反安倍は、たんに反安倍でしかないだけなのか―具体としての政権と、任意としての政権

 反安倍というのは、いまの時の政権を批判する人のことを言う。反安倍と言うのだと、時の政権が安倍晋三首相によるのでないとならないが、それは必須によるものだ。そうではなくて、任意によることからの批判もなりたつだろう。

 法の決まりというのは、任意によってなりたっているという。嘘をついてはいけないという決まりがあるとすれば、そこでは任意であることがとられている。そこに具体の人名などを入れないで、一般化されている。安倍首相は嘘をついてはいけないというのだと、必須である。これは法の決まりのあり方としてはそぐわない。

 反安倍ということで、いまの時の政権のことをとくに批判しているのではなくて、任意の政権を批判しているということもまたなりたつことだろう。具体の安倍首相による政権が、ということではなくて、任意の政権があることを言ったりやったりしたことにたいして批判を行なう。それは反安倍というのとはやや異なっている。

 安倍首相による政権で許されることなのであれば、ほかの任意の政権でも許されるのでないとならないし、ほかの任意の政権で許されないことなのであれば、安倍首相による政権でも許されないのでないとならない。そういうように、普遍化や一般化をして行くようにしていって、それができないことをしないようにしないとならない。それができないことというのは、普遍化できない差別(特別あつかい)だ。

 普遍化できない差別である特別あつかいをしてはならないというのは、自由主義から言えることであって、それにたいして批判を投げかけることは反安倍というのとはちがうことだと見なせるものである。その中には反安倍ということもまた含まれるのはあるかもしれないが、いわばその反安倍というのは必要条件となるものではあっても、十分条件になるものではなくて、反安倍ということだけを意味するものだとは言えそうになく、それを含み持ちつつもそれを超え出るものだとも言える。

 いまの時の政権にたいして批判を投げかけるのは、たんに反安倍ということだけだとは言い切れないのだから、そうであるだけだと見なすのはわい小化することになる。反安倍というのは、そこに具体の人名(安倍首相の名前)が入ってしまっていることから、それによってかえって見落としてしまうことがおきてくる。

 反安倍というのは、具体の人名が当てはまるのではなくて、そこに任意のものが当てはまるというふうに見られるから、その任意性や恣意(しい)性や偶有性のところに重きを置ける。そこに重きを置くのであれば、反安倍というのは、(それが本当に当たっているかはともかくとして)政治における悪いことにたいする批判を投げかけるということになる。

 任意性ということであれば、必須つまり具体ではないのだから、政治における悪いことの一般にたいする批判ということをあらわす。ある任意の政権が悪いことをしたとされることにたいする批判だ。だから、任意つまり一般であり必須つまり具体でもあるという二重性をもつ。

 参照文献 『キヨミズ准教授の法学入門』木村草太 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください 井上達夫法哲学入門』井上達夫

桜を見る会と、条件や状況―条件や状況を抜きにして、評価することはできづらい

 桜を見る会についてをとり上げる。これはどのような条件や状況かというのと関わっていて、それを抜きにすることはできづらい。

 政治というのは、統治としての政治(ガバーメント)と闘争としての政治(ポリティクス)があるとされる。そのうちで、桜を見る会のことでは、統治としての政治つまり行政のおかしさがあることが疑われる。これを一般化して、行政の一般で色々とおかしいことが行なわれているとか、もっとつっこんで言えば、行政そのものが機能の不全におちいっている、と見ることもできないではない。行政が腐敗しているつまりうみがたまっていると勘ぐれる。

 もしも、桜を見る会に少なからぬ不手ぎわがあったのだとしても、それはあくまでもいまの政権やいまの与党において例外的なことにすぎないというのであれば、そうであることをいまの政権やいまの与党が自分たちで立証するべきだろう。説明する責任があるから、説明して立証するべきである。それができないのであれば、例外的なことではないという見かたは一つの視点としてはなりたつことになる。

 桜を見る会をとり上げるさいに、問題の種類がどうかというのがある。問題には大きく二つあって、はっきりととらえられるものとそうではないものがあるとされる。はっきりと目標を定められたり、問題の質を定められたりするものと、それができづらいものとがある。定義明確問題と、定義不明確問題のちがいだ。

 たとえば人生というのは定義不明確問題によるところがある。人生の中では、はじめは無駄だと思えた経験などが、あとになって無駄ではないことが分かることがある。これは、人生においては大きな目標が必ずしも定まっていなくて、とちゅうで変わることがあることをあらわす。人生というのは、どこで終わるか(死ぬか)が分からないのがあるので、どこまでつづくかが分からないし、期間で言っても、長期から中期から短期まで色々に見られる。

 問題の種類がどうかということでは、桜を見る会は、定義不明確問題であるところが大きい。問題の全ぼうがまだはっきりとしていない。問題の種類が定義不明確問題であることから、そう大したことではないと見られるのはあるかもしれないが、それだけではなくて、大ごとだというふうに見なす見なし方もなりたつ。いちがいには決めがたい。

 定義不明確問題であるところが大きいのが桜を見る会のことなのであれば、色々な条件や状況をくみ入れて見ることができる。さまざまな複数の条件や状況をとることができて、それらをとったさいに、こういうふうに言えるとか、こういうふうに見られる、と言えるのがある。何の条件や状況も抜きにして、ただ一つの答えがあるというのではないだろう。ただ一つの答えとなる見なし方があるだけだというのは、定義明確問題であることをしめす。

 定義明確問題であるのが桜を見る会のことであるのなら、たった一つの答えや、たった一つの言説(主張)だけでことが足りるだろう。そうではなくて、定義不明確問題であるのなら、色々な見なし方や色々な言説がさまざまにありえることになる。たった一つの角度からだけではなくて、色々な角度から見られるものである。

 色々な角度からの見なし方がなりたつのには、互いに相反する見なし方を含む。定義明確問題であれば、たとえば桜を見る会についてをとても小さなことだと見なすこともできるが、そうであるとすれば、小さいことなのだからすみやかに片がつくはずであって、すみやかに片をつけるためにいまの政権やいまの与党は協力をおしまないだろう。真相を明らかにするために力を注いで、真相はおそらくこうだったということがはやめにわかって、それですむ。

 じっさいの現実では、いまの政権やいまの与党は、それとは異なる反対の動きつまり非協力な動きをしている。ということは、間接的に、桜を見る会のことは、とるに足りない小さいことだとは必ずしも見なすことはできない、ということを暗に示していると受けとれる。とるに足りない小さいことなのであれば、大きいことだという仮説が否定されるはずだが、大きいことだという仮説もまたなりたつので、小さいことだという見かたは必ずしも絶対的に正しいとは言えそうにない。

 参照文献 『クリティカルシンキング 入門篇 実践篇』E・B・ゼックミスタ J・E・ジョンソン 宮元博章 道田泰司他訳 『政治家を疑え』高瀬淳一 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『青年教師・論理を鍛える』横山験也 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし)

ローマ教皇が日本に来て、人々にうったえかけた―存在被拘束性と世界のあり方への参与

 ローマ教皇が日本にやって来た。核兵器の廃絶や、原子力発電から脱するべきだということを言っていた。ローマ教皇がそう言っていたことは個人としては高く評価できる。

 ローマ教皇は、ホームレスの人たちと食事を共にしたり、色々な慈善活動をしたりしている。これらの活動は布教の一環というのはあるだろうが、それをくみ入れたうえでも、意味のあることだろう。

 かりに偽善であると見なすのだとしても、やらない偽善よりもやる偽善のほうがえらいというのがある。俳優の杉良太郎氏は、自分がやっている慈善活動が偽善や売名なのではないかということについて、それでけっこうだということで、そのうえでやっているというあり方をとっているという。これはよい意味での開き直り方だろう。

 ローマ教皇といえども、中立で客観に正しいことを言ったりやったりすることはできないことだ。そこには存在被拘束性がはたらく。自分が立っている立ち場からくるかたよりをまぬがれることはできづらい。

 存在被拘束性というのは、社会学者のカール・マンハイムが言っていることだ。だれしもがそれをまぬがれることはできないが、そのうえで、世界のあり方に参与して、こうしたほうがよいという見かたを明示するのは、そこに賛成や反対の声がさまざまに起きることになるにしても、立派なことだし、倫理的および存在論的な勇気のあることだ。

 勇気というのは、にも関わらず、という精神によるものだという。個別の状況にたいする態度を決めるのが倫理的な勇気で、生の全体の態度に関わるのが存在論的な勇気であるという。

 参照文献 『事典 哲学の木』 『リベラルアーツの学び方』瀬木比呂志(せぎひろし)

消費税と、それをとり巻く条件や状況―条件や状況を抜きにはできそうにない

 消費税を上げるのは悪い、下げるのはよい。これは白か黒かや一か〇かの二分法になっているのではないだろうか。

 二分法というのは、消費税そのものについて、それを上げるのは黒だとか、下げるのは白だとかと見なすものだろう。

 消費税というのは、それそのものがよいとか悪いとかというのではなくて、条件や状況をくみ入れることがいるものなのではないだろうか。

 さまざまな複数の条件がある中において、消費税を上げたらとするのなら、こういうふうになる。または、さまざまな複数の状況がある中において、消費税を上げたとするのなら、こうなるだろう。そうした見かたがなりたつ。何の条件または状況も抜きにして、ただ消費税を上げるのが悪いとかよいとかというふうにはなりづらい。

 具体としてどういう条件や状況があげられるのかというと、効率性と公平性をあげられる。かりに、きわめて高い効率性ときわめて高い公平性がある中において、そういう条件や状況が整っているうえで、消費税を上げるのだとすれば、そこまで悪いことにはならないのではないだろうか。なぜかというと、きわめて効率性や公平性が高いので、消費税によって徴収された税収が適正に使われることになるからで、それを期待することができるからである。

 消費税を上げることについては、上げたとしても税収じたいが伸びない(増えない)ということも言われているようで、そうした問題もあるかもしれない。ただそれについては、軽減税率を導入したり、ポイント還元をしたりしているから、それによって税収がうまく伸びていないということもあるのかもしれない。素人の言っていることだから、当たっていないかもしれないが。

 消費税を上げるか下げるかということでは、それそのものというよりは、それをとり巻く条件や状況のほうが意味あいが大きいようにも見なせる。経済に関わっているのは、消費税ということよりも、効率性や公平性や、そのつり合いというのが大きいのであって、それが大きいのだとしたら、そこを何とかするのが有効だ。

 いまの日本の社会が抱える問題として、効率性が損なわれているのや、公平性が損なわれているのがあげられる。その二つのつり合いが損なわれているのもある。

 効率性が損なわれているのには、政治では国会(議会)のあり方がある。国会での与党と野党のやり取りは非効率さがはなはだしい。おまけに、議論が民主的でもないし効果的でもない。公平でもない。もともと日本語というのには情報の伝達の点で効率的ではない欠点があるが、それへの問題意識がほとんど見られなく、逆にいまの与党はそれを悪用している。

 そうしたまずいことが色々にある中で、へんな形で国家主義大衆迎合主義が巻きおこっていて、その国家主義大衆迎合主義によって、社会の中にあるおかしさがごまかされているのがある。国家主義大衆迎合主義をいくら高めたところで、それらのまずいことが何とかなるわけではなくて、根本から社会の中のまずいことを何とかすることにはまったくと言ってよいほどなっていない。

 参照文献 『効率と公平を問う』小塩隆士(おしおたかし) 『安心社会から信頼社会へ 日本型システムの行方』山岸俊男 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『「イラク」後の世界と日本 いま考えるべきこと、言うべきこと』(岩波ブックレット) 姜尚中(かんさんじゅん) きくちゆみ 田島泰彦(やすひこ) 渡辺治(おさむ)他

やるべきことまたはやるべきではないことと、じっさいにそれができないこと―理論と実践とのあいだのみぞ

 やるべきことがある。そのやるべきことはよいことだとされているから、やったほうがよい。やったほうがよいが、行動に結びつかない。そうしたことがある。

 やったほうがよいことだったり、やらないほうがよいことだったりするものがある。それらをそのままやれたりやらないようにしたりできれば、そこにまずいことはとくにない。

 やったほうがよいことや、やらないほうがよいことというのは、理論だととらえられる。それをそのまま実践できるのかというと、そうはできないことがある。理論と実践のあいだに隔たりがおきる。

 理論をそのまま実践できれば、理論でとられている状態に近づいて行ける。それを実践できなければ、理論でとられている状態と、はじめの状態とのあいだに、隔たりや開きがあるままとなる。

 理論と実践とのあいだに隔たりや開きがあるというのは、一つの現象だ。その現象がなぜおきているのかという要因が色々とあるだろうから、その要因を色々と見ていって、それにたいして手を打つようにする。そうすれば、うまく行けば理論と実践とのあいだの隔たりや開きを小さくすることができるだろう。

 たとえば勉強するべきだというのがあるとして、なかなかそれに手がつかずに、ついついほかのことをしてしまう。そうしたことがあるとして、それは勉強するべきだという理論と、じっさいにはそれに手がつかないという実践とのあいだに、隔たりや開きがあることをしめす。隔たりや開きが生じる現象がおきている。

 その現象があるのをまず認めて、その現象をそのままにするのではなくて、もうちょっとよい状態にしたいのであれば、何らかの変換の操作を打つことができる。手だてを打ってみる。変換の操作をしてみて、よい状態にできるのであれば、うまく行ったことになる。主となる要因にたいしてうまく手を打てたということになるだろう。

 やるべきだとかやらないようにするべきだというのは、何々するべき(ought)ということだから、それと何々である(is)とのあいだに隔たりや開きがあれば、よしとすることを行動に移せていないことになる。そのさいに、何々するべきだとかしないようにするべきだということのしきいを下げてしまう手がある。

 こうでなければならないというのは、そう思いこんでいるだけであって、必ずしも当てはまらないことがあるから、そうでなくてもよいとしてしまえば、しきいが下がって、隔たりや開きが小さくなる。そのようにしきいを下げてしまうと、中にはまずいこともあるから、すべてに当てはまることではないが、中にはさしさわりがないこともあるから、それについてはその手を選択肢の中に入れることができる。

 こうでなければならないというのは硬派なあり方だが、それは思いこみであって、必ずしもそうでなくてもよいと見なせるとすると、それは軟派だ。硬派であることがよいこともあるし、そうではなくて軟派なほうがよいことも中にはある。それはものによって異なるものだろう。軟派というのはいい加減なところがあるものだが、いい加減な方がよいということは中には(ものによっては)ある。あまり硬派になりすぎると、逆におかしくなることがないではない。その逆もまたしかりだが。

 いちばん軟派なのは、そのままでよいというものだろう。そのままのあり方でよい。これには一理あることはたしかだ。ありのままでよいとするのでよいこともあるが、そうではないこともまた少なくないから、それに気をつけないとならないのはまちがいない。ありのままでよいというのは、もっとも軟派なものだと言えるが、丸ごと肯定ができるのは現実的にはかなりまれなあり方だ。

 参照文献 『考える技術』大前研一 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『自己変革の心理学 論理療法入門』伊藤順康(まさやす) 『目のつけどころ(が悪ければ、論理力も地頭力も、何の役にも立ちません。)』山田真哉(しんや)

研究に予算が下りないことを研究する―研究についての研究

 iPS 細胞の研究の予算が打ち切られかねない。二〇二二年で予算が打ち切られる案が言われているという。iPS 細胞の研究にたずさわる山中伸弥(しんや)教授は打ち切りの案にたいして強い不服を申し立てている。

 iPS 細胞の研究の予算が二〇二二年に打ち切られる予定なのだとすると、それを一つの問題だととらえることがなりたつ。その問題を研究するということもできるかもしれない。研究に予算が下りないという問題の研究だ。

 ある任意の研究に、客観的な意義があると認められるのならば、研究費として予算が下りる。そのようなおおむねの条件文がなりたつとすると、予算が下りないのならば、客観的な意義がもう一つ明らかではないというおそれがある。

 だれがどう見ても客観的な意義があることが明らかなのにもかからわず、そこに予算が下りないというのは、不自然なことだ。一般的に、色々な研究について、意義がはっきりと分かるものについては、予算が下りているものなのではないだろうか。もしあるていど合理的な予算の配分の決定が下されているのならばの話である。客観的に意義がわかりづらいかはっきりしないか、または意義がないというのなら、予算が下りなくてもとくに不自然ではない。

 予算が下りるべきなのにも関わらずそれが下りないのなら問題だから、予算が下りないという現象にたいして、その主たる要因となるものを探って行く。色々な要因があげられるだろうから、要因を解明するようにする。要因を体系として網羅的に分析する。

 主たる要因を探るようにして行って、その要因にたいして手を打てるような仮説を立てる。仮説が正しいかどうかを確かめてみる。一つの仮説だけが正しいとはならず、色々に見られるのがあるだろうから、色々な文脈で見ることもいるだろう。

 問題を何とかするための仮説を立てて、それが正しいかを確かめるさいに、反証(否定)してみることが欠かせない。仮説にまちがいがあることがあるから、それを確かめるようにして行って、まちがいがあることがわかったら、問題のあり方が変わって行くことがある。哲学者のカール・ポパーによるポパー図式を当てはめてみるとそうしたあり方となる。この図式は、問題、暫定(ざんてい)の解決案、批判、新しい問題、という流れによるものだ。

 参照文献 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『考える技術』大前研一 『大人のための学習マンガ それゆけ! 論理さん』仲島ひとみ 野矢茂樹(のやしげき)監修 『企画力 無から有を生む本』多湖輝(たごあきら)

中国人の内包(質)と外延(量)―さまざまな質による、多くの量

 中国人は、自分の会社では雇わない。選考で落とす。東京大学の准教授は、ツイッターのツイートでそう言ったのだという。

 この准教授がどういうつもりでツイートをしたのかはつまびらかではないから、そこが分からないが、このツイートにたいしては色々な批判が投げかけられた。東京大学の関係部署はこのツイートに関してのぞましくないことだという声明を出していた。

 中国人といったさいに、その集合の全体の量がある。その量は十三億人にものぼる。このすべての量にたいして、すべてがこうであるとかどうであるとかというふうに、一方的に決めつけることはできないものだろう。なにしろ量が十三億にものぼるので。それを避けるには、範ちゅうと価値を分けるようにすることができる。中国人という範ちゅうの中で、その価値はさまざまとなっている。

 ことわざでは一斑(いっぱん)を見て全豹(ぜんぴょう)を卜(ぼく)すというのがあるのだが、中国人の全体というのが全豹であって、それをすべて見ることは物理的に難しい。見ているものは一斑にすぎない。少数の斑を見ているのにすぎないから、そこから全豹についてをおしはかると、性急な一般化になる危なさがある。

 自由主義では、視点を反転させられる。中国人というのを日本人ということに置き換えて見られる。置き換えてみて、日本人というのをひとくくりにして、否定的なことを言われたら、不快な気持ちをいだく。とくに他の国民や民族にたいして否定的なことを言うのは避けるようにしたいものだ。

 中国人がこうだとかどうだとかというのは、どういうわけでそう言えるのかがある。そのわけが不たしかだと、独断と偏見につながりかねない。独断と偏見にならないようにするためには、どういうわけで中国人のことをそう言えるのかというのを改めて見るようにして、見解についてを確かめてみると有益だ。

 一人の人間であったとしても、色々な面があるものだから、それが人間の集合となったら、さらに色々な面をもつ。それを切り捨ててしまって、たった一つの面だけをとり上げることをしてしまいがちだ。これはよくやってしまいがちなもので、気をつけないといけないことである。分かったつもりになりがちなのがあって、それを避けるようにして、一つの文脈だけをもってして分かったということにはできるだけしないようにしたいものである。

