五輪について天皇陛下が言ったとされることをどう受けとるべきか

 五輪でウイルスの感染が広がらないか心配だ。宮内庁の長官を通して天皇陛下はそう言った。これはあくまでも宮内庁の長官の考えであるのにすぎないと官房長官は言っていた。

 官房長官がいうように、五輪をひらくことを心配するのは、宮内庁の長官の個人の考えにすぎないのだろうか。天皇陛下は五輪についてをまったく心配していないのだろうか。

 意図(intention)と伝達情報(message)と見解(view)の IMV 分析によって見てみられるとするとこう言えそうだ。おなじ五輪の関係者のなかでは政権や国際オリンピック委員会(IOC)の関係者が言うことはよりうたがわしい。政権や IOC の関係者と比べれば、五輪の名誉総裁をつとめる天皇陛下が言うことのほうがやや信頼性がある。

 東京都で夏に開かれる五輪にかつぎ出されて巻きこまれているのが天皇家だろう。天皇家は五輪にかんして自分たちで駆動しているとは言えないので他者(政権)によって駆動されている。

 かつぎ出されているのが天皇家であり、五輪の名誉総裁をつとめさせられているのが天皇陛下だ。やらされているのが天皇陛下だから、責任をになわざるをえないのがあり、五輪で新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が広がることを心配せざるをえない。それを心配しなかったら、五輪の名誉総裁としてはやや無責任だろう。

 天皇陛下がじかに言ったことではないにしても、宮内庁の長官を通して五輪を心配する発言(message)を言った。その発言である M をどのように受けとれるのかがある。おなじ発言の M であっても、天皇陛下のほうがより意図を読みとりやすい。意図が見えやすい。政権が言っていることは意図を隠していることが多く、裏の意図を読まなければならない。

 政権は言っていることとはちがう意図を持っていることが少なくない。言っていることをそのまま受けとりづらいのがある。政治において政権が言うことは、そこに政治性や意図性や作為性を多くふくむ。情報が汚染されている。

 どれだけ情報が汚染されているのかでは、政権が言うことはそうとうに汚染の度合いが高い。言っていることとはちがう意図を隠し持っていることが少なくないから、そのまま言っていることを丸ごとうのみにすることはできない。

 天皇陛下が五輪に関して言ったことは、意図をそのまま言ったものと受けとれそうだ。宮内庁の長官を通すことで、天皇陛下がもつ意図とはちがうことが言われたとは言えそうにない。

 天皇陛下の意図とおなじことを宮内庁の長官が言ったとすると、そこには類似性がなりたつ。あくまでも媒介として宮内庁の長官がいるのにすぎないから、類似性があるものとして受けとることができる。表象(representation)であるのが宮内庁の長官だ。

 政権は類似性ではなくて差異によるのだとしている。天皇陛下がじかに言ったことではないから、天皇陛下宮内庁の長官とのあいだに差異があるとする見解をしめしている。

 本人がじかに言ったことであればいちおうは直接の現前(presentation)だ。間接に伝えるのだと本人とのあいだにまったく完ぺきな類似性があるとは言えない。ていどとしてどれくらいの類似性があるのかとなる。

 かなり近い関係性を天皇陛下ともつのが宮内庁の長官だから、それなり以上の類似性があるものだろう。宮内庁の長官が自分の独自の考えを言うことの動機づけ(incentive)は低いので、天皇陛下の意図とそう遠くないことを言っている見こみは高い。

 まったく類似性がなくて差異によるのであれば、天皇陛下宮内庁の長官とのあいだには信頼性がまったくなりたたない。おなじ価値をお互いに共有し合っていない。不信を持ち合うことになる。

 不信を持ち合っているのではなくて、あるていどより以上の信頼性がお互いのあいだにあるとすると、宮内庁の長官は天皇陛下の意図をそれなり以上に伝えている見こみがある。いくらかの差異はあるのにしても、類似性の度合いはそれなり以上にあるものだろう。

 天皇制の中で仕事をしているのが宮内庁の長官だから、天皇制とはちがう枠組み(framework)によっているとは言えそうにない。天皇制の中心にいるのが天皇陛下であり、天皇制の関係者は中心にできるだけ合わせようとするものだろう。中心にいる天皇陛下とはまったく別のちがった枠組みを宮内庁の長官が持っているとは言えそうにない。だいたい同じような枠組みによっているはずだ。

 わざわざ誤解を生むために宮内庁の長官がものを言うことはありえづらいだろうから、天皇陛下の意図をそれなり以上に伝えているものだろう。思いつきでものを言うことはありえづらく、事前においてどのような形で外に向かって発言をするかをあらかじめ打ち合わせる。事前に打ち合わせをして、それを経て事後に発言が行なわれる。

 うかつにものを言うとは見なしづらいから、あるていど以上に天皇陛下の意図を反映させる形で発言が行なわれるものだろう。ていどとして完ぺきに類似性があるとはいえず、いくらかの差異があるのをまぬがれないのは、日本の文化にあいまいさがあるのも関わっている。

 日本の文化ははっきりとものごとを一か〇かや白か黒かに割り切るよりは、割り切らない中間によるあり方だ。西洋のように高文脈(high context)の言葉ではなくて低文脈(low context)の言葉なのが日本語であり、はっきりとものが言われないことが少なくない。自分の立ち場を明らかにしてはっきりとものを言うことがよしとされない。高文脈の言葉なら主体によって色々に言葉が尽くされるが、低文脈の言葉だと言葉が省かれがちだ。

 文化においては高文脈なのが日本だ。空気を読んでそんたくすることが行なわれる。日本の文化は空気を読むことにはすぐれているのがあるから、天皇陛下のことを宮内庁の長官はうまくそんたくできている見こみがある。

 はい(yes)かいいえ(no)かであれば、五輪をひらくかそれとも中止するかとなる。その二つのうちのどちらが正しいのかをそれぞれの主体が自由に選べるようになっているとは必ずしも言えそうにない。はいであるべきだつまり五輪をひらくべきだとなってしまっているのがあり、それが上からおし進められている。いいえは正しくなくてはいだけが正しいとされているのだ。主体の自由が損なわれている。

 五輪をひらくことを心配するとの天皇陛下の発言は、はいといいえの中間によるものだと言えそうだ。もしかしたら天皇陛下の内心ははいではなくていいえなのかもしれない。政権としては、いいえに寄ったものはよしとはできず、あくまでもはいによるものしか認めたくないのがあり、はいといいえをはっきりとさせない中間のあり方によってごまかしたいのがある。

 参照文献 『疑う力 ビジネスに生かす「IMV 分析」』西成活裕(にしなりかつひろ) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『情報汚染の時代』高田明典(あきのり) 『ホンモノの思考力 口ぐせで鍛える論理の技術』樋口裕一 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき)