無駄なものや価値がないものと、無用の用

 価値のない人間はいないほうがよいのだろうか。むだな人間やよけいな人間はいないほうがよいと言えるのだろうか。かりに価値がある人間と価値がない人間に分けられるとすると、それらを実用性と冗長性(redundancy)に置き換えられる。

 実用性と冗長性の二つのあいだに相互作用がはたらく。二つがまったく別々なのではなくて、互いに影響を与え合う。

 世界の国を見てみられるとすると、アメリカや中国は大国であり、実用主義(pragmatism)によるところがある。合理主義による。実用主義によるのがあることから、アメリカや中国はそれなりに新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染に手を打てている。それなりにうまく行っているところがある。

 アメリカと中国をいっしょくたにはできないかもしれないが、どちらもともに実用性だけではなくて冗長性の力をもつ。どちらの国も文化の力(soft power)がそれなり以上に高いから、たんに物質の力(hard power)だけによっているのではない。

 西洋の国を見てみると、いろいろな国があるのはあるが、全体として文化の力が高くて冗長性がある。文化や歴史の厚みが厚い。実用性と同じかそれより以上に冗長性も大事にされている。ただたんに実用性だけがあればよいとはされていないものだろう。

 日本についてを見てみると、冗長性が弱いのがある。明治の時代に近代化されてから日本は実用性にもっぱら力を入れてきている。富国強兵でやってきた。働くことが美徳だといったことでやってきている。冗長性は切り捨てられてきた。それがとくにひどかったのが戦争のときだろう。戦争のときはとりわけ冗長性が切り捨てられたから、それによっておかしな方向に向かって全体がつっ走って行った。

 実用性に力を入れすぎることによってかえって日本は自分で自分の首をしめてしまっている。そういったところがありそうだ。実用性が重んじられているとはいっても、アメリカや中国ほどに実用主義による合理性は高くはないのが日本だ。合理性が低いことをやっていることがしばしばある。やっていることの合理性は低いが実用性を重んじているといったような変なことになっている。

 冗長性が弱いことによって、科学のゆとりが欠けてしまう。科学のゆとりが欠けることによって、やっていることの合理性が低くなるから、実用性も弱くなる。実用性が強まるのではなくてその逆に弱まることになる。

 脱構築(deconstruction)をして見てみられるとすると、いっけんすると冗長性はむだなように見えて、そのむだに見えるところが大きくものを言う。冗長性が多くあることによって実用性が生きることになる。

 むだなものや価値がないことを切り捨てて、価値があることだけをてっとり早く得ようとすることによって、かえって遠まわりになる。負の循環(spiral)におちいるようになる。日本の政治にはそれが見うけられるのがあり、実用性と冗長性の二つがともに弱くなっている。二つが共にだめになっていて共倒れしかねない。

 実用性にかたよりすぎているのを改めるようにして、冗長性を大事にするようにして行く。そうすることで小さく固まって閉じてしまい発想が貧しくなるのを防ぐ。より開かれた新しい見かたができることにつながって行く。明治の時代からつづいてきているような、実用性によるだけのあり方ではそれがのぞめそうにない。

 参照文献 『哲学塾 〈畳長さ〉が大切です』山内志朗(やまうちしろう) 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『無駄学』西成活裕 『働かないアリに意義がある 社会性昆虫の最新知見に学ぶ、集団と個の快適な関係』長谷川英祐(えいすけ) 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『心理学って役に立つんですか?』伊藤進 『老荘思想の心理学』叢小榕(そうしょうよう)編著