桜を見る会で、与党である自由民主党は無びゅう(まったく誤りがない)だという前提条件は、通じるものなのか―与党の無びゅうという誤びゅう

 桜を見る会では、野党の言うことはことごとく反証(否定)されている。与党である自由民主党のありもしない疑惑を、野党はことさらにとり上げている。識者はそうしたことを言っていた。

 桜を見る会を含めて、政治のことの一般として、与党のやることや言うことが、完全に誤りのないものだと見なすことはまちがいなのではないだろうか。

 与党のやることや言うことが完全にまちがいがないのだというのは、与党が無びゅうであるという前提条件をとっている。それは無びゅうの神話だと言ってもよいだろう。その神話は現実に通じるものだとは言いがたい。

 与党が無びゅうだという神話は、約束主義や補強ずみの教条(ドグマ)主義と言われるものに当たる。与党にはまったくまちがいはなくて、いついかなるさいにも野党が悪いのにちがいないということが、約束されたことになっていて、それがあたかも宗教における絶対の教条(ドグマ)のようなものと化す。

 与党が無びゅうだという前提条件は崩れざるをえない。可びゅうであることをまぬがれない。なので、与党は他から批判されなければならないことになる。与党は、他からの批判にたいして開かれていなければならないのだ。

 桜を見る会について、与党は完全に白だと言うのはきわめて難しく、よく言っても灰色であって、つっこんで見れば黒なのではないだろうか。完ぺきにまっ黒かどうかは置いておくとして、多かれ少なかれ黒いところがある。

 ほんらいであれば、与党は自分たちから、できるだけ早い段階で、桜を見る会について自分たちで問題を見つけていって、こういう問題があったのだと言うべきではなかったのだろうか。それをせずに、ばれなければよいということでやっていたが、野党である共産党桜を見る会についておかしいところがあるのではないかということで、問題を見つけて行った。それによってはじめて問題が明らかになることになった。そういう流れがある。

 桜を見る会については、与党がやっていた悪いことがどういうことかということだけではなくて、与党のあり方のおかしさがあることもまた無視することができづらい。与党は自分たちで自浄するのがほんらいのところが、他者である野党に問題を見つけてもらっているのだし、問題が見つかったらその解決には協力しようとはいしていない。何とか問題を小さくして、逃げ切ろうという行動をとっている。

 桜を見る会については、その流れやいきさつを見ると、与党は無びゅうであるという前提条件をとることは難しく、かりにその前提条件をとるにしても、少なからず崩れてしまうことになる。

 一般論で言っても、また個別に言っても、どちらにおいても少なくとも与党にはプラスとマイナスの二つの面があるはずで、与党をよしとするだけでは一つの面を見ているのにとどまる。

 与党に悪いところがあるという批判が投げかけられるのであれば、それにたいして批判を受けとめたうえでかみ合った応じ方をしなければならないが、それができていないのであれば、批判が当たっているのだと見なさざるをえないだろう。与党には政治において応答責任がある。全面として批判が当たっているかは置いておくとして、少なからず当たっているのであれば、まったく悪くないのだということにはならないので、誤りを認めて責任をとるべきだろう。

 危機に対応できていなくて、危機を回避しようとしていて、その回避しようとしている与党のことは放っておいて、野党が悪いというふうに言うのは、(野党が完全に正しいというのではないにしても)つり合いのとれた見かただとはちょっと言いかねる。いずれにしても、多かれ少なかれかたよった見かたであるのは避けられないかもしれないが。

 参照文献 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『危機を避けられない時代のクライシス・マネジメント』アイアン・ミトロフ 上野正安 大貫功雄訳 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください 井上達夫法哲学入門』井上達夫 『青年教師・論理を鍛える』横山験也