円安と生活の関係性を考える

 円安であったとしても、生活には何も関わりがない。そうつぶやかれている。

 もしも生活が苦しいのだとしたら、それは円安のせいではない。あなたが悪い。ウェブの X(Twitter)ではそうしたつぶやきが言われている。

 円安であろうとも、円高であろうとも、人々の生活には何の関わり合いもないことなのだろうか。円安で物価高になって生活が苦しいのは、自分のせいなのだろうか。

 いまはかなり円安になっていて、一時的に円が一六〇円に達した。

 為替で円が安くなったり高くなったりすることに、何の関心も持たなくてよいのかといえば、そうとはできそうにない。為替の円の値の動きには、つねに関心を持っていたほうが良いのである。関心を持たないよりも、持っていたほうがのぞましい。なぜかといえば、生活に関わるからだ。いろいろな商品は、外から輸入されたものからなりたつものが少なくない。

 自己責任論によるのだと、円安で物価高で生活が苦しいのは自分のせいだとされてしまう。自己責任論によらないようにして、挙証の責任を転じるようにしてみたい。挙証の責任を転じてみると、自分が悪いのであるよりも、自分をとり巻く外の状況に悪さのもとを見いだせる。人々の生活を安んじさせるのが政治の主の役割の一つだ。

 ばあい分けをしてみたい。ふ分けをしてみると、円安であってもよいのと悪いのがある。円高であってもよいのと悪いのがある。

 物価についても、物価安でよいのと悪いのがある。物価高でよいのと悪いのがある。

 アベノミクスは、円安が良いのだとした。物価高は良いのだとしたのである。円安で悪いのと、物価高で悪いのをとり落としている。

 アベノミクスがとり落としているところのものである、円安で悪いのと、物価高で悪いのが、いまの日本ではおきていそうだ。

 状況の思考によってみてみると、アベノミクスがしているように、円安だから良いとか、物価高だから良いとは含意をこめられそうにない。状況によっては、円安で悪いことがあるし、物価高で悪いことがあるのだ。

 どういうことがアベノミクスでは欠けていたのかといえば、ばあい分けをしてふ分けをすることだ。あと状況の思考が欠けていた。それらが欠けていたために、円安なら良くなるのだとか、物価高であれば良くなるのだとしてしまった。円安で悪いのや物価高で悪いのをとり落とした。

 ほかにアベノミクスでとり落とされたものとしては、円高でも良いことがあるのや、物価安でも良いことがあることだろう。円高は悪いとか、物価安は悪いのだと決めつけたのがアベノミクスだった。ばあい分けをしてふ分けをするのや、状況の思考によるのが不十分だった。

 いまの日本は、事実として円安や物価高がおきている。何々であるの事実(is)から、何々であるべきの価値(ought)を自動では導けそうにない。たとえ事実として円安や物価高になっているのだとしても、そうだからといってそれらが良いとはかぎらず悪いことがある。

 事実から価値を自動で導いてしまったのがアベノミクスだった。自然主義の誤びゅうにおちいっていたのである。たとえ円安や物価高の範ちゅう(集合)であったとしても、よい円安やよい物価高だけではなくて、悪い円安や悪い物価高(stagflation)をふくむ。たとえ円高や物価安の範ちゅうであったとしても、その中に悪い円高や悪い物価安だけではなくて、よい円高やよい物価安をふくむ。

 範ちゅうと価値の二つをふ分けしてみると、同じ範ちゅうであったとしても正と負の価値をふくむ。いまの日本では、円安や物価高の範ちゅうにおいて、負の価値がおきていそうだ。アベノミクスがとり落としたところのものである、円安や物価高の負の価値がおきているのがあるかもしれない。

 参照文献 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『「通貨」を知れば世界が読める “一ドル五〇円時代”は何をもたらすのか?』浜矩子(はまのりこ) 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『東大人気教授が教える 思考体力を鍛える』西成活裕(にしなりかつひろ) 『思考のレッスン』丸谷才一(まるやさいいち) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『社会認識の歩み』内田義彦(よしひこ) 『十八歳からの格差論 日本に本当に必要なもの』井手英策(えいさく) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『「責任」はだれにあるのか』小浜逸郎(こはまいつお) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『幸・不幸の分かれ道 考え違いとユーモア』土屋賢二 『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや)

