友と敵として自他を区別する方へもって行かないで、区別をしない方向でやったほうがよいのではないか(ぬるい意見ではあるかもしれない)

 私はだまされない。北朝鮮のだましのしかたはきちんと知っている。首相はそのように言っていると新聞では報じている。北朝鮮はこれまでに何度も日本をだましてきた。それがあるために、拉致の被害者をまちがいなく日本に受けわたす約束ををしないかぎり、北朝鮮を信じることはしない。

 だまされないようにだとか、だまされたくないとする首相のあり方は、まちがっているものではないだろう。ただそれは法則というほどのことではないだろうから、北朝鮮が日本をだますことは疑いがないとまでは言えるものではおそらくない。だますというのを必然とはしないで、可能性として見ることができる。

 拉致の被害を受けたことがあるので、北朝鮮にだまされることを日本が警戒するのはもっともである。警戒するのはもっともではあるが、それが行きすぎると、お互いに硬直化するおそれがおきてくる。こちらは相手を下に見るが、相手もこちらを下に見る、といったことのやり合いになる。それを避けるためには、縁起の理をとってみるのはどうだろうか。これは仏教によるものであり、相手あっての自分たちであり、自分たちあっての相手である、とするものである。硬化を避けて軟化するあり方である。

 縁起の理をとることにより軟化するのは、頼りないというのはあるかもしれないが、それによることで心を開き合うということができるかもしれない。そんなことはしてはならず、簡単に相手に心を許すべきではないというのも言えるけど、それでうまくやりとりを進められるものだろうか。強い姿勢というのをとってはいけないということはないだろうが、そこは相手も見ていることだし、出かたをうかがっているところはありそうだ。

 肝心なのは、たがいの意思を疎通させることであり、分け合いをすることである。分け合いというのが生ぬるいとしても、やりとりをし合うのを交渉として見ると、こちらの要望を一方的に通すのはできづらい。そうしたことを言うのは的はずれであり、よけいな心配ではあるかもしれないが。