 参照文献 『女ざかり』丸谷才一 『増補版 大人のための国語ゼミ』野矢(のや)茂樹 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』西林克彦 『幸・不幸の分かれ道 考え違いとユーモア』土屋賢二 『にほん語観察ノート』井上ひさし 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください 井上達夫法哲学入門』井上達夫

日本の政治における、負の状態と正の状態―お互いに負ける(lose-lose)と、お互いに勝つ(win-win)

 負の状態と、正の状態がある。日本の政治においては、いまは負の状態になってしまっているのではないだろうか。

 負の状態というのは、互いに負ける(lose-lose)の状態である。正の状態は、互いに勝つ(win-win)である。

 負の状態というのは、たとえば家庭の中でいうと、夫と妻がいて、お互いに悪口を言い合う。お互いにお互いの悪いところを言い合っている。そうしたさまをあげられる。

 負の状態では、紛争によって敵対の状態となっている。お互いに自己保存がとられていて、自己欺まんの自尊心(vainglory)が大きくなっている。それによってお互いに負けることになる。勝者がいない。

 負の状態になっているのは問題だから、それを改めるようにして、正の状態にもって行きたい。

 あくまでもかりに日本の政治が負の状態におちいっているものと見なしたさいのものだから、ほかにも色々に見られるのはあるだろう。かりに負の状態だと見なせるとして、そこに哲学で言われる弁証法を当てはめてみると、正と反がぶつかり合っている。このままだと、負の状態が引きつづく。それを止揚(アウフヘーベン)させないとならない。

 止揚させるには、いくつかの手を打つことができる。お互いのぶつかり合いの争点をはっきりとさせる。(相対的な)少数者や弱者を承認する。お互いにゆずり合う。一方が一個ゆずったら他方が一個ゆずる。部分的に改良して行く。ほかにも色々と手はあるものだろう。

 日本の政治がいま負の状態になっているのだとすれば、与党も野党もどちらもが、その認識を共有するようにして、それを改めるようにして行ければ生産的だ。そうすれば互いに負けるという負の状態を脱せられる見こみがある。

 負の状態になっているとすれば、二分法をとらないようにして、与党が正しいとか、野党がまちがっているとかではなくて、どちらも負けることになりかねないという共通した認識を共有することがいるものだろう。どちらかが白でどちらかが黒というよりは、どちらも灰色だというふうにする。

 たとえ少しずつではあっても、部分的に悪い点を改めていって、改良して行ければ少しは生産的である。それは正の状態においてできることであるが、いまの日本の政治はそうはなっていないのではないだろうか。いまの日本の政治は負の状態になってしまっていて、改良ではなく改悪のようになっている。

 悲観にかたよった見かたではあるから、中立や客観の見かたではないが、個人としては、いまは正の状態になっているのだとは見なしづらい。家庭の中でいうと、夫と妻がお互いにお互いの悪口を言い合っているようで、不和となっている。仁なきあり方である不仁になっている。それを何とかするさいに、ただ野党が悪いとかだらしないとか頼りないというのでは、片づくものではない。白か黒かや一か〇かの二分法をとるのではなくて、灰色をとるようにすることが必要だ。

 参照文献 『論理が伝わる 世界標準の「議論の技術」 Win-Win へと導く五つの技法』倉島保美 『最後に思わず YES と言わせる最強の交渉術 かけひきで絶対負けない実戦テクニック七二』橋下徹 『これが「教養」だ』清水真木(まき) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『リヴァイアサン長尾龍一

現実や事実と、であるべきとしての憲法―is(である)からought(であるべき)を導く自然主義の誤びゅう

 現実は、である(英語の単語では is)である。憲法はであるべき(英語の単語では ought)だ。そう見なせるとすると、現実である is から、憲法である ought を導くことはできそうにない。

 である(is)から、であるべき(ought)を導くのは、自然主義の誤びゅうとなる。なので、現実がこうなっているから、憲法をそれに合わせようというのは、必ずしも正しいということにはならない。

 たとえば、現実において、人権が侵害されていることが少なくない。現実において、人権が侵害されていることが少なくないからといって、その現実である is に合わせて、憲法である ought を変えようということになったら、おかしな話になってしまう。

 憲法では人権が保障されているが、その人権が侵害されるようなことが現実に色々なところで行なわれているからといって、それをもってして憲法を変えるべきだということにはならない。これは、である(is)からであるべき(ought)を導かないのがふさわしいということを示す。

 現実に自衛隊があるのだから、それを憲法に明記するようにしようというのは、である(is)からであるべき(ought)を導いているところがある。完全にそうだというのではないが、部分的にそうしたところがある。

 憲法自衛隊を明記することを含めて、憲法を改正するのをよしとするのは、一つの案としてまちがったものだとは言えないものである。自衛隊の必要性は高いから、それなりに正しいのはあるだろうが、気をつけないとならないのは、である(is)はであるとして、事実は事実として、それとであるべき(ought)や価値はそれとして、分けて見るようにすることがいる点ではないだろうか。それらをいっしょくたにして混同すると、自然主義の誤びゅうになりかねない。

 現実である is や事実からは、であるべきである ought や価値を導くことはできず、その二つは分けて見ることができる。現実や事実がこうなっているということからは、であるべきや価値は自動的には導かれなくて、それはそれでまた別だという見かたがなりたつ。

 自分が日本人であるとして、その日本人であるというのは事実だが、そこから日本人であるべきだという価値は導かれない。国籍や民族でいうと、どういう国の人かやどういう民族かというのからは、正や負の価値を導くことはできない。どういう国籍かやどういう民族かというのは事実だが、それと正や負の価値とはまた別のことであって、それらをいっしょくたにしてしまうと、である(is)からであるべき(ought)を導くことになってしまう。

 哲学には新カント学派というのがあるそうなのだが、これによると、事実と価値というのを分けて見るのがとられている。いくら事実についてを深くくわしく知って行ったところで、そこからは価値というのは出てはこない。価値というのはまた別なことがらなのだ。方法二元論によって見て行くあり方だ。

 事実と価値ははっきりと分けられるのかというと、そうとは言えそうにない。いちおう便宜(べんぎ)または方法論としては分けられるのだが、完全に分け切れるのではない。じっさいには、事実に価値が入りこんでしまう。それは避けられないものだとされる。

 たんなる中立の事実というふうにはなりづらくて、そこに何らかの価値づけや意味づけが行なわれることになる。

 歴史の事実なんかでは、客観で中立の事実であると言えるのかといえば、そうとは言いがたく、主観が入りこまざるをえない。それをできるだけ少なくするのが研究者のやることだが、それでもまったく純粋に客観や中立であるとは言えそうにない。

 事実か事実ではないかとか、事実か価値かというのは、分類であって、分類というのは解釈だ。そこには主観が入りこむことになる。なんの価値づけや意味づけも抜きにして、ただたんに事実だけを受けとることは困難だ。なんらかの価値や意味のものさしを当てはめて、それによって事実であるとか、そうではないとか、価値があるとかないとかと分類することになる。

 現実や事実とはちがい、であるべきや価値というのは、目標となる状態である。その目標となる状態は何なのかというのは、はっきりとした答えがあるものではないかもしれない。そこがうやむやではっきりとしていないと、どうあるべきなのかや、どういう価値をとっているのかが見えてこない。どうあるべきかということや、どういう価値をよしとするのかについて、現実である is から導いてしまうのは、自然主義の誤びゅうとなるから、あまりのぞましいことではないのではないだろうか。絶対によくないとまでは言えないかもしれないが。

 どういうあり方をよしとするのかは目標となる状態だが、その目標となる状態を憲法が定めているとして、そこにひと足飛びで行くことはできないかもしれない。目標となる状態への道のりは遠い。そうであるとすれば、さしあたっての目ざすべき中間の地点というのを定める手がある。そういうふうに、高い(最終的な)理想としてはここを目ざしていて、そこへいたるまでに現実にはこういう地点へ向かう、というふうになっていればわかりやすい。

 参照文献 『天才児のための論理思考入門』三浦俊彦 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『現代思想事典』清水幾太郎編 『人間と価値』亀山純生(すみお) 『知った気でいるあなたのための 構造主義方法論入門』高田明典(あきのり)

桜を見る会と、情報の必要性のずれ―情報の操作と秘匿による情報の統制

 桜を見る会についてを、情報政治(infopolitics)の点で見てみることができる。それから見るとすると、色々なことが見えてくるだろうが、そのうちの一つとして、必要性というのがある。

 いまの首相による政権にとっては、必要性があるのは、情報をごまかしたり隠したりすることだ。これは情報の操作と秘匿だ。それらを合わせた情報の統制が行なわれている。

 広く国民にとって必要性があるのは、情報の開示や透明化だ。情報を開かれたものにしなければならない。この必要性は、それほど高いものだとは見なされていない。情報を開かれたものではなくて閉じたものにしようとしているいまの首相による政権にたいする支持率はまだ高いままにとどまっていることにそれが示されている。

 何から何まで嘘を言っているとは言えないかもしれないが、いまの首相による政権は、情報をあらわすのとともに秘匿している。政権が情報をあらわすさいに、じっさいにあらわしたものよりも、それによって秘匿されるもののほうが重要さが高いことが少なくない。

 いまの首相による時の政権の反対に当たるものは何か。そう問いかけを投げかけられるとすると、それは野党だとは必ずしも言えそうにない。いまの政権や与党の反対に当たるものは、それの代わりになるであろう野党ではなくて、情報の健全性なのではないだろうか。情報を閉じたものにしているのがいまの政権のやっていることなので、その反対となるのは、野党ではなくて、情報の健全性やまっとうさなのである。

 情報の健全性やまっとうさというのは、形式の価値のうちの一つだと見られる。そうしてみると、そうした形式の価値を重んじることは、ちょうどいまの首相による政権とは反対に当たる。ちょっと極端な言い方になってしまうが、形式の価値を重んじるのは、いまの政権にとっては、水と油のようなものに当たる。それを軽んじているのがいまの政権だからだ。

 嘘を言わないというのは、形式の価値のうちの一つだと言えるが、それを完全に守り切ることができるとは言えそうにない。現実の政治家にはなかなか守ることが難しいものではあるだろう。それにしても、その度を越しすぎているのがいまの首相による政権だという気がしてならない。

 野党よりは与党のほうがまだましだから、少しくらいは情報の操作や秘匿があってもかまわない。大目に見られる。そうした見かたはあるかもしれない。そういう見かたは成り立つかもしれないが、その代償というのがある。大目に見ることと引き換えに、二重基準(ダブルスタンダード)が進んで行ってしまう。

 子どもたちには、学校の道徳の教科で、嘘を言ってはいけませんとか、人をだましてはいけませんとか、ごまかしてはいけません、と教えているはずである。そう大人の側が教えているのにも関わらず、一番それらをやっているのがいまの大人たちの代表である、いまの首相による時の政権なのではないだろうか。学校の道徳の教科で、いくらよいことということで建て前を教えても、それには説得力があるとは見なしづらい。二重基準になってしまっているからだ。

 子どもにとって大事なことは、大人にとっても大事なことだろうから(子どもが大人になったら大事ではなくなることではないから)、二重基準であるのはのぞましいことだとは言えそうにない。

 子どもに教える道徳というのは、単純化したところがあるから、じっさいの現実の社会にそのまま当てはまらないところがあるかもしれない。じっさいの現実の社会というのは単純なものではなくて、多層性がある。だから、たしょうは二重基準になってもやむをえないのはあるだろうが、そこにはプラスとマイナスがあるのは否定できない。プラスを得るかわりにマイナスもおきることになる。

 嘘をついてはいけないというのは、現実としては完全に守り切れるものではないが、そうだからといって、それが反転して、嘘をついてもよい、となると危険だ。日常においてはまだそれがよいときがあるのだが、政治の世界ではとりわけそれは危険なことだろう。マイナスがプラスになるといった転倒したことになる。

 参照文献 『情報政治学講義』高瀬淳一 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください 井上達夫法哲学入門』井上達夫