ロシアとウクライナの戦争と、固さと柔らかさ―固いものどうしによる戦闘

 固いこう派と柔らかいなん派の点から、ロシアとウクライナの戦争を見てみると、どういったことが言えるだろうか。

 戦争は、固いこう派どうしが争い合う。お互いの国どうしが固くなっている。

 国そのものは、いまは柔らかいなん派のあり方になっている。グローバル化がおきている中で、国は流動化が進んでいっている。

 全体は非真実であると言っているのは、哲学者のテオドール・アドルノ氏だ。国の全体が一つにまとまっているのではなくて、国の中はばらばらになっている。

 戦争がおきている中では、あたかも国の全体が一つにまとまっているかのようにされる。固く一つにまとまり合う。見せかけの固さであり、見せかけのまとまりだ。

 ロシアでは、世論調査で、戦争をよしとする国民が八割にのぼるという。この数字はうさんくささがある。あやしさがある。

 ロシアで出ている数字にあやしさがあるわけとしては、戦争がおきてから、その戦争についてをたずねているから、もとから戦争をするべきかどうかを調べていない。戦争がおきる前に、もとから戦争をするべきだとしていた人は、たぶんそれほどいなかったものだろう。よほど好戦的な人でないかぎりは、戦争はおきないほうがよいはずである。

 ほかのあやしさとしては、数字がテレビによって作られている点だ。テレビでどのように情報を報じるのかのやり方しだいで、いくらでも人々を操作できる。数字を高めることもできるし、低めることもできる。戦争をよしとさせるように、テレビの情報が流されているだろうから、数字が高く出るのは、人々が流されていることによっているものだろう。

 がっちりと国の中が一つにまとまっていて、固くなっているのだとはいえそうにない。ロシアでは戦争をよしとしている人が多いのにせよ、そこには偶有性がある。限定された情報しか与えられていなくて、知る権利がしっかりと満たされていなければ、ものごとを見なすさいに不たしかさがおきてしまう。偶有性がある中で、どちらに転ぶかがわからなくなる。

 アメリカの大統領だったジェームズ・マディソン氏は、国民の知る権利の重要さを言う。いろいろに国民がものごとを知らされていて、いろいろに知ることができるようになっていないと、悲劇または喜劇がおきてしまう。国の政治において、悲劇または喜劇か、その両方がおきることになるという。

 ほんとうに、自国は固いこう派なあり方で、一つにまとまっているのか。敵となる他国は、固いこう派なあり方で、一つにまとまっているのか。そう問いかけてみられるとすると、自国や他国は、固いこう派なあり方ではなくて、一つにはまとまっていない。こう派で一つにまとまっているかのようになっているのは、そう見せかけているのにすぎない。

 国の中で、一つの大きな物語をみんながいっしょになって信じることができづらい。戦争は一つの大きな物語だけど、それが成り立たない中で、むりやりに戦争がおこされている。

 大きな物語がなりたちづらくなっているのは、一つには物語としての国がなりたちづらくなっていて、柔らかいなん派になっている。もう一つには、国がなす戦争が、物語としてなりたちづらい。

 国がなす戦争に、巻きこまれたくない。おろかな戦争を国がやるのだとしても、それに巻きこまれないで、つつがなく生活して行きたい。そう願う国民は少なくないものだろう。国がおろかな戦争をやるとして、それに好んで巻きこまれたいとのぞむ国民は、よほど戦争が好きな人でないかぎりは、そこまで多いとはいえそうにない。

 何々からの自由である消極の自由がしっかりと満たされているのであれば、大きな物語としての国や、国がなす戦争がなりたちづらいことがあばかれる。物語としての国は流動性によっているのがあり、柔らかいなん派になっていて、それぞれの人々による小さな物語があるのによる。

 固いこう派による、大きな物語によらないと、国はなりたちづらいし、国がなすおろかな戦争はできづらい。形式からすると、大きな物語だから悪いのがあり、不健全なことになる。大きな物語がなりたちづらくなっているのにもかかわらず、あたかもそれが成り立っているかのように見せかけていて、その中で国がおろかな戦争をなす。

 形式からすると、国や、国がなす戦争は、大きな物語に当たるのがあり、そこに悪さや不健全さがある。負の一面があることは否定しがたい。負のところを和らげるには、大きな物語がなりたっていないことをはっきりとさせて、それを絶対化しないようにする。できるだけ相対化して行く。

 相対化して弱めて行くのではなくて、大きな物語であるのを強化してしまっているのがおきている。そこから国がもつ悪さや不健全さが強まっている。その中でロシアによって戦争が引きおこされている。形式としては、大きな物語は悪いところをもつから、あたかも国の全体が一つにまとまっているかのようにしないようにしなければならない。

 国の中が、みんなちがっていて、ばらばらだとして行くことがいる。形式としては小さな物語であった方がよい。小さな物語であったほうが現実により近い。国の中が分散したあり方のほうが多少は安全だ。国の中が一つにまとまっていて、画一化していると、いざとなったさいにみんなとも倒れになり、集団が全滅するおそれが高い。

 参照文献 『グローバリゼーションとは何か 液状化する世界を読み解く』伊豫谷登士翁(いよたにとしお) 『相対化の時代』坂本義和 『目のつけどころ(が悪ければ、論理力も地頭力も、何の役にも立ちません。)』山田真哉(しんや) 『情報政治学講義』高瀬淳一