社会の有力者と会長とが会っていたとされる詐欺をはたらく会社を、あやしいと事前に見抜くことは可能か―じっさいには見抜くのは必ずしも易しくはない(人によっては)

 首相と会って、食事を共にしたことがある。首相からまねかれて、桜を見る会に出た。詐欺を働いたとされる会社は、人をだますさいに、首相などの社会の有力者たちと会社の会長とがじかに会っていることを引き合いに出して、信用があることをほのめかした。中にはそれによってだまされてしまった人が出た。被害者が出たのである。

 消費者担当相は、だまされた人が悪いといったようなことを言ったという。社会の有力者と会ったことがあるということを言うのは、それそのものがあやしいことだ。それを引き合いに出した時点で、疑いを持たなければならない。

 消費者担当相が言うように、社会の有力者とじかに会ったことがあると言った時点で、疑いを持つことができるのだろうか。それを引き合いに出したら、すなわちその人は疑わしいとか、疑わしいことを言うにちがいないと判断することができるのだろうか。

 詐欺を働いた会社によって、少なからぬ被害者が出てしまった。だまされた人が出てしまった。それはたしかなことだから、それを見てみるとすれば、なぜだまされてしまい、被害にあってしまったのか、というふうに問いかけられるのがある。

 なぜだまされて被害にあってしまったのかといえば、国の長である首相や、社会の有力者と、詐欺を働いた会社の会長が、じかに会ったことがあるというのがあることは否定できない。そのじかに会ったことがあるというのは、本当のことであって、その証拠となる事実がある。桜を見る会にまねかれたさいの招待状などがあるのである。それらがあることから、それに接したさいに、そうおかしな会社ではないというふうに判断することにつながったのだろう。

 首相をはじめとして、社会の有力者とじかに会ったことがあるくらいなのだから、そうした人が会長をつとめる会社が、そうおかしなところであるはずがない。それなりにまともなところであるのにちがいない。そうおしはかるのは、一つには親方日の丸の心性がはたらくことによっている。国の長である首相とじかに会うくらいなのだから、国がうしろだてになっているといったような面があって、そうおかしなことにはならないだろうという気にもなってくる。

 国の長である首相をはじめとした、社会の有力者とじかに会っている。そのことを引き合いに出したさいに、そうしたことを言っているからあやしいのだというふうに見なすのは、そう易しいことではないだろう。じかに会っていることそのものは嘘ではないのだとすると、そのことを引き合いに出すのは、減点の材料になるとは言いづらく、加点されざるをえない。だからこそ、そのことを引き合いに出す。

 社会の有力者に会っているから、その会社は信頼できるとか信用できるとかとは必ずしも言い切れないのは確かにあるにはある。場合分けをしてみると、社会の有力者と会っていたり関わっていたりするからといって、その会社が信用に足りることもあれば、足りないこともある。また、社会の有力者と会っていなかったり関わりが無かったりするからといって、その会社が信用できないとは言えないし、また中にはぜんぜん信用できない会社もあるだろう。

 場合分けをしてみれば、国の長である首相をはじめとした社会の有力者と、会社の会長が会っていたり関わっていたりするからといって、その会社が信用に足りるか足りないかとは必ずしも関わりが無く、切り離してとらえることができる。たとえ社会の有力者とつながりがない会社であっても、その会社が信用できないことにはならず、信用できる会社は少なくない。

 人間の心理や人情としては、社会の有力者と会社の会長がじかのつながりがあると言われれば、なにかそこに信用に足るものがあるという気になるのはとくにおかしいことではない。社会の有力者とのつながりがあるというのは、そうした人物との間合いが近いということをあらわす。そこに社会的勢力(social power)を読みとることができる。それを読みとってしまうことで、それがあだになってしまい、だまされたり被害にあったりしてしまうことになるのかもしれない。いったん正の印象が形づくられれば、自分の認知を確かなものにしようという心理がはたらくので、確証(肯定)の認知のゆがみが働きやすい。

 参照文献 『増補版 大人のための国語ゼミ』野矢(のや)茂樹 『間合い上手 メンタルヘルスの心理学から』大野木裕明(おおのぎひろあき) 『超常現象をなぜ信じるのか 思い込みを生む「体験」のあやうさ』菊池聡(さとる)

桜を見る会と、それをとり巻く条件や状況―ゲシュタルト心理学で言われる図と地によって見てみる

 桜を見る会そのものというよりは、それをとり巻く条件や状況がある。その条件や状況を見て行くことができる。

 桜を見る会そのものについては、それを大きなことと見るだけではなくて、小さいことや大したことがないことだと見ることもまたできるだろう。

 そのものについてではなくて、それをとり巻く条件や状況を見て行くのは、ゲシュタルト心理学で言われる図と地でいうと、図ではなくて地を見て行くことに当たるだろう。

 図ではなくて地を見て行くとすると、効率性がどうかというのがある。この効率性というのは、桜を見る会とはどういうものなのかという何(what)や、なぜなのか(why)というのではなくて、どのようにとり組んで行くのか(how)に関わる。

 何(what)やなぜ(why)というのも大事ではあるが、そこについては色々に見られるのがあるから、見かたが分かれるところだ。それらについてはひとまず置いておけるとすると、どのようにとり組んで行くのか(how)ということで、それは問題の解決についてのことである。問題が解決しないよりはしたほうがよいのだし、それは効率よくなされる方が合理的だ。

 桜を見る会についてを一つの危機だと見なせるとすると、その危機をできるだけ効率よく片づけることがのぞましい。それができないで非効率になるのは、いまの時の政権が解決に協力せずに非協力になっているせいだ。危機に正面から向かい合うことから逃げつづけている。

 効率よく片づけることができれば、速やかにことが解決することになる。それができていなくて、非効率になっているのは、いまの時の政権のせいだと言ってよい。いまの時の政権は意図して非効率にすることをねらっていて、時間がすぎてうやむやになることで逃げ切ろうとしている。

 桜を見る会が図だとすると、それをとり巻く地としては、情報社会になっているという状況がある。情報社会になっていて、さまざまな情報が流通するようになっているので、色々な行動のこん跡があとに残ることになるし、色々な情報が生成されることになる。色々にある情報をつき合わせてみると、おかしいことが浮きぼりになってきやすい。

 図を見るのではなくて、地を見るようにすれば、そもそももっと効率よく片づいていないとおかしいのだし、それができていないで非効率になっているのは、いまの時の政権のせいだと言ってよい。効率よく片づけることの足を引っぱっていて、協力しようとはしてない。それに、情報社会という状況があるので、いまの時の政権が制御し切れない情報が色々にあって、秘匿し切れていない。色々にある穴があらわになっているのがある。

 参照文献 『危機を避けられない時代のクライシス・マネジメント』アイアン・ミトロフ 上野正安 大貫功雄訳 『鼎談書評 固い本 やわらかい本』丸谷才一 山崎正和 木村尚三郎

桜を見る会と、政権による反証のがれ―野党の追及による反証と、政権の反証のがれ

 桜を見る会のことでは、追う者と追われる者とによると見られる。追う者は野党で、追われる者はいまの政権やいまの与党だ。

 追う者である野党は、もともとのきっかけは、桜を見る会のおかしさについて、そこに残されたこん跡をたどって行った。共産党の議員は、残された行動のこん跡からおかしいところを見つけて行って、とり上げた。

 いまの政権は、あくまでも桜を見る会について、自分たちにはとくに問題はなかったという立ち場をとっている。この立ち場は無理やりに押し通すことができづらく、さまざまにおかしい点があることがさし示されている。政権の立ち場への反証(否定)が試みられていて、それなりの説得性を持っている。

 追う者である野党は反証をどんどん試みて行っているが、政権や与党はそこから反証のがれしつづけている。政権や与党による反証のがれには、かなり無理なところがあるように見うけられる。のがれられていないし、のがれるべきではないし、のがれ切れていないのにも関わらず、のがれようとしつづけている。

 与党や政権は、反証のがれしつづけているのにも関わらず、のがれられていないし、のがれ切れていない。もはや政権は自分たちの立ち場が少なからず反証されてしまっていることを認めざるをえないが、それをかたくなにこばみつづけている。

 追われる者である政権が、自分たちの立ち場は反証されていなくて、実証(肯定)されているのだというのであれば、それに関しては現実に残されたさまざまな状況証拠と非整合になるところが多い。政権が自分たちの立ち場を実証するためには、もっと批判の声に向き合わなければならないし、もっと説明の責任を果たさなければならない。政権は、他からの批判にたいする有効な対抗となる言論つまり有効な弁明ができているとは言えそうにない。

 追う者である野党は、桜を見る会で政権がおかしなことをやったということを実証する立ち場にあるが、この実証がまちがっているのであれば、政権はそれについて反証を試みなければならない。その反証の試みはほとんどできているとは言えそうにない。反証の試みができていないし、それに失敗しているのだと言わざるをえない。

 桜を見る会のことそのものが、とくに大したことがないことだというのであれば、たしかにそれもまた一理ある見かたではあるだろう。だから、実証でも反証でもどちらでもよいではないか、という見かたもまたできるかもしれない。その見かたをとるのではなくて、小さいことではあるかもしれないが、桜を見る会について、小さいさまざまな点におかしいところがあるのを見て行くことにするとすれば、政権は野党の立ち場を反証できていないし、自分たちの立ち場を実証できていず、無理やりに反証のがれをしつづけていると言ってよいだろう。

 参照文献 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『追及力 権力の暴走を食い止める』森ゆうこ 望月衣塑子(いそこ) 『知った気でいるあなたのための 構造主義方法論入門』高田明典(あきのり)

桜を見る会と、国会でとり上げるべきこと―社会的矛盾と分断

 桜を見る会のことなど、国会でとり上げるな。そんな大したことがないことをとり上げるのではなくて、もっとほかの大事なことをとり上げないとならない。テレビ番組でキャスターはそう言っていた。

 テレビ番組のキャスターは、桜を見る会のことは国会でとり上げるべきではないということを言っているが、この意見は完全にまちがっているとまでは言えないかもしれないが、個人としては賛同しかねるのがある。国会でどういうことをとり上げるのがよいのかというよりも、その前の段階の話として、いまの政権やいまの与党には、意味のある政策を立案して議論して実行する能力がほとんどないのではないだろうか。

 いまの政権やいまの与党には、政策をつくったり議論したりすることが大してできていない。なので、どういったことを国会においてとり上げたところで、そう大したちがいはない。国民に広く益になるような、有効なことを行なうのをのぞむことはできづらい。

 国会で意味のあることをとり上げるためには、どういうことを政治において争点にするのかというのがある。意味のあることが争点としておもてにとり上げられていないとならないし、政権や与党にとって不利に働くようなことであっても、争点としてとり上げられることがいる。争点が隠されていては、国民にとって広く益になるようなことをすることのさまたげとなる。

 政権や与党によって都合の悪くない争点はとり上げられるが、都合が悪い争点は、たとえそれに意味があるのだとしても隠される。とり上げられることはない。こうしたかたよりがあるが、このあり方をそのままにしておいて、国会においてどういうことをとり上げるのがふさわしいのかということを見て行っても、そこに見落としや抜かりがあることになるだろう。

 国会というのは議会の中のことだが、議会の中というのはかたよりがあるのが否定できない。政権や与党がかたよったやり方をとっていて、それによってものごとを動かしているのがある。そのかたよりをそのままにするのではなくて、何とかしないとならないし、議会の中だけではなくて、議会の外からの声をもっと受けとめることがあったらよい。

 議会の中だけではなくて、議会の外にも反対勢力はいるのだから、そこからの声を受けとめてすくい上げるようにしないと、よくないあり方がそのまま放っておかれることになってしまう。

 肝心なのは、まず問題があることを見つけて行くことだが、この肝心なことがいまの政権やいまの与党にはあまりできていない。そのために、有効な政策をつくったり論じたりすることが十分にできているとは言えず、不十分になっている。自分たちの政権がやっていることによって、うまくことが運んでいるのだという認識を持っているために、問題を見つけて行くことのさまたげとなっている。

 国会の中でどういったことをとり上げるのがふさわしいのかということよりも前に、それ以前のこととして、そもそもいまの政権やいまの与党は、社会の中にさまざまにある問題を十分に見つけられて行っているとは言えそうにない。それが足りていない。

 問題を十分に見つけられていないのを改めるようにして、とり上げることがいる争点については、たとえ政権や与党にとって不利になるようなことであってもきちんととり上げないとならないし、そこにかたよりがあるようではないのがのぞましい。そこが偏向しているのを無視したままで、とり上げるべきこととかそうではないこととかを見て行っても、国民に広く益になることは見こみづらく、社会的矛盾が何とかなるとは言いがたい。

 社会的矛盾というのは、政権や与党が自分たちに有利なことをやって、不利になることはやらないことによって、広く国民に益になることが行なわれなくなることだ。広く国民にとって損になる。政権や与党が利己的になることによって、社会的矛盾が引きおこることになる。大手の報道機関が政権や与党にたいして空気を読んで忖度(そんたく)することによっても、負の相乗作用によって社会的矛盾はより深まって行く。

