛮に転じることで、戦争が行なわれている。

 啓蒙のような、正しいことを説くものであったとしても、純粋な善だとはいえないところがおきてくる。不純さがあることをまぬがれない。正義を説くものであったとしても、そこには不純さがおきてくるのがあり、構築性がおきてくる。

 純粋なものではないことから、構築性がおきてくるのがあり、自分がどのようなことに関心を向けているのかによってしまっている。自分の関心が向くところにたいして、何かを言っているのにすぎない。主観であるのにとどまることになる。

 作家の佐藤優氏によると、認識を導く利害関心(erkenntnis leitendes interesse)があるという。自分がどのようなものに関心をもって、認識するのかは、客観のものではなくて、自分がもつ利害関心による。自分がもつ利害関心に合うことにたいして、自分の関心が向く。そうでないものには関心が向かず、認識しづらい。

 ロシアの戦争にたいして、何かを言うのにしても、そこには認識を導く利害関心があり、構築性があることがわかる。自分がもつ利害関心によってしまっているから、ほんらい関心を向けるべきものにきちんと関心を向けられているとは言い切れない。

 ロシアに攻めこまれている、ウクライナのためにとしつつも、自分のためにやってしまっているところがあり、自分を優位にしてしまっているところがある。自分はあくまでも安全地帯の中にいて、そこでものを言ってしまっている。そこに野蛮さの一つがあると言えそうだ。ひとつにはそこを反省しないとならない。自分が関心を向けているところにかたよりがあることはまぬがれそうにない。

 参照文献 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『政治って何だ!? いまこそ、マックス・ウェーバー『職業としての政治』に学ぶ』佐藤優 石川知裕