批判をすることにおける、具体(個別)とはまた別の抽象で、公平性や正義の原則による類似からの議論のものがある

 批判をする者をアンチと見なす。批判を投げかけるのを、ぜんぶアンチによるものとしてしまう。批判の中には的を外したものもあるだろうが、中には的を得たものがあるとすれば、ひとくくりにしてアンチと決めつけるのは適したことだとは言えそうにない。

 具体によるのとはちがう、抽象によることからの批判が投げかけられるのがある。抽象によることからの批判では、それが的を得ていることがあるから、(的を得ているものについては)受けとめられることがのぞましい。

 具体とはちがう、抽象による批判として、類似性によるものがある。これは公平性によるものだ。正義に適うかどうかの、正義原則による。修辞学者の香西秀信氏によると、同じ本質の範ちゅうに属するものは同じあつかいを受けるべきだというものだという。複数の同じものを同じあつかいにするさいには理由はいらない。ちがうあつかいにするときには、ちがうあつかいをすることを正当化するための理由がいる。

 同じく不正なことをした政治家がいたとして、一人は罰せられて、もう一人は何のおとがめもなしというのでは、あつかい方がおかしいのは明らかだ。同じ不正なことをした政治家がいるのであれば、同じように罰せられるか、もしくはどちらもおとがめなしということであれば、あつかいに差がつかないので、類似性が成り立つ。

 正義原則を当てはめたさいに、同じものに属するのにもかかわらず、ちがうあつかいになっていて、それを正当化する理由が述べられていないのだとしたら、正義に適わないことになる。それにたいする批判が投げかけられるのは、アンチだということで片づけるので終わりにはできづらい。正義原則からして正義に適っていないことや、公平さを欠いていることをさし示しているのがある。

 本質の諸点において類似しているものは、同じものだから、同じあつかいをするのがふさわしい。同じものに属するのに、特定のものだけを説明を抜きにしてちがうあつかいをするのであれば特別視することになる。特権化がおきる。特別視や特権化をするのはおかしいという批判を投げかけるのは、具体(個別)のものをとり上げてはいるが、それだけにとどまるものではない。直感や感情によって悪いのだというのではなく、公平性や正義の原則に照らしておかしいということだから、気に食わないことによるアンチというだけのものとは言えそうにない。

 たんに個別の具体のものが、直感や感情として気に入らないというので批判をするのあれば、実質によるのにとどまる。それとはちがい、形式や型を押さえたうえで、形式や型からしておかしいという批判であれば、実質だけによるのよりも強くなる。強いといっても、聞き入れられるかどうかはわからないが、実質だけによるのよりも説得性は高くなりやすい。

 ちなみに、類似からの議論(による批判)に反論するには、同じであること(類似性)が成り立たないことを示すことでできる。類似からの議論は、複数のもの(根拠と主張など)が同じであるという類似性によって成り立つ。根拠と主張のあいだで同じことが成り立っているとすれば、それがちがうのだということを示せれば、根拠と主張が結びつかないことになる。類似性にたいして差異(相違点)を示すということだ。それで反論できる。

 参照文献 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『究極の思考術』木山泰嗣