 国民にとって益になることという点では、国会でどういうことをとり上げることがよいのかというのだけではなくて、それと同じかそれより以上に、社会的矛盾についてを何とかしなければならない。個人で何かを決めるのではなくて、集団で何かを決めるときにおきてくることが社会的矛盾だ。社会に矛盾がおきていて、分断がおきていて、橋わたしがうまくできていないことは、ないがしろにしてよいことだとは言えそうにない。

 参照文献 『徹底図解 社会心理学山岸俊男監修 『社会的ジレンマ山岸俊男 『現代政治理論』川崎修 杉田敦編 『シンクタンクとは何か 政策起業力の時代』船橋洋一 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『分断社会・日本 なぜ私たちは引き裂かれるのか』(岩波ブックレット)井手英策 松沢裕策編 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき)

政治における二つの時間―継起する時間であるクロノスと危機の時間であるカイロス

 政治において、二つの時間がありえる。海でいうと、おだやかななぎのときと、しけで荒れた海のときである。

 おだやかなときは、時間ではクロノスに当たる。荒れているときはカイロスだ。

 クロノスというのは日常の一般の時間の流れだ。カイロスというのは危機の時間だ。カイロスでは時機(チャンス)がおきる。時機の時間性がおきることで、その前とあととが切断される。不連続になる。

 いっけんするとおだやかで安定していれば、時間でいうとそれはクロノスに当たるけど、その裏にはつねにカイロスがひそんでいる。そういうことが言えるのではないだろうか。つねに裏にはカイロスがひそんでいて、その出番をうかがっている。

 ずっとおだやかなあり方が引きつづくというのは、ずっとクロノスのままだということだが、これはカイロスの否定であって、限定されたあり方だ。カイロスを否定したとしても、それが無くなるわけではないから、限定された有用性の回路の外に出ることになることがある。その回路の外に出れば、無用性があらわになる。

 いっけんするとおだやかなあり方なのであれば、クロノスに当たるということはできるが、それで安心してしまわないようにして、つねにカイロスに備えておいたほうがよいのではないだろうか。クロノスの裏にはつねにカイロスがひかえているととらえられるからだ。秩序の裏には混沌がある。

 秩序というのにはプラスとマイナスがある。プラスだけなのではない。秩序が保たれていると、あり方が固定化されてしまう。そのマイナスを和らげるものにお祭り(カーニバル)がある。お祭りは非日常で、ケとハレでいうとハレだ。ハレがあることによって、軽く混沌がとり入れられて、新鮮さが回復する。あり方が更新される作用がはたらく。

 秩序はよいものかというと、そうであるばかりではなくて、マイナスがあることが否定できない。ずっと秩序が引きつづくだけだと、新しいあり方に更新されることがない。混沌を適度にとり入れることがないと、これまでのあり方がつづくだけになって、内部に矛盾がたまって行き、それが大きくなってしまう。政治でいうと、政権の腐敗などがそれに当てはまる。

 より根源にあるのは、秩序ではなくて混沌のほうである。混沌がまずあって、そこから秩序がおきてくる。そうしたふうに見なせるとすると、秩序を優位に置いて、混沌を劣位に置くのは、根源にあるものの忘却だ。それを想起するようにして、混沌が根源にあるということを思いおこすようにできれば、あり方が更新される作用が見こめる。

 ほんとうにおだやかなあり方なのであればクロノスに当たるが、じつは本当にそうなのではなくて、たんに疑似のクロノスだということがありえる。えせのクロノスなのであって、本当はカイロスになっているのだ。無理やりにえせのクロノスを押し通すとしても、いずれ無理が通らなくなって、カイロスがあらわになることになりかねない。

 戦前や戦時中では、日本はまちがいなく戦争に勝つとか、日本は神の国だという神話がとられていたが、この神話が通用していたときはまがりなりにもクロノスだ。戦争に負けてその神話が崩れ去ったのがカイロスだ。神話の物語の安定と崩壊という点で見ればそういうことが言えるだろう。

 いまの時代においても、神話による物語や、ものごとを自然なことだと思わせる神話作用が多かれ少なかれ働いている。そうした物語がずっと安定したままこれから先もつづいて行くにちがいないと見なすのはクロノスだが、それが通用しなくなって崩れ去るのはカイロスだ。

