ロシアとウクライナの戦争と、悪さの模倣性―アメリカの悪さの模倣(まね)

 ロシアは戦争をおこしたから悪い。ウクライナに戦争をしかけたのがロシアだ。

 ロシアが悪いとされている中で、ロシアとアメリカを比べてみたい。

 ロシアとアメリカを比べてみるとどういったことが言えるだろうか。

 ロシアとアメリカはちがう。そのさいには、ロシアが悪いとすることがなりたつ。ロシアとアメリカはちがうのではなくて同じだと見なせば、ロシアだけが悪いとするのはなりたちづらい。アメリカもまた悪い。

 いまはロシアが戦争をおこしているから、ロシアを批判することは必要だ。ロシアを批判することがいる中で、ロシアを悪いとするのは、修辞学でいわれる差異からの議論によっている。

 差異からの議論だけではなくて、類似性からの議論もなりたつ。類似性からの議論からすれば、ロシアだけを悪いとするのではなくて、アメリカもまた悪いとすることがなりたつ。

 いっけんすると、ロシアの国民の多くが戦争をよしとしていることは、おかしいように映る。よくないことのように映る。そのことを類似性からの議論で見てみると、必ずしも変なことだとはいえそうにない。必ずしもめずらしいことではない。

 八割の国民が、自国の戦争をよしとしているのがロシアだけど、それを類似性からの議論で見てみると、そこまでおかしいことではないかもしれない。ロシアがやっている戦争を、かりにアメリカがやっている戦争だと入れ替えてみると、アメリカがやる戦争に、日本の国民はあまり反対しないはずである。

 ロシアの国民が、自国がやっていること(戦争)をよしとしているのは、アメリカがやっていることを、日本の国民がよしとすることに通ずる。または、アメリカがやっていることをアメリカの国民がよしとすることに通ずる。

 むかしの日本で言えば、天皇が言ったりやったりすることを、臣民である日本人がよしとしていたのがある。生きている神である天皇の赤子だったのが日本人だ。

 いまの日本でいえば、与党である自由民主党のことを批判する日本人はそれほど多くない。自民党のことをよしとする日本人が多い。日本の国の中では、みんなが自民党のことをよしとしていると言っても、そこまで言いすぎではない。必ずしも現実から離れた誇張にはならない。

 むかしとはちがって、いまでは日本の国を飛びこえて、日本の外に天皇がいて、それに当たるのがアメリカだ。アメリカのことを日本が批判できないように、ロシアの国民も自国であるロシアのことを批判できづらくなっているのがありそうだ。

 差異からの議論からすれば、いま戦争をやっているロシアのことを批判することは必要なことだ。それだけではなくて、類似性からの議論もいるのではないだろうか。類似性からの議論によるのだとすると、日本の国が批判をするべきなのは、ロシアであるよりも(それと共に)、アメリカだろう。アメリカを批判しなければ、日本の国は(批判するべきものを)批判したことになっていない。きびしく言えばそう言えるのがありそうだ。

 ロシアだけにかぎらず、あらゆる国は、他からの批判に開かれていなければならないはずだ。そうであるのだとすれば、ロシアが他からの批判に開かれていることがいるように、アメリカもまたそうでなければならない。そのことを逆から言えば、ロシアが他からの批判に開かれていなくて閉じてしまっているのと同じように、アメリカもまた閉じている。

 どちらも閉じている点で、ロシアとアメリカは類似性がある。あるべきあり方にはなっていないのは、ロシアだけではなくてアメリカにも言えることだ。開かれていなくて閉じているのがいけないのだから、その点についてを批判することがいるのは、ロシアだけではなくてアメリカにもやらなければならない。ロシアだけを批判して、アメリカを批判しないのは、ある点からすれば、不公平なあつかいであり、正義にかなっていないところがある。

 参照文献 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『国体論 菊と星条旗白井聡(さとし) 『反証主義』小河原(こがわら)誠