行政文書とバックアップデータの類似性とちがい―可能態(デュナミス)と現実態(エネルゲイア)

 バックアップされたデータは行政文書ではない。政府はそうした見解を示した。

 バックアップされたデータは一般の職員がじかに接近することができないものなので、行政文書ではないのだと政府は言っている。

 一般の職員がじかに接近できなかったり、どういう仕組みになっているのかがわからなかったりするのなら、行政文書だということにはならないのだろうか。

 かりに、バックアップデータが行政文書だとは言えないのだとしても、行政文書のバックアップデータだと言うことはできるだろう。行政文書だとは言えないとしても、行政文書のバックアップデータだとは言えるのでないと、何のバックアップデータなのかが分からないし、得体の知れない謎のデータだということになってしまう。

 バックアップデータの存在理由(レーゾンデートル)というのは、いざというさいに復元されることにある。そう見なすことができる。

 行政文書のバックアップデータを復元すれば、もとの行政文書になる。そうでないと、バックアップデータをとっておく意味がない。

 バックアップデータというのは、可能態(デュナミス)と現実態(エネルゲイア)でいうと可能態に当たる。

 可能態というのは、傘で言えばまださしていない傘だ。さしている傘は現実態だ。

 行政文書のバックアップデータというのは、まださしていない傘のようなものであって、それを復元するつまり現実態にすればもとの行政文書になる。

 まださしていない傘は、傘の可能態ではあるが、いちおう傘ではあるのと同じように、行政文書のバックアップデータもまた、行政文書の可能態ではあるが、行政文書の範ちゅうにいちおう入るととらえることもできないではない。

 傘であれば、可能態と現実態との隔たりが小さく、どちらも傘だと言えるが、そのあいだの隔たりがとても大きければ、ちがいがあるということが言えるだろう。そのさいには、可能の状態と現実の状態を近づけてやればよい。可能の状態そのものが目的なのではなくて、現実の状態になってはじめて意味があるのが、バックアップデータなのではないだろうか。

 参照文献 『池上彰の教養のススメ 東京工業大学リベラルアーツセンター篇』池上彰