中央銀行の独立性と、アベノミクス

 円安がおきている。一時的に一ドルが一六〇円にまで達した。

 円安で、物価高がおきていて、生活に苦しむ人たちが少なからず出ている。経済で悪いことがおきている。そのもとは、安倍晋三元首相のアベノミクスにあるのだろうか。アベノミクスのせいなのだろうか。

 お金の価値がなくなって行く。円安は、円弱だと言われているのがある。円弱になっているのは、安倍元首相によるアベノミクスが、中央銀行(日本銀行)のあり方をこわしてしまったのがひびいていそうだ。

 中央銀行をよしとするのではなくて、それを否定する。アベノミクスではそれがなされた。中央銀行の独立性をこわしてしまい、日本の国の手下みたいなものにしてしまったのである。国のしもべにしてしまった。

 じゃまなものを、いなくさせる。アベノミクスにとってじゃまだったのが、中央銀行の独立性である。アベノミクスのさまたげになってしまう。じゃまなものはいない方がよい。じゃま者をいなくさせるようにした。中央銀行の独立性がこわされてしまう。

 お金の価値の安定性を保つ。お金が価値をもつことを保証する。中央銀行がやるべきこととしてそれらがある。それらをやるためには、独立性をもっていないとならない。日本の国の手下やしもべになってはならない。国とのあいだに一定の距離をたもつ。距離がゼロになると、独立性がなくなってしまい、中央銀行がやるべきことができなくなってしまう。

 経済をよくして行く。経済をよくして行くのは大事だけど、それとは別に、原理にもとづくことが大事だ。原理として、中央銀行のやるべきことがあるけど、そこが日本は弱い。原理にもとづいていない。

 中央銀行の独立性は、原理に当たることだけど、それの大事さがきちんとふまえられていないのである。とにかく経済さえよくして行くようにすればそれでよいのだといったことになり、無原理や没原理のあり方になってしまう。原理なんかどうでもよくて、経済さえ良くなればそれでよいのだといったことになる。

 円安はよい。良いものである円安によって、経済をよくする。円安で、景気がよくなっている。そういうことが言われているけど、それとは別に、中央銀行のあり方は悪い。独立性がなくなってしまっている。原理が無いあり方になっている。

 アベノミクスをよしとするのは、それによって経済がよくなるとされているのとは別に、じゃま者をいなくさせることが良しとされるのもある。アベノミクスのさまたげとなるようなじゃま者をいなくさせることが良しとされた。

 中央銀行の独立性をなくす。国の手下やしもべにさせる。それを良しとしたのが、アベノミクスを支持した(支持している)人たちだろう。原理なんかどうだってよいのであり、とにかく経済さえ良くなればそれでよいのだとしたのである。経済が良くならなければ、何にもならない。

 さまたげやじゃま者がいないほうが良いのではなくて、いたほうが良かったのがアベノミクスだろう。さまたげがあったりじゃま者がいたりしたほうが、アベノミクスに抑えがきいた。円がそこまで安くならずにすんだ。円が弱くなりすぎるのを避けられたのである。

 成功したことによって、失敗した。それがアベノミクスなのかもしれない。さまたげやじゃま者をいなくさせることによって、アベノミクスをやることには成功したけど、抑えがきかなくなることによって失敗した。

 もしも抑えをきかせられていれば、アベノミクスをやることには成功しなかっただろうが、成功しないことによって、大失敗を防げた。アベノミクスが十分に成功しないことにより、大きな失敗をしでかさずにすんだのである。

 原理によらないものなのがアベノミクスだった。原理をひどく軽んじるものだったのである。アベノミクスから逆に浮かび上がってくることは、原理の大事さだ。中央銀行の独立性の大事さがあり、それをこわしてしまったことによって、抑えがきかなくなって、いまどんどん円が安くなっていて、円が弱くなっているのがありそうだ。

