税金の無駄づかいをなくし、不利益の分配の政治をすることの不可避性と、その困難性

 国の政治家にむだに税金が使われている。ほかの政党とはちがって、国の政治家に税金がむだに使われていることをとり上げて、それをいましめる。日本維新の会は、税金のむだについてをとり上げていたが、それは意味のあることなのだろうか。

 主義によって見てみると、日本維新の会は右寄りの政党であり、新自由主義(neoliberalism)による。左派の政党は社会民主主義(social democracy)による。右派と左派では、どちらかといえば右派である新自由主義のほうが、税金の無駄をなくそうとする動きが強いのはあるだろう。左派は税金を使って行こうとするのがあるから、税金の無駄をなくす動きが新自由主義ほどには強くはない。

 日本維新の会は、ほかの政党とのちがいを強調しているが、その差別化(差異化)は表面的なものにとどまっている。核心としてはほかの政党と大きなちがいがあるとは言いがたい。

 政党どうしは、おたがいに競い合っているから、どの政党も似たり寄ったりになりやすい。おたがいに競い合っているのは、どの政党もだいたい水準が同じようなものであるのをしめす。飛び抜けてすぐれた政党はなく、代わりばえがない。

 税金の無駄をなくして行くことは、いっけんすると大切なことのようではあるが、それと同じかそれより以上に心配なのは、国の中の分断が深まってしまうことだ。新自由主義によることで、分断がおきてしまうことになり、国の中の社会状態(civil state)が崩れて、自然状態(natural state)つまり戦争状態と化す。

 いまの日本の国は、右傾化がおきていて、新自由主義によることで、社会状態が崩れて自然状態になっているところがある。国の政治において理性の退廃(decadence)が深まっている。数が多いか少ないかだけでものごとを強引に動かして行く。質をないがしろにして、量だけでやって行く。国の政治家や政党が、自己欺まんの自尊心(vain glory)によって動いている。虚栄心によってかり立てられている。

 どの政党も力(権力)への意志によっているのがあり、力を志向していることに変わりはない。いっけんすると正しいことを言っているようであったとしても、力を志向することがもとになっているのがあるから、そこをさし引いて見なければならない。少しでも大きな力を得ようとして動いているのである。他を押しのけて、他をしのごうとしている。うわべでの多少のちがいはあったとしても、力を得ようとする欲望をもつ点では、ひと皮むけばどの政党も共通点をもつ。

 日本の国が苦手としていることには、ものごとを体系(system)としてとらえて行くことがある。日本維新の会がやっているように、これが税金の無駄づかいだとして、たんに目についたものを部分的にとり上げても、ものごとを体系としてとらえていることになっていない。木を見て森を見ずである。

 税金の無駄をなくして行こうとするのであれば、税金の無駄づかいになっているものを体系としてとらえるようにして、その範ちゅう(集合)を全体として見ることがいるものだろう。もれなくだぶりなくの MECE(相互性 mutually、重複しない exclusive、全体性 collectively、漏れなし exhaustive)でやって行く。

 科学のゆとりをもつようにして、表面的だったり部分的だったりするのではないようにして、一つひとつのことについてを原因まで深く掘り下げるようにして、その原因にたいして手を打つ。目に見える成果をすぐに出そうとしてあせっているのが日本の国の政治にはあるから、科学のゆとりが欠けている。

 日本の国の財政はぼう大な赤字を抱えているから、不利益の分配をどうするのかを避けられなくなっているのがあり、生やさしいものではないようなきびしい現実をつきつけられているのはたしかだ。いまのところ日本の国の政治は、きびしい現実に向かい合っていなくて、現実から逃避しつづけている。不利益の分配の政治がしっかりとできていない。国の政治家どうしや政党どうしが、不毛な争い合いをやっている場合ではないだろう。

 参照文献 『「不利益分配」社会 個人と政治の新しい関係』高瀬淳一 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『右傾化する日本政治』中野晃一 『法哲学入門』長尾龍一