戦争における死の意味と無意味―国家主義の虚偽意識による死の合理化

 戦争で人や兵士が無駄死にした。そう言うのは、戦争で死んだ人や兵士にたいしてあまりにもひどい言い方だ。戦争で死んだ人や兵士には、無駄死にしたというのではなくて、国のために(国に役だつ形で)死ぬことになったのだと言うべきではないか。そういうことがウェブで言われていた。

 たしかに、戦争で死んだ人や兵士にたいして、無駄死にしたとか犬死にしたというふうに言うと、はばかられるような気がするのはある。無駄死にや犬死にというのは、意味がないということであって、なにか意味づけを与えることがいるような気がしてくる。そのさいの意味づけとして持ち出されるのが国だ。

 戦争で死ぬのは、たとえそれが不条理な形のものであったとしても、すべてが国の役にたつものとして死ぬことになるのだろうか。そこにはまちがった合理化がはたらいているのではないだろうか。無駄死にや犬死にではなかったのだとすると、そこから戦争そのものを合理化することにつながりかねない危うさがある。

 国のために死んだということで、国というものに死を回収してしまうと、不合理なものを見落とすことになる。戦争とは巨大な不合理だ。それによって人や兵士が死んだことにたいして、国のためにということで意味づけして、国に回収して合理化してそれですむとは見なしづらい。

 国という目的があって、その手段として人があるというのだと、国家主義になる。国家主義では、国の虚偽意識による呼びかけに人が従わせられて、人が道具になる。理性が道具化する。理性の道具化とは理性が退廃して道具的理性になることをさす。

 国家主義の虚偽意識には欺まんがあるのは否定することができない。人が手段となるのではなくて、目的としてあつかわれるのをよしとするのは近代における個人主義によるものだが、これからすると、国家主義にはおかしいところやよくないところがあると言わざるをえない。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『戦争の克服』阿部浩己(こうき) 鵜飼哲(うかいさとし) 森巣博(もりすひろし) 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編