 なんでアベノミクスがよしとされたのか。なんで多くの人たちから支持を受けたのだろうか。なんでアベノミクスが成功したのかといえば、それは原理によらなかったからであり、原理をひどく軽んじたからだろう。日本は無原理や没原理なところがあるからだ。それによって成功はしたけど、成功したことで逆に失敗した。(アベノミクスをやることに成功するのではなくて)失敗したほうがよかったのがあり、抑えをきかせたほうが良かったのがアベノミクスだろう。

 参照文献 『「通貨」を知れば世界が読める “一ドル五〇円時代”は何をもたらすのか?』浜矩子(はまのりこ) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『資本主義から市民主義へ』岩井克人(かつひと) 聞き手 三浦雅士 『思考のレッスン』丸谷才一(まるやさいいち)

アベノミクスの失敗(反証)と、反証の可能性の欠如

 円安が進んでいっている。一ドルが一五八円になっている。

 円安をまねいたのが、アベノミクスだとされているのがある。経済の政策の失敗である。

 安倍晋三元首相の経済の政策であるアベノミクスは、円安をまねいていることから、失敗したのだろうか。それともアベノミクスはとくに悪くはないのだろうか。

 どういう悪さがアベノミクスにはあるのかといえば、経済がよくなったか悪くなったかだけにあるのだとはいえそうにない。それとは別に、反証の可能性をもっていないところがあるのがアベノミクスだろう。

 うそを証明できる可能性をもつ。その可能性をもっていないと、反証の可能性がないことになる。

 アベノミクスは、反証の可能性をもたない。うそを証明できる可能性をもっていないのである。

 アベノミクスで日本の経済がよくなるとされていたけど、それがうそである見こみがあった。経済は複雑系(complex systems)によるものだから、必ず良くなるのだと断言することはできづらい。ていどをふまえることがいる。一〇割においてこうだとは言い切らないようにしておく。複雑すぎるのが経済だから、完全に未来を予測できづらい。

 アベノミクスで言われていることが、本当ではない。まことではない。そうしたことは無いのだとされていた。うそであるかどうかが、きょくたんに言えばゼロだとされていた。ほぼゼロに近い。

 うそであることはまったく無い。完全に本当でありまことである。アベノミクスが、教義や教条(dogma)と化す。たとえどんなことがあっても反証されないのであれば、それは教義や教条になっているのを示す。

 すごく期待させたものなのがアベノミクスだ。人々に期待をもたせた。日本の経済が良くなるのにちがいない。期待させることによって、経済をよくして行く。

 人々に期待をもたせることが裏目に出てしまったのがあるかもしれない。お笑いの振り(フリ)と落ちでは、期待させることが振りになって、それがうら切られることが落ちになる。期待とうら切りだ。

 アベノミクスにかぎらず、それと似ている、もしくはまったく反対のどのような経済の政策であったとしても、反証の可能性を持っていなければならない。こういうことをやれば日本の経済が良くなるのだと言われていても、それがうそである見こみがある。

 言っていることについて、まったくうそであることは無いとしてしまうと、アベノミクスと同じようになってしまう。うそであることはまったく無いのだとしてしまい、反証の可能性をもたなくなってしまう。

 いま円安がとても進んでいるのは、アベノミクスが反証されていることを示す。円安が進んでいて、物価が上がっていて、人々が生活に苦しんでいる。円安は日本人にとって良いところがまったくないのだと言われているのがあり、これはアベノミクスが反証されていることと受けとれるところがある。

 アベノミクスで言われているのではないことが現実に起きているのだとすれば、アベノミクスが反証されたことを示す。言われていたことではないことが現実に起きたのだとしても、アベノミクスは失敗していない。成功した。失敗を認めずに成功したのだとするのは、もともとアベノミクスが反証の可能性をもっていないからだろう。

 経済の政策であるのがアベノミクスだけど、それとはちょっと話がちがうものとしては、いま日本の経済はよくなっているのか、それとも悪くなっているのかがある。円安が進んでいるのは、日本の経済にとって良くはたらいているのか、それとも悪くはたらいているのかがある。

