中国人の内包(質)と外延(量)―さまざまな質による、多くの量

 中国人は、自分の会社では雇わない。選考で落とす。東京大学の准教授は、ツイッターのツイートでそう言ったのだという。

 この准教授がどういうつもりでツイートをしたのかはつまびらかではないから、そこが分からないが、このツイートにたいしては色々な批判が投げかけられた。東京大学の関係部署はこのツイートに関してのぞましくないことだという声明を出していた。

 中国人といったさいに、その集合の全体の量がある。その量は十三億人にものぼる。このすべての量にたいして、すべてがこうであるとかどうであるとかというふうに、一方的に決めつけることはできないものだろう。なにしろ量が十三億にものぼるので。それを避けるには、範ちゅうと価値を分けるようにすることができる。中国人という範ちゅうの中で、その価値はさまざまとなっている。

 ことわざでは一斑(いっぱん)を見て全豹(ぜんぴょう)を卜(ぼく)すというのがあるのだが、中国人の全体というのが全豹であって、それをすべて見ることは物理的に難しい。見ているものは一斑にすぎない。少数の斑を見ているのにすぎないから、そこから全豹についてをおしはかると、性急な一般化になる危なさがある。

 自由主義では、視点を反転させられる。中国人というのを日本人ということに置き換えて見られる。置き換えてみて、日本人というのをひとくくりにして、否定的なことを言われたら、不快な気持ちをいだく。とくに他の国民や民族にたいして否定的なことを言うのは避けるようにしたいものだ。

 中国人がこうだとかどうだとかというのは、どういうわけでそう言えるのかがある。そのわけが不たしかだと、独断と偏見につながりかねない。独断と偏見にならないようにするためには、どういうわけで中国人のことをそう言えるのかというのを改めて見るようにして、見解についてを確かめてみると有益だ。

 一人の人間であったとしても、色々な面があるものだから、それが人間の集合となったら、さらに色々な面をもつ。それを切り捨ててしまって、たった一つの面だけをとり上げることをしてしまいがちだ。これはよくやってしまいがちなもので、気をつけないといけないことである。分かったつもりになりがちなのがあって、それを避けるようにして、一つの文脈だけをもってして分かったということにはできるだけしないようにしたいものである。

 参照文献 『女ざかり』丸谷才一 『増補版 大人のための国語ゼミ』野矢(のや)茂樹 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』西林克彦 『幸・不幸の分かれ道 考え違いとユーモア』土屋賢二 『にほん語観察ノート』井上ひさし 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください 井上達夫法哲学入門』井上達夫