 物語が安定して引きつづいて行くと見なすのはクロノスだが、その一つにいまの与党やいまの政権による支配がある。いっけんするとその支配は安定しているようでいて、じっさいにはそうではないのがあるのではないだろうか。表面的には安定しているようでいて、改めて見ると色々なところに色々な穴が空いている。その穴がフタによって隠されているから、穴を見たくなければ見ないですむ。フタによって穴がふさがれているのは、疑似やえせのクロノスであって、その裏にはカイロスがある。安定した物語というのを疑ってみれば、そう見なすことができるだろう。

 参照文献 『読書のユートピア清水徹 『世界史の極意』佐藤優 『トランスモダンの作法』今村仁司他 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司 『半日の客 一夜の友』丸谷才一 山崎正和 『知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ』苅谷剛彦(かりやたけひこ)

桜を見る会と、価値のあり無し―政治においてとり上げるべき価値のあることと無いこと

 桜を見る会のことよりも、もっと重要なことはほかにある。もっと重要なことをとり上げるべきだ。そういう声があるが、これにはたしかに一理あるのはまちがいない。

 テレビ番組のキャスターは、テレビ番組の中で、桜を見る会なんかを国会でとり上げるのはまったくもって適したことではない、といったようなことを言っていたという。さすがにそれは言いすぎであって、客観的にまったくとり上げる価値がないとまでは言えないものだろう。はっきりと白か黒かに分けられる二分法では語れないはずである。

 政治において、重要な価値を持つこととはどういうものなのだろうか。それについて場合分けをして見られるとすると、価値があるものと価値がないものとに大別することができる。それにくわえて、目だちやすいものと目だちづらいものとがある。

 わりあいにわかりやすいのは、目だちやすくて価値があるものだろう。また、目だちやすくて価値のあるものもまたわりあいにわかりやすい。

 見落とされがちなのは、目だちづらいけど価値があるものではないだろうか。この目だちづらいけど価値があるものというのは、縁の下の力持ちのようなものであって、あまり目を向けられることはないが、地味に大事なものである。

 いまの首相による政権というのは、目だちづらいけど価値があるものを壊して行っているように見うけられる。それが目だちづらいものであるだけに、気づかれづらいし、さし示されづらい。それにくわえて、目だちやすくて価値のあるものについてもまた壊してしまっているのがあるかもしれない。

 桜を見る会についてのことは、政治においてとり上げる価値があることなのかそれともそうではないことなのかというのは、さまざまな賛否の声があるものだろう。人によって価値のものさしはちがうからだ。それについては、わりあいに目だつことの価値がどうかという話だろう。

 目だつことの価値があるかないかということの裏には、それを支えているものとして、目だたないけど価値があることがある。その目だたないところに目を向けて行って、そこが壊されているのであれば、それをさし示すことがいる。

 目だつところばかりに目を向けるのではなくて、目だたないところにもまた十分に目を向けるようにして行くことがいるのではないだろうか。目だつところにばかり目を向けて、目だちづらいところに目を向けることがないのであれば、ものごとをとり落とすことになりかねない。

 目だつものではなくて、目だちづらくて、壊されやすくて、価値があるものというのがあげられる。それを壊してしまったりないがしろにしてしまったりするのであれば、肝心の目だつことの価値もまたおかしくなってしまうことにつながる。

 与党はどちらかというと目だっていて、野党はどちらかというと目だっていないというのであれば、数において多数派である与党は目だっているから価値があって、数において少数派である野党は目だっていないから価値がない。そう見なす見なし方があるかもしれない。これは多数派によった見なし方だろう。

 目だちづらいものがもつ価値というのがあるはずであって、たとえば一般的にやというのは、社会の中にそれなり以上の寛容さがないと存在することができづらい。寛容さがない社会というのは、たとえば独裁の社会や専制の社会がある。そうした独裁や専制の社会では、野党が存在することは許されないのだ。そういう社会はのぞましい社会といえるのかといえば、そうとは言えないだろう。

 価値があるのか無いのかということでは、かりに与党がやろうとしていることに価値があって、野党がやろうとしていることに価値が無いのだと見なすにしても、そのような二分法が完全になりたつとは言いきれそうにはない。価値があるとされるものは、価値が無いとされるものがあることによってはじめてなりたつ。