 経済についてのさまざまな見なし方がある。経済のよし悪しや、円安のよし悪しについてだ。経済が悪かったり、円安が悪かったりするのだとして、それがアベノミクスのせいなのか、それともそうではないのか。

 色々な見なし方が経済についてはできるけど、それらのどれであったとしても、反証の可能性を持つことがいる。たとえば、いま日本の経済は悪くなっているのだと見なす。円安がわざわいしている。アベノミクスが失敗したせいだ。一つの見なし方としてそう見なすことができるけど、それは絶対のものだとはできづらい。あくまでも試しとしての見なし方にすぎず、反証されることがある。反証の可能性をもっていないとならない。

 反証の可能性をもっていないことが、アベノミクスの悪いところだった。反証の可能性をもつようにしていれば、まだよかった。アベノミクスについてをそのようにとらえてみたい。

 どこに悪さがあったのかという点では、反証の可能性をもっていないことが悪かったのである。まちがいなくアベノミクスで成功するだとか、たしかに正しい経済の政策だとしたことこそが、まちがいのもとだった。これこそまさに正しい経済の政策なのだと基礎づけたりしたて上げたりしたのである。基礎づけ主義によっていた。経済の政策の中身とはべつに、政策論としてふさわしいあり方ではなかったのである。

 参照文献 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『新版 ダメな議論』飯田泰之(いいだやすゆき) 『思考のレッスン』丸谷才一(まるやさいいち) 『大学受験に強くなる教養講座』横山雅彦 『うその倫理学』亀山純生(すみお) 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫(かおる) 『「複雑系」とは何か』吉永良正 『うたがいの神様』千原ジュニア 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫

日本の国の心でっかちや心主義のあり方と、教育勅語

 教育勅語(ちょくご)を政治家がよしとする。そのことについてをどのようにとらえられるだろうか。

 教育勅語によって、背すじが伸びるか、それとも背すじが凍るか。好きか、きらいか。どちらの受けとり方になるのかを、政治家がウェブの X(Twitter)によって調べていた。X の利用者に問いたずねていた。利用者の回答の数を調べる機能が X にはある。

 勅語とは、天皇の命令の言葉である。天皇の意思を表示したものだ。教育に関する勅語なのが、教育勅語である。戦前の一八九〇年に発布された。戦前の日本は勅語の体制だった。

 何をうたがうようにするべきかがある。教育勅語そのものであるよりも、それをよしとする政治家をうたがう。政治家を疑うようにすることがいるのがある。

 固有の性質によるのが教育勅語である。(受けとり方によっては)いくら文章の中によいことが記されているからといっても、特殊なものにとどまる。普遍のものではない。

 つねに当てはまる性質なのが普遍のものだ。教育勅語はそうではないけど、いまの日本の国の憲法は普遍のものである。政治家であるのであれば、教育勅語をもち出すのは意味があまりない。批判するために持ち出すのでないかぎりは、意味がほとんどない。

 どういうことが実践の正義に当たるのかといえば、政治家が教育勅語をもち出すことがそれに当たるのだとはできづらい。教育勅語をもち出す政治家は、何かよからぬ意図をもっている見こみが高い。国民をだます。国民にうそをつく。

 心の中の像(image)を外に表現したものなのが表象(representation)だ。教育勅語をよしとするのは、そうした表象をもつことである。良いものとして表象しているのである。

 国民そのもの(presentation)なのではなくて、その代理なのが政治家だ。代理だから、国民の表象に当たるのである。表象であるのが政治家なのだから、うそをつくことが少なくない。批判することがいるのが政治家なのである。

 憲法であれば、制度の正義に当たるけど、教育勅語はそれに当たるものではない。政治家なのであれば、制度の正義によるようにして行く。制度の正義である憲法を、政治家が守って行く。教育勅語をもち出してもとくに国民の益にはならないが、制度の正義である憲法を政治家がしっかりと守るようにすれば国民の益になる。

 心でっかちなのや心主義なのが日本にはある。国が、人の内面に入りこみ、内面を支配して行く。政治家はそれをねらう。人の内面の支配をたくらむ。教育勅語は人の心の中を支配するねらいをもつものである。

