五輪をひらくべきかどうかで、一般に何かをやったほうがよいのや止めたほうがよいのはどのような場合なのか

 東京都で夏に五輪をひらくべきかそれとも中止にするべきか。そのどちらがふさわしいのだろうか。

 新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が広がっているのがあり、その中で五輪をひらくことに反対の声がおきているのがある。感染の広がり方しだいでは五輪を中止することがいると見られている。

 五輪に話を限定しないようにして見てみられるとすると、ある状況においてあることをするべきかそれともするべきではないのかはいろいろに見てみられそうだ。

 いまはそれをするべきではないといった状況になることがある。それとは逆にいまはまさにそれをするべきだといった状況になることがある。この二つの状況があるなかで、そのそれぞれにおいてあることをしたりしなかったりすることがある。

 状況に従うかたちであることをしたりしなかったりすることがある。状況にあらがうかたちであることをしたりしなかったりすることがある。

 状況では、仏教でいわれる器世間と衆生世間に分けられそうだ。器世間は物理の自然だ。物理空間だ。衆生世間は人々による。意味空間だ。

 器世間の状況としては、いまはウイルスの感染が広がっているのがある。これは物理の客観の現象だ。現実に根ざしたものだ。

 器世間においてウイルスの感染が広がっているなかで、衆生世間では五輪を開くべきだといったことが言われているのがある。器世間の状況にはそぐわないところがあるが、衆生世間としては五輪をひらくことに価値があるのだとしている。

 ウイルスの感染がそうとうに広がれば、器世間の状況はかなりきびしいことにならざるをえない。医療がひっ迫することも器世間の状況のうちに含めることができるから、そのなかで衆生世間のほうをより重んじて五輪をひらくようにするのはふさわしい意思決定かどうかは定かではない。

 五輪を何としてでも開きたいがために、器世間を軽んじて衆生世間を重んじるのは、器世間の状況をとり落としてしまうおそれがある。衆生世間が暴走してしまう。おかしな方向に向かってつっ走って行く。

 状況のうちで衆生世間でいわれていることは、それに従ったほうがよいこともあればあらがったほうがよいこともある。いちがいにどちらのほうがよりよいのかは言い切れず、個別の具体の状況によって異なる。

 衆生世間において、これをやったほうがよいのだと言われているのだとしても、それがまちがっていることがある。戦争をやるさいにはそれがいえる。そのさいには衆生世間の状況にあらがうことが正しい。衆生世間に従って同調や服従や順応することがまちがいを生む。

 総合として五輪をひらくことがよいことなのかははっきりとは言い切れそうにない。総合ではなくて分析によって分割して見られるとすると、状況には器世間の事実空間と衆生世間の意味空間があるといえて、その二つの状況のどちらの方をより重んじるべきかがある。こうするべきだとかこうするべきではないといったことが言われる外の状況があるなかで、それに従うべきなのかそれともあらがうべきなのかがある。

 まとまりの形で総合で見るのではなくて分析によって分割して見られるとすると、外の社会と個人とを分けることがなりたつ。外の社会と個人の二つがたがいに相関し合う。外の社会に従うことがよいこともあればあらがうことが正しいこともある。

 外の社会でよしとされていてこれをいまやるべきだとされていることであったとしても、いついかなるさいにもそれに個人が従うほうがよいとはかぎらない。外の社会がまちがっていることはしばしばある。外の社会がまちがうのは、意味空間による衆生世間が方向性をまちがうことだ。

 参照文献 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『空間と人間 文明と生活の底にあるもの』中埜肇(なかのはじむ)