 価値が無いとされるものは、いっけんそう見なされているとしても、じっさいにはただ目だたないだけであって、目だたないけど価値があるということがありえる。それを切り捨ててしまうのであれば、(目だちやすくて)価値があるものもまた駄目になってしまいかねない。価値があることか無いことかを見て行くさいには、表面的な目だちやすいところにばかり目を向けるのはまちがいのもとになる危なさがある。

 参照文献 『クリティカル進化(シンカー)論』道田泰司 宮元博章 『現代思想事典』清水幾太郎

他と比べて、まだましだと言えるのかどうか―同じものとしての比較と、ちがうものとしての差異

 野党のたよりなさに比べれば、いまの与党はまだましだ。そう見なす人は少なくないだろう。これは野党と与党を比較している見なし方だ。

 この見なし方に反論するためには、与党と野党は同じではなくてちがうと見る見かたがある。野党と与党はちがうものだから、比べることはできないことになる。差異があるのをさし示す。

 詩人で書家の相田みつお氏の詩に、トマトとメロンを比べてもしかたがない、といったようなものがあった。これは、トマトとメロンにはちがいがあることをさし示していて、同じではないから、比べてもしかたがないということだろう。

 同じであることよりもちがいを積極のこととしてとらえることがなりたつ。それを積極のこととしてとらえられるとすれば、仏教で言われる天上天下唯我独尊や、文豪の夏目漱石氏のいう自己本位ということになる。ほかの人とはちがっていてもよくて(同じではなくてもよくて)、積極として見れば、むしろちがっていることによさがあると言えないではない。まちがいなくそうだとは言い切れないが。

 政治ではなくて、個人のことでは、個人がつらいときに、ほかのものと比べることで見て行く見なし方がある。世界の中にはとても貧しい国があって、そこで生きている人たちに比べれば、自分はまだましだと見なす。まだ恵まれている。これは社会心理学では下方比較と呼ばれるものだという。自分よりも下方に位置するとされるものと比べる。それによって自分の自尊心を守る。

 この見なし方に反論するには、先と同じようにして、ちがうものだというふうに見る見なし方がとれる。貧しさでいうと、貧困国の貧しさは絶対貧困だが、先進国の貧しさは相対貧困であって、その二つは異なっている。差異があることになる。また、論点のちがいもさし示せる。先進国における相対貧困では、たんに貧しいということだけではなくて、社会的排除の点を無視することができない。社会から個人が排除されてはく奪されるのである。

 同じものであれば比べられるし、ちがうものであれば(いちがいには)比べられない。同じものとちがうものとのちがいがある。このちがいは、分類することによっている。分類というのはある価値のものさしを当てはめることによって行なわれる。だから客観のものとは言えそうにない。

 同じものであれば比べられるが、そう見なす必要性があれば、ほんとうに厳密に同じではなくても、いちおう同じものだと見なしてもかまわないものだろう。それについて、差異があるというのをさし示せば、反論ができることがある。同じであるかそれともちがうものであるかというのは、まちがいなく客観であるとは言えそうにはなくて、自己決定によっている部分がある。

 参照文献 『徹底図解 社会心理学山岸俊男監修 『社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』岩田正美 『世界「比較貧困学」入門 日本はほんとうに恵まれているのか』石井光太(こうた) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『知った気でいるあなたのための 構造主義方法論入門』高田明典(あきのり)

官房長官の記者会見に見られるおかしさ―まともに答えるよりも、政権を保つことが優先されてしまっている

 いまの与党の官房長官が、記者との記者会見を行なう。そこで官房長官が答えているものが、とんちんかんなものが少なくないように見うけられる。意味がよくわからないのだ。

 官房長官の記者会見というのは、記者が質問をして官房長官が答えるものとなっている。問われて答えるというものだ。問題と答えと言ってよい。

 問題というのは大べつすると二種類あって、くわしい人(専門の人)によって答えられるものと、答えが一つには決まらないものとがある。

 その道にくわしい人が答えられるものなのであれば、その道にくわしい人が答えればよいことであって、それをなぜか官房長官がとんちんかんな答え方をしていた。これは、官房長官が問題のちがいを分けて見られていないことによっているのがある。へんにいっしょくたにしていて、官房長官が何でも答えるというおかしなあり方になっているせいだろう。

 官房長官が何にでも答える(答えられる)というおかしなあり方になっているせいで、答えられないものについても答えてしまっているし、それがへんな答え方になってしまっている。そのせいで記者と官房長官のやり取りが意味が不明なものとなっている。

 官房長官の記者会見が、いまの時の政権がものごとをはぐらかすためのものになっているので、目的がおかしくなっていて、目的が喪失されている。いまの政権による官房長官は、自分が効力感があるということでやっているから、それがために効力感ではなくて無力感があらわになることがあって、自分で自分の首をしめてしまってはいないだろうか。

 くわしい人が答えられる問題なのであれば、くわしい人が答えるのが理にかなっている。たとえばパソコンなどの機器のことであれば、それにくわしい人が答えれば一番よい。それをなぜかそれにくわしくもない官房長官が答えることから、おかしなことになっている。官房長官がわかっていないということがあらわになることにしかなっていない。

 何にでもくわしい人などいるわけがないのだから、官房長官が色々なことについて的確に答えられるのだとは見なしづらい。くわしい知識が求められるさまざまなことについて、それにまんべんなく適した答えを出すということの、適任者だとは言いがたいのがある。

 記者から問いかけられたさいに、その問いかけにたいして、これが適した答え方だというのがある。中には答えがないようなものもあるだろうが、いちおう答えがあるとして、ふさわしい答えというのにできるだけ近づかなければならない。それを、ふさわしくない答えに近づいて行ってしまってどうするのだろうか。いったい誰の益になるというのだろうか。いまの政権の官房長官は、ふさわしくない答えに近づいて行っているのが少なくない。ふさわしい答えから遠ざかっているのが目だつ。

 いまの政権の官房長官は、記者会見の中で、記者からの問いかけにたいしてふさわしい答えを答えるのではなくて、政権にとって都合がよいように答えてしまっている。なので、官房長官が答えることは虚偽意識におちいっている。虚偽意識で答えても、広く国民の益になるとは言えそうにない。

 国民に広く益になるように答えるということよりも、政権にとって都合がよい答え方を優先させてしまっていて、政権を保つということが自己目的化している。政権を保つというのが自己目的化していて、ほんらいの目的である、国民に広く益になることをするということが失われてしまっている。それで、まともに答えることがなくなっていて、虚偽意識におちいりっぱなしだ。

 官房長官の記者会見には、それそのものにけっして小さくはない問題があるように見なせるのだが、その問題をほうったらかしにしつづけたままで、会見を開いて行ってもあまり意味がありそうにない。問題を見つけて行って、主となる要因は何かを見ていって、それに手を打つことがなされればよい。

 アメリカには、政権の中で、報道にたずさわる役目として報道官(press secretary)や大統領補佐官(assistant to the president)というのがいるという。日本にはそれがなくて、官房長官がになうことになっていることから、無理がおきているのだとおしはかれる。アメリカを見ならうとすれば、日本にも報道官を置くなどの手を打つことができるだろう。そうすれば、官房長官にやるべきことが集中してしまわずに、分散させられることが見こめるから、とんちんかんな答え方がたしょうは減るかもしれない。あわせて、閉鎖性のある記者クラブ制度というのも改めるようにして、広くさまざまな記者に開放することもあったらよい。

 参照文献 『情報政治学講義』高瀬淳一 『論理パラドクス 論証力を磨く九九問』三浦俊彦 『哲学を疑え! 笑う哲学往復書簡』土屋賢二 石原壮一郎

めん類の上部構造と下部構造―下部構造に当たる食べる道具としてのはしとさじ

 日本は食べものの文化としてめん類が豊かである。一説には世界でいちばんめん類の文化が豊かだとも言われている。

 めん類は古くはどこでおきたのかというと、東洋の中国であると言われている。中国からおきて、それがまわりの国に広まった。

 日本では主食としてお米が食べられているが、これは粒食と言われる。めん類は穀物を粉にして練って伸ばしてつくるので粉食だ。

 中国や朝鮮半島や日本などの東アジアではめん類の文化が豊かだが、そのわけとして食べる道具によるところが大きいのだという。食べる道具として、東アジアでははしが使われるが、はしはめん類を食べるのにうってつけであり、それに欠かせないものである(フォークでも食べられるが)。食べる道具としてはしを使っていたことがめん類を生み出し、それの発展をうながした。

 日本は食べる道具としてもっぱらはしが使われていた。中国や朝鮮半島では、はしだけではなくてさじ(スプーン)も使われていて、その二つが併用されていた。日本でははしが主体だが、中国や朝鮮半島でははしはわき役にとどまっていて、主となるのはさじだという。このちがいがあるために、日本と中国や朝鮮半島とでは、食の文化が同じではなくて、ちがったところがある。

