新型コロナウイルスの日本での感染の広がりを楽観論で見るか悲観論で見るか―最悪ももしかするとありえる

 新型コロナウイルスへの感染が、日本人にも出てきている。日本の国の中で感染が広がれば、まずいことになる。

 日本のいまの政府は、感染にたいして十分に力を入れて対応をしているのだろうか。そこがおろそかになっているようにも見える。できるかぎりの対応をして、わかっている限りの情報を国民に広く知らしめて、それでもどうしても限界があって防ぎ切れないとかできないことがあるというのならわかるが、できることややるべきことを十分にやっていないのであれば、手抜かりがあるのだと言わざるをえない。

 楽観論と悲観論の両方で見られるのがありそうだ。楽観論で見てしまうと、それが当たるかもしれないが、そのいっぽうで正常性の認知のゆがみにおちいっているおそれがないではない。正常性の認知のゆがみとは、平穏な日常がずっと引きつづいて行くだろうという見こみをもつことで、緊急のできごとへ応じることができなくなることだ。

 楽観論か悲観論かは、軽く見るか重く見るかとも言えるが、このどちらによって見るべきなのかは、閉じているというよりは開かれているのだと見なせる。閉じているのなら二分法を当てはめられるが、開かれているのならそれを当てはめられない。

 どうせ大したことにはならず、なるようになるだろうというのは楽観論だが、そう見なすのが当たることもないではないだろうが、外れることもまたありえる。外れたときには日本の社会が深刻なことになりかねないからまずい。悲観論で見ることもいちおうくみ入れておくほうが、それが当たる見こみもあるから、少しはまちがいを避けやすい。

 雪の玉でいうと、それが小さい玉のままであるのなら、大したことにはならないですむ。または、小さい玉であるうちにそれにしっかりとした対応をとっておけば、そこまで大きな力をかけずに何とかできる。小さい玉が下り坂を転がるうちにやがて大きい玉になってくるとやっかいだ。

 火でいうと、小さい火であるぼやのうちに何とかできれば大きい力をかけずにすむ。小さい火を放っておいてそのまま自然に消えてしまうこともあるだろう。その小さい火が大きな火になって火事になってくるとやっかいだ。火事にまでなってしまうとそれを消すのにはとても大きな力をかけないとならなくなるし、被害が大きくなりかねない。

 予防は治療に勝ると言われるが、治療と比べると予防の段階のほうが、より小さい力で何とかなりやすいからだとされる。小さい力で何とかなりやすい段階から進んで、大きい力でないと何とかならなくなったり、大きい力でも何とかならなくなったりすると、困難がおきてくる。

 どのように応じるのがふさわしいのかは、難しい判断が求められるから、よほどしっかりとしたいい加減ではないやり方でやることがいる。楽観論で見ることもできないではないが、戦前や戦時中に言われたような神風がうまいぐあいに吹くとは必ずしもかぎらない。願望思考がそのまま現実になるとはかぎらない。そこの見きわめは難しいところだ。

 参照文献 『反証主義』小河原(こがわら)誠