組織の同じメンバーをきちんと批判できるだけ、政権与党よりも大学のほうが組織としてずっと健全である

 大学の不誠実さを知らしめた。大学の教職員組合は、そうした声明を出しているという。大学のアメフット部の問題について、大学側は記者会見を開いたが、それがまずい内容であったために、かえって不誠実さを知らしめることになったというわけである。

 教職員組合は、記者会見を開いた大学の当事者たちに危機管理能力が欠如しているのを露呈させたと言っている。これはまさにその通りだというのがある。会見のさいに司会をしていた人は、危機管理学部に属しているようだけど、まったくといってよいほど危機管理ができていないと言わざるをえない。素人から見ても、危機管理のあるべきあり方とはまったく正反対といってよいほどの、やってはいけない対応をしていた。

 大学という一つの組織の中から、他のメンバーを批判する声があがる。そうした声があがるだけまだ救いがあり、健全さがある。ひるがえって政権与党を見てみると、森友学園加計学園の問題で、他のメンバーを厳しく批判する声がほとんどあがっていない。政権与党は、自分たちで自分たちを正そうとする意欲がほとんどないようだ。組織のまっとうさを比べてみると、大学のほうがはるかに上であり、政権与党はだいぶ下であると見なすほかはない。

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何なんだこの騒動は(騒動にするほどのことではない)、というけど、むしろその逆にもっと大きな騒動になってよいくらいだというのが個人的にはある

 総理の関与は直接にはどこにも記されていない。いったい何なんだこの騒動は。騒ぎすぎであり、大げさに騒ぐのはおかしいというふうに、テレビの司会者は言っていた。この意見にはちょっと首を傾げざるをえない。

 たしかに、総理の関与は直接には記されてはいないが、それは直接に記されていることに焦点を当てているからにすぎない。直接に記されていることをとり巻いている文脈(コンテクスト)を見ることがいる。とり巻いている文脈が決定的な意味をもっているのがある。なので、文脈を無視してしまうと正しく見ることにはなりづらいようになるだろう。

 雨だれのようにして、お上の言っていることをそのままうのみにしてしまうのだと、ものを見まちがってしまいかねない。見まちがうのを防ぐためには、きちんと文脈までふくめて包括で見るようにするのがのぞましい。言外とか行間とかまでをも見ることがいる。

 素直であっては、お上に都合のよいようにしてやられてしまう。表だって言われていることだけではなくて、その裏を見るようにできればよい。裏とか細部とかが大きな意味をもつのがあるから、中心をとり巻いている文脈も見るようにしたほうが、顕在だけではなく潜在しているものもとらえやすい。気をつけていてもだまされてしまうことがあるから、気をつけていないとなおさら危ないかもしれない。いつもいつも気をつけられているわけではないから、偉そうなことはあまり言えないけど。

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悪いものを真似してしまっているなという気がする(手近にあるものではあるが)

 問題をおこした大学のアメフット部の関係者が記者会見をする。その抜粋の動画を見たのだけど、まるで政権与党の(まちがった)強気の姿勢をほうふつとさせるかのようだった。おそらく政権与党の強気に出る姿勢を真似ているのだろう。そう見なさざるをえない。いまのお上の悪いところを真似してしまっているのである。

 問題をおこした大学の広報部の人が記者会見の司会をしていたのだけど、司会のやり方がひどくおかしいので、記者の人たちからその場で批判を受けていた。記者の人たちが絶対に正しいとは言えないわけだけど、司会者にたいしてその場で批判をするのもいたしかたないくらいに、強引な仕切りをしていたと言わざるをえない印象だ。仮定の質問には答えなくてよいなどの、与党の政治家がしばしば用いる詭弁の文句を司会者は使っていた。

 政権与党の強気に出る姿勢はまちがったものであり、それを真似しているのだろうから、同じようにまちがったあり方になる。政権与党の強気に出る姿勢は、お手本にするにははなはだしくまちがったものである。反面教師にするようでないとならない。

 政権与党が強気に出ているのは、見せかけの強い自我をよそおっているのであり、これは民主主義をぶち壊すものである。強く出ることによって、自分たちがオオカミのようになり、弱い羊たちをおびやかしてしまっている。権力と権威にものを言わせることで、それによる弊害が社会の中のあちらこちらで出ている。これでは民主主義は成り立ちづらい。弱い羊どうしの対等な兄弟性によるようでないとならないのがある。

 てっとり早く、いまの政権与党のやり方が表面的にはうまく行っているように見えるから、それをとり入れてしまうというのであれば、それは正しいやり方であるとはなりづらい。いまの政権与党がとっている強気に出るやり方は、決してほめられたものではなく、きちんと吟味や検証がまるでされていないものである。

 権力者としてのこれまでのあり方をふり返ることがなく、自分たちは正しい、終わり、というあんばいだ。正しいということに強い確証をもっているのである。厳しく言えば、そうしたあり方は非倫理的なものであるということが言える。いまの政権与党は、瞬間最大風速が強くて、悪目立ちしてしまっているけど、それとは別に、もっときちんとしたまともなお手本はほかにたくさんあるのだから、それをとり入れたほうがのぞましい。

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くだらないことのほうがむしろ本質的だということもできないではない(くだらなくないことと関係しているということはあるだろう)

 くだらないことはくだらないことなのかというのがある。くだらなさの同一性をずらすことができるのではないかと言える。一見するとくだらないようなことでも、それはくだらなくないこととつながっているのだとすれば、くだらなくないことを見るようにすることができる。

 くだらないことであっても、くだらなくないことと関わっているのであれば、くだらなくないことをとり上げることによってくだらなくないようにすることはできないことではない。

 くだらない話し合いはしないようにして、くだらなくない話し合いをするのがのぞましいのであれば、くだらない話はやめにして、くだらなくないことをとり上げて話し合えればよい。くだらないこととつながっている、くだらなくないことをとり上げればよいのである。

 ほんとうの戦争の話は、戦争についての話ではないのだ、というのがあるそうである。これになぞらえることができるとすると、戦争についての話は大きな意味あいのあることがらであるけど、戦争についての話に関わっている、戦争についての話ではないものもある。戦争についての話ではないことを話し合うのだとしても、それに意味がないわけではなく、むしろ大きな意味があるし、戦争に関わらないわけでもない。

 直接と間接というふうに分けることができる。直接にその話をとり上げなくても、間接として関わっているということがあるのであり、間接のことをとり上げるのが、直接のことを浮かび上がらせることになるのがある。直接のほうが重要で、間接は重要ではない、とは言い切れず、むしろ間接のほうがより重要なことがある。間接に関わっていることをとり上げたほうが、直接にやるよりも意味があることもあるし、直接と間接が入れ替わることがある。直接が間接になり、間接が直接になる、ということである。

 直接のものだけを見るのであれば、具象をとらえることで価値判断をすることになる。それだと一面による見かたになってしまう。それを避けるためには、直接のものを見るのだけではなくて、間接に関わっていることを見られればよい。そうすることによって、具象だけではなく、抽象によるようにすることができる。一般として言ってというふうな形の価値判断をとることができる。直接のものだけを見るのではなく、間接のものも合わせて見るようにすることで、直接のものだけを見て価値判断をするのを避けることができる。関連性を見ることができるので、見かたが固定化するのを避けやすい。くだらないという価値判断をカッコに入れられるようになる。

 ゲシュタルト心理学でいわれる図と地の関わりがある。図と地は視点を移すことによって入れ替えることができる。図としていることであっても、それを地とすることができる。地としていたものを図とすることによって、それが重要な意味あいを帯びてくることがある。いま図としているものだけを見るのではなくて、地としているものを見ることがあったほうがよい。図と地を入れ替えて見るようにする。そうしたほうが理解が深まりやすい。地としているものが図なのだということもできるのだから、そうすると話はまたちがってくるということができる。

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誤解だという解釈は曲解なのではないかという気がする

 つぶせという言葉を誤解された。それがこころ苦しい。大学側はこのような声明を出している。ふだんから、大学のアメフット部では、試合前のかけ声として、最初のプレーから思い切って当たれという意味でつぶせという言葉を用いていたのだという。

 大学側の日本語のあつかい方はちょっとおかしいのではないかという気がする。その印象をぬぐいきれない。最初のプレーから思い切って当たれということを言いたいのなら、最初のプレーから思い切って当たれというふうに言うべきである。何も難しいことを言っているわけではないのだから、記号表現と記号内容を合うようにするほうがよい。記号内容と合わないような記号表現を使ってしまっている。

 一プレー目で(相手の)クォーターバックをつぶせ、とコーチは選手に言ったという。それが事実であると認めながらも、なぜ大学側はコーチのことをかばうのだろうか。たとえそういった言い方が習慣としてとられていたのだとしても、コーチが選手に言ったことは改めて見たら適切なものではない。習慣として言われていたことなのであれば、なぜ誤解がおきたのかが分からない。習慣として言われていたことを証明することがないと、それすらも疑わしいものである。

 一プレー目で(相手の)クォーターバックをつぶせ、とコーチが選手に言うのだとしても、そのすぐあとに、つぶせというのは思い切って当たれということであり、本当につぶしてしまっては絶対に駄目だぞ、と付け加えるのなら誤解は生まれづらい。そのように付け加えるのなら、そもそもつぶせというふうに言わなくてもよいものである。いずれにせよ、つぶせというふうに言わなければならない必然性はほとんどない。

 大学側は、コーチが言葉足らずだったというふうに言っているけど、言葉足らずなのではなくて、適切さをいちじるしく欠く言葉を使っていたというふうに言うのがふさわしいだろう。選手のとらえ方がまちがっていたのではなくて、コーチの言い方がまちがっていたということである。言葉通りに受けとってまちがったことになるのであれば、言葉のとらえ方ではなくて、言葉の言い方がまちがっていたとすることができる。つぶせというのを、つぶすなというふうに受けとれというのは無理があるのであり、コーチは選手を二重拘束(ダブル・バインド)の状況に置いたことになり、選手を傷つけて苦しめたことになるのではないか。

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嘘はあとからはげるのがあるから、そこをできるだけ見抜くように努めるのがいりそうだ(最初に嘘をついて、あとになってそれが嘘であるとわかる、というのをふまえるようにする)

 首相のことを信頼する。与党の幹事長はそう言っていた。なぜ首相のことを信頼するのだろうか。首相のことを信頼するのは、首相の言ったことをそのままうのみにすることである。うのみにしてしまっては、正しい見かたにはなりづらい。

 首相の言っていることをそのままうのみにするのは、首相とべったりと一体化することである。一体化するのではなくて、対象化しないとならない。距離をとらないとならない。無距離になってしまっては、判断をはたらかせることができづらく、判断をあずけて他人まかせにしてしまうようなものである。それは避けないとならないのがある。

 与党の幹事長は、どのような思わくで首相のことを信頼しているのかは定かではない。国政選挙で何回も勝っているから信頼しているのかもしれない。たしかに国政選挙では何回も勝っているのはあるけど、ほんとうに意味のある勝ち方をしているとはできづらい。そこまで正統性は高いものだとは言えないものだろう。調査によると、国民の政権与党への不支持率は決して低くはない。

 首相が言っていることなのだから、正しいのだろうとするのは、属人による見なし方であり、根拠に乏しいものである。属人ではなく属事で見て行くことがいりそうだ。首相が言っているからといって正しいとはかぎらないと見なすことができる。本当のことではなく嘘を言っているとしたら、首相の言っていることの逆が正しい。

 何かまずいことがあったときに、まず最初に嘘をつく。その嘘はあとで嘘であることが明らかになる。あとで明らかになるのにもかかわらず最初に嘘をついてしまうのである。絶対にそうだとは言えないが、こういった人間の心理があるのは無視できそうにはない。

 まちがいなく嘘を言っているとは決めつけられないが、嘘はあとからはげる(あとになってばれる)というのは、けっして捨て置くことができない視点である。嘘はあとからはげるのだとしたら、この人だからということで信頼するのはまちがいであり、疑って行かなければならない。たとえ首相であってもというか、むしろ首相であるからこそ、嘘はあとからはげるという視点を無視してはならないものだろう。

 国民の自己統治と自己実現のために、権力チェックを十全にはたらかせることができればよい。権威ということで信頼するのではなく、すすんで疑って行ったほうが、結果として深刻な不安定を多少は避けられる。権威ということで信頼してしまうと、単一による安定をとることになり、これは表面的には安定しているように見えるが、じっさいにはかえって不安定になる。単一なあり方だといざというときに総崩れになって全滅するおそれが低くない。すべてを失い、深刻な不安定におちいってしまってからでは遅いから、その前に何らかの手だてをとれればよい。

 単一のあり方は一見するとよいようだけど、居心地のよいものとは言いがたい。単一のあり方から外れたものを拒んでいるのであり、それは単一のあり方に見合うものの居心地をもひどく悪くする。単一のあり方がとられるようになったとしても、思いえがいたようにはけっして居心地はよくはならない。

 イエスとノーで、イエスばかりを言う人たちがいても、すべてが同じことを言っていることになる。イエスからノーまでの多様な意見がとられていたほうが健全である。現実は不健全な方向へ向かっているような気がしてならない。権力からの呼びかけに素直に答えて、イエスと言う人たちばかりを育てて受け入れてしまっているとしたら、単一なあり方になるので危ないことである。寛容さが少なく、排外思想になっているのは、単一なあり方をうながすものである。

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反日や売国とされるものは不正義というのではなく、一つの実在ということがある(正義は単一となることがあるが、実在のありようは複数である)

 日本の負の面をえがいた内容の映画を、反日によるものであるとする。はたしてそうしたことが言えるのだろうか。かりに、日本のことを持ち上げるような内容の映画があるとしても、それが正しく日本の現実を映し出しているとは言い切れないのがあるから、そのまま受けとることはできづらいものである。

 日本のことを持ち上げるのが正しいとはかぎらないのだから、日本の負の面をえがいた内容だからといって反日売国だと決めつけることもできないだろう。反日売国として決めつけてしまうと、象徴化することになるが、そこから捨象されてしまうところに本当の現実があるとすると、それを切り捨ててしまうことになる。退廃(デカダンス)の現実というのがあるとすると、それをあらわすことがあるだろうし、映画は芸術でもあるから、芸術には退廃は欠かせない。

 反日売国と決めつけるのは、排除することであるが、排除されるものに本当の現実が映し出されているということがある。排除されているものは毒であり、表面としては薬ではないわけだけど、薬が毒になり、毒が薬になるといった転化がおきれば、逆のものになる。排除されるものは、中心から周縁へ追いやられるものである。追いやられることで周縁に位置づけられるわけだけど、周縁が中心のおかしさやまちがいをつくのがあり、それを受けとめることがあったほうがよい。

 日本のことをのぞましいとするのは、そうしたものとして日本のことを仕立て上げることである。しかし、日本のことをのぞましいものとして基礎づけることはできづらく、先見や予断による解釈がはたらいている。ものさしを当てているわけである。生の現実をうつしとっているとは見なしづらい。一つの文脈だけによらずに、二つ以上の文脈があったほうが、単眼にならないですむ。単眼よりは複眼のほうが情報量が多いので、そのぶん相対的に現実をすくいとりやすい。

 光があれば、闇もあるのであり、光だけに光を当てるのではなく、闇のところに光を当てることがいる。闇に当たるのは、社会の中の呪われた部分である。光が光であるという同一性は、仕立て上げているものであり、基礎づけてしまっているものだから、単数になっているのを複数化することができればよい。単数になっているのは、否定の契機である闇が隠ぺいされて抹消されているのによる。闇のところに焦点を当てることで、光が単数であるのを複数化することができる。ずらすようにする。闇がなければ光もないのだから、光のところよりも闇のところのほうがより重要だということも言えそうだ。

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完全に無実を証明しろなどとは誰も言っていないのだから、悪魔の証明を持ち出すのは不適切であり、論点のごまかしである

 悪魔の証明であり、無いことを証明できない。首相はそのように国会で弁明をしていた。たしかに、無いことを証明できないかもしれないが、そうであるからといって、無いことにはならない。無いことを証明したことにはなっていない。あったかもしれないというのを払しょくすることができていないのである。

 やっていないことを証明できないからといって、やっていないことにはならない。膿(うみ)を出し切るというのは、理解を進めてゆくことでもあるのだから、一つの文脈だけによらないようにしないとならない。やっていないという文脈は、首相にとって有利にはたらくものであり、自分に有利にはたらく文脈にしがみつくのはのぞましいことではない。それでは理解が進まないし、膿を出し切ることもできない。

 悪魔の証明をもち出すのは自己防衛になってしまっているものであり、自分に原因を当てはめるのを避けているものである。そうではなくて、自分に原因を当てはめることをすることがいる。状況証拠などによって、それが問われているのがあるからである。決定的な証拠がないからといって、潔白を証明することにはなっていないのだから、状況証拠に向き合うようにするのでないと不自然である。

 一般人とはちがい、政治の権力をもっている者であるのなら、決定的な証拠がないからといって完全に潔白となるとは見なしづらい。それなりに有力な状況証拠があるのなら、白だと見なすのはそうとうに苦しい。適していないものでもある。ほんとうに白だというのであれば、疑惑についての理解を進めてゆき、きちんと膿を出し切ったあとでないとならないものだろう。それが必要条件である。理解がきわめて浅く、自分たちに有利にはたらくような(自分たちは潔白だという)文脈にしがみついて、膿を出し切ってもいないのであれば、黒だと言っているようなものである。

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高度プロフェッショナル制度は、人殺し法案とも言われているので、それをふまえると、不正義なものだというのがある(民を生かすようでないとならない)

 高度プロフェッショナル制度というのが、いま政権与党によって通されようとしている法案であるという。この法案を強行採決で力づくで通そうとしているとも見られている。法案についての国民からの支持は低く、六割くらいの人は反対しているという数字が出ている。

 高度プロフェッショナル制度の法案を通すために、政権与党は前提となる情報を出した。その情報がまちがったものであるのがわかったが、いぜんとして政権与党は法案を通そうとする姿勢を崩してはいない。

 国民からの法案への支持が低いのにもかかわらず、無理にでも通そうとしていると見なさざるをえない。これが意味することは、一つには、国民が求める政策と、政権与党が行なう政策とが、いちじるしくずれてしまっているのを示している。

 国民の声をすくい上げて下から帰納でやって行くのではなく、上から演繹でものごとをおし進めているのである。そのために、国民の声と、政府がやろうとしていることとが、かい離してしまう。国民がぜひやってほしいと思うことはやらずに、やってほしいとはとくに思っていないことをやる。

 与党のやることについて野党が足を引っぱっているというけど、それよりも、政権与党のやることが(またはやらないでいることが)国民の生活の阻害になってしまっているのがあるのではないか。国民は国家のための手段ではなく、国民そのものが人間として目的であるのだから、目的として尊重されるのがのぞましい。国家は、国民を手段としてあつかわないようにして、生活を阻害しないようにする。国民の基本の必要(ベーシック・ニーズ)をうまく満たせないのであれば、いったい何のための豊かさであり、何のための文明や科学技術の発展なのだろうか。

 構造(structure)として見ると、高度プロフェッショナル制度の法案は、欠陥をきたしてしまっているものだろう。土台となる前提の情報がまちがっているのだから、主張の説得性はゼロとなるとしてもまちがいではない。現実に何かの問題があり、それを何とかするための法案(高度プロフェッショナル制度)だというのならわかるが、その法案そのものに大きな問題がある。現実にある問題が何とかなるどころか、ますますひどくなってしまいかねない。

 高度プロフェッショナル制度のほかに、森友学園加計学園の問題もふくめて、政権与党は構造についての視点をもつことがいるのではないか。構造としておかしいのにもかかわらず、きちんとした論拠に支えられていない主張をしてしまっているのがある。現実にある問題や、とり沙汰されていることがらを何とかするためには、原則を無視してしまうようではまずい。

 原則として、構造のいちばん下の土台となるものである事実をまずは認めなければならない。事実が何かを認定するので意見が食いちがうこともあるけど、事実をかたくなに否認してしまうのはまずい。動く事実については置いておくとしても、動かない事実については少なくとも素直に認めなければならない。そうしないと、構造の視点をとることにならないので、主張に説得性をもたせることができづらい。政権与党の言うことに立体性がなくなり、空虚に響く。与野党のあいだで話し合いのとっかかりすら持てずに、たんなる水かけ論のやりとりとなり、詭弁と強弁が(政権与党によって)用いられる。これでは道理が引っこんでしまわざるをえない。

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朝鮮学校への補助金の交付には是非があるのだとしても、交付を求めることを犯罪行為だとするのは飛躍がありすぎる(歴史の文脈からいっても単純な見かたはできないはずである)

 朝鮮学校補助金交付を求める弁護士の人たちがいる。その人たちのやっていることは犯罪行為であるとして、懲戒請求を行なう。インターネットで賛同をつのり、集団によって大量に行なわれたものだという。

 何でも、余命三年というブログがこの請求を(ブログを)見ている人たちに呼びかけることで、大量の請求が行なわれたそうだ。請求を行なった人たちにたいして、弁護士の人たちは法的な訴えをおこすかまえだという。

 懲戒請求を行なったのは、犯罪行為をしているからだということだけど、そもそも(弁護士の人たちの行ないを)犯罪行為であると決めつけてしまうのはまずい。有罪推定の前提に立ってしまっている。弁護士の人たちは政治の権力者ではないのだから、有罪推定の前提で見てしまうのは適したことではないだろう。かりに犯罪行為が疑われるのだとしても、犯罪行為だと断定するのではなく、犯罪行為なのではないか(犯罪行為的なのではないか)、と問いかけるくらいならまだしも穏当だ。それであってもまずいかもしれないが。

 弁護士は一般市民をいたずらにおどすべきではないという意見もあるけど、この意見にはうなずくことができづらい。原則としては、弁護士は一般市民をおどすべきではないかもしれないが、いついかなるさいにもというわけではないだろう。例外として、一般市民がきわめて悪質な大衆であるのだとすれば、抑制的に法的な対処をするのがまちがいとは言えそうにない。それをするべきではないというのは、大衆迎合(ポピュリズム)だろう。

 大衆すなわち善だとか正しいとは言えないものである。一部の大衆が独断の正義(大義)によって暴走するのはそうとうに危ないことである。単独の個人なのであればまだしも、複数の個人からなる集団なのであるのなら、そこには集団心理がはたらく。党派になることで、脱抑制になり、判断が狂うことがある。理性による抑制は必ずしもきかない。なので、大衆(群衆)すなわち善とか正しいとは言いづらくなる。悪と決めつけることはできないが。

 表現の自由は権利としてとても大切なものではあるけど、ブログで民族差別をあおってしまうのはいかがなものだろうか。それにくわえて陰謀理論を持ち出してしまうと、なおさらやっかいなことになる。公共の福祉に反するようになりかねない。

 朝鮮学校補助金を求める弁護士を、反日であるとして、懲戒請求を行なうことになったのだろう。反日と見なすことで、懲戒請求を行なうにいたったのだとすると、そこにはステレオタイプの認知の歪みがはたらいている。なるべくステレオタイプの見かたにならないようにできればよいけど、それにおちいってしまうと、危ないことにつながってしまうのがある。

 ステレオタイプの見かたから、懲戒請求という意思決定なり判断なりをすることになった。あとからふり返って、この意思決定や判断およびそこからの行動が、誤りだったということであれば、意思決定や判断をするのに待ったをかけられればよかったのだろう。待ったをかけられなかったのは、確証の認知の歪みがはたらいていたためだと察せられる。確証をもつことによって、適していない意思決定や判断がとられたのである。

 確証をもつことになったのは、ブログへのハロー(後光)効果がはたらいていることにもよっているかもしれない。後光がさすかのようにして、ブログからの指示や示唆にそのまま従うようにしたということである。ハロー効果は認知の歪みをうながすものであるため、あとからふり返ってみてまちがったことをしてしまったというふうになる。すべての人が誤りだったとふり返るのではなくて、あくまでもまちがってはいないのだとする人も中にはいるかもしれない。

 意思決定や判断をするさいには、なるべくあとからふり返って誤りだったとはならないようにしたいものである。そのためには、あるブログに書かれていることだからまちがいはないとしてあがめるのではないようにしたい。あがめてしまうと、大に事(つか)えるものである事大主義になってしまう。また、中華思想のようにして、日本を中華であるとはしないようにしたいものだ。日本を中華としてしまうと、ほかの国や民族がそれよりも不当に下に位置づけられてしまう。民族差別につながってしまうものだから、それをとらないようにできればのぞましい。

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