 中国や朝鮮半島は食の文化がとても豊かだが、それは食べる道具としてはしだけではなくてさじも併用していて、はしは従でさじが主であるところから来ているのが大きいという。はしだけではなくてさじも使い、さじが主となることから、はしだけである(はしを主体とするあり方)よりも、料理や食べ方に広がりや幅が出てくる。はしだけを使うのだと制約がおきる。

 参照文献 『麺と日本人』椎名誠日本ペンクラブ編 『おいしいおはなし 台所のエッセイ集』高峰秀子

知らないうちに深刻度が増しているおそれがある、情報の汚染のていど―自浄作用がなく、汚染が加速していて、止め役(反対勢力)の力が足りていない

 政治の権力が発する情報は汚染されている。もしそれが汚染されていないのだとすれば、そのままうのみにして受けとれるが、それはできないのが現実だ。

 政治の権力や、それをよしとする大手の報道機関が発する情報は、少なからず汚染されているのだと言わざるをえない。この汚染というのは、情報に送り手の意図が入りこんでいるものをさす。

 情報が少なからず汚染されているから批判しないとならないのだが、それをになうのは政治の権力にたいする反対勢力だ。この反対勢力が抑圧されていると、政治の権力による情報の汚染がひどくなって、汚染の度合いが増して行く。

 政治の権力が自分たちで自浄作用をもつことは見こみづらい。自浄作用をもつことは見こみづらいので、ほうっておくと情報の汚染の度合いが増して行きかねず、腐敗が進んで行きかねない。

 政治の権力や、それをよしとする大手の報道機関が、自分たちで情報の汚染をきれいにして減らして行くことは見こみづらく、それをになう役はまた別にいる。そのにない手となるのが反対勢力だが、これは二分法が当てはまるものだとは言えず、反対勢力もまた少なからず情報の汚染があることはまぬがれない。

 二分法は当てはまらず、ていどのちがいにすぎないのはあるが、政治の権力の情報の汚染のていどがひどくなりすぎるとまずい。嘘が平気でまかり通るようになってしまう。

 たとえていうと、ドブ川のヘドロのような汚れとなっていると、政治の権力が発する情報はひどく汚染されていることになる。どれくらい汚いかというのは人それぞれによってちがう認識になるのはあるだろう。とんでもなく汚れているか、それともそこまで汚れてはいないかというちがいがあるし、汚れに敏感か鈍感かがある。汚れに慣れ切ってしまえば、それがふつうになるから、とくに何も感じなくなる。汚れに不感症になる。

 気がつかないうちに、いつのまにかドブ川のヘドロのようなひどい汚れとなっているのが、いまの日本の社会における政治や報道の状況なのではないだろうか。その中で、その汚れを何とかしてきれいにしようとして力を出している反対勢力は一部にはいるが、その力は全体からすると弱いと言わざるをえない。微力だ。それくらいに汚れの進み方がはやくて、汚れの力のほうがより上回っている。汚染力が高い。浄化力が間に合っていない。

 ドブ川のヘドロのようにひどい汚れだと言ってしまうと、言いすぎになっているのはまちがいがない。主観が入りこんでいることは疑いがないが、そのようなドブ川のヘドロのようなあり方が、さもきれいな水であるかのごとく思いこまされているところがあって、さもきれいな水ですよといったふうにして情報が流通されてしまっている。

 情報が汚れているかきれいかというのは、たとえによるものだから、じっさいに物理的に汚れているのではないために、汚いものでもきれいなものだと受けとることがおきがちだ。それに、多かれ少なかれすべての情報は汚いものであって、汚染されているのがあるから、それもまたやっかいだ。

 たとえば、川の水でいうと、いっけんするときれいな水が流れているようでいても、そうではないことがある。ほんとうにきれいな水が流れていると言えるのは、自然のままに近い有機的なもののことだが、そうしたものはいまの日本の国の中にはほぼ無い。何らかの形で汚染されていたり人工化されていたりする。無駄な公共事業などで、自然が破壊されてしまっているためである。情報もまたそれと似たようなのがあって、何らかの形で汚染されていたり人工化されていたりするので、ゆがんでいる(自然なままではない)。

 参照文献 『情報汚染の時代』高田明典(あきのり) 『寺山修司の世界』風馬の会編 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『日本語の二一世紀のために』丸谷才一 山崎正和 『川を考える』野田知佑(ともすけ) 藤門弘(ふじかどひろし)