仏教の基本の決まり(戒律)をできるだけ破らないようにしてもらいたいものだ

 韓国人は、個人でつき合うには気のよい人ばかりだ。そこに国や組織がからむと急に面倒くさくなる。仏教の僧侶は、ツイッターのツイートでそう言っている。つづけて、五七五にして、韓国人三人寄ればドクズかな、とよむ。このツイートがとり沙汰されて、僧侶の属する宗派は、ツイートの内容がまちがったことであるという声明を出した。

 仏教では、決まりとして、不悪口(ふあっく)というのがあるから、他の民族や国に向けて悪口を言うのはよくないことである。つつしむようにすることがいる。僧侶は、その決まりを破ってしまったのがあるので、決まりを守るようにしてもらいたい。

 気に食わないものにたいして悪口を言ってしまうのは人情ではある。一般人であれば多少はやむをえないところはあるが、せっかく仏教の僧侶になっているのであれば、他の民族にたいして悪口を言うことによる排外思想はしないように努めるのはあってよいことだ。

 仏教の禅では、増上慢(ぞうじょうまん)や莫妄想(まくもうぞう)といったことが言われる。人間というのは、つい思い上がってしまったり、まちがったことにとらわれたりしがちだ。それは誰にでもおきがちなことであるから、気をつけるに越したことはない。民族のちがいに優劣をつけるのもその一つである。日本が優秀で他の近隣の民族が劣っているというのは中華思想のようなもので、まちがった思い上がりだろう。

 じっさいには仏教においてさまざまな僧侶がいるように、韓国人にもまたさまざまな人がいる。韓国人はこうであるといったように、ひとくくりにするのは現実に反することになりやすい。一斑を見て全豹を卜(ぼく)すと言われるのがあるが、自分がかいま見た限られた一斑によって、全豹を卜してしまうのは不当な一般化になりがちだ。

 韓国人はこうであるということを僧侶はツイートで言ったが、これは僧侶による、韓国人はこうだということの思いこみによる。人にたいする観念の思いこみであるステレオタイプによっている。仏教の僧侶が三人寄ればこれこれだ、と否定的なことを言われたら不快に思うのと同じように、他の民族にも否定的なことを言わないようにしたい。

 仏教の僧侶とか、他の民族といった、属性としての事実をもとにして、そこから自動で(否定の)価値を導くのは、自然主義の誤びゅうである。仏教の僧侶や、日本人が、三人集まってもドクズではないように、他の民族が三人集まってもドクズではない、という類似をとることができる。

 仏教には縁起の説(縁起の理)というのがあって、これは関係によるとらえ方だとされる。日本と他の民族は関係によって成り立つ。日本があることができるのは、他の民族との関係があることによっている。おかげ様だということだ。他の民族なくして日本もまたない。

 ことわざでは、良薬は口に苦しと言われるのがあるし、本当の友だちというのは日本に甘いことを言うのではなく厳しいことを言ってくれる人たちであるという見かたがとれる。仏教の縁起の説に立つとすれば、他の民族があって日本があるのだから、その関係をできれば大切にするようにしたいものだ。関係があるということは、互いに断絶しているのではなく、相互に流通していることになる。混じり合っている。

 参照文献 『唯識の思想』横山紘一