神の死と、日本と韓国とのそれぞれの遠近法―単一性と複数性

 神は死んだ。哲学者の F・ニーチェはそう言ったという。そこから、最高価値の没落がおきて、価値の多神教となる。

 一つの神であれば、それは一神教で、多くの神であれば、多神教だ。

 日本と韓国との関係において、一つの国というのではなくて、いくつもに分けたり、多くのものとしたりする見なし方がなりたつ。

 一つの日本や韓国というのだと、それは言うなれば一日や一韓だ。これは一元化した見なし方だ。そうではなくて多元化して見てみると、多日や多韓となる。または分日や分韓となる。

 たった一つだけの遠近法(パースペクティブ)によるのであれば、一つの日本や一つの韓国と言えるだろう。そのように一つだけではなくて、多くのものによるのであれば、そのそれぞれを見て行かないとならない。

 日本は正しく、韓国はまちがっている。そう見なすと、日本は白で、韓国は黒だとなる。日本はまったくの白で、韓国はまったくの黒なのであれば、白日と黒韓だが、そうではなくてどちらもが灰色なのであって、灰日や灰韓となっている。また、日本は純粋に正しくて、韓国は不純そのものでまちがっているというのではないので、純日や純韓とは言えず、雑種となっているために、雑日や雑韓だ。

 日本についてを見てみると、日本の国がよいというのもあるし、また悪いというのもある。たった一つだけをよしとするのではないのであれば、そのどちらもがありえるのではないだろうか。それが(一つの日本ではなくではなく)多日や分日ということだ。韓国についてもまた、一元化して見るのではなくて、多元化するようにして、多韓や分韓とできるのであって、できるだけ一斑(いっぱん)を見て全豹(ぜんぴょう)を卜(ぼく)すのは避けるようにしたい。

 参照文献 『韓国は一個の哲学である 〈理〉と〈気〉の社会システム』小倉紀蔵(きぞう) 『社会階層 豊かさの中の不平等』原純輔(じゅんすけ) 盛山(せいやま)和夫 『トランスモダンの作法』今村仁司他 『現代思想の断層 「神なき時代」の模索』徳永恂(まこと)