 何かよこしまだったり悪かったりするこんたんを持っているのでなければ、政治家が教育勅語をもち出すことはあまりないものだろう。一般の人は置いておくとして、政治家が教育勅語をもち出したら、十分に警戒しておきたい。悪い意図を政治家がもっていて、それを隠している見こみが低くない。

 道徳によるのだと、日本の心でっかちやこころ主義の悪さを防ぎづらい。道徳であるよりも、法の決まりを重んじるべきだ。法の決まりでは、制度の正義として、憲法がある。政治家であるのなら、教育勅語をもち出すのではなくて、憲法をもち出すようにして、それを政治家が自分で守るようにすればよい。

 政治家が教育勅語をもち出したいのであれば、批判としてもち出すのならよいだろう。批判するのではなくてそれをよしとする形で政治家が教育勅語をもち出すのは、とくに実践の正義になっていない。政治家としての良い行動になっていないのである。表象なのが政治家だから、それを疑ったり批判したりするようにして行きたい。

 参照文献 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『ナショナリズム 思考のフロンティア』姜尚中(かんさんじゅん) 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『一三歳からの法学部入門』荘司雅彦 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『教育勅語を読んだことのないあなたへ なぜ何度も話題になるのか』佐藤広美森毅(たけし) 『日本が「神の国」だった時代 国民学校の教科書をよむ』入江曜子 『天皇論』鷲田小彌太(わしだこやた) 『政治家を疑え』高瀬淳一 『うたがいの神様』千原ジュニア憲法という希望』木村草太(そうた)

暴力を受けやすい人々、パレスチナの深刻な状況:ウクライナとパレスチナを比べてみる

 世界の紛争の地がある。

 紛争の地にいる人たちがいる。その人たちを、ぜい弱性(vulnerability)や被悪玉化の度合い(scapegoatability)の点から見てみるとどういったことがわかるだろうか。

 いま世界においてもっとも被悪玉化の度合い(goatability)が高いものの一つなのが、パレスチナの人たちだろう。

 比べてみると、ウクライナの人たちよりも、パレスチナの人たちのほうが、より被悪玉化の度合いが高い。

 より深刻なのが、ウクライナの人たちよりもパレスチナの人たちだ。なぜなのかといえば、日本における万博でのほかの国々のあつかいをあげられる。

 これから開かれる万博(日本国際博覧会)においては、ウクライナに暴力をふるっているロシアは参加がよしとされていない。参加するべきではないとされている。ところが、パレスチナに暴力をふるっているイスラエルは参加が許されているのである。

 ロシアが万博に参加するのがだめなのであれば、イスラエルもまた参加が認められるべきではない。どちらの国も、ほかの国や地域に暴力をふるって戦争をしかけているのだから、同じあつかいでないと平等だとはいえそうにない。

 ぜい弱性や被悪玉化の度合いが高い人たちを、救い出す。従属の階層(class)や被収奪者(subaltern)の人たちをすくう。どういう人たちがそれに当たるのかといえば、ウクライナの人たちやパレスチナの人たちだろう。そのほかにも世界のさまざまなところに被収奪者がいる。

 ていどで見てみると、ウクライナの人たちは被収奪者に当たるけど、それよりももっといっそうていどがひどいのが、パレスチナの人たちだろう。被収奪者になっているていどがより深い。

 ていどの軽さと重さで、軽いものは放ったらかしでもよいとはいえそうにない。ていどが軽いものには照明が当てられなくなってしまう。それだと被収奪者のままにさせられてしまう。照明をできるだけ当てて行く。関心を持って行く。自明性によるのだったり、疎遠な外部によるのだったりしないようにして行きたい。

 よりていどが重いのがパレスチナの人たちだけど、それだとていどがそれよりも少し軽いウクライナの人たちに照明が強く当たらなくなってしまう。これまでよりも照明が当てられなくなり、関心が向かなくなってしまうから、関心を持続して持ちつづけることがいる。

 万博においてのあつかいなんかからすると、ロシアにたいするあつかいはまだ良い。ロシアは悪いことをやっているから、万博への参加がこばまれている。そのいっぽうで、イスラエルにたいするあつかいはおかしい。イスラエルへのあつかいがおかしいから、パレスチナの人たちの被悪玉化の度合いが高まってしまっている。

 どういう人たちが、暴力を振るわれやすくなっているのか。暴力が振るわれやすい度合いからすると、いまはパレスチナの人たちがそれがもっとも高い人たちの一つに当たる。

 度合いが高くなっているのを下げるためには、せめてイスラエルについてをロシアと同じくらいのあつかいにするべきだ。ほんとうはどちらの国も同じくらい悪いのに、イスラエルは良くてロシアは悪いとしてしまっているから、パレスチナの人たちの被悪玉化の度合いがうんと高まっていて、まずい状況だ。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫ナショナリズム 思考のフロンティア』姜尚中(かんさんじゅん) 『差別原論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』好井裕明(よしいひろあき) 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明ポストコロニアル 思考のフロンティア』小森陽一

政治のうら金の、根本(radical)の原因の解明

 政治のうら金を作らせないようにして行く。そのためにいることは一体どのようなことなのだろうか。

 どのような法の改正をすれば、うら金の再発の防止になるのかがある。

 あくまでも現象に当たるものなのが、政治でうら金が作られることだ。

 意味がなかったり効果がなかったりすることをやっても、再発の防止にはならない。意味や効果がないこととして、現象に手を打ってしまうものがある。

 何をやらないとならないのかといえば、すみやかにうら金についての法の改正をすることだとはいえそうにない。たとえすみやかに法の改正をやったとしても、現象に手を打つことにしかならないのであれば意味がない。効果がないのである。

 うわべにおいて、うら金の法の改正がなされるのだとしても、そこをよくよくじっくりと見てみないとならない。たんに現象に手を打っているだけなのだとしたら、何か意味があることがなされたのだとはできそうにない。意味がないことがなされてしまう。

 現象についての、原因をさぐって行く。核心に当たる原因を探るようにする。要因を体系(system)として分析して行く。もれなくだぶりなくの MECE(mutually、exclusive、collectively、exhaustive)によるようにする。

 核心に当たる原因をさぐって行くためには、なぜなぜ分析をやって行く。民間の自動車会社のトヨタ自動車でやられているものである。なぜそうなのか(why so?)の問いかけを何回もくり返す。現象のおくまで深く見て行くようにする。

 政治への不信がおきているのがある。うら金が作られたことによる。政治の不信がおきていることもまた、あくまでも現象に当たるものにすぎない。現象に手を打つのでは、政治の不信を改めることはできない。

 与党である自由民主党の政治家は、政治の不信について、現象に手を打っているのにとどまる。政治の不信をまねいたことを、おわびしているのがあるけど、おわびするだけでは現象に手を打っているだけであり、原因に手を打っていることになっていない。

 ほんとうに政治の不信を改めようとするのであれば、その現象の原因をさぐって行く。うら金を片づけるのと同じことをやることがいる。現象に手を打つのだと意味がないから、核心に当たる原因を見つけて行く。核心のところに手を打つのでないとならない。

 ものごとを二つにふ分けしてみると、現象と原因に分けることがなりたつ。あと周辺と核心にふ分けすることもなりたつ。政治のうら金のことや、政治の不信のことでは、現象や周辺にとどまっていては、意味があることができないのである。そこに注意したい。

 現象や周辺にとどまるのだと、たとえ意味があることをなそうとしてもそれをなすことができない。核心に当たる原因を探っていって、それを見つけ出すことがいる。要因を体系として分析するのや、もれなくだぶりなくの MECE や、なぜなぜ分析がしっかりとやられているかどうかがかんじんだ。過程にしっかりと労力をかける。それで結論(conclusion)を出して行く。

 参照文献 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『考える技術』大前研一橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『トヨタ式「スピード問題解決」』若松義人 『中高生のための憲法教室』伊藤真(まこと)

失敗する投資:万博は投資として見たら成功の確率が低い

 はたして、万博をやