なぜ国の借金を返さなければならないのか―国の借金を返さなくてもよいのか

 日本の国は、財政においてぼう大な借金をかかえている。そのなかで、国の借金を返すべきだとするのと、返さなくてもよいとするのとがある。この二つの立ち場のうちのどちらのほうが正しいのだろうか。それにじかに答えられるのではないが、なぜ国の借金を返さないとならないのかを見てみたい。

 なぜ国の借金を返さないとならないのだろうか。これにもまたじかに答えられるのではないが、これはなぜ(why)による問いかけだ。ちがうものとしては、国の借金とは何かの問いかけがある。これはなに(what)による問いかけだ。そのほかに、どのようにして国の借金を返して行けるのかがあり、これはどのように(how)の問いかけだ。

 国の借金について、なぜと何とどのようにの三つの問いかけがなりたつ。この三つのうちで、なぜとなにの問いかけはあまり意味をなさないところがある。なぜの問いかけを見てみると、なぜ国の借金を返さないとならないのかは、あらためてみるとよくわからない。返すべきだからだとしか言いようがなさそうだ。何々するべきだとするのは、かくあるべきの当為(sollen)によるものであり、これは最終の根拠をもたない。

 なぜいまの日本の国がぼう大な借金をかかえることになったのかは、よくわからないところがあるとされる。よくわからないうちに、いつのまにか日本の国はぼう大な借金をかかえることになってしまい、いまにいたっている。戦後において、一九六四年くらいから日本の財政は均衡が崩れて行き、借金がしだいに雪だるま式に増えていった。

 財政の法で定められているから、国の借金を返して行かないとならないことになっている。一般論として見ると、法の決まりは思想家のヴァルター・ベンヤミン氏が言うように、法の暴力となっているところがあり、法の措定(そてい)の暴力と法の維持(いじ)の暴力があるとされる。

 現実論としては、法の決まりを守って行き遵法の精神をもつことは大事なことではあるが、究極の理想論としては法の決まりはないほうがよい。西洋で古くから言われている理想論で、王も法律も信仰も無いのがよい(ni Roi,ni Loi,ni Foi)とされるのがある。

 なにの問いかけを見てみると、国の借金とは何かははっきりとはわからないところがある。日本の国がかかえている借金の額はあまりにもぼう大なので、とらえどころがない。たんに数字だけのものだから、抽象度が高い。

 どのようにの問いかけには意味があるのがあり、どのように借金を返して行くのかや、どのように借金を減らして行くのかがある。借金を返したり減らしたりして行くのは、はじめの状態から目ざす状態に移行させて行くことだから、どのように目ざすところへの移行を成功させられるのかによる。

 どのようにのやり方としては、残された時間があまりないから、おだやかに軟着陸(soft landing)をさせることはできづらく、あらく着陸させる(hard landing)ようなことしかできづらい。国民に高い税金を新しく課したり、国民がもっている資産を強制に国がさし押さえてとり上げたりする。いま使われている円をいっさい使えなくして、円を紙くずにして、新しいものに切り替える。

 現実的には、国の借金を返すのをあきらめて、財政が破綻するのを待つしかない。財政が破綻するのを避けることはできづらい。悲観論からすると、きびしい現実が国民に待ち受けている。悲観論だけではなくて楽観論によることもできるから、楽観することもできるが、その中できびしい見かたをとるようにしてみたい。

 参照文献 『知った気でいるあなたのための 構造主義方法論入門』高田明典(あきのり) 『天才児のための論理思考入門』三浦俊彦国債・非常事態宣言 「三年以内の暴落」へのカウントダウン』松田千恵子 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)