制度が悪用されてしまっている現状があるという(個人の自己責任ではなくて、制度や環境に大きな非がある)

 裁量労働制にはわながあるのだという。この制度は、役人(と政治家)が考えて進めようとしていることだから、その制度がじっさいにどのような帰結をもたらす(もたらしている)のかが軽んじられてしまっている。そうした印象をぬぐいきれないのがある。

 裁量労働制を導入したことにより、それで労働者に何か益となるようなものがあるのであればよい。しかし、不益となったり損となったりするようなのであれば、いったい何のための制度なのかということになる。制度を導入する前よりも、導入したあとのほうが、労働者の待遇がよりよくなっているのがのぞましい。そうではなく、かえって悪くなってしまうのであれば、その制度には欠陥があると見なさざるをえない。

 制度を導入することで、労働者の労働時間が減ることになったというのであればよいわけだけど、そうではなくて増えることになるのであれば、逆効果といえる。労働時間が増えた分だけ、もらえるお金もまた増えるのであればまだましである。しかしどうもそうなっているのではないようなのである。制度の導入によって、労働時間は以前よりも増えて、もらえるお金は増えていない。これでは、単位時間あたりにもらえるお金の額が減ってしまうことをあらわす。

 労働者の人にとっては、労働時間が増えることは、それだけ自分から出てゆくものが大きくなるのをあらわす。そうして自分から出てゆくものである費用が大きくなるのにもかかわらず、入ってくるものである収入は増えることはない。これでは報われないことになってしまう。差し引きで見るとマイナスだ。そうしたのがあるとすると、裁量労働制をさらに拡大して導入することについて、教条主義のようにしておし進めるのは正しいことだとはいえそうにない。

 労働者の人が安心して働けるような環境を整える。そういうふうにするのならまだよいわけだけど、そうではなくて、労働者が神経を使わないとならなかったり、心配したりしなければならないことが増えるのであれば、それが労働者の益になるとは見なしがたい。制度の表向きの顔とは別に、裏があるので、心配や不安が生じるわけである。そしてその心配や不安はおおむね的中する。じっさいに不正が横行しているのがあるそうなのだ。制度としての不正義になってしまっている。これでは、最良とは逆の最悪ともいえるようなところがあると見なさざるをえない。

 不動産屋で物件をさがす。そのさいに、すごくよさそうに見える物件を紹介される。その物件を紹介するさいに、(紹介する側である)不動産屋は、お客さんの利益をかえりみないのであれば、悪いところをわざわざ言うわけがない。商売に不利なためだ。よいところだけを説明する。そのようにして、本当は悪いところがあるにもかかわらずそれを隠してしまうのは、民間のやりとりでも駄目なことであり、信用をなくす。ましてや公益に関わることであればもってのほかである。不誠実なあり方だ。悪くなっている実態をきちんと明らかにして、その声を受けとめるべきである。個人の自己責任ということで片づけてしまうのは、国民のためになっていない。

広告を非表示にする

議論が盛んになったかどうかはちょっといぶかしい(主要な価値がちがっているので、強い不信がおきている)

 私が一石を投じたことで、憲法議論が盛んになったのは事実だ。このように首相は言う。それにたいして、山尾志桜里議員は、こう言い返す。一石を投じて明らかになったのは、総理が憲法をほとんどわかっていないということである。

 山尾議員は、首相が憲法をほとんどわかっていないと言っているわけだけど、それが本当かどうかはひとまず置いておくとして、理解したつもりになってしまっていることはある。そのようになってしまうのは、文脈を一つに固定してしまうことによる。そのように一つに固定するのではなくて、色々と視点を持ち替えてみれば、理解が深まってゆく。

 首相がいうように、憲法議論が盛んになったと果たして言えるのだろうか。議論が盛んになったかどうかは、改めてみると定かではない。それに加えて、理解がきちんと追いついていない。食べ物をつくるのにおいてのことで言えるとすると、時間をかけて低温で熟成させるのではなく、促成栽培として時間をかけずに早くつくろうとしているかのようである。

 食べ物をつくることにおいて、促成栽培のようなものだと、時間をかけないで早くつくることができる。そのほうが効率はよいわけだが、適正さの点では疑問符がつく。効率さというのは、はじめの目的がそうとうにしっかりとした正しいものでないと、まちがった方へどんどん進んでいってしまいかねない。そうした危うさがある。

 憲法議論が盛んになったと首相は言うわけだけど、これは、立場を異にする者どうしのあいだで対話が成り立つのを信じているわけだろうか。もしそれを信じているのだとすると、国内での憲法議論だけではなくて、国どうしの外交にも当てはめられるのがありそうだ。それとも、国どうしの外交ではそれは当てはまらないのだろうか。

 国どうしの外交で対話が成り立ちづらいことがあるように、国内の憲法議論においてもきちんとした実のある対話(議論)があまり成り立っていないのは無視できそうにない。首相が言うように議論が盛んになったというよりも、それがうまくかみ合っていない。残念ではあるが、そちらのほうが事実なのではないかという気がする。

 国内での憲法議論と、国どうしの外交での対話をいっしょくたにするべきではない。ちがう話だ。そうしたことが言えるかもしれない。そうしたのはあるわけだが、なぜ国どうしの外交での対話のことを持ち出してみたのかというと、それは首相による一部の他国への強硬な姿勢があるからだ。一部の他国へ向けて、もはや対話の局面は終わった、みたいなことを言っている。そのように対話を軽んじてしまうのではなく、国内での憲法議論のように、対話をうながしてみたらどうだろう。けっして簡単なことではないかもしれないが、試しとして一石を投じるくらいは多少はできるものだろう。小石でもよい。

 国会での答弁において、対話ではなく、独話の演説になっているのがしばしば目だつ。憲法議論をまともにしっかりと行なうためには、憲法議論ではないほかのことについても、ちゃんと対話や議論が成り立っていないとならない。それができていないで、なぜ憲法議論だけがきちんと行なえるのだろう。聞かれたことにきちんと受け答えないのや、対等な立場でのやりとりになっていず、地位や数の論理にものを言わせるようなのが少なからず見うけられるのは残念だ。こうしたことは、議論や質疑応答にたいする初歩の基本の技術がいちじるしくないがしろにされてしまっているせいなのがある。

 国内での憲法議論においては、立場のちがいを無視できそうにない。改憲か護憲かというのがあるわけだけど、それとは別に、決着がつくかつかないかというのもあるという。決着がつくというのは、一つの答えがあるとすることである。決着がつかないとするのは、いくつもの答えがあるとするものだ。このちがいにおいて、決着がつくとする立場とつかないとする立場のあいだで、そう簡単に議論(対話)が成り立つとは思いづらい。それがたやすく成り立つとするのは理想論であり、現実論とは言いがたいところがある。話がかみ合いづらいのがある。

 決着がつくこともないではないかもしれないが、その一方で、決着がつかないおそれも無視できそうにない。決着がつかないことであれば、それについて時間をかけたり労力をかけたりすることに合理性があるのかどうかを見ることができる。時間や労力は無限にあるわけではなく、有限さをもっているものなのだから、ほかのものにそれを振り向けたほうが有効なことがある。これは優先順位をどうつけるかということである。

 国民の益に直結しやすいようなことが、憲法議論のほかにあるとしたら、それを優先させるのも手なのは確かだ。ゆるがせにできない重要なことが憲法議論のほかにあるとしたら、それを優先してやらないでいるのは誠実なあり方とは言いがたい。憲法を変えればたちどころにそれが国民の益に直結するとはちょっと見なしづらい。憲法を改正するための国民投票というのがあるわけだけど、それをやったとして、あとに深刻な遺恨が国民のあいだに残らない保証はない。ことさらに憲法を変えなくても、国民の益になるようなことがほかに色々とあるのではないかという気がする。少なくとも、そうした問いかけをほんの少しくらいはしてもよいだろう。

広告を非表示にする

世界中が憧れるというのは、映画の宣伝でいう、全米が泣いたみたいなのと通じるのがあるかもしれない

 日本は、世界中から憧れられる国である。何としてでも生きてゆくことができる。もし働けないとしても、生活保護の制度がある。そのように生きて行けるような環境がきちんと整っているのが日本であるから、もしある人が貧困なのだとしてもそれはあくまでも自分の責任であるのにまちがいない。日本を批判するのはしてはいけないことである。たんに受けたいだけか強欲なだけだ。まともな一歩を踏み出すべきである。

 このような趣旨のツイートがツイッターでつぶやかれていた。ここで言われる日本とは、ほんとうに実在する国なのだろうかというのがちょっといぶかしい。仮想の国なのではないかという気がする。すごく上げ底にされてしまっている。そのため、日本の国が超越の位置にまつり上げられてしまっているふうである。

 価値客体として日本の国があるとすると、それをどのように見なすのかは、一人ひとりの価値主体による価値判断でちがってくる。人によってはすごく満足しているのもあり、また逆にすごく不満をもっている人もいる。そうした色々な見かたを足し合わせることで、日本の国の社会的価値がなりたつ。上からこうだと決めつけるというよりも、下から積み上げて行くことができるものだろう。

 事実としてこうだというのが言えるわけだけど、そこに価値が少なからず入りこんでしまうのがある。その入りこんでしまう度合いが高いと、事実からかけ離れたものになってしまう。そのかけ離れてしまったものと、事実としてこういうことがあるというのを比べてみると、整合しないようになる。不整合になってしまうのであれば、改めて見かたを見直すことがあるとのぞましい。

 非の打ちどころがないほど生きて行くための環境が整っているのが日本だとしてしまうと、さまざまな社会の問題がすべて捨象されてしまい、ひどく象徴されてしまう。そのように象徴してしまうと、抽象になってしまうのがあり、具体の現実をとりこぼしてしまう。もっと具体の現実のさまざまな部分に迫って行くことができそうだ。

 ありがたやとして肯定される日本というのがある。まったくの嘘というわけではないにせよ、一つの虚偽意識(イデオロギー)であるということができるとすると、少なからず現実のあり方とは距離ができてしまっている。その距離による隔たりがあることを隠してしまうのが、虚偽意識による作用である。その作用にたいする反作用として、批判がとられることになる。おおい(カバー)がかけられているとして、そのおおいをとり外すのが、批判による発見(ディスカバー)である。

 傷が一つもつかないようなのが日本であるとしてしまうと、日本の国をすごくのぞましいものだとして仕立て上げることになる。そうして仕立て上げられたものの裏には、さまざまなのぞましくないものが隠ぺいされたり抹消されたりしている。そうした負のものを指し示すことが大切だ。そうすることで、さまざまな問題を発見することができる。

 日本の国が、生きて行くためにすごくよい環境が整っているとものであると見なす。そうして見なすことが表であるとして、その裏に何があるのかということができる。もしかしたら裏では陰で泣いている(泣かされている)人がいるかもしれない。不当な目にあっている人がいるおそれがある。社会の中で、しわ寄せがかかるのは、たいていは強者ではなく弱者である。弱者にしわ寄せがかかってしまうだけでなく、強者(の一部)にとっても少なからず生きづらいふうになってしまっているかもしれない。

 表向きとはちがい、裏では泣いていたり不当な目にあっていたりする人がいる。その客観の証拠があるわけではないんだけど、資本主義ではどこかで手ぬきやいんちきやずるをしないと利益を出しづらいのがある。十分に人の待遇をよくして、きちんと時間や労力をかけていたのでは、うまみが多く得られづらい。営利の主体は利潤極大に向かってゆく。できるだけお金を多く儲けようとする。そのために、効率をとるようにして、適正な過程を省くのが手として用いられる。

 表向きでは秩序が保たれているとしても、その裏では乱雑さ(エントロピー)が増えつづけていて、それが吐き出せていない。その乱雑さとしては、たとえば国や地方自治体がかかえているばく大な財政の赤字である借金がある。これをゼロにまでもって行くめどは立っていない。乱雑さを吐き出すことができる見通しが見えていない。それでも、そうしたのはとくに問題がないのだという意見もあり、また何とかなるだろうという希望による観測ももつことができる。希望による観測をとるのはよいとしても、それが裏切られたときにはまずいことになるのがあるから、そうならなければよいのは確かである。

 乱雑さとしては、格差がおきているのが無視できそうにない。とりわけ格差の下位に置かれているのだと、生きて行くことはできるとはいっても、その質が問われないことになってしまう。ただ生きて行くことができるというだけでは、人間らしく生きて行けていることにはならない。人間らしく生きて行くのができないのであれば、質がないがしろになっているのをあらわす。人間があたかも物のようにしてあつかわれていて、量ではかられて、物象化されているのだ。人間が物のようにあつかわれるのは、生ではなくて死による世界観だ。こうしたあつかいは、格差の下位に置かれている人だけに限られることではなく、世の中に広くまん延しているものである。

 日本は世界中から憧れられるほどのよい国なんだと言うのはよいとしても、それが啓蒙のようになってしまうと悪くはたらくことがある。啓蒙の弁証法がおきることになる。啓蒙の弁証法では、神話は啓蒙であると言われる。啓蒙は神話に退化するとも言われる。そのようにして、けっきょく神話になってしまうのであれば、ある限定されたところでしか通じづらい話になってしまうし、下手をすると宗教のようになりかねない。その点に気をつけられればよい。

広告を非表示にする

否定の徒労(実存の苦悩)

 本当でないことを言う。そうして言われたことがあるとして、それを否定するのに労力がかかる。否定しようとすることが、本当ではないことなので、(言われてさえいなければ)本当は否定をすることがいらないものである。それをわざわざ否定しないとならないので、徒労となってしまう。

 本当でないことは言わないのが一番のぞましい。本当ではないことを、あたかも本当であるかのように言うのは、のぞましいことではない。そのように言うのがあるとしても、それがたとえば権力チェックであれば、目的はそれほどまちがったものではないのがある。権力チェックであれば、かりに本当ではないことがあとになって判明したとしても、自己(自集団)批判につながってくるものだから、まったく益にならないとは見なしづらい。本当ではないことを言わないようであるのがもっとものぞましいことではあるわけだけど。

 権力チェックといっても、その大事さにたいする理解がもたれているかどうかが関わってくる。そこへの理解が十分でないと、たんなる個人批判や自集団の名誉を損なわせているだけだと見なされかねない。そうしたふうに受けとられてしまう危険性は高まっている。面子(face)が重んじられているせいである。そこで忖度がはびこることになる。

 真実というのは、半分の真実であるのにすぎない。哲学者のアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドはそのように言っているという。非の打ちどころのないような完全な真実なのではないということである。こうした相対性の視点をもつのがよいのがありそうだ。そのようにすることで、本当であるように言われていることが、もしかしたら本当ではないかもしれない、として留保をつけるきっかけをとることができる。

 本当かどうかが疑わしいことを、本当であるかのように言ってしまうのだとやっかいである。それをうのみにする人も一部には出てくるわけだから、そうした人が出てくることを送り手はあらかじめ見こしておかないとならない。そうしないのであればいささかうかつである。うかつになってしまうことがまったくないとは言えないので、あまり人のことを言えるものではないかもしれないが、できるだけ気をつけられればよい。あとになって本当ではないというおそれが分かったとしたら、そこで反証のがれをするのではなく、きちんと訂正して修正することができればのぞましい。もしそうすることがないのであれば、教条主義になってしまうだろう。閉じた物語となってしまう。

広告を非表示にする

よいところを見てもよいのではという気がした(悪いところを見るだけだと偏ってしまうのがあるので)

 韓国の平昌で冬季五輪が開かれている。その五輪が行なわれているありさまについてのよし悪しを言うことができる。二つに大別できるとすれば、よいか悪いかというのがあるわけだけど、あえて開催国のありようを悪く言うこともなさそうだ。ことさらに悪いところを言ってしまうと、そうした悪いところを率先して見つけに行ってしまっているようになる。これは排外思想や民族差別につながりかねないから、あまりやらない方がよいことだろう。内集団と外集団があるとして、内集団ひいきになってしまうのではまずい。多少の懸念や心配をするのはあってもよいだろうけど。過度の不当な一般化にならないようにできればよい。

広告を非表示にする

原因は個人というより社会にあるような気がしてならない

 とりあえず路上でまずははじまるんだろうね。ネットカフェ難民の人たちが、ネットカフェから離れて、ちがうところから生活するさいに、まずは路上からはじめることになるのだという。これはテレビ番組の中で言われていたことのようなんだけど、この発言にはちょっとびっくりしてしまった。なんで路上からはじまらないとならないのかが納得できない。路上といっても、色々な地域や色々な場所があるから、一概には言えないものである。

 路上だと、ネットカフェの環境よりもさらにずっと質が落ちてしまっていることになる。おそらくじっさいに経験したことがないだろうにもかかわらず、なぜ路上でまずははじめるようにするなどということが言えるのだろう。かりに経験があったとしても生存者バイアスがはたらく。いちど路上の生活をすることになれば、そこから脱するのは簡単ではない。住所がないわけだから、不安定のきわみである。日本では、住所がない人はきわめて厳しく冷たいあつかいを受ける。ネットカフェの環境と同じかそれ以上に、路上の生活からも脱しづらいのだから、解決策になっていない。

 路上で生活するとなれば、雨や風などといった自然の厳しさに直接にさらされることになる。体の弱い人であれば、病気になったり死んでしまったりしかねないことである。そうして体の弱い人には生命の危険性が高いのだから、路上で生活するのをすすめるのはのぞましいこととは言えそうにない。

 ことわざでは、衣食足りて礼節を知る、なんていうのがある。恒産なくして恒心なし、とも言われる。最低限の衣食住というのは、基本の必要(ベーシック・ニーズ)であるということができる。この必要は自然であるものである。そうしたものは、みんなに分け与えられて当然のことだというふうに見なすことができる。それが満たされなかったり偏っていたりするのであれば、分配の正義において、不正義になってしまっているのがありそうだ。

 テレビ番組の中では、ネットカフェの環境におかれている人がとり上げられていたようなんだけど、その人について、ちゃんと働いてほしい、というふうに言っていたという。そのように、ちゃんと働いてほしいというのを言うのは、一つの意見としておかしなものではない。とりわけ、普通はそのように言うことができるものではあるけど、そこで、しかしと言ってみたいのがある。しかしと言ってみたいというのは、ちゃんと働いてほしいということで終わりになってはまずいのかなという気がするからである。

 ちゃんと働いてほしいというのもあるわけだけど、それとは別に、ちゃんと聞いてほしい、と言いたいのがある。ネットカフェの環境におかれている人は、それぞれがみな色々な事情をかかえているものと察せられる。これはネットカフェの環境におかれている人に限られない。みなが色々な事情をかかえているのがあるのに、それがちゃんと聞きとどけられていず、一般論を押しつけられてしまう。ここに不幸の元がある。需要(ちゃんと聞いて)にたいして、供給(ちゃんと働いて)が合っていないのである。

 社会や政治において、儒教でいわれる仁の徳が薄くなっていて、消えて無くなる寸前であるとまで言えるのがあるためかもしれない。ここで儒教の仁の徳を持ち出してしまったのは、唐突なところがあるのは確かであり、またにわかの知識でしかないのも確かなんだけど、人が二人(以上)いるのをさす字が仁であることから用いてみたものである。仁の徳は愛によるものだが、そうではなく、一般論が一方向で押し通されて、つき放されてしまうのである。軽べつのまなざしが投げかけられて、自己責任だということで片づけられてしまう。

広告を非表示にする

運行においての効率と適正のかね合いがありそうだ

 女性専用車両に、三人の男性が乗りこむ。それで、一二分ほどの電車の遅延がおきたという。東京メトロ千代田線での朝のできごとである。女性専用車両に乗りこんだ三人の男性は、女性専用車両が設けられていることに反対している人たちであるそうだ。抗議を訴えるための行動であると見られている。

 女性専用車両に、女性以外の男性が乗ったのだとしても、とくに罰則はないのだという。罰則がないのであれば、完全義務とはいえず、不完全義務であるといえる。その不完全義務を、三人の男性はとらなかったわけである。電車会社がとっているあり方とはまたちがったあり方を三人の男性はとっている。

 この三人の男性は、女性専用車両に反対だとされるわけだけど、それが設けられていることについて、まずその必要性があるかどうかを見ることができる。電車の車両の中で女性は痴漢の被害を受けることがあるわけだから、必要性はあると見なせる。そうして必要性があるとして、それについて許容することができるかどうかがある。許容範囲内にあるのかどうかということだ。全車両のうちで少ないものであれば一車両だけであるし、時間帯も限られているようであり、そこは許容範囲内にあるということもできるのではないか。なかには、許容できないという人もいるかも知れず、その中に三人の男性は入っているのだろう。

 女性専用車両があることが、はたして特権の要求なのか、それとも権利の要求なのかというのがある。特権とまではいえず、権利の要求ということであれば、妥当さをもっていると見なせる。もし特権となっているのであれば、不当であるとできなくはない。

 三人の男性がとった行動は、はたして正義の実践ということでいうと、それにかなっているものなのだろうかというのがある。そのさいの正義とは、一人ひとりの人間がもつ基本的人権の尊重をうながすものである。生命本能の満足である。それをうながすうえで、女性専用車両が設けられているのは、少なからず適したことだというのを軽んじられそうにない。女性だけではなく、身体に障害を負っているなどの弱者の人も利用できるのだという。

 朝や夜の電車の混雑で、いちじるしい苦痛を受けてしまったり、痴漢の被害がおきやすくなったりするのがあるとして、それは構造の問題だというふうに見なすことができそうだ。そうしたところの問題を発見することがあればよい。そのさいに、どういった状況にあるのかというのを色々と見ることができる。小状況から大状況まであり、それらを合わせて、論点をとるようにすることができればよさそうである。固定した和の奪い合いのようにならず、利用者の効用の和が全体として増えるようなことができればさいわいだ。

広告を非表示にする

先制攻撃が有利だというのは、それが悪だからだというのがありそうだ(きちんと義務を守り、いかなるさいにも悪いことをしないようにするほうが、少なからず有利だともできる)

 専守防衛はあくまでも守るつもりである。そのうえで、首相はこのように述べている。防衛戦略として考えれば、専守防衛は大変に厳しい。相手の第一撃を甘受して、国土が戦場になりかねないものだ。先に攻撃した方が圧倒的に有利だ。

 ちょっとたとえは物騒ではあるかもしれないけど、人殺しにおいて、先に人を殺したほうが有利だ、というようなものだろうか。このたとえは、的を得ているかどうかに絶対の自信はないんだけど、そもそもが、人を殺してはいけないという決まりがあるのは確かである。その決まりの部分を無視できそうにはない。そこを無視してしまえば、先に人を殺したほうが自己保存には有利ではある。

 国際法においては、侵略や先制攻撃は明らかに違法であるとされているようである。これは、ある国が武力や軍事力をもっているとして、その力の違法な使い方にあたるのが、侵略や先制攻撃であるのをさす。ゆえに、正当化されるものではない。

 自衛を目的とした先制攻撃はどうかというと、それを理由にしたものも認められるものではないという。名目のうえで自衛とするのだとしても、それは名目のうえであるのにすぎない。あくまでも、相手からの武力の攻撃があってはじめて自衛としての自国の実力を活用することができる。

 首相は、先制攻撃をしたほうが有利だという。これを言い換えることができるとすると、法を守らないで、犯罪をしたほうが有利だ、と言うことに通じる。ここで想定されているのは、みんなが穏やかに暮らしているあり方ではなく、みんながおびえて不安に暮らしているようなあり方である。そうしたおびえや不安をできるだけ平和的な手段により払しょくするのが政治の役割の一つなのではないか。そうした負の感情をそのままにするのみならず、権力の維持に利用するのであれば、それはのぞましいこととは言えそうにない。

 先制攻撃の有利さが現実味をもった状況とは、たいへんに悲惨なあり方である。戦争状態だ。そうした悲惨なあり方をどうやってよい方へ変えてゆくのかがある。悲惨を悲惨のままにしておくのであれば、まっとうなあり方とは言えそうにない。世界において、秩序が崩れてしまっていることで、そうしたあり方となってしまっている。秩序が崩れたままでよいとすることになりかねない。

 先制攻撃がかりに有利になるのだとしても、それだからといって、そこからそのまま判断を導いてしまってよいものだろうか。そうしたことが現実味をもっているのだとしても、そうした現実がまちがっているおそれがある。とすれば、そうした現実からそのまま判断を導いてしまうこともまたまちがいとなりかねない。そこに留意するのがあったらよさそうだ。

 人間が人間を攻撃するために、武器を開発する。そうして武器の能力が発達していったために、先制攻撃をすることが有利になってしまった。そうした背景があるそうなのである。この背景を改めて見ることができるとすると、武器を発達させてしまったことがあだになってしまい、人間が人間の首を自分でしめているのがうかがえる。発達させすぎてしまった武器を、手放したり、または退化させたりすることができればよさそうだ。とはいえ、そのようにすることは難しいのがあるのは確かだろう。難しいからといって、あきらめてよいものとも思えない。

 専守防衛は厳しいということだけど、そこから脱して、先制攻撃をこちらができる能力をもつ。そのようにすると、かえってこちらが先制攻撃を受ける危険性もまた高まる。なので、逆効果にはたらくおそれがないではない。被害を受けるのをおそれるあまり、逆にこちらが加害者になってしまうのだとしたら、本末転倒だ。そうしたことが絶対におきないという確証はまったくない。先制攻撃は、それだけで終わりであることにはならず、始まりであるということである。

 先制攻撃が有利だというのは、きわめて悲惨なあり方の中においての話である。そうした話をいったんわきに置いておけるとすると、先制攻撃が有利ではないあり方もあると見なすことができる。合理として見れば、国が先制攻撃をしてそれで終わりとはなりづらいわけだから、有利になるとは言いがたい。先制攻撃そのものが悪いことであるのだから、そのごに永続として非難されつづけるのを覚悟しなければならない。

 先制攻撃をしたとすれば、した側が苦しむことになるし、苦しむべきである。先制攻撃をする(した)ことを合理化してはならないものだろう。もし先制攻撃をしてしまったり、戦争をしてしまったりした過去をもつのなら、不戦の誓いをいま一度確かめて見直すことがより早急にいるのではないかという気がする。敵基地攻撃能力をもち、先制攻撃ができるのでなければ、国民を守ることはできない、とは必ずしも言えないはずだ。結論を単数化せずに、複数でもつことができるはずである。

 参照した文献:『「集団的自衛権」批判』松竹伸幸、『幻想の抑止力』松竹伸幸、『集団的自衛権はなぜ違憲なのか』木村草太、『ケルゼンの周辺』長尾龍一、『中高生のための憲法教室』伊藤真、『幸せのための憲法レッスン』金井奈津子。

広告を非表示にする

わが国の国土や歴史に愛情をもつように自覚をうながす、と記したのは誰なのかとして、その意図を色々と推しはかれる

 わが国の国土や歴史に愛情をもつ。そのような自覚をうながす。高校の地理歴史の教科で、そのような目標を明記することが、文部科学省によって決められたという。国を愛する心を生徒に持ってもらおうとするもくろみによるのがありそうだ。

 目標としてかかげられているものである、わが国の国土に愛情をもつというのは、いったいどういうことなのだろうという気がした。今まで生きてきて、国土に愛情を持ったことはちょっと思い当たらない。国土を愛するというのは、ちょっとおかしなことなのではないかという気もしてしまう。国土と言われても、抽象によるものであるし、人為によるものでもあるし、広いし、無機物でもある。それよりかは、生まれ育った郷土を愛するというのなら、わからないではない。

 わが国の国土や歴史に愛情をもつように自覚をうながすとして、そうすることでどういった利点があるのかを示せればよい。こういったよいことがあるから、このようにするのがよい、となっていれば、根拠が示されていることになる。欠点がひそかに隠れていないかも見のがせない。そうしたのがなくて、ただ愛情の自覚をもてと言われても、説得性としてはどうなのだろう。過去の歴史をふり返れば、自国に愛情をもちすぎて、おかしな方向に向かい、狂ってしまった例がある。

 教科書に書いてあることは、本当かどうかは必ずしも確かではないので、疑う視点も忘れずにもちましょう。こんなふうな指導をしたらどうだろうか。教科書に書いてあることにかぎらず、新聞に書いてあることや、テレビで言っていることや、政治家の人が述べていることなどにも、疑う視点をもつ。そうしたふうにすれば、素直であるがためにだまされてしまうのを多少は防げる。はなから疑ってかかるというのだとちょっと行きすぎてしまうかもしれないが、はなから信用してしまうのはちょっと危険であるだろう。気を抜いていると、ついついうかつに信用してしまうこともあるのは確かである。

 一人ひとりの生徒の見識が少しでも高まってゆくのであればよい。そうしたのがあるとして、そのために、わが国の国土や歴史に愛情をもつという自覚がいるのかというのがある。かえって阻害してしまうというか、じゃまになってしまうおそれもないではない。教条主義のようにして、これこれでなければならないとするのではなく、生きて行く中で、色々な情報に接して、自分の中で定点のようなものを形づくることができればよい。自分がどこの国に属しているのかというのは、偶有性によっているのがあるので、必ずしもそれに愛情を持たなくてもよいような気がする。そうした愛情は、(国という)特定の囲いの中でしか通用しづらいものである。

広告を非表示にする

持っているものさしのちがい

 朝日新聞は、いくつものまちがった報道をしている。そのように首相は国会で述べている。いかに朝日新聞が事実とは異なった報道をしたのかを、いくつかの例を出して述べ立てる。およそ五分ほどそれは続いたという。そのさい、そこで言われている例が、ほんとうに誤報と呼べるものなのかというのがある。そこを改めて見ることができそうだ。

 そのように改めて見ることができるのに加えて、表出と秘匿の関わりによるやっかいさもある。朝日新聞誤報をいくつもしているとして、首相が国会で発言をすることは、一つの表出である。その表出は、何かを表に出しているものであるが、それと同時に何かを秘匿しているものでもある。表出することが、何かを秘め隠すものとしてはたらく。その秘匿しているのは、たとえば自分のまちがいであったり、他のもののまちがいであったりする。一つの表出によって、ほかのちがうものを秘匿するはたらきをしてしまうのがあるから、そこに目を向けることができる。

 国会における首相の立場は、中立であるものとは言いがたい。全体を代表しているようによそおうことはできるかもしれないが、じっさいには部分しか代表してはいない。全体をまんべんなく代表しているわけではないのであり、首相という存在は、ある特定の立場による拘束を被っているということができる。これは、存在被拘束性といわれるものである。社会学者のカール・マンハイムという人が説いたことであるという。

 首相だけがそうした存在被拘束性をこうむっているのではなく、朝日新聞もまたそれをこうむっているのは確かである。お互いにそうしたところがあるというわけである。どちらかだけが偏っていて、もう一方は偏りがない、というわけではない。自分の立場というものに規定されてしまっているのがあるので、そこを少しくらいは自覚することができれば、ほんの少しくらいは有益な言い合いができそうである。まったく無自覚であると、不毛な言い合いになってしまうのがある。

 朝日新聞は数々の誤報をしている、という見かたに確証をもつ。そうした見かたには、認知の歪みがはたらいているおそれがなくはない。これこれこういったことだから、誤報をしているというふうに言えるとして、それを改めて見るととらえちがいになっているということもある。そうしたとらえちがいがおきてしまうのは、存在被拘束性があるためだということが一つにはできる。

 何ごとも、悪い面ばかりではなく、よい面もまたあるわけだから、そのどちらか一方だけではなく、両方を見ることができれば偏らなくてすむ。数々の誤報をしているとしてしまうと、悪い面だけをとりあげてしまうことになりかねない。それがはたして公平なとりあげ方なのかといえば、そうとは言えそうにない。悪い面を言ったのであれば、よい面もまたとり上げたらどうだろうか。そのように悪いのとよいのを両方とり上げるのが、いつもよいことだとは言えないし、いつもやる必要があるとも言えないが、抑揚がとれることは確かである。印象操作を避けることができる。

 報道機関が誤報をしたとして、それは失敗ではあるが、たんにそうであるだけではなく、一つの資源であるというふうにもできる。とり返しがつかないような、致命的といったほどのものでなければそのようにとらえられる。その資源を生かして、これから先に成功するようにできればよい。失敗は成功の母である。そのようにするためには、うまく資源を生かすようにして、失敗を省みて、これから先にそれを生かせるように改善をしてゆく。そうして、報道の質が上がれば、国民にとって益になることが見こめる。

 報道機関が権力へだめ出しするのを、ポジ出しすることもできるのではないか。そうではなく、権力にポジ出しして、報道機関にだめ出ししてしまうようでは、権力が腐敗しかねない。さじ加減があるものではあるが、抑制と均衡(チェックアンドバランス)をはたらかせられたらよさそうだ。政治とともに、日本では社会の中で、経済権力が幅を利かせすぎなふしがある。それが超過搾取や格差を生んでしまっている。経済による評価は、たんに一つのものさしによるのにすぎない。それで一元化することはできないものである(じっさいには量で一元化されてしまってはいるが)。

 失敗は一つの資源というのがあるとして、失敗を失敗であると見切ってしまうのも一つの手である。そのようにするのではなくて、うわべにおいて成功しつづけているとしてしまうと、見切ることができなくなる。このようになってしまうと、(政権を)切り替える機会を失ってしまいかねない。早めに切り替えたほうがよいことが、可能性としてあるのはたしかである。

 目ぼしい替えが見あたらない中で見切ってしまうのは、そこにためらいが起きてくるのがある。そうしたためらいが起きるのは不自然ではない。そのうえで、かりに今ある政権を一つの着想と見立てることができるとすると、その着想を思いきって捨ててしまうことで、また新しい着想が生まれ出てくる。このように、よい着想が出てくるまで、今あるものを捨てていってしまうのが、一つの着想法のコツであるというのがあるそうだ。そのようにすることで、部屋の換気のために窓を開け放つように、空気が入れ替わるのである。

 何でもかんでも早く捨ててしまって切り替えればよいというわけではないのは確かだけど、撤退をできるだけ迅速にすることで、傷が深くならないようにするための手とできる。そのように撤退を早くすることができれば、説明責任(アカウンタビリティ)が保てる。もし何かあったらすぐに政権を切り替えることができる、というのがあることで、はじめて説明責任が成り立つ。それがなければ、説明がなく責任もとらないあり方が許されてしまう。

広告を非表示にする