政治家の靖国参拝にうつし出される、日本の政治家の政治の力の低さ

 靖国神社に日本の政治家が参拝する。日本の政治家が靖国神社に参拝することはいっけんすると当たり前のことだと見なせるものかもしれない。

 政治家が靖国神社に参拝することを、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染に対応することと関連させてみられるとするとどういったことが言えるだろうか。

 靖国神社についてをとり上げてみると、そこに政治家が参拝することは、まちがいなく正しいことだとまでは言えないものだ。完ぺきに正しいものだといったように基礎づけたりしたて上げたりできないものである。

 日本の国内に向けた内向きの正しさになってしまっているのが、靖国神社についてのことだ。日本の外に向けて開かれていない。そこにうたがいを入れないほどの自明性があるとは言えず、いろいろとうたがうことができる点がある。

 ウイルスの感染が広がっている中で、日本の政治はそれにうまく対応できているとは言えないのがあるが、そのまずさが映し出されているのが、政治家が靖国神社に参拝することだ。

 理想といえるような全体の最適(global optimal)にはなっていなくて、部分の最適化(local optimal)にとどまってしまっているのが、ウイルスへの対応と靖国神社への参拝のどちらにも言える。部分の最適のわなにはまりこんでいるのである。

 理想と言えるあり方からはほど遠くて、あくまでも部分の最適にとどまってしまっているのがウイルスへの対応と靖国神社や歴史の認識についてのことである。靖国神社に参拝することは、日本の政治家が部分の最適のわなにはまりこんでいることをあらわす。そこに安住してしまっていて、そこから脱して行こうといった動機づけがない。

 いまのあり方に安住していてもよい。靖国神社に参拝した政治家はそう思っているのだろうが、それだと低次の学習(lower-level learning)のままになっている。高次の学習(higher-level learning)が行なわれない。日本の政治にいちじるしく欠けているのが高次の学習を行なうことだ。

 低次の学習にとどまりつづけていると、低い次元の合理性にとどまりつづけることになる。低い次元の合理性にとどまりつづけてしまっているのが見てとれるのが、ウイルスへの対応と靖国神社や歴史の認識についてのことだ。この二つはどちらも高い次元の合理性にいたっているとは言えそうにない。低い次元のままでよいのだとなってしまっているものだろう。

 低い次元の合理性のままに安住させてしまうような装置になっているのが靖国神社だと言えそうだ。靖国神社は国家のイデオロギー装置そのものである。そこでつまずいてしまうことが、ほかの政治のさまざまなことにも悪い影響をおよぼす。

 靖国神社に政治家が参拝して、それをもってしてよしとしているようでは、靖国神社がもつ負のしかけにはまりこむことになり、そこから脱せられる見こみはうすい。そこにはまりこんでいるままでよしとしているようでは、ほかの政治のさまざまな難しいことがらを片づけて行ける見こみは低い。

 現実において日本は課題先進国であり、いろいろな難しいことがらが片づかないままに山積している。その難しい現実から目をそらして、それを直視することを避けるためにあるものの一つなのが靖国神社だろう。日本の国内にだけしか通用しない物語がとられているのである。

 日本の国が完ぺきに正しいのだといった物語は日本の国内だけでしか通用しづらいから、日本の国がだめになれば共倒れすることになるものだ。現実のきびしさに向き合わないですむいつわりの神話(myth)の中に逃げこむのではなくて、その神話が隠ぺいしているいろいろな日本の国がかかえている呪われた部分を見て行く。そのことが求められている。

 参照文献 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『組織論』桑田耕太郎 田尾雅夫 『現代思想を読む事典』今村仁司