韓国が黒(白)という前提条件もとれるし、日本が黒(白)という前提条件もとれるとすると、すべてのことを見るようにして、日本においてであれば、日本にとっての最善(最高)と最悪(最低)というふうに、正と誤のどちらか一方だけではなく、どちらともを見て行くようにするのはどうだろうか

 韓国と日本とのあいだでもめごとがおきる。このさい、韓国が加害をして、日本が被害を受けたのであれば、加害と被害とのあいだで埋め合わせをすることがいる。不つり合いなのを改めて、つり合いをとる。

 白か黒かで言うと、二つのものがある。韓国が黒で、日本が白だ。その逆に、韓国が白で、日本が黒だ。日本の中においては、韓国が黒で日本が白だというのがとり上げられやすい。韓国の中では、韓国が白で日本が黒だというのがとり上げられやすい(のだろう)。

 質の点で言うと、日本の国内において、日本が白で韓国が黒だというものが必然としてとれるとは言えず、可能性として、日本が黒で韓国が白だというのもとることがいる。日本が白で韓国が黒なのであれば、日本は被害を受けたことになるが、そうではなくて、日本が黒で韓国が白なのであれば、日本が加害をしたことになる。日本の加害というのは物質的なことに限らず、韓国を一方的に悪く言ってしまうことを含む。

 質で言うと、ほかには、日本と韓国のどちらもが白ということもあるし、どちらもが黒ということもある。そのうちの一つである、日本が白で韓国が黒というのだけをとり上げて、それがまちがいなく正しいとするのは、よほどたしかなことによるのでないと完全な説得性をもつとは言えそうにない。日本が白で韓国が黒だということのがい然性がどれくらいのものなのかを見ることがいる。

 日本が白で韓国が黒だというのは、個別のできごとについておきることがあるものだ。そのさい、日本はこうだから白で、韓国はこうだから黒だというのがある。こうであるから日本は白だとか、こうであるから韓国は黒だとして、意味づけするものだが、その意味づけによってとられる見かたを改めて見直すことができる。

 こうであるから日本は白だとか、こうであるから韓国は黒だと言うさいに、こうである(から)ということと、日本(韓国)は白(黒)だということのあいだには多かれ少なかれミゾがあく。そのミゾが深ければ飛躍になる。ミゾをつく(アタックする)ことによって、批判や反論をすることが可能だ。

 見直すさいには、こうだから日本は白だということが、本当にそう言えるのかや、こうだから韓国は黒だということが、本当にそう言えるのかについて、本当はちがうのではないか、というふうに試しに批判や反論を投げかけてみられる。日本が白で韓国が黒だというふうにするにしても、必ずしも絶対的に基礎づけられるとは言い切れず、白と黒が逆であったり、ゼロ和(どちらかが白でどちらかが黒)ではなかったり、灰色だったりといったことが成り立つ。万が一の誤りがないではない。ことわざでは、さるも木から落ちるとか、かっぱの川流れとか、弘法も筆の誤りと言われる。

 もし不つり合いであるのなら、つり合いをとるように埋め合わせることがいるが、そのさい、本当に日本が被害を受けて韓国が加害をしたのかは、すぐに決めつけるのではなく、溜(た)めをもってもよいものだろう。お互いが認め合えるくらいに確かなものでないと、不つり合いなものをつり合いをとって埋め合わせるといっても、一方的なものなのであれば、必ずしも確かなものだとは言い切れなくなる。深刻なものなのか、それとも大したことがないのかの、どれくらいの度合いなのかというのも見逃せない。

 形式において、不つり合いとなっているものを、つり合いをとるように埋め合わせるというのは応報(罪と罰のつり合い)としてまちがっているものではない。形式とは別に、実質がどうかというのがあるから、それを見て行くことができる。実質としては、日本が白で韓国が黒というのは一つの条件としてとれるものだが、それが本当に確かなことなのかどうかというのがある。これが本当に確かなことであれば、という条件において、(日本が白で韓国が黒だという)話を進めることはできるが、じっさいにどれくらい確かなのかや、ほかの条件もとれるのではないかというのがある。

 まぜっ返しているように映るかもしれないが、いちおう、討論(ディベート)のようなやり方で、日本が白というのだけではなく、日本が黒(で韓国が白)ということも見ていったほうが、漏れや抜かりがないかどうかの点検をすることができる。討論であれば、自他のそれぞれの仮説や判断をやり合うことで見て行く。人で言う人格(国で言うと愛国心)とは切り離すことができる。人格(国)にではなく、仮説や判断にたいする攻撃だ。

 自分たちの立ち場ではない、反対の立ち場に立ってみてはじめて見えてくることがあるのはたしかだ。ジョハリの窓で言うと、反対の立ち場を無視できないし、日本が隠していることがあるかもしれない。日本がまちがっているというのを決めつけるものではないが、まちがって受けとっていたり、まちがって意味づけしたりしていることがまったく無いではない。

 情報で言うと、二つのものがあるという。事実としての短めのもの(デジタル情報)と、意見としての長めのもの(アナログ情報)だ。これらの二つを分けるようにして、事実として何がおきたのかと、それにたいする評価とをいっしょくたにはせず、まずは事実として何がおきたのかを、疑うことを含めて、そうとうに正確に見て行くようにする。事実として何がおきたのかにおいて、そこに見る者の解釈が入りこんでしまうのは避けられないから、それをくみ入れるようにする。完全に客観として事実を受けとっているのではなくて、主観が入りこんでいることから、もしかしたらまちがってものごとを見なしていることがないではない。

 参照文献 『頭のよくなる新聞の読み方』正慶孝 『情報汚染の時代』高田明典 『一三歳からの論理ノート』小野田博一