なぜスリランカの女性は日本の入管で亡くなってしまったのか―国が果たすべき消極の義務と積極の義務

 スリランカから日本にやって来ていた女性が亡くなった。女性は愛知県の名古屋の出入国在留管理局に収容されていたという。入管に収容されている中で体調が悪くなっていたが、適した治療を受けられず、亡くなることにつながったと見られている。このことについてをどのように見なすことができるだろうか。

 スリランカから日本にやって来た女性が日本の入管で亡くなった。そのことを一つの現象だと言えるとすると、その現象の原因を見て行かなければならない。どのようなことでその現象がおきたのかのいくつもの要因を体系として分析して行く。それをやって行くことが求められている。

 入管に収容されているなかでスリランカの女性が亡くなったことは、多くの日本人にとって必ずしも他人ごととは言えないものかもしれない。日本の社会のなかでもっともぜい弱性や可傷性(vulnerability)を持っていて、排除の暴力をこうむりやすいものの一つが、入管に収容されている人たちだろう。

 社会のなかでぜい弱性や可傷性をもち、排除の暴力をこうむりやすい人たちにじっさいに排除の暴力がふるわれる。そこに社会がかかえる病理がうつし出される。そこでうつし出される病理は社会の一部から全体に広がって行く。社会の全体に病理が波及することで、排除の暴力が広く社会の中に広がって行く。人を大事にしない社会になる。

 どのようなことでスリランカから来た女性が入管のなかで亡くなってしまったのかがある。その現象がおきたことの原因を探って行き、いくつもの要因を見て行くようにしたい。核となる要因を見つけて行き、そこにたいして手を打つ。再発の防止を徹底する。ふたたび同じようなことがおきないようにして行く。

 日本の国にとって都合がよいように歴史を修正してしまわずに、都合が悪いことであったとしても、その負のこん跡をしっかりと記録して残す。さまざまな負のこん跡をしっかりと残しつづけるようにして、同じようなことが再びおきないようにして行きたい。

 日本の国はこれまでの歴史においてさまざまな負のこん跡をかかえている。それらの負のこん跡を消し去ってしまおうとする誤った歴史修正主義の動きがおきつづけている。誤った歴史修正主義をとるのではなくて、さまざまな負のこん跡をできるだけていねいに見て行くようにしたい。負のこん跡を残しつづけて、それらをていねいに見て行くようにしないと、同じあやまちをふたたびくり返してしまう。人権の侵害がくり返し行なわれてしまう。それは多くの日本人にとって他人ごととは言えないことだろう。

 日本の国がかかえる負のこん跡を消し去ってしまい、誤った歴史修正主義をとることによって、かえって日本の国のなかで悪いことが行なわれるようになってしまう。かつての失敗が再びくり返されてしまう。

 今回のスリランカの女性が入管で亡くなったことでは、たとえ日本の国に都合が悪いことであったとしてもいきさつをすべて明らかにして、負のこん跡を残しつづけるようにしたい。いきさつをできるかぎりすべて明らかにして、核となる要因を見つけて行き、そこに手を打つ。再発の防止を徹底する。日本の国が少しでも信頼を得るためにはそれが欠かせない。

 もともと日本の国の中にいる日本人だけではなくて、日本の外から日本の国にやって来た人であったとしても、すべての人の生存が保障されていることがいる。日本の国の外から日本の国にやって来た人をふくめて、すべての人の生存が平等に保障されるのでないと、日本の国は消極の義務を果たしているとは言えない。消極の義務は完全義務であり、具体の義務だ。自由主義(liberalism)の他者危害原則があるなかで、他者に危害を加えないようにすることだ。

 日本の国のなかで命の危機にさらされている人に、手をさしのべる。命が保たれるようにして行く。日本の国には、少なくとも日本の国内においてそれをなす義務がある。その義務を果たさないことによって、日本の国は個人に加害を行なう。国が個人に危害を加えることになる。国が消極の義務に違反しているのだ。

 できればやるべきことなのが積極の義務であり、これは不完全義務や努力義務だ。積極の義務であれば必ずしもやらなくてもよいことがあり、いついかなるさいにもやらなければならないとは言えない。それとはちがい、消極の義務は個人の生死がかかっているものだから、日本の国がその義務を果たさなくてよいものではない。

 少なくとも日本の国の中では、日本の国は消極の義務を果たさないといけないから、日本の外から日本の国にやって来た人をふくめて、すべての個人の生存が保障されるようにするべきである。必ずしもやらなくてもよいことがあるものである積極の義務とはちがい、消極の義務については、それを果たさないでよいことはないから、日本の国がその義務を果たしていないと個人に危害が加わることになる。とりわけ日本の社会のなかでぜい弱性や可傷性をもつ個人に危害が加わることになる。

 ほんらいであれば正義をなすべきものである日本の国が、それとは逆に実践の不正義をなす。国が消極の義務を果たさず、個人に危害が加えられたのなら、国によって実践の不正義が行なわれたことになる。法律などの制度の正義が十分に整えられていないのもまたある。憲法などの制度の正義がすでにあってもそれがひどく軽んじられてしまっているのが現状だろう。与党である自由民主党は、憲法を改正することにやっきになっていて、せっかくすでにある制度の正義である憲法を十分に生かそうとはせずに目の敵にしてぶち壊そうとしている。

 参照文献 『貧困の倫理学馬渕浩二 『現代倫理学入門』加藤尚武 『考える技術』大前研一 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『一三歳からの法学部入門』荘司雅彦