五輪の事前と最中と事後―事後には下り坂(過小化)が待っているかもしれない

 東京都で夏に五輪がいまひらかれている。いまは五輪がひらかれているさいちゅうだが、その前とあととを見てみられるとするとどういったことが言えるだろうか。

 五輪がひらかれる前に、五輪のあとがどうなるのかが言われていた。五輪のあとには、日本の国は縮んで行く。日本の国は過小化して行く。そう言われているのを見かけた。

 人間は過剰性の活力をもつ。過剰な活力によって過大化の極に向かう。そのごにはそれと反対の過小化の極に向かう。その両極性(polarity)をもつ。ふり子のように二つの極を行き来する。

 未来についてを完全に正確に予測することはできづらいが、五輪が終わった事後(post)には、日本の国は過大化の極から過小化の極へ移って行く。五輪がひらかれる事前(pre)においてそう言われていた。

 新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染がおきたことによって、五輪のあとにおきるとされていた過小の極への動きが、前倒しになった。五輪がひらかれる前から、五輪を中止するべきだといったことが少なからず言われていた。過小の極への動きが早まったことによる。

 盛り上がりを見せたあとで、盛り下がりがやって来る。その盛り下がりがやって来るのが、五輪をひらいたあとにやって来るのではなくて、それが早まった。五輪をひらく前においても、そのさいちゅうにおいても、盛り下がりが先取りされる形になっている。

 少なからぬ選手たちが活躍して盛り上がったのだから、五輪をひらいてよかった。そう言われているのがあるが、五輪をひらくことよりもむしろ、五輪をひらいたあとにどうなるのかに力点を置いて見られる。五輪をひらいた事後にどうなるのかを無視することはできづらい。

 盛り上がったのだから五輪をひらいてよかったとするのは、五輪をひらいたあとについてをやや軽んじているところがある。五輪をひらくことは、その事後においてのその場所の繁栄を約束しているのではないとされる。事後には負の遺産のようなものが残ってしまうと言われているのがある。

 繁栄するのは過大化の極に向かうことだが、その反対に衰退は過小化の極に向かうことだ。ウイルスの感染が広がったことによって、五輪をひらく前から過小化の極に向かうことが先取りされた。過小化の極に向かうことが早まった。そう言えるのがあるかもしれない。

 悲観論だけではなくて楽観論もまたもてるのはあるが、その中で悲観論によって見られるとすると、五輪が終わったあとには日本の国は過小化の極に向かうことを避けづらい。五輪をひらくことによって国をあげての盛り上がりを見せたことの反動がやって来ざるをえない。五輪のあとのところに力点を置いて見られるとするとそう言えるのがありそうだ。

 日本は超高齢化と少子化で人口が減って行かざるをえないし、国の財政はぼう大な赤字を抱えている。まえの東京五輪は一九六四年にひらかれたが、そのころまでは日本の国の財政は均衡財政主義がなりたっていたという。国の財政の借金はなかった。一九六四年の東京五輪を終えたころあたりから国の財政の借金が増えていって、いまにいたるのだ。ぼう大な借金の山が築かれていて、借金をすることが止まらなくなっていて、歯止めがかからなくなっている。

 利益ではなくて、不利益の分配(負担分配)をどうするのかを避けては通れなくなっているのが日本の国のいまの財政のありようだ。ウイルスに感染して、とても重い症状の人だけが病院に入れて、それ以外の中くらいから軽い症状の人は家にいろと政権がしているのは、不利益の分配の文脈によって見られるものだ。

 感染していない人が家にいろとするのはわかるが、感染していて症状がある中で家にいろとするのは、ただの放置や放ったらかしになる危険性が小さくない。見放されて見捨てられることになる。へたをすると人によっては憲法の第二十五条が保障している生存権が損なわれるおそれがおきる。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『「不利益分配」社会 個人と政治の新しい関係』高瀬淳一 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら)