首相による共産党への性格づけ―ふさわしい見かたとは言えそうにない

 共産党は、暴力革命をいまだにもくろんでいる。首相はそうしたことを言っていたが、これについては色々な批判の見かたがおきている。

 そもそも、共産党が暴力革命をもくろんでいるのなら、なぜ議会制民主主義の中で活動をしているのかが疑問だ。議会制民主主義の中で、憲法で定められた立憲主義の中において政治の活動をしているのであれば、暴力革命のような物理の暴力の手だてを実質として捨てていると見てよいだろう。

 頭をじかにかち割るのではなくて、頭数を割るつまり数によってものごとを決めて行くのが、民主主義であるとされる。これは作家のエリアス・カネッティ氏が言っていることである。

 いまの日本の政治では、首相が言うような、共産党が暴力革命をもくろんでいるといったようなことよりも、ほかのことの害のほうが小さくないのではないだろうか。そのほかのこととは、金銭にものを言わせたり、数の力にものを言わせたり、力にものを言わせたりといったものだ。

 金銭や数や力を用いることで、議論がゆがめられてしまっている。まっとうな議論ができなくなっている。そこから隔たっている。右傾化や保守化している動きが目だつ。服従や同調への圧がはたらくことによって、その圧を受け入れることになることがおきる。

 圧を受け入れてそれに身をゆだねることがよしとされて、圧にあらがうととがめ立てされる。圧を受け入れれば厚遇されて、はねのけようとすれば冷遇される。この国家主義をもとにした賞罰(サンクション)のつけ方は公正なものとは言えそうにない。かたよりがある。自由とは言えず、開かれているとは見なせない。そこを改めることがあればのぞましい。