日米の政治の決定の無形性と有形性―日本の非明示(空気)のあり方とアメリカの明示のあり方

 日本の政治では、記録に残すことがそこまで重んじられていない。それとはちがい、アメリカではそれが重んじられている。

 日米の政治におけるこのちがいがあるとすると、それは、文脈の明示と非明示の点から見て行けそうだ。

 日本は低文脈の言語と高文脈の文化をもつ。アメリカはその逆に、高文脈の言語と低文脈の文化による。文化人類学者のエドワード・T・ホール氏はそう言っている。

 日本では、言葉が省略されがちで、文化の共有性(画一性)が高い。アメリカでは、言葉が多く用いられて、文化の共有性が低い。とくに話さなくてもお互いにわかり合えるのだ、というのではないのがアメリカのあり方だという。

 日本は文化の画一性が高い(高かった)ので、安心によっていた。自分は何らあやしい者ではないのですよとことさら他に示すことがいらない。いっぽうアメリカでは、文化の画一性が低いので、自分はあやしい者ではないということを他に示すことが求められる。信頼(に足るかどうか)が重んじられる。

 日本は低文脈の言語と高文脈の文化によるので、いちいち説明しなくてもわかるということになりやすい。客観に明示することがされづらい。そこから、政治において記録に残すことがおろそかにされがちになる。

 アメリカは日本とはちがい、高文脈の言語と低文脈の文化によるので、説明しなくてもわかるのだというふうになりづらい。説明しなければわからないということで、客観に明示されることになる。そこから政治において記録に残すことがうながされる。

 あとからふり返ったさいに、誰が何をしたのかが記録に残されていれば、有力な手がかりになる。日本ではそれが残されなかったり、残されていたとしても改ざんされたりすることがおきてしまう。それは、記録が価値として重んじられていないことによっている。それよりも空気が支配するのが大きい。

 日本の政治では空気が支配してしまうことが引きつづいているように見うけられるが、このあり方に行き詰まりがおきているのがいまの現状ではないだろうか。転換を迫られているところがある。アメリカのように、客観に明示して行くようにして、あとでふり返るさいに手がかりとなるような記録を残して行くようにしたほうが、ものごとがひどくうやむやになってしまうのを多少は避けやすい。

 明示化して行くようにするとしても、不正にたいする絶対の歯止めになるとまでは言えないだろうが、あるていどの歯止めになることはのぞめる。それすらできていなくて、たがが外れてしまっているところがあるのが日本の政治のいまの現状のような気がしてくる。きびしく見ればそう見なせるだろう。

 日本の社会が、低文脈の言語と高文脈の文化であるのから、多かれ少なかれ変わることがいるようになっている。そう見なしてみることがなりたつ。グローバル化や少子高齢社会となっているためだ。空気の支配によってものごとを進めて行くことの弊害が政治においておきている。それを改めるためには、空気を読むことを押しつけたり、忖度をさせたり、和によるしばりでもってしてやって行ったりするのではまずい。誰が何をやっているのかや、どういうことなのかというのを、できるだけ客観に明示して透明化して行くことがのぞまれる。

 参照文献 『古典の扉 第二集』杉本秀太郎(すぎもとひでたろう)他 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『安心社会から信頼社会へ 日本型システムの行方』山岸俊男