日本が終わっているのか、それともその人が終わっているのか―社会と個人(実存)

 日本は終わっている。手取りの給料が十二万円くらいしかもらえない人がそう言った。それにたいして、日本が終わっているのではなくて、その人が終わっているのだ、ということがツイッターのツイートでは言われていた。その人が駄目なのだということだ。

 日本が終わるということと、その人が終わるということとを、切り分けて見ることがなりたつ。この二つはそれぞれでちがう主題によっているということが言えるだろう。社会を主題にしているものと個人(実存)を主題にしているものとだ。

 その人が終わっているということで、個人のこととして片づけてしまうのは適したものだとは言えそうにない。それだと個人の話であるだけで終わってしまう。そこで終わらせるのではなくて、社会や国の話につなげたほうが有益だ。

 その人が終わっているということは、その人は社会から排除されていることを示す。社会的排除の点ではそういうことが言える。日本の社会において、人として恥ずかしくない最低の生活の線というのがあるとすると、その最低の線すら下回ってしまうのは、相対的はく奪がおきていることを示す。

 排除やはく奪という点からすると、人から終わっていると言われたり、終わっていると思えたりするのではないことがいる。そう言われたり思えたりするということは、排除やはく奪がおきていることをあらわすからである。そうした社会には、社会としての正当性があるとは言えないのではないだろうか。きびしく言えば、社会としての正当性を欠いている。犠牲が生まれてしまっているのに目を向けて、それを何とかすることが社会には求められている。

 参照文献 『弱者の居場所がない社会 貧困・格差と社会的包摂』阿部彩(あべあや) 『ニッポン・サバイバル 不確かな時代を生き抜く一〇のヒント』姜尚中(かんさんじゅん) 『憂鬱になったら、哲学の出番だ!』田原総一朗 西研