同じ一つの民族や言語や天皇が長くつづいてきたのが日本だと副総理は言う―日本の国の同一性と差異

 同じ民族と同じ言語と同じ一つの天皇という王朝が二〇〇〇年の長きにわたってつづく。それはここ(日本)しかない。いまの政権の副総理は講演の中でそう言っていた。

 副総理の発言には色々なところから批判の声があげられている。政府がかかげる基本方針と矛盾していることが指摘された。それを受けて、誤解をまねいたのなら訂正して謝罪すると副総理は述べた。

 同じ民族や言語や天皇が長くつづいてきたと副総理は言うが、これは純粋さによる修辞だと見てよいものだろう。純粋なものがずっとつづいてきたということだが、それは政治家によるカタリにすぎず、現実そのものとは言えそうにない。

 言葉でいうなら、日本語は和と漢と洋とが混ざり合っている。それらの文脈(和文脈と漢文脈と洋文脈)が混交しているので、純粋なものではなくて雑種によっている。単一の層ではなくて、多くの層からなりたつ。外からの色々なものを内に取り入れることによってでき上がっている。

 ちなみに、日本語そのものとは少しずれるが、漢字の歴史は古いという。これは日本人がつくったものではなくてむかしの中国人がつくったものだが、三三〇〇年も前につくられたもので、それがいまでも引きつづいて使われている。漢字は西洋でのラテン語のような位置づけにあったといい、東アジアの文化を形づくってきた。

 同じこととちがうこととは、同一と差異だが、この二つのちがいは、ものごとをどう分類するかによっているので、まちがいなく客観だとは言いがたい。同じといえば同じといえるとしても、ちがうといえばちがうともいえる。はっきりと線引きすることができるのかといえば、そうとは言えず、線は揺らぐことになる。

 改めて見てみると、同じものかそれともちがうものかというのは、そういうふうに分類をしていることだから、すべてのものはみんな同じなんだということもなりたつ。東洋の思想家の荘子によって万物斉同(ばんぶつせいどう)ということが言われている。かなり大きな視点から見てみると、あらゆるものはみんな同じだということである。

 はたして、過去の自分といまの自分と未来の自分は、同じ一人の人間だといえるのだろうか。同じだとも言えるし、ちがうとも言えるのではないだろうか。人間の体の成分は、少しずつ入れ替わっているのであって、一年くらい経てば、体の成分はすっかりと入れ替わってしまうという。その点からすると、別人になったと言えなくもない。

 集団においては、過去の集団といまの集団と未来の集団とを、まったく同じものとして見るのはいささか無理がある。いまの集団から見て過去の集団は他者だということもできる。いまの集団から見て過去の集団は、まったく同じものだというよりは、ちがいをもっているものだ。過去から時間が経つことで現在にいたっているので、質と量に変化がおきている。

 世界の中で例外的に同じものを長きにわたって保ちつづけているのが日本だということを副総理は言いたいのだろうが、そこには少なからぬ疑問符がつく。まちがいのない十分な説得性があるとは言えそうにない。

 日本という記号表現が、どのような記号内容をさし示しているのかは、それぞれの人のあいだでちがいがあるだろうし、ありのままの具体の現実そのものだとは言いがたいものである。副総理が言うところの(思いえがく)日本というのが、客観としての日本だとは言えず、大きな物語としての日本という記号表現や記号内容がなりたつとは言えそうにない。それぞれの小さな物語がなりたつのにとどまるだろう。

 参照文献 『構造主義がよ~くわかる本』高田明典(あきのり) 『トランスモダンの作法』今村仁司他 『記号論』吉田夏彦 『増補新版 神さまがくれた漢字たち』山本史也(ふみや) 白川静監修