東京大学の左翼化と、外国人に乗っとられること―その記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)

 東京大学は左翼だ。左翼化している。中国人に乗っとられている。そういうツイートがツイッターで言われていた。

 このさい、そこで言われている、東京大学、左翼、中国人、という語が、それぞれでいったい何をさし示しているのだろうか。改めて見てみればそう問いかけることができるだろう。

 東京大学、左翼、中国人、といった語は、それぞれが記号表現であって、何かをさし示す矢印のはたらきをもつ。その矢印が使われている矢印のさし示す先に何があるのだろうか。そこでさし示されているのがたんなるものごとの一面や一つの断面であるのにすぎないとしたら、その全体というのではないだろう。

 もしも一面や一つの断面から、一般化をしているのであれば、それは誤った見なし方になりかねない。東京大学はこうだとか、左翼はこうだとか、中国人はこうだとかと、いったい誰が言い切ることができるのだろうか。まちがいなくこうであると言い切ることはなかなかできづらく、正確に一般化することはできづらい。

 範ちゅうとして見てみれば、東京大学には色々な面があるだろうから、その中には左翼的な一面もまたあることだろう。また中国人ということでは、一〇何億人いるうちで、その中にはさまざまな人たちがいることになる。ぜんぶが悪人とかぜんぶが善人であるとはならず、価値として、ぜんぶが丸ごと悪人であるとか善人であるとは言えそうにない。

 記号表現としての東京大学や左翼や中国人とは、一つの矢印であって、それそのものが強い正や負の意味あいをもつとは言いがたく、である(is)とであるべき(ought)をいちおう分けることがいる。そうしないと、であるからであるべきを導く自然主義の誤びゅうにつながりかねない。悪いところがあるのなら、そこを部分として批判することはあってよいことだろうけど、それは、できるだけ、である(is)ということからのものではないのがのぞましい。

 東京大学は左翼であるという点では、左翼というふうに分類しているのであって、その分類が適したものであるのかどうかが改めて見れば問われる。左翼であるとか、左翼ではないとか、またはその反対のものである右翼であるとか、右翼ではないとかというのは、分類によるものであって、まちがいなく客観のものだとは言えず、ともするとたしかな根拠にはもとづかない独断と偏見になりかねない。左翼だとか右翼だとかと当てはめるのは、便利だからつい使ってしまうのはあるが、ときどきはいちおう気をつけておいたほうがよいだろう。

 参照文献 『知った気でいるあなたのための 構造主義方法論入門』高田明典(あきのり) 『天才児のための論理思考入門』三浦俊彦