性別によって政治家は選ばれるべきなのか―政治家を選ぶさいのさまざまな基準

 政党の長や国の首相に女性の政治家が選ばれる。女性の政治家が長として選ばれることだけをもってしてよいことだと言えるのだろうか。

 女性の政治家が上の地位に選ばれさえすればそれでよいのだとは言えそうにない。そこで大事になってくるのは、その政治家の具体の性別の属性が女性か男性かのどちらであるのかよりも、憲法で言われている立憲主義を守るかどうかにある。そう見なしてみたい。

 性別による差別がおきているのがよくないのがあり、性別のちがいによる階層(class)の格差を改めて行く。これは憲法の文脈においては、日本の憲法の第十四条で言われている差別を禁じることに関わるものだ。

 その政治家が女性であり、なおかつ立憲主義を重んじているのがもっとものぞましい。たとえ女性であったとしても、その政治家が立憲主義をないがしろにするのであれば危ない。立憲主義をないがしろにするのであれば、社会の中における女性への差別が改まることは必ずしも確かなこととしては見こみづらい。あまり強いやる気がないかもしれない。

 上の地位に女性が立つことは、女性と男性とのあいだの格差を改めるうえでは有益なものだろう。有益なものであるのは確かだけど、たとえ女性であるからといって、その政治家が立憲主義を重んじるかどうかは定かとは言えそうにない。そこは含意されているとはいえないのがある。

 立憲主義をよしとするのであれば、女性の政治家が上の地位に立つことをよしとするべきだとは言えるかもしれない。そう言えるのはあるだろうが、女性の政治家が上の地位に立ったからといって、その政治家が立憲主義を重んじるとはかぎらず、立憲主義が自動で重んじられるようになるとは言えそうにない。

 立憲主義をよしとするのであれば、権力者を批判することが行なわれなければならない。権力チェックを行ない、抑制と均衡(checks and balances)をはたらかせて行く。権力者を持ち上げすぎないようにして行く。どういった性別の権力者であったとしてもそれがいる。

 フェミニズム(feminism)の点からいえば、女性の政治家が上の地位に立つのがのぞましいのはあるだろうが、それとは別に立憲主義によるのであれば、性別のちがいにかかわらず権力をもった政治家をあまり大きく信頼することはできない。権力をもった政治家にとっては、じゃまになる足かせとしてはたらくのが立憲主義だからである。権力者にとって立憲主義は対立するところがある。

 性別が女性だからといったことで女性の政治家が支持されるとは限らない。女性からだけ支持されるのではなくて、男性からも女性の政治家が支持されることはある。男性にとって都合がよいからその女性の政治家が支持されることがあるだろう。男性にとってその女性の政治家に信頼が置けるのだとすれば、たとえば男性がもっている利益(既得権益)をへたにおびやかさないといった思わくがある。

 現実の政治にはいろいろな思わくがうごめくものだから、そのことをくみ入れられるとすると、おもてむきは性別が女性であることからその政治家がよしとされるのだとしても、その裏ではそれとはちがった思わくがはたらく。

 場合分けをして見られるとすると、性別が女性であったとしてもよい政治家もいれば悪い政治家もいる。性別が男性であったとしてもよい政治家もいれば悪い政治家もいる。性別に含意をこめないようにして公平に見られるとすれば、性別が女性だからといってその政治家がよいとはかぎらないし、性別が男性だからといってその政治家が悪いとはかぎらないものだろう。

 現実には日本において悪い政治家には男性が多いのはいなめない。傾向としてはそれは言えるけど、それは一つの型(pattern)としていえることだろう。因果関係といえるほどにはきっちりとはしていないのが型だ。性別のちがいによらず、たいていの政治家には汚いところがあり、完ぺきにきれいな政治家は基本としていないのもある。

 性別が男性だからその政治家をよしとするとは必ずしもならないのと同じように、性別が女性だからその政治家をよしとは必ずしもしなくてもよいものだろう。その政治家がよしとされるさいに、性別が女性だからとか男性だからとはいったこととはちがい、ちがうところのことがよしとされていることがある。

 性別とはちがうところとしては、右派だからよいとか左派だからよいとかといったことがある。そのさいには、性別が女性か男性かに価値が置かれているのではなくて、それとはちがう右派や左派であるところに価値が置かれているのである。性別が持ち出されてそこに重きが置かれているようであったとしても、それはすりかえによることがあり、じっさいにはそれとはちがうところに重きが置かれていることがある。建て前として言われていることとはちがう本音があり、その本音のところこそが大事でありそこが本体なのだ。

 参照文献 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『ポリティカル・サイエンス事始め』伊藤光利編 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや)