桜を見る会と、与党と野党の対立―二極によるのと三極(多極)によるのがある

 桜を見る会で、旧民主党の政権もまた、反社会勢力をまねいていたという。そうであることから、野党にブーメランが返ってきた、というふうにツイッターのツイートで言われていた。

 民主党のときにも桜を見る会で反社会勢力をまねいていたのだから、いまの与党である自由民主党の政権の桜を見る会についての疑惑を追及するのは、たんなる時間と労力の無駄になったのにすぎない。そうした声が言われていた。

 たしかに、民主党の政権のときにも、桜を見る会で反社会勢力をまねいていたのであれば、それはよくないことだろう。それは批判されるべきことになる。そのさいに、問題を分割するようにして、いっしょくたにしてしまわないようにしたい。論点を分けたほうが分かりやすくなる。

 論点の一つとしては、いまの与党である自民党の政権の、桜を見る会についての疑惑があるのであって、そこに民主党のときのことを引き合いに出すと、論点が混ざってしまう。

 民主党のときの論点を混ぜてしまうと、民主党に属していた野党の議員は、いまの時の政権のことを責められないというふうに、発言者と発言とをつなげる見かたがとられることになる。

 発言者が駄目だから発言もまた駄目なのだというのは、適した見かただとは言えず、あくまでもいまの時の政権の桜を見る会についての疑惑に論点をしぼったさいには、発言者が誰かというのはとくに発言の内容には関わってはこない。

 与党と野党が対立しているさいに、与党は悪いけど野党もまた悪かったというのは、二つのものどうしを引き比べている。これは二極による比較だ。そうではなくて、三つ以上によって見ることがなりたつ。

 野党とはいっても、そのすべてが民主党に属していた議員によるのではなくて、ほかの党の議員もまた少なくない。なので、与党といったら自民党で、野党といったら民主党だとは言えず、二極で見るのではなくて三極(以上)で見るほうが現実的だろう。桜を見る会について、おかしいところがあることをとり上げたのは、共産党によるのであって、野党とはいっても、民主党の手がらだとは言えないだろう。

 参照文献 『増補版 大人のための国語ゼミ』野矢(のや)茂樹 『日本の刑罰は重いか軽いか』王雲海(おううんかい) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信

憲法の改正の議論と、その議論についての議論(より上位の議論)―議論のやり方の問題

 国会で憲法の改正について議論を行なう。それとも、その議論すらも行なわない。そのどちらがいったい正しいのかということを首相は言っていた。

 首相は国会で憲法の改正の議論を進めたいのだから、議論を行なうのが正しいのであって、議論すら行なわない護憲派はまちがっていると言いたいのだろう。

 このさい、国会における憲法の改正の議論と、それについての議論ということで、より上位の議論(議論についての議論)というのを持ち出せる。

 国会における憲法の改正の議論に、まったく何の問題もないのであれば、それを進めるのが正しいことになるだろう。それとはちがい、それに少なからぬ問題があるのであれば、議論を進めるべきだというのはまちがいなく正しいということにはならなくなる。

 議論というさいに、わざわざ上位の議論(議論についての議論)を持ち出すのは、憲法の改正についての議論が国にとって大切なものだからである。できるだけ慎重に行なわれることがのぞましい。

 議論すなわちよいこととは必ずしも言えないことに気をつけたい。議論を進めることがよいことだというふうに含意をもたせるのはまちがいなく適したことだとは言いがたい。

 議論をするうえで大切なのは、たんにそれを行なえばよいということではなくて、よい結論が導かれるように、議論をとり巻く環境や状況をきちんと整えなくてはならない。

 とり巻く環境や状況がきちんと整っていなければ、議論はよいとも悪いともいちがいには言いかねるし、議論をやりさえすればよいとは言い切れなくなる。基本としては議論をするのは、しないよりかはよいことではあるが、例外は色々にある。

 与党である自由民主党が、所属する議員どうしで会議みたいなのを開いていたようだけど、その中で、会議の参加者である石破茂氏だけが、いくら発言の機会を求めても、司会者から無視されつづけたそうである。それで石破氏はおかしいということで抗議の声を上げたそうだ。

 こうしたように、議論のあり方がおかしければ、参加者や関係者の一部から不満が出ることがあるし、よい結論が出ることは見こみづらい。議論はすなわちよいことだとか、議論をやりさえすればよいということはならないことを示している。

 参照文献 『武器としての交渉思考』瀧本哲史(たきもとてつふみ) 『議論のレッスン』福澤一吉(かずよし) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一

アカとアク―社会主義(共産主義)と資本主義

 アメリカの若者で、社会主義をよしとする人が増えているという。アメリカといえば資本主義と自由主義の国だが、それと反対にあるともいえる社会主義への支持が、若者のあいだで高まっているそうだ。毎日新聞の記事(十二月一日)に出ていた。

 アメリカでもっともうとまれて嫌われてきたのが社会主義である赤だ。その社会主義への支持が若者を中心として増えてきているのは、社会主義は赤だということで悪玉化してきたのが、必ずしもそうするには当たらないものだという理解がおきているのを示している。

 アメリカでは社会主義への支持がおきてきているというが、日本ではどうだろうか。日本では、共産主義というと赤だということで嫌われている。それが見られるのは右派や保守の人たち(の一部)だ。右派や保守の人たちの一部は、日本の共産主義化や社会主義化つまり赤化をおそれていて、それはあってはならないことだとしていた。

 アメリカが進んでいて日本が遅れているとはいちがいには言うことはできない。そうであるものの、日本よりもより資本主義や自由主義の度合いが高いアメリカであっても(であるからこそということかもしれないが)、社会主義にたいする抵抗感や嫌悪感だけではなくて、それへの支持がおきてきている。それがおきているのは、社会主義がどうかということではなくて(それも大事だが)、資本主義のもつ悪が人々に認められていることによっていそうだ。

 資本主義にはプラスとマイナスの面があるだろうが、そのうちのマイナスの面が大きくなっている。マイナスが無視できなくなってきている。その危機感が、アメリカの若者をして、社会主義への関心に向かわせている。

 資本主義のマイナスの面とは言っても、プラスの面もまたあるのであって、そこについては賛否が分かれている。もっと資本主義をよりよいものにして行けば、もっとみんなの益になることにすることができるという説もある。そうはいっても、少なくとも現状の資本主義によるあり方に決して小さくないマイナスがあるのはたしかで、またこれまでにマイナスつまり負の遺産や犠牲が築かれてきたのもある。

 資本主義のマイナスの面として階層化がある。昔の日本では地主と小作というのがあったが、持てる者と持たざる者とに階層化される。持たざる者をつねに生み出して、下位に置かれる階層があることによって社会が保たれる。下位に置かれることで、社会から引きはがされたり、社会に接合されなくなったりしてしまう。

 いたずらに資本主義を合理化してすませてしまうのではなくて、そのマイナスの面である悪のところを見て行くことがいる。資本主義の世の中において、よい目を見られていないで、持たざる者として生きて行くさいに、資本主義はそれを十分に合理化してくれはしないだろう。うなずけるような十分な理由を示してくれはしない。どうしてそうなのかということの神義(正当性)が得られず、それが与えられないのである。

 参照文献 『帝国の条件 自由を育む秩序の原理』橋本努 『悪の力』姜尚中(かんさんじゅん) 『日本の階層システム一 近代化と社会階層』原純輔(じゅんすけ)編 『社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』岩田正

国の長の呼びかたと間合い―さん付けで呼ぶことについての違和感

 ロシアの大統領のことを、ウラジミールと名前で呼ぶ。アメリカの大統領のことを、ドナルドと名前で呼ぶ。それにたいして、ロシアの大統領やアメリカの大統領は、日本の首相のことを、シンゾー(安倍晋三首相の名前)と呼ぶこともあるようだ。

 国の長のことをどういうふうに呼ぶのかは、間合いをどう取るのかに関わる。人のことをどう呼ぶのかというのと間合いの近さや遠さが関わるとされていて、政治であればそこから思わくが透けて見えてくる。

 首相がロシアの大統領のことをウラジミールとか、アメリカの大統領をドナルドと呼ぶのは、じっさいにすごく親しいというよりは、どちらかというと願望によるものだろう。

 じっさいにどれくらい間合いが近いか遠いかと、呼び名とがつり合っていればよいが、つり合っていないことがある。すごく親しいわけではないのに親しげな呼び名を使うのは、間合いがずれたものである。あえてずれさせて、間合いを能動的に調整していったり見せかけたりするのは技術だが、これは間合いをとるのが上手な人(間合い上手)によるものとされる。

 国内では、首相のことを、個人名で安倍さんというふうに言うのがあるけど、これについて個人としてはやや引っかかりをおぼえる。報道機関の報道で、出演者が、安倍さんはこうだとか、安倍さんはどうだとかと言うのがあるのだが、これだとあたかも首相が親しみのある人のように響く。

 さん付けで呼ぶのではなくて、氏とするか、首相や総理と呼んだほうが、一定の間合いが保てるので適している。きちんと国の長のことを批判的に見るためには、そこに最低限の敬意はいるものの(呼び捨てにしなくてよいが)、呼び名を含めて、つきはなしてしまってもよいだろう。細かいことだから、とるに足りないことではあるが。

 日本語と外国語とはちがうけど、外国語の報道だと、国の長であっても呼び捨てにしているのを見かけたことがある。外国語に通じているわけではないからくわしいことは分からないが、安倍首相であれば Abe と呼んでいることがあるし、アメリカのトランプ大統領なら Trump と呼んでいたのを見かけたことがある。これはたんに言葉のちがいからくることにすぎないものではあるかもしれない。

 参照文献 『間合い上手 メンタルヘルスの心理学から』大野木裕明(おおのぎひろあき)

桜を見る会で、与党である自由民主党は無びゅう(まったく誤りがない)だという前提条件は、通じるものなのか―与党の無びゅうという誤びゅう

 桜を見る会では、野党の言うことはことごとく反証(否定)されている。与党である自由民主党のありもしない疑惑を、野党はことさらにとり上げている。識者はそうしたことを言っていた。

 桜を見る会を含めて、政治のことの一般として、与党のやることや言うことが、完全に誤りのないものだと見なすことはまちがいなのではないだろうか。

 与党のやることや言うことが完全にまちがいがないのだというのは、与党が無びゅうであるという前提条件をとっている。それは無びゅうの神話だと言ってもよいだろう。その神話は現実に通じるものだとは言いがたい。

 与党が無びゅうだという神話は、約束主義や補強ずみの教条(ドグマ)主義と言われるものに当たる。与党にはまったくまちがいはなくて、いついかなるさいにも野党が悪いのにちがいないということが、約束されたことになっていて、それがあたかも宗教における絶対の教条(ドグマ)のようなものと化す。

 与党が無びゅうだという前提条件は崩れざるをえない。可びゅうであることをまぬがれない。なので、与党は他から批判されなければならないことになる。与党は、他からの批判にたいして開かれていなければならないのだ。

 桜を見る会について、与党は完全に白だと言うのはきわめて難しく、よく言っても灰色であって、つっこんで見れば黒なのではないだろうか。完ぺきにまっ黒かどうかは置いておくとして、多かれ少なかれ黒いところがある。

 ほんらいであれば、与党は自分たちから、できるだけ早い段階で、桜を見る会について自分たちで問題を見つけていって、こういう問題があったのだと言うべきではなかったのだろうか。それをせずに、ばれなければよいということでやっていたが、野党である共産党桜を見る会についておかしいところがあるのではないかということで、問題を見つけて行った。それによってはじめて問題が明らかになることになった。そういう流れがある。

 桜を見る会については、与党がやっていた悪いことがどういうことかということだけではなくて、与党のあり方のおかしさがあることもまた無視することができづらい。与党は自分たちで自浄するのがほんらいのところが、他者である野党に問題を見つけてもらっているのだし、問題が見つかったらその解決には協力しようとはいしていない。何とか問題を小さくして、逃げ切ろうという行動をとっている。

 桜を見る会については、その流れやいきさつを見ると、与党は無びゅうであるという前提条件をとることは難しく、かりにその前提条件をとるにしても、少なからず崩れてしまうことになる。

 一般論で言っても、また個別に言っても、どちらにおいても少なくとも与党にはプラスとマイナスの二つの面があるはずで、与党をよしとするだけでは一つの面を見ているのにとどまる。

 与党に悪いところがあるという批判が投げかけられるのであれば、それにたいして批判を受けとめたうえでかみ合った応じ方をしなければならないが、それができていないのであれば、批判が当たっているのだと見なさざるをえないだろう。与党には政治において応答責任がある。全面として批判が当たっているかは置いておくとして、少なからず当たっているのであれば、まったく悪くないのだということにはならないので、誤りを認めて責任をとるべきだろう。

 危機に対応できていなくて、危機を回避しようとしていて、その回避しようとしている与党のことは放っておいて、野党が悪いというふうに言うのは、(野党が完全に正しいというのではないにしても)つり合いのとれた見かただとはちょっと言いかねる。いずれにしても、多かれ少なかれかたよった見かたであるのは避けられないかもしれないが。

 参照文献 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『危機を避けられない時代のクライシス・マネジメント』アイアン・ミトロフ 上野正安 大貫功雄訳 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください 井上達夫法哲学入門』井上達夫 『青年教師・論理を鍛える』横山験也

与党である自由民主党の政治家で、野党だったときと、与党であるときとで、言っていることがちがっているのを見かけた―立ち場がちがうことで言うことが変わってしまっている

 野党の時代の自由民主党の政治家と、与党のときとを対比してみたい。同じ自民党の政治家ではあるが、与党であるときよりも、野党であるときのほうがましなのではないだろうか。

 このさいのましというのは、見識がわりあいにましだということだ。いまの自民党は与党だが、与党であることによって自民党の政治家はおしなべて見識が低くなっているように見うけられる。それも、政権に近ければ近いほどそうである。

 人のことについて、見識が低いのだと言うのは、さもえらそうなことを言っているように響くかもしれない。それについては、いったいに政治家というのは、とくに権力に近ければ近いほど、色々なことをやらなければならないので忙しい。忙しいと、見識を磨くゆとりがない。なので、もとからそうとうにしっかりとした基礎体力がないと、見識が低くなりやすい。精神論ではなくて物理の点からいってそうおしはかれる。

 与党の政治家の見識の低さには、ごく少数の例外はある。具体的には石破茂氏がいる。石破氏は与党の中でも野党のような位置にいる。政権に近ければ近いほど見識が低いということを裏づける例だ。

 野党のときと与党のときとを対比してみると、野党のときのほうがまだ少しはましだった。まだ言っていることがまともなところがあるにはあった。これは何を意味しているのかというと、日本の政治には原理がないことを示す。無原理に近くなっているので、野党から与党に移ったさいに、あっちからこっちへというふうにぶれぶれにぶれてしまうのだ。建て前から本音へ、といったようになってしまう。

 野党から与党に移ったのだとしても、与党の立ち場にこだわりすぎるのではなくて、もし野党の立ち場であったらどういうことが言えるのかとか、同じことが言えるのか、というふうにしてくれればよい。そうしてくれるのであれば、自由主義のあり方になりやすい。このあり方は現実の日本の政治ではきわめてのぞみづらい。ちゃんとした原理を重んじることがなくて、無原理や無原則に近いのが、とくにひどいように見なせるのが、いまの時の政権だと見なしたい。

 参照文献 「二律背反に耐える思想 あれかこれかでもなく、あれもこれもでもなく」(「思想」No.九九八 二〇〇七年六月号) 今村仁司 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください 井上達夫法哲学入門』井上達夫

行政文書とバックアップデータの類似性とちがい―可能態(デュナミス)と現実態(エネルゲイア)

 バックアップされたデータは行政文書ではない。政府はそうした見解を示した。

 バックアップされたデータは一般の職員がじかに接近することができないものなので、行政文書ではないのだと政府は言っている。

 一般の職員がじかに接近できなかったり、どういう仕組みになっているのかがわからなかったりするのなら、行政文書だということにはならないのだろうか。

 かりに、バックアップデータが行政文書だとは言えないのだとしても、行政文書のバックアップデータだと言うことはできるだろう。行政文書だとは言えないとしても、行政文書のバックアップデータだとは言えるのでないと、何のバックアップデータなのかが分からないし、得体の知れない謎のデータだということになってしまう。

 バックアップデータの存在理由(レーゾンデートル)というのは、いざというさいに復元されることにある。そう見なすことができる。

 行政文書のバックアップデータを復元すれば、もとの行政文書になる。そうでないと、バックアップデータをとっておく意味がない。

 バックアップデータというのは、可能態(デュナミス)と現実態(エネルゲイア)でいうと可能態に当たる。

 可能態というのは、傘で言えばまださしていない傘だ。さしている傘は現実態だ。

 行政文書のバックアップデータというのは、まださしていない傘のようなものであって、それを復元するつまり現実態にすればもとの行政文書になる。

 まださしていない傘は、傘の可能態ではあるが、いちおう傘ではあるのと同じように、行政文書のバックアップデータもまた、行政文書の可能態ではあるが、行政文書の範ちゅうにいちおう入るととらえることもできないではない。

 傘であれば、可能態と現実態との隔たりが小さく、どちらも傘だと言えるが、そのあいだの隔たりがとても大きければ、ちがいがあるということが言えるだろう。そのさいには、可能の状態と現実の状態を近づけてやればよい。可能の状態そのものが目的なのではなくて、現実の状態になってはじめて意味があるのが、バックアップデータなのではないだろうか。

 参照文献 『池上彰の教養のススメ 東京工業大学リベラルアーツセンター篇』池上彰

政治の権力者と追従者と、社会的知性―関係性と信頼性を検知する能力

 いまの時の政治の権力にとり入る。政治の権力に近づいて行く。それは、関係性を検知する能力に長けていると言える。

 社会的知性というのがあって、その中には関係性検知能力と信頼性検知能力の二つがあるのだという。

 関係性を検知するのは、人間どうしの関係のあり方をとらえるものである。この能力にすぐれている人は、空気を読むことにすぐれていることをあらわす。社会的びくびく人間だと言えるそうだ。

 社会的知性の一つである信頼性検知能力というのは、ある人が信頼できるかどうかをとらえる能力だ。これはじっさいに信頼できたりできなかったりするという経験を踏んで行くことで高まって行く。直接の経験だけではなくて、他人によるのや過去の間接の経験に触れることもまた役に立つだろう。

 いまの時の政権に近づいて行って、権力者と仲がよくなるのは、関係性検知能力にすぐれているとは言えるが、信頼性検知能力には劣っているのではないだろうか。

 時の権力者には、一般的に言って信頼できないところが少なからずあるはずであって、権力者を丸ごと信頼できるということはおよそありえづらい。批判することもまた欠かせないことだから、権力者に近づいて行って仲よくなるのは自分が取りこまれてしまいかねないから危険である。

 野党は反対勢力に当たるが、野党のことを頭からすべて信頼できないというのは極端すぎる。一般的に言って野党などの反対勢力がいることは社会にとって少なからず有益にはたらく。そのさい、与党の補完勢力となる野党は、反対勢力というよりも賛成勢力のようなものなので、そこからは除く。

 反対勢力がいると、ものごとが早く進まないといったマイナス面があることは確かだが、プラスの面があることも確かで、それもまた小さくない。全面的にと言うのではないにしろ、少なからず信頼できるのだ。なぜかというと、人間は誤りを避けられないからで、与党のやることが全面的に正しいということはまずおこりづらいからである。

 いまの時の権力者じたいが、関係性検知能力にはすぐれているのかもしれないが、信頼性検知能力が劣っているのかもしれない。アメリカなどの大国には弱くて、中くらいや小さい国の一部には強く出ているのは、大に事(つか)える事大(じだい)主義になっていることをしめす。信頼できるかできないかを必ずしも見抜けてはいなくて、関係性の中の力の強弱によって優劣を決めている。

 参照文献 『「日本人」という、うそ 武士道精神は日本を復活させるか』山岸俊男 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『できる大人はこう考える』高瀬淳一

自民党では悪夢ではなく、民主党のときは悪夢である(だった)のか―十分条件と必要条件で見てみる

 かつての旧民主党政権の時代は悪夢だった。その時代に戻してはならない。ツイッターのツイートではそう言われていた。

 いまの与党である自由民主党による政権と、かつての民主党の政権とを対比してみる。そのさいに、十分条件と必要条件によって見てみることがなりたつ。

 十分条件というのは、そうでありさえすればよいというもの(十分な条件)である。必要条件というのは、それがなければならないものである。それがあることが欠かせない。

 ほんとうのことかどうかは置いておくとして、たとえば消費税を上げたら景気が悪くなったというさいには、消費税を上げることは景気が悪くなることの十分原因だととらえられる。ほかに景気を悪くするもとがいくつかあるのなら、消費税を上げることは景気を悪くすることの必要原因となるだろう。

 因果関係では、隠れた原因というのがあることがあるから、それの見落としに気をつけないとならないとされていて、ほかにも気をつけるべきことが色々とあるとされるから、早とちりは禁物だ。原因と結果の取りちがえとか、関係がなかったとか、色々な複数のちがう仮説がなりたつ。

 民主党の政権のときは悪夢だったというのは、民主党の政権であることが悪夢であることの十分条件となっている。十分条件ではあるとしても、必要条件ではないので、たとえばいまの自民党の政権であっても悪夢であることは十分にありえる。

 いまの自民党による政権は、民主党の政権のときのような悪夢ではないのだとしても、自民党による政権ではなくてもそれは十分にありえることである。悪夢ではないのであるためには自民党による政権でなければならないとは言えないだろう。自民党による政権でなければならないとは言えないのは、悪夢ではないことの必要条件ではないということをしめす。

 参照文献 『実践ロジカル・シンキング入門 日本語論理トレーニング』野内良三(のうちりょうぞう) 『クリティカルシンキング 入門篇 実践篇』E・B・ゼックミスタ J・E・ジョンソン 宮元博章 道田泰司他訳

桜を見る会と、政治の議論でとり上げるべきこと―何を(what)と、どのように(how)、がある

 国会で、桜を見る会のことをとり上げるのは、よくないことだ。もっとほかに大事なことがあるのだから、それをとり上げるべきだ。テレビ番組のキャスターはそう言っていた。

 たしかに、国会でどのようなことをとり上げるべきなのかというのは色々なことが言えるのはあるだろう。そのさいに、議論ということでは、議論の題材とやり方を分けて見られる。

 議論の題材とやり方をいっしょくたにしないで分けて見られる。題材がよければやり方もそれにともなってよくなるわけではないだろう。題材がよいとしてもやり方がよくなければあまり意味はない。題材がそこそこでもやり方がよければうまくすれば十分に意味がある。

 議論をきちんとやるようにするためには、まず議論をやる気にならないとならない。議論をやることにたいしての動機づけを持たなければならないだろう。

 いまの与党やいまの政権にとって都合のよいことであれば議論をする気になって、都合が悪いことであれば議論をする気にはならない。そうしたことでよいのだとは見なすことはできない。そもそも、いまの与党やいまの政権にとって都合のよいことが国民の益になって、都合の悪いことは益にはならないとは言えず、それらは自明であるとは言えそうにない。

 議論の題材がどうかということとは別に、議論のやり方では、形だけの議論をやるのではほんとうの意味で議論をすることにはならないだろう。形だけの議論をやったところで、ほんとうの意味では議論をすることにはなっていないのであれば、とりあえず議論をやったという形だけがあとに残ることになって、とくに意味のあることはあとには残らない。

 国会で議論をするさいには、何を、どのように行なうかというのがあって、何をを重んじるだけでは足りず、どのようにというのもまた欠かせないものだろう。どのようにということでは、民主的で効果のある議論になるようにすることがいる。民主的であるためには公正や適正であることがいる。効果があるようにするためには、質問と答えがかみ合っていないとならないし、できるだけすれちがわないようにしなければならない。

 日本のいまの国会では、何をというのもおかしいし、どのようにというのもおかしい。どちらも多かれ少なかれ駄目なところがある。人によって何をとり上げるのが一番のぞましいのかという優先順位がちがうだろうから、そこについてはみんなが満足するようにはなりづらいから、完全に満足することは難しい。

 何をということだけではなくて、どのようにというのもないがしろにはしないようにして、きちんと民主的で効果のある議論が行なわれるようにすることがないと、ただとりあえず形だけ議論をやったということになるのにすぎない。ほんとうの意味で議論をやったことにはならないことになる。

 ほんとうの意味でというのはあくまでも理想論であって、現実には難しいのはあるが、一歩ずつ理想に近づいて行くために、たえざる改善や修正や反省をすることはいることだろう。基本となるものである、質問と答えがかみ合うようにしたり、すれちがわないようにしたり、不毛な水かけ論にならないようにしたりすることに気をつけられれば、どのようにの点を改められる。それらがなおざりになっていれば、たとえ重要なことがとり上げられたのだとしても、意味のある議論はのぞめそうにはない。

 参照文献 『議論のレッスン』福澤一吉(かずよし) 『増補版 大人のための国語ゼミ』野矢(のや)茂樹 『官僚に学ぶ 人を動かす論理術 専門家が実践する問題解決の方法』久保田崇(たかし) 『民主制の欠点 仲良く論争しよう』内野正幸