起きたことを起きなかったことにしてしまう危なさがある―必然性と可能性で見てみる

 起きたことが起きなかったことにされる。そうなってしまうとまずい。

 起きたことを起きなかったことにするのは、負のことがらである否定の契機の隠ぺいや抹消だ。起きたことを起きなかったことにすることが起きたことについてもまた起きなかったことにすることがあって、それは二重の隠ぺいや抹消である。

 起きたことというのはできごとだが、そのできごとによって、個人がその前と後とで変わってしまうような暴力がふるわれることがある。大きいもので言えばそれには戦争がある。

 日本の社会では、性の被害がおきて、その被害が無かったことだとされてしまうのがあった。加害者とされる人物が、いまの首相と親しい記者だったために、首相をよしとする著名人の一部は、加害者をかばい、被害者をけなすような行動をとっていた。

 加害者はまちがいなく犯行を犯したとは言い切れないから、無罪推定の原則に立たなければならないことはまちがいがない。有罪推定で見るのは避けなければならないが、そうであるからといって、被害者が嘘をついているのにちがいないと見るのもまたちがうだろう。明らかに嘘をついているという証拠がないかぎりは、被害者には寛容性(好意)の原則をもって見ることがいる。でないと二次被害がおきかねない。

 起きたことが起きなかったことにされてしまうのを防ぐためには、必然性で見るのではなくて、可能性で見るようにすることがいるだろう。

 必然性で見ると、強い否定または排他の否定となる。起こったことでいうと、起こったのかもしくは起こらなかったか、という〇か一かの二分法になる。起こったことを起こらなかったとしてしまうと、起こったことなのに起こらなかったのだと取りちがえる危なさがいなめない。

 可能性で見るのは、弱い否定または両立の否定と言われる。これであれば、起こったかもしれないし、起こらなかったかもしれないというふうに、二つをともに両立して見ることがなりたつ。どちらかであると断言するものではない。

 必然性で見てしまうと、起こったかそれとも起こらなかったかという二分法になりやすく、どちらかにかたよってしまい、もう片方を切り捨ててしまいやすい。言説が単一なものとなりやすい。

 可能性で見るようにすると、起こったのかそれとも起こらなかったのかの、どちらもがありえるということで、言説の単一性を避けやすく、複数性をとりやすい。言説が単一だと、それがまちがっていたときの危険性が大きいが、複数化されていれば、危険性が分散(リスクヘッジ)される効果がはたらく。

 必然性で見てしまうと、よしとすることにそぐわない言説が否定されてしまい、排他のあり方になる。そうしないようにして、可能性で見るようにして、色々な見かたがなりたつようにしたほうが、起こったことを起こらなかったことにしてしまうまちがいを避けやすい。とりわけ日本では、空気がものを言うことが多いから、起こったことを起こらなかったことにすることが起きがちだから、それに気をつけておいて気をつけすぎることはないだろう。

 加害者には加害者のいうところの正義があって、被害者には被害者のいうところの正義があるから、少なくとも正義というのがたった一つのものではないので、たった一つのものだと割り切るのは、少なくとも裁判の結果が出るまではできそうにない。

 裁判の結果というのも、それが神のような絶対の真理を示すものだとは言いがたいもので、完全に割り切れるものではなく、それがために、どのような結果であってもいつもすべての関係者が心から満足するということにはなりづらく、そこがむずかしい点だ。

 参照文献 『実践ロジカル・シンキング入門 日本語論理トレーニング』野内良三(のうちりょうぞう) 『論理的に考えること』山下正男 『転換期を生きるきみたちへ 中高生に伝えておきたいたいせつなこと』内田樹(たつる)編 『思想の星座』今村仁司 『裁判官の人情お言葉集』長嶺超輝