総裁選で、政治家の個人に強く焦点が当てられすぎていること

 総裁選が行なわれる。そのなかである候補者はうんともち上げられる。よいしょされる。理想化される。別のある候補者はうんと叩かれる。そうしたことがおきている。

 与党である自由民主党の総裁選においてどういった点が気をつけられるべきだろうか。気をつけられるべき点の一つに、政治家の個人への焦点化が強くなりすぎることがあげられる。

 あまり政治家の個人にたいして焦点を強く当てすぎるのはのぞましいことではない。政治家の個人にたいして焦点を強く当てすぎてしまうことがおきがちだからその点に気をつけることが求められる。

 与党である自民党ではいま総裁選が行なわれようとしているが、与党だけではなくて野党においても、野党の党首としてあの政治家はぜんぜん駄目だとか、あの政治家はすばらしいといったことがいわれるが、これは政治家の個人に焦点を強く当てすぎているきらいがある。

 政治家の個人に焦点を当ててみたさいに、こういったことが言えそうだ。個人に焦点を当てたさいに、ある政治家についてがとてもすばらしいとされることがあるが、そのさいにはそれをさし引く。上に持ち上げられているさいにはそれをさし引いて、それほど大したことはないと見なす。

 個人に焦点を当てたさいに、あの政治家はぜんぜん駄目だとされることがあるが、そのさいにはそれを少し見直してみて、ほんの少しくらいはましなところがあるとか、少しくらいは力を持っていると見なす。そうした見直しができることがある。

 一か〇かや白か黒かで言うと、個人の政治家は基本としては一または〇とか白または黒といった極端なことはそう多くはない。たいていの政治家は〇.五とか灰色のところに位置づけられるものだろう。とんでもなくすばらしいのととんでもなく駄目なのとの中間のあいだくらいのところにおさめられる。

 いまの時代において日本では飛び抜けた人材が出てきづらい。日本は教育のあり方などにおいて飛び抜けてすぐれた人材を出すような仕組みになっているとは言えそうにない。そこそこの人材を大量に生産する産業社会に適合したあり方になったままだ。画一性や平準化の圧が強い。ことわざでは出るくいは打たれると言われるのがあり、あまり飛び抜けて出るくいはまわりから打たれることになるから、上と下のあいだの中間のところにおさまるようになりやすい。

 おたがいにどちらがすぐれていてどちらが駄目なのかを競い合う。政治家どうしが優と劣を争い合うのがあるが、これはあくまでも数の多い少ないのことだから、質がどうかはあまり重んじられない。数が多くても質が駄目なことがあるし、数が少なくても質がすぐれていることは少なくない。

 他に抜きん出るほどにすぐれているのであれば、他のものと比べ合うことはできづらい。他とおたがいに争い合うのであれば、それはだいたいが同じくらいの水準どうしであることをしめす。似ているところがあるから比べ合うのであり、まったく似たところがなくて類似性がないのであれば比べ合いはなりたたない。

 比べ合えるのは、それらが互いに似たものどうしであり類似性をもっていることをしめす。類似性をもっていることから、おたがいにそう大したちがいはないといったことが言えるのがある。おなじ人間どうしなのだから、生まれてきて一定のあいだにおいて生きてそして死ぬ。

 生まれて一定のあいだにおいて生きて死ぬといった条件は人間であるかぎりみな同じであり、それぞれの人はみんなそれなりにすぐれているとも言えるし、それなりに愚かだとも言えるだろう。いろいろなことができるとも言えるし、できることが限られているとも言える。

 大局から引いて見てみると、それぞれはみんな似たりよったりだ。それほど人によるちがいはないとも言えるのがあり、政治家の個人にあまり強く焦点を当てすぎるとそれが悪くはたらくことがあるからそれには気をつけたい。もしもすぐれた政治家が上に立てば、国のあり方が劇的によくなるかどうかといえば、そこまではのぞみづらそうだ。

 政治家の個人を単位にして、個人にたいしてそこまでのぞみをたくせるかといえば、そこまではのぞみをたくしづらそうである。そんなに力をもった有力な政治家が日本の中にいるとは見なしづらいのがあり、よくも悪くも平均化されて平らにならされているといったところが一つにはある。すごく悪い政治家であれば、悪政が行なわれてしまうのはあるが、その悪は陳腐さや凡庸さや平凡さをもつといったことが言えるのがあり、悪が広く拡散や遍在(ubiquitous)してしまっているといったことが言えるのがあるかもしれない。

 参照文献 『「不利益分配」社会 個人と政治の新しい関係』高瀬淳一 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『悪の力』姜尚中(かんさんじゅん)