アメリカのドナルド・トランプ大統領が大統領選挙で負けを認めようとしないことと、政治と政治ならざるもの

 いぜんとしてアメリカのドナルド・トランプ大統領は、大統領選挙で自分が負けた結果を受け入れていないらしい。大統領選挙で不正があったのだから自分は負けたのではないのだとしているようだ。

 野球の野村克也監督は、負けに不思議の負けなしと言っている。これをトランプ大統領に聞かせてあげたい。勝ちがあれば負けがあるものだし、勝つことよりもむしろ負けることからのほうがそこからいろいろに自分が学ぶことができる。負けたほうが自分のためになる。痛みなくして得るものなし(no pain no gain)だ。負けおしみではあるかもしれないがそういったこともいえるだろう。ことわざでは負けるが勝ち(stoop to conquer)といったこともいわれている。

 大統領選挙の負けの結果を認めようとしないトランプ大統領のふるまいについてどのように見なすことができるだろうか。それについては人それぞれによっていろいろに見なせるのにちがいない。その中で政治と政治ならざるものとに分けて見てみられる。それで見られるとするとトランプ大統領のふるまいは政治ならざるものに転落してしまっているところがある。

 理想論と現実論に分けて見られるとすると、理想論としては何の制約もない中で政治をなして行きたい。それが理想ではあるが、現実論として見ると現実においてはさまざまな制約がおきてくる。その制約がある中で政治をなして行くしかない。制約の外に超え出ようとすると、政治ならざるものに転落してしまう。

 法学者のハンス・ケルゼン氏は、民主主義は政治における相対主義の表現であると言っているという。このことが意味することとして、理想論とはちがい、現実論においては現実にはさまざまな制約があることをあらわす。だからその制約の中で政治をなして行く。制約の外に超え出ようとしてしまうと、理想論をとることになり、政治ならざるものになる。絶対主義になる。

 トランプ大統領が言っているようにほんとうにアメリカの大統領選挙で不正があったのならよくないことではあるが、そのことが閉じた教義(dogma、assumption)となってしまうと政治ならざるものとなり絶対主義になる。現実論による制約がかかった現実の政治を超え出てしまい、その外に出ることになり、宗教の真実のようなものを追い求めることにつながる。

 現実論による制約がかかった現実の政治の中に踏みとどまりつづけるためには、宗教の直接の真実のようなものを追い求めようとはしないことがいる。それは制約の外にあるものだと言えるから、それは人間の合理性のおよばないところにあるものだともいえる。人間には合理性の限界があるから、まったくまちがうことがない無びゅう性によることはできず、可びゅう性をもつ。

 ほんとうの真実は何かといったようなことを追い求めてしまうと、政治から政治ならざるものに転落してしまうことがおきるのがあり、そうはならないようにしたい。政治をやっているつもりであったとしても、それが政治ならざるものにいつのまにか横すべりして行く。政治をやっているつもりであったとしても、政治ではないものをやってしまう。宗教の活動のようなことをすることになる。

 開かれた民主主義によるのではなくて、独裁主義になっていると、政治をやっているとはいえず、政治ならざるものをやっているのだと見なせる。きびしく言えばそう言うことができるだろう。民主主義は必ずしも効率がよいものだとはいえず、現実の制約がいろいろにかかっていて、めんどうなやり取りをやることが避けられない。過程を重んじることがいる。

 日本の政治では、きびしく見れば政治ではなくて政治ならざるものをやっているところがある。民主主義は効率が悪くてめんどうだといったことで、与党である自由民主党はとちゅうの過程をすっ飛ばしていることが多い。結果さえ出ればよいのだとなってしまっている。非効率でめんどうなとちゅうの過程に何の意味があるのかといったことで、そんなものは邪魔くさいのだとしている。邪魔なものはとっぱらってしまえといったことで、効率を第一に優先している。そのことによって適正さをいちじるしく欠いている。

 理想論としては社会の中のすべての人々がみな同じたった一つだけの考え方をもつ。それであればものごとは楽だ。それとはちがい現実論における現実の社会の中にはさまざまな考え方の人がいて、さまざまな遠近法(perspective)をもつ。その中で政治をなして行くのであればさまざまな制約がかかってこざるをえない。さまざまな制約をとっぱらってしまうことはできづらい。

 あくまでも現実論においていろいろな制約がかかった中で現実の政治をなして行く。そのことの欠点としては、弱気や弱腰に映ったり、ものごとが遅々として進まなかったり、わかりづらかったり、ものごとがすっきりときれいに割り切れなかったりする。それらの欠点があることはたしかであり、その欠点をなくしてしまおうとすると、政治から政治ならざるものに転落することがおきてくる。

 現実の政治にはいろいろな欠点があるのはまぬがれそうにない。そこにむずかしさがあるのはたしかであり、かつての第二次世界大戦の前には、法学者のカール・シュミット氏はまどろっこしい現実の議会のやり取りによる政治のあり方をきびしく批判して否定した。決断主義によって決断することが政治においてもっとも大事なことだとした。平時はともかくとして非常時にはそれがもっとも大事だ。

 カール・シュミット氏が言ったことによってナチス・ドイツの独裁主義をあと押しすることになった。それでナチス・ドイツユダヤ人にたいしてせん滅を行ない、国としてまちがった方向につっ走って行った。それの意味するところとしては、たとえ現実の政治がまどろっこしくてめんどうで非効率なようであったとしても、それにまったく意味がないとはいえず、そこを無くしてしまうとかえって政治ならざるものに横すべりしていってしまう。そういったまずさがあるとすると、それを避けるようにしたい。

 参照文献 『一冊でわかる デモクラシー a very short introduction』バーナード・クリック 添谷育志(そえややすゆき)、金田(かなだ)耕一訳 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『民主制の欠点 仲良く論争しよう』内野正幸 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『よくわかる法哲学・法思想 やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ』ミネルヴァ書房 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ)

アメリカの大統領への信頼と、報道機関への不信―信頼つまり枠組みや価値の共有

 アメリカのドナルド・トランプ大統領は正しい。それにたいして報道機関はまちがっている。報道機関の報じることにはかたよりが大きい。アメリカでトランプ大統領のことを支持する支持者はそうしたあり方をしているようである。このあり方はふさわしいものだと言えるのだろうか。

 たしかに、報道機関の報じることにはかたよりがあることはまぬがれそうにない。それを理想論と現実論に分けて見られるとすると、現実においてはいろいろな制約がかかってくるのでかたよることになる。まったく何の制約もなければかたよりはおきないだろうが、それは理想論にとどまる。時間や労力や資金などの資源の制約があるために、効率性をとることになり、適正さを欠く。経済性の省力性の原理がはたらく。効率性と適正さとのあいだのつり合いやかね合いがむずかしい。

 トランプ大統領のことを信頼して、報道機関に不信感をもつ。これはトランプ大統領の枠組みと支持者の枠組みがお互いに合わさっていることを示す。報道機関の枠組みとは合わさっていなくてずれがある。おたがいの価値が合わさっているかずれているかのちがいだ。価値をお互いに共有し合う者どうしだと息が合うが、それがずれていると息が合わない。

 トランプ大統領と報道機関についてを一か〇かや白か黒かの二分法で見る。味方と敵の友敵理論で見なす。そう見なすと、報道機関のことを否定することの反動がおきて、トランプ大統領の言うことをそのまま丸ごとうのみにすることになる。そうすると距離や間合いがとれなくなり、まひさせられてしまう。

 政治の権力者の言っていることをそのまま丸ごとうのみにするのはのぞましいことだとは言えそうにない。それだと権力チェックができなくなる。日本の戦前や戦時中に行なわれていた大本営発表と同じようになる。抑制と均衡(checks and balances)がききづらい。

 日本の戦前や戦時中の天皇制では、天皇は生きている神だとされた。天皇は絶対的に権威化された超越の他者だった。それによって天皇の言うことをそのまま丸ごとうのみにさせられた。天皇と国民(臣民)とのあいだの距離や間合いがまったくなくなり、国民はほぼ完全にといってよいほどにまひさせられていたことはうたがえそうにない。

 お上(かみ)のことをあたかも天使のようなものとして上に持ち上げてしまいすぎると、あたかも完全にきれいで純粋なものだと見なしてしまう。それは修辞(rhetoric)によるのにほかならず、じっさいには人間には汚いところがつきまとう。その汚さはていどのちがいといってよいものだろう。多かれ少なかれ政治家の発する情報の中には汚れが含まれることになり、嘘をつく。政治家は国民の表象(representation)であり、置き換えられたものだからだ。中にはとんでもなく汚くて嘘だらけなこともあるわけだが。

 天使のように完全にきれいで純粋なものであるとするのとは別に、いちおうは選挙によって選ばれているのなら形式の正当性があるのはたしかだ。それは半分の正しさがあることを示す。全面として正しいのではない。歴史においてはドイツのアドルフ・ヒトラーは民主主義の選挙によって選ばれたのがあるから、たとえ選挙によって選ばれているのだとしても全面として正しいものだとすることはできないものだろう。

 法学者のハンス・ケルゼン氏は、民主主義は政治における相対主義の表現であると言っているという。このことからすると、たとえ選挙で選ばれて国の長になったのだとしても、それだからといって絶対的にまったくもって正しいのだと見なすことはできづらい。半分くらいは正しいのはあるが、国の長にはいついかなるさいにも国民にたいする説明責任(accountability)を果たすことが求められる。国民にたいして質と量がともにきちんとした説明責任を果たす。それができないのであれば地位を退く。ほかの人にゆずる。それが結果にたいして責任をとることになり、知の誠実さがあることになる。自由民主主義(liberal democracy)の競争性と包摂性においていることだ。

 お上の言っていることをそのまま丸ごとうのみにしてしまうと大本営発表のようになってしまうから、それを避けるようにして、お上にたいして距離や間合いをとるようにしたい。そうしないとまひさせられてしまう。それによって陶酔してしまうのではなくて、そこから目ざめることが必要だろう。

 日本においては、国家主義(nationalism、または ultra-nationalism、extreme-nationalism)による陶酔から一時的にではあったにせよ目が覚めることになったのが敗戦したときであり、ふたたび国家主義による陶酔がおきないように気をつけて行きたい。国家主義による陶酔はかんたんにおきてしまいやすく、気を抜いているとまひさせられやすい。政治の権力の虚偽意識による呼びかけにすなおに応じる自発の服従の主体が形づくられる。

 参照文献 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『ポリティカル・サイエンス事始め』伊藤光利編 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『うたがいの神様』千原ジュニア 『よくわかる法哲学・法思想 やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ』ミネルヴァ書房 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『楽々政治学のススメ 小難しいばかりが政治学じゃない!』西川伸一 『情報政治学講義』高瀬淳一 『情報汚染の時代』高田明典(あきのり) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき)

香港の民主主義の活動家が逮捕されたことと、行動とそれが置かれる空間(意味空間)のちがい

 香港の民主主義の活動家が逮捕された。デモをそそのかしたことなどが罪だとされている。このことについてをどのように見なすことができるだろうか。

 つり合いの正義では、罪にたいして罰がくだされることになる。その二つのつり合いによる応報律がとられる。罪と罰(またはむくい)だ。国家の公が肥大化している国家主義(nationalism)の空間においては、個人の私の自由が許容されなくなる。個人の私の自由がいちじるしくせばめられてしまう。

 立憲主義(憲法主義)や自由主義(liberalism)の空間では国家の公の肥大化が抑えられていて、個人の私の自由が許容されている。その許容の度合いが小さくなるのが独裁主義によって国家の公が肥大化した空間だ。

 独裁主義によって国家の公が肥大化した空間では、個人の私の自由がせばまっている。個人にたいして国家がこれをしてはならないとかあれをしてはならないとかといった要求を多くつきつける。

 個人にたいする国家からの要求の量が最低限に抑えられているのが立憲主義自由主義の空間だ。他者に危害を与えてはならないとする他者危害原則に反しないかぎりは個人の自由だ。その最低限の線があるところに、どんどん個人にたいする国家からの要求が増えていって、線が上に上昇して行く。それで個人の私の自由が許容される度合いがせばまることになるのが独裁主義だ。

 これは許される行動で、これは許されない行動だといったちがいがある。そのあいだに線引きが引かれる。それを感じ分けて行ない分けて語り分けて行く。それらをして行く中で、空間(意味空間)のちがいがものを言う。立憲主義自由主義の空間では、個人に許されている行動の量が多い。独裁主義ではその量が少なくなる。許されない行動の数が多い。

 空間がどのようなものなのかによって、感じ分けや行ない分けや語り分けがちがってくる。個人が行動をとったさいに、それが許されるものだとして許容される反応がおきるのか、それとも許されないものだとしてとがめられる反応がおきるのかがちがってくる。

 おなじ一つの行動であったとしても、それがどのような空間において行なわれたのかによって、おきる反応がちがってくる。どのような空間において感じ分けて行ない分けて語り分けられるのかがちがう。何の問題もない行動だとして許容されることもあれば、大きな問題があるのだとしてとがめられることもある。

 中国は独裁主義によっていて、一つの国民国家だ。国民国家として一つの空間をなしているわけだが、それよりもより上位の空間として世界があるのだととらえることがなりたつ。世界の一つの部分である国民国家としての中国の空間の中においては独自の感じ分けや行ない分けや語り分けがとられることになる。それをそれよりもより上位の空間である世界として見てみたら、またちがった感じ分けや行ない分けや語り分けがなりたつ。

 中国のような独裁主義の国民国家には、その空間がもつ構造があるわけだが、それとはちがう世界における立憲主義自由主義の空間の構造もある。それぞれがそれぞれの感じ分けや行ない分けや語り分けをもつ。その中で、独裁主義の空間の中においてはそれが当然のことだとされていることであったとしても、そのことをそれよりもより上位の空間である世界において見てみれば当然のこととは言えずまちがっていることがある。

 独裁主義の国民国家が、その内部にいる個人にたいして問題だと見なす行動がある。それで個人の私にたいして排除の暴力を振るう。それは国民国家の虚偽意識によっている。国民国家が個人の私にたいして排除の暴力を振るうことを防ぐために立憲主義による憲法がつくられている。立憲主義に照らし合わせてみれば、国民国家が個人の私にたいしてどのような行動をすると罪に当たるのかが記されている。

 個人の私がもつ基本の人権ができるだけ守られるようにすることが立憲主義ではとられている。個人の私がもつ人権を守るようにする点からするともっとものぞましいものだと言えるのが立憲主義だから、それによって国民国家が個人にたいしてどのような行動をするとよくないのかを見て行ける。

 個人の人権を守ることを重んじる立憲主義による空間があり、その空間において国民国家がどのような行動をしたらよくないのかがあり、それを無視することはできづらい。これは法などによる文化の力(soft power)によるものだが、この文化の力をできるかぎり高めるようにして行き、それによって個人の私が不当に国民国家によってしいたげられないようにして行きたい。文化の力の空間によって、国民国家の内部に閉じこもらずに、国境の人為の境界線を超えて超国家として見て行く。それで国民国家のよくない行動を見るようにしていって、そこから国民国家にたいして批判が行なわれるようであればのぞましい。

 参照文献 『日本の刑罰は重いか軽いか』王雲海(おううんかい) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫憲法という希望』木村草太(そうた) 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『空間と人間 文明と生活の底にあるもの』中埜肇(なかのはじむ) 『ぼくたちの倫理学教室』E・トゥーゲンハット A・M・ビクーニャ C・ロペス 鈴木崇夫(たかお)訳

政治においてなかなか片づかない問題と、それをしつこくとり上げつづけること

 政治において国の国会でいつまでも同じことを野党の議員がとり上げつづける。野党の議員が同じことにこだわりつづけてとり上げつづけることはふさわしいことなのだろうか。それとも次のことにさっさと移っていったほうがよいのだろうか。

 そのことを学者の篠原資明(しのはらもとあき)氏による交通論の点から見てみられるとすると、憑在(ひょうざい)論で見てみられる。かつてのできごとがいまにおいて憑在している。存在論では有ると無いの有り無しによる。有か無かだ。憑在論では時間におけるいまとかつてのいまかつて間だ。時間としては過去のことであったとしても、それだからといって完全に過去のものとして過ぎ去ってしまったのではない。過去のことであったとしてもそれがいまにおいてもいぜんとして漂いつづけている。

 与党である自由民主党は集団としていろいろな不祥事を抱えつづけているが、それらはきちんと片づけられていなくてうやむやなままにされていることが多い。それによっていまにおいても憑在しつづけることになる。あまりにも不祥事となるものの数が多すぎて、その一つひとつをとり上げるいとまがない。うみが堆積している。うみが外に吐き出されていない。

 国会でいつまでも同じことを野党の議員がしつこくとり上げつづけるのは、遮へい物であるフタのおおい(cover)が穴にかぶされているのをとり払おうとすることだ。それにたいして与党である自民党は何とか穴にフタでおおいをしておきたい。目かくしをしておきたい。人の目につかないのであれば風化されやすい。それらのあいだのせめぎ合いになる。

 与党は穴にフタのおおいをしておきたいのがあり、穴にフタがかぶされているものは数多いが、そうしてあるからといって穴がふさがったわけではない。いぜんとして穴は空きつづけているのがあり、憑在しつづけている。フタのおおいをとり払うことをしさえすれば穴が空いていることがあらわになる。

 憑在しつづけている中で穴にフタのおおいをすることは忘却することに当たる。それを想起することがかつてのことをいまにおいてとり上げることに当たるだろう。想起するようにして忘却にあらがう。

 忘却がうながされてしまいやすいのが前を向く前望(prospective)のあり方だ。それにあらがい想起しようとするのがうしろを向く後望(retrospective)のあり方だ。前望することだけではなくて後望することがいることがあり、後望によって忘却を改めて想起して行く。穴にフタのおおいがされているのをとり払う。それで穴が空いているのを見つけて行く。憑在していることを認めて行く。そうすることによって前に進むことのきっかけにつながることがある。

 うしろをふり返る反省や後望が行なわれずにただたんに前に向かって進んで行くのだと、まちがった方向に向かって進んでいってしまうことがおきてくる。進んで行く方向性が大きく狂う。それを少しでも改めるためには憑在を認めるようにしてそれをすくい上げることがあると益になることが見こめる。

 穴が空いているところに目を向けることは呪われた部分に目を向けることにつながる。呪われた部分から目をそむけて忘却するのではなくて、そこに目を向けて想起して行く。とり上げるようにしてすくい上げて行く。いまとかつてのあいだで憑在しつづけている呪われた部分に目を向けることがあったほうが、政治の権力による虚偽意識が大きくなることによって現実から大きく隔たってしまうことを防ぎやすい。

 参照文献 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明 『正しさとは何か』高田明典(あきのり) 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司現代思想を読む事典』今村仁司

日本の国のことがいやなのであれば日本の国から出て行かないとならないのだろうか―社会の中にある個人への独断や偏見を改めるようにしたい

 日本の国がいやなのであれば自分の国に帰れ。日本人ではない人が日本の国に住んでいるのだとして、日本の国がいやなのであれば日本の国から出て行かないとならないのだろうか。日本の国にとどまりつづけていてはいけないのだろうか。このことを個人と社会の点から見てみたい。

 他国から日本の国へ来た人が、日本の国に不満をもつ。それは個人が日本の国に不満をもつことだが、それぞれの個人がもつ満足化の水準の高低はそれぞれの人によってちがう。もしも日本の国にたいしてとんでもなく甘いのであれば、満足化の水準はとんでもなく低いだろう。日本の国がどのようなおかしいことや悪いことやまちがったことをやったとしても甘く見なして許す。

 個人のもつ日本の国にたいする満足化の水準はそれが低ければよいものではないし高ければ悪いとも言えそうにない。満足化の水準が低すぎると日本の国がおかしいことや悪いことやまちがったことをやったとしても甘く見なして許してしまうから、日本の国がまちがった方向に向かってどんどん進んでいってしまうことがおきてくる。歯止めがかからない。

 日本の国民のみんなが日本の国にとんでもなく満足していて、それぞれの個人がもつ満足化の水準がとんでもなく低い。そうであったのが日本の戦前や戦時中だろう。そのことによって日本の国がまちがった方向に向かって行くことの歯止めがかからなかった。欲しがりません勝つまではとか、ぜい沢は敵だといった標語が言われた。そのことの大きなもとには天皇制があった。天皇は生きている神だとされて絶対的に権威化されていた。超越の他者であった天皇によって国民(臣民)は駆動されていた。天皇は日本の国の主権をただ一人だけもっていた。

 個人をとり巻く外の社会に目を向けてみれば、社会の中にまちがった価値観や意識があることによって個人が苦しむことがある。社会の中にあるまちがった独断や偏見によって個人が苦しむ。それを改めるには、個人が日本の国から出て行くのではなくて、日本の社会の中にあるまちがった価値観や意識が変わることが必要だ。社会的排除(social exclusion)が強い社会から社会的包摂(social inclusion)による社会に変わることが求められる。

 温かさと冷たさの温度のちがいを持ち出せるとすると、日本の国の中にいるすべての人が日本の国にたいして完ぺきに温かい思いを抱いているとするのは幻想なのではないだろうか。もしもそういったふうになっているのだとしたらそれはそれで危ない。日本の国にたいしては、温かさだけとか冷たさだけといったように一か〇かや白か黒かの二分法では割り切れない思いをいだく。両価性(ambivalence)がある。かんたんに割り切ることができない矛盾したありようだ。

 個人の心の中で日本の国にたいして温かい思いをいだこうが冷たい思いをいだこうがそれはそれぞれの個人の自由にまかされていることだろう。温かい思いをいだくとしてもまちがっていることがあるし、冷たい思いをいだくとしても正しいことがある。現象として温かい思いをいだくこともあれば冷たい思いをいだくこともあり、それは突き放してみればただの現象が生じているのにすぎない。

 一つの現象として温かい思いをいだくこともあれば冷たい思いをいだくこともあり、それはどちらであったとしてもそれそのものがすなわち正しいとかすなわちまちがっているのだとは言えそうにない。現象のところだけを見て、その表面のところだけでよいとか悪いとかと見なすのは、その奥にあるところをとり落としてしまう。表面の奥にあるところが肝心なところだろう。

 国家主義(nationalism)であれば、日本の国にたいして温かい思いをいだくべきだとなる。そうはいっても、個人が心の中で日本の国にたいして温かい思いをいだいているのかそれとも冷たい思いをいだいているのかは正確にうかがい知ることができづらい。

 形式と実質で分けて見られるとすると、形式としては日本の国にたいして温かい思いをいだいているようであったとしても、ほんとうの心の中である実質ではどうかはわからない。国家主義では個人にたいして形式を強制することによって実質を支配して同一化させようとするものだ。その支配が完全にできるかといえばそうとはいえないところがあり、最終としては個人の心の中は自由なのはあるから、すべての個人の心の中の実質を支配することはできないかもしれない。

 国家が個人の心の中まで支配しようとするのは近代の中性国家の原則に反することになる。国家はできるだけ国家主義によって個人の心の中に介入しないようにして、個人の思想の自由(freedom of thought)を守る。そこからくるものである表現の自由(free speech)を守る。それでそれぞれの個人を尊重して行く。国家主義によって国家の公を肥大化させるのではなくて、個人の私を充実させるようにして行く。そうしたほうがそれぞれにちがいのある個人の生がよりよいものになって生きて行きやすいようになって行くことがのぞめる。

 参照文献 『義理 一語の辞典』源了圓(みなもとりょうえん) 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『ええ、政治ですが、それが何か? 自分のアタマで考える政治学入門』岡田憲治(けんじ) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『事例でみる 生活困窮者』一般社団法人社会的包摂サポートセンター編 『組織論』桑田耕太郎 田尾雅夫 『考える技術』大前研一社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』岩田正

go to キャンペーンの政策をこのままやりつづけるべきなのか、それともやめるべきなのか―目的と手段の組みによって見てみたい

 go to キャンペーンの中止に反対する。ツイッターハッシュタグではそうしたことが言われているという。このまま政権による go to キャンペーンをつづけていってもらいたいのだとしている。それはふさわしいことなのだろうか。

 政治においてどのような意見を言ったとしてもそれが許容される範囲の中のことなのであればそれぞれの人の自由にまかされている。できるだけ思想の自由市場(free market of ideas)にまかされることが大切だが、新型コロナウイルス(COVID-19)の感染が増えている中で人々に旅行や飲食店に行くことをうながす go to キャンペーンをこのままおし進めつづけるのであってよいのかどうかは定かとは言えそうにない。

 政権が政策をなすさいには、どういった目的のためにどういった手段をとるのかがはっきりとしていることが大切なのではないだろうか。目的と手段はそれぞれを絶対化することはできづらい。政策論は相対化されることが必要だ。それが絶対化されると危険である。

 理想論としては目的にたいしてもっとも適した手段をとることができたらよいが、現実論としてはそこに制約がかかってくる。たとえば、お腹が減っているのならどこか食べものが置いてあるお店などに行ってそこにある食べものを勝手に食べること(無銭飲食を含む)は一つの手段だが、この手段は法の決まりに反するものなのでとることができない。それをしたら法の決まりに反することになる。

 理想論としては目的にたいして法の決まりを無視した手段がいろいろにありえるが、それは制約の外にあるものであり、現実論としては制約の外にある手段をとることはできず制約の内であることがいり手段の数は限られてくる。もっとも効率のよい手段をとることは理想論としてはできるが現実論としてはできづらい。効率は低くはなるが適正な手段をとることが安全であり長期では利益になる。

 政治などで悪をなすのは目的にたいして適正さよりもてっとり早く効率のよい手段を不正にとることだ。ほんらいは制約の外にあるためにとることができないことになっている手段をとる。政治の権力が目先の短期の利益に走る。政治において悪や善とは何かは難しい問題なのでいちがいにはこうだとは言えないのはあるかもしれないが、長期の利益ではなく目先の短期の利益に走るときに悪がおきやすいだろう。

 与党である自由民主党菅義偉首相による政権は、go to キャンペーンをこれからもおし進めつづけようとしているが、これは政策において目的と手段が転倒してしまっているのだと見なせる。手段の目的化になっている。go to キャンペーンをおし進めつづけることが自己目的化してしまっていて、ほんらいの目的との関連性を失う。

 いろいろな不祥事を抱えこんでいるのが自民党であり、自民党は不祥事組織となってしまっている。きびしく見ればそういったふうに見なせるのがあり、不祥事組織でしばしば行なわれることになるのが目的と手段の転倒だ。それによって手段が自己目的化することになる。go to キャンペーンの政策とは関わりがないが、自民党がかかげているものである、何が何でも憲法の改正を目ざすこともそのうちの一つであり、目的と手段が転倒していて手段が自己目的化してしまっている。

 不祥事組織に見られる目的と手段の転倒による手段の自己目的化を避けるためには、目的と手段の組みをゆるめることがあったらよい。その組みをきつくしてしまうと、がっちりと固く組み合わさってしまい、ほかの目的やほかの手段がさまざまにあることが見失われる。視野がせばまって狭窄する。たった一つの目的やたった一つの手段しか見えなくなってしまう。

 おおきなプラスが見こめるものなのであれば、そこには大きなマイナスがくっついていることが少なくない。プラスとなる順機能(function)があり、マイナスとなる逆機能(dysfunction)がある。政権が政策をなすさいには、プラスとなる順機能だけを見てマイナスとなる逆機能を見落とすのはまずい。もしもマイナスとなる逆機能のほうが大きく上回っているのであれば、総合で見るとマイナスになっているおそれがある。つり合いがとれていないのだ。国民にかたよりなくむらなくプラスとなるようにもつり合いがとれているのでないとならない。プラスの順機能のところは目だちやすいが目だちづらいマイナスの逆機能のところが盲点となっているとそこが落とし穴になることがある。

 参照文献 『正しく考えるために』岩崎武雄 『法律より怖い「会社の掟」 不祥事が続く五つの理由』稲垣重雄 『疑う力 ビジネスに生かす「IMV 分析」』西成活裕(にしなりかつひろ) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『現代哲学事典』山崎正一 市川浩編 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき)

アメリカのドナルド・トランプ大統領のみならず、一般的にいって政治の上に立つ長はかけがえがないものなのかそれともかけがえがあるものなのか―かけがえがある者としての政治家や政治の指導者

 おまえの代わりなんていくらだっている。そんなふうな題名の本が芸能人の坂上忍氏の本であったのを見かけた。これをアメリカのドナルド・トランプ大統領に見せてあげたらどうだろうか。

 政治の上に立つ長で、この人はかけがえがない人だといったような人はいるのだろうか。そういった人がいるとかえって危険性がおきてくる。なぜかといえば、多元性が損なわれてしまうことになるからだ。多元性が損なわれて一元性になると、独裁主義や専制主義や権威主義となり、政党でいうと一党だけが支配することになる。野党や反対勢力(opposition)があることを許さなくなる。日本の政治はきびしく言えばそれに近くなっている。与党だけが許されて野党や反対勢力が許されないのは日本の戦前や戦時中に見られた。

 自由民主主義(liberal democracy)においては競争性(competition)と包摂性(inclusiveness)があることが必要だ。それらの二つがあることがいるのは、政治の上に立つ長とはいえど、かけがえがないのではなくてかけがえがあることをあらわす。とりかえがきく。そうであるのでなければならない。

 競争性と包摂性とともに、民主主義においては兄弟性によることが大切だ。弱い者である羊どうしの兄弟性だ。強い者であるオオカミがあらわれてオオカミが上に立って権威化されると権威主義におちいる。権威化されたオオカミによって羊たちが食いものにされることがおきてくる。これは歴史における失敗としていく度もおきたことである。日本の過去のオオカミは責任者であったのにもかかわらずまったくといってよいほどに責任をとらなかった。そのもととなったのが日本の天皇制だ。

 何が何でもこの人でなければならないのだとしてしまうと、かけがえがないことになってしまう。本当はかけがえがあるものであるのにすぎないのにも関わらず、かけがえがないものであるかのように見せかけることが通用することになる。

 かけがえのなさは、競争性と包摂性が欠けていることによってなりたつ。それによって人々のもつ満足化の水準がずるずると引き下がって行く。学習性無気力(learned helplessness)のようになって行く。ほんとうはもっと高い満足化の水準をもてるはずなのにもかかわらず、その水準がどんどん引き下がって行き、とるに足りない人なのにもかかわらずあたかもその人がかけがえがないかのように見誤ることがおきてくる。

 大統領選挙でトランプ大統領ジョー・バイデン氏が互いに争い合ったことが意味しているのは、互いにそれほど水準を大きく異にしてはいないことだ。たがいに争い合うことになるのは、それほど大きく水準を異にはしていないことを示す。それが意味していることは、互いにかけがえがないのではなくてかけがえがあることなのではないだろうか。

 争い合う者どうしのどちらも(どちらか)がかけがえがないのではなくてどちらもがかけがえがあるのだから、トランプ大統領は大統領の地位に必要より以上にこだわりつづけないようにして、大統領の地位に恋々(れんれん)としつづけなくてもよいものだろう。それよりも不毛な争い合いをさしあたっては棚上げにして、弁証法の正と反と合がある中で互いの敵対を止揚(しよう aufheben)したほうが合理的なのがある。真相をいますぐに完ぺきに明らかにすることができずそれを明らかにするのに時間がかかるのであれば、いったん棚上げにしてしまい、あえて間(余白)を空けるようにして、あとになって少しずつものごとを明らかにしていったほうがよいことがある。

 参照文献 『政治学川出良枝(かわでよしえ) 谷口将紀(まさき)編 『組織論』桑田耕太郎 田尾雅夫 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『子どものための哲学対話』永井均(ひとし) 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『民主主義の本質と価値 他一篇』ハンス・ケルゼン 長尾龍一、植田俊太郎訳

自助と公助と共助と、個人の努力と社会の努力―社会の努力が足りていない

 自助、自助、と国会で首相はやじを飛ばされていた。与党である自由民主党菅義偉首相は、国会で野党の議員から質問を受けてそれに答えるさいに、そばにいる官僚から紙を手わたしてもらう。その紙を読み上げて答えている。自助によって自分の口から質問に答えずに、官僚による公助や共助にたよっているしまつだ。そればかりになってしまってはまずい。

 菅首相は国民にたいして自助と公助と共助が大切だと言っている。そのことを社会福祉(Social Welfare)の点から見てみられるとするとどういったことが言えるだろうか。それについてを個人の努力と社会の努力に分けて見てみたい。

 自助である個人の努力は大切なのだとはいっても、社会福祉による社会の努力の重要さの重みがその重みを増している。この重みがひどく軽んじられてしまっているのが日本の社会のありようなのではないだろうか。

 日本の社会では社会福祉による社会の努力が足りていない。そこが不十分になってしまっている。これを個人の努力が足りないせいにして穴埋めをしようとしているが、穴埋めがぜんぜんできていない。

 資本主義の社会の中にあっては、個人の努力をたくさんすればするほど生き残りやすいのではなくて、たまたま運があったり不運だったりすることで、生き残りやすかったり生き残りづらかったりする。運による偶有性が大きく左右してしまう。

 自由主義(liberalism)では無知のベールをとることによって、具体性によるのではなくて、社会の中で自分がどういった人でもありえたのだと仮定する。その仮定において自分がいろいろな境遇の人でありえることになり、その中でもっとも恵まれない境遇の人が生き残れるような社会であることを目ざす。

 恵まれない境遇の人がいたとして、その具体の人の個人の努力が足りないことがいけないことなのだろうか。そのように個人の努力が不足しているせいだと見なしてしまうと、自由主義にはそぐわない。無知のベールによって具体性をとらないようにして、自分が社会の中でどのような人でもありえるのだと仮定することがきちんと行なわれていない。

 個人の努力が足りないことがよくないのだとして、社会の中の役たたずだとしてしまうと、社会の中の排除(social exclusion)が進んでいってしまう。個人の努力が足りないからよくないのだとして片づけてしまうと排除が進んでいってしまうから、それを食い止めるようにして社会的包摂(social inclusion)をなすようにするためには、社会の努力がもっと大きく行なわれなければならない。

 社会の努力がないがしろにされていて、そのいっぽうで個人の努力が強調されすぎてしまっている。社会の全体がストレス社会または疲労社会または無酸素社会になっている中で、そのしわ寄せがとりわけ弱い個人に強くかかることになる。それでそのしわ寄せが行っていることが、個人の努力が足りないせいだとされてしまう。そのことを見るさいに、個人ではなくて社会の努力が足りていないのは無視することができそうにない。

 どのように原因の帰属(特定)を当てはめるのかでは、それがしばしば個人のせいにされてしまいやすい。これは認知のゆがみの一つだ。基本の帰属の誤り(fundamental attribution error)だとされる。個人の努力が足りないのだとしてしまうと、個人に原因を帰属させることになるが、それだけではなくて、個人をとり巻く状況つまり社会のところに原因を帰属させるようにして、個人に内部帰属化するのではなくて外部帰属化をして見ることがなりたつ。社会の中にはさまざまな問題があって、社会はいろいろに悪いところをかかえているが、それが十分にとり上げられて問題化されているのだとは言えそうにない。

 参照文献 『社会福祉とは何か』大久保秀子 一番ヶ瀬(いちばんがせ)康子監修 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください 井上達夫法哲学入門』井上達夫 『クリティカル進化(シンカー)論 「OL 進化論」で学ぶ思考の技法』道田泰司 宮元博章 『社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』岩田正美 『疲労とつきあう』飯島裕一 『「無酸素」社会を生き抜く』小西浩文

アメリカの大統領選挙で不正があったのかどうかと反形而上学と反証主義

 アメリカの大統領選挙で不正があった。選挙は不正なものだった。アメリカのドナルド・トランプ大統領はそう言っているが、そのことについてをどのように見なすことができるだろうか。それについてを現代思想でいわれる反形而上学と学者のカール・ポパー氏のいう反証主義によって見てみたい。

 まちがいなく大統領選挙で不正があったのだとして、選挙は不正だったのだとしてしまうと、形而上学(metaphysics)として見なすことになる。大統領選挙つまり不正だったといったふうに見なす。不正であるものだとして基礎づける。そういったようにしたて上げる。はたしてそれができるのかといえば、それはできづらい。

 反形而上学によって見てみられるとすると、アメリカの大統領選挙でまちがいなく不正が行なわれたかどうかには疑問符がつく。選挙が不正だったのかどうかははっきりとは断定することはできづらい。選挙つまり不正だったのだとして基礎づけたりしたて上げたりすることはできづらいだろう。

 カール・ポパー氏による反証主義アメリカの大統領選挙についてを見てみられるとすると、選挙が適正で公正に行なわれたのかどうかの問題がある。その問題についてどういった見なし方をするのかがあり、その中の一つとしてトランプ大統領が言っているようにまちがいなく不正があったのだとする見なし方がなりたつ。

 どういった見なし方をするのであったとしても、それは他からの批判に開かれていることが必要だ。批判に開かれていないで閉じてしまうことになるのが、陰謀理論をいたずらに持ち出したり、修辞学でいわれる人にうったえる議論に持ちこんだりすることだ。人にうったえる議論は、たとえば右派と左派があるとして、右派の言っていることは正しいが左派の言っていることはまちがっているなどとするものだ。言っている発言の内容ではなくて、言っている人(発言者)がどうかによってよし悪しを決めつける。

 それぞれの人が問題についてどういった見なし方をするのであってもそれぞれの人の自由に任されている。その中でトランプ大統領アメリカの大統領選挙でまちがいなく不正があったのだと見なしているが、それはアメリカの大統領選挙がどうだったのかといった問題において、その問題をとらえるさいのとらえ方のうちの一つであるのにすぎない。

 アメリカの大統領選挙の問題についてたとえどういった見なし方をするのであったとしても、そこで大切になってくるのは、たった一つだけの正しい見なし方が絶対的にあるのだとしてしまわないことにあるのではないだろうか。そのようにたった一つだけの絶対的に正しい見なし方があるのだとしてしまうと、他からの批判に開かれていないことになり、反証主義にそぐわない。

 反証主義では一つの問題についてたとえどのような見なし方をするのであったとしても他からのきびしい批判にさらされることが求められて、他からの批判に開かれていることが求められる。そうであることによって、問題を見なすさいの見なし方の中に含まれているまちがいが見つかる機会が得られる。その機会があることによって見なし方の中に含まれているまちがいが修正されることにつながって行く。それまでよりもより新しい問題のとらえ方や立て方につながって行く。

 神のような完全な合理性をそなえているのではないのが人間だ。合理性に限界を抱えているのが人間なので、一つの問題をどのように見なすのかにおいて、こうだとする見なし方をとるのだとしても、そこにまちがいが含まれていることがある。そのまちがいがそのままになってしまっていて見つけられないままになっていると、修正されることがなくなる。修正するための機会を得られない。それでそのまま信念が補強されつづけて行く。

 政治とは論争だと言われているのがあり、それはアメリカの大統領選挙の問題についても当てはまるものだろう。信念として大統領選挙でまちがいなく不正があったのだとしているのがトランプ大統領だろうが、そこをゆずるようにして、論争として他に開かれたかたちで問題を見て行く。そうして行くことによって、選挙は不正だったとする教義(dogma、assumption)が修正される機会が得られる。

 西洋の弁証法では正と反と合があるとされるが、教義になっていると正つまり合となってしまう。正にたいして反をとるようにして、他からの批判に開かれるようにしたい。正としているものがそのまま合にいたるのではなくて、正としているものの中にはいくつものまちがいが含まれていることがある。正としているものそのものがまちがっていることがある。

 たとえ正とされていることであったとしてもそのまま合となるとはかぎらず、よくよくしっかりと見てみれば正としているものの中に色々なまちがいがあって、それに気がついていなかっただけだったといったことはしばしばある。ついうっかりしていることがある。遮へい物となるフタでおおわれているおおい(cover)をとり除いていろいろな穴を見つけて行くためには反となるものが欠かせない。すぐさま正つまり合としてしまわずに反となるものをとるようにすることは科学のゆとりをもつことだろう。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司反証主義』小河原(こがわら)誠 『政治学入門』内田満(みつる) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ)

アメリカの大統領選挙で不正があったかどうかについてを IMV 分析などによって見てみたい

 アメリカのドナルド・トランプ大統領は、いまだに大統領選挙でジョー・バイデン氏が勝ったことを受け入れていない。トランプ大統領が負けたことを受け入れていない。それで大統領の地位であることにねばりつづけているようである。

 トランプ大統領が言いつづけているように、ほんとうに大統領選挙で不正があったのだろうか。その真相については正確にはわからないが、そのことについてを学者の西成活裕(にしなりかつひろ)氏の IMV 分析やカール・ポパー氏の世界三の理論や、論理学や修辞学でいわれるくん製にしんの虚偽(red herring)によって見てみたい。

 トランプ大統領が言いつづけているのは大統領選挙で不正があったとする発言だ。その発言(message)はトランプ大統領の内なる意図(intention)をそのままあらわしているものなのだろうか。そうではなくてトランプ大統領の内なる意図は、外に表している発言とはまた別なところにある。そういった見解(view)をとることがなりたつ。

 トランプ大統領は国の政治家であり、政治家は国民の表象(representation)だ。政治家は国民を代表しているものだと見なすことによって政治家はなりたつ。国民とじかに一体となっているものではない。置き換えられている。表象であることから国民とのあいだにずれがある。そこから表象であるトランプ大統領は国民にたいして嘘をつく。ほんとうのことを言わない。そういったことがおきてくる。

 カール・ポパー氏の世界三の理論では、世界一は物で、世界二は心の中の意図で、世界三は言語などであるという。これを当てはめてみると、トランプ大統領の心の中である世界二においてはいろいろな思わくがうず巻いていて、それはもっぱら自分の利益に関わることが主となっている。アメリカの国や国民のことを第一にしているのではない。それはあと回しだ。そうではあるものの世界三であるおもて向きの発言においてはアメリカを第一にしているように見せかけていて、公正であるべき大統領選挙で不正がおきたのだと言っている。カタリだ。

 大統領選挙で不正があったのだとするのは論理学や修辞学でいわれるくん製にしんの虚偽であるおそれがある。それがもしもくん製にしんであるとすると、トランプ大統領は論点を外したりねつ造したり操作したりしていることになる。それらをするために大統領選挙で不正があったのだとあてずっぽうで言っている。

 もしもあてずっぽうで当たるも八卦当たらぬも八卦といったことでトランプ大統領が大統領選挙で不正があったのだと言っているのだとすると、それが当たることは可能性としてはゼロではないかもしれないが、当たったとしてもたまたま偶然のまぐれといったことにすぎないだろう。とくに客観の証拠(evidence)となるものを示してはいないからだ。

 完全に純粋できれいなのがトランプ大統領なのではなくて、政治家であることからいろいろな汚れや悪さを抱えこむ。それは多かれ少なかれどういった政治家であっても見うけられるものであり避けがたいことではある。それにしても汚れや悪さの抱えている量と質のていどがひどいのがあって、その自分の汚れや悪さをごまかすために、自分の外である大統領選挙で不正があったのだと言いつづけている。汚れや悪さがあるのは自分の内にではなくて外だ。外に意識を向けさせる。

 悪いことの原因の帰属(特定)を内に向けなければならないところを、それを隠ぺいするために外に向けている。ほんらいは内部帰属化するべきところを、外部帰属化している。外部帰属化することによっておおい(cover)をかけて、自分が抱えている政治家としての汚れや悪さを見えづらくさせる。おおいをとり払ってしまえば、政治家として抱えている汚れや悪さが表にあらわになる。だからおおいをかけつづけたい。遮へい物によって穴にフタをしつづけておきたい。想像の域を出るものではないが、そういったふうに見なすことが一つにはできるかもしれない。ほかのもっといろいろなちがう見解もなりたつから、それらから見てみることができるのはまちがいないが。

 参照文献 『疑う力 ビジネスに生かす「IMV 分析」』西成活裕 『神と国家と人間と』長尾龍一 『クリティカル進化(シンカー)論 「OL 進化論」で学ぶ思考の技法』道田泰司 宮元博章 『本当にわかる論理学』三浦俊彦現代思想を読む事典』今村仁司編 『実践ロジカル・シンキング入門 日本語論理トレーニング』野内良三(のうちりょうぞう) 『ポリティカル・サイエンス事始め』伊藤光利