五輪と状況の思考の欠如―状況のちがいを分けて見てみたい

 五輪をひらくことが進められている。東京都で夏に五輪をひらくことはよいことなのかそれとも悪いことなのだろうか。

 新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が広がっている。その中で五輪をひらこうとするさいにいることは、中立(neutral)なものとして五輪をとらえるようにすることだろう。

 中立なものとして五輪をとらえて行く。それがいちじるしく欠けているのが日本の政権だ。五輪についてをよいものであるとしていて、よい含意をこめているのが政権だ。

 まったくすべてが悪いことなのであれば、そもそも五輪は行なわれない。悪いことがはじめからわかっていることをやるのは合理性がないから、何かを政治でやろうとするのであればそこにいくらかのよいところがあるのはたしかだ。

 どこかにはよいところがあるものではあるが、政治でものごとをなすのは客観の合理性であるよりは主観の合理性による。主観の合理性にとどまっているものであり、だれにとってもまちがいなくあらゆる点でよいと言えるような客観の合理性をもつとは言えそうにない。

 たとえよいところがあるのだとしても、そのよさは一面によるものだろう。全面とは言えそうにない。一面だけではなくていろいろな面をできるだけていねいに見て行かないとならない。

 よい含意を五輪にこめるのは、ウイルスの感染が広がっている現実の状況を切り捨ててしまっている。現実の状況を切り捨てないようにして、捨象しないようにしたい。

 政権には状況の思考が欠けていて、よい含意を五輪にもたせてしまっている。中立で見られていない。こういう状況のときにはこうだといったように分けて見なければならない。分けることがなく、状況のちがいによらずにたんに五輪をよい含意をもつだけのものとして見てしまっているのだ。いついかなるさいにも五輪はよいものだとしてしまう。科学のゆとりが欠けている。

 現実の状況をくみ入れるのであれば、五輪によい含意をこめるのは難しくなっている。よい含意をこめるのではなくて、中立に見るようにして、五輪がどういった機能と構造をもっているのかを明らかにして行く。

 五輪がもつ機能と構造としては、交通の点を見て行きたい。五輪が安全で安心かそれとも危険性があるかは、交通から引きおこされるのがある。

 交通から引きおこされる危険性をなくさないと、五輪は安全で安心なものにはならない。五輪がもつ機能や構造には交通があり、そこを何とかしなければ、安全で安心なものにはならず、危険性がおきる。

 ウイルスが日本の社会のなかに入るのを防ぐ。これは交通でいうと反交通だ。交通をなりたたせないようにして、ウイルスが入ってこないようにする。ウイルスの感染が広がらないようにして、双交通が起きないようにして行く。双交通は、両方の方向から交通がおきることで、ウイルスであればそれを感染し合う。

 人がたくさん東京都にやって来ることで、新しいウイルスの変異種がおきかねない。新しいウイルスがおきるのは異交通だ。ウイルスが進化していって、新しい異なるものができる。

 交通からおきてくる危険性では、反交通がしっかりとできず、ウイルスが日本の社会の中に入りこむ。双交通でウイルスの感染が広がる。感染し合う。異交通で新しい変異種がおきかねない。こういったことがありえる。

 交通の点で見てみると、五輪の危険性をなくすことができず、安全で安心なものにはできない。そのおそれがある。反交通が十分にできていなくて穴や抜かりがあることで、ウイルスが日本の社会の中に入りこむ。双交通で感染が広がって行く。異交通で変異種がおきる。こうった心配を完全にはぬぐい切れない。

 交通からくる危険性を十分にくみ入れるようにして、科学のゆとりをもつようにして、状況のちがいを分けてとらえるようにして行く。ただたんによい含意をこめるのではなくて、状況の思考をしっかりともつことが政権にはいるのだと見なしたい。

 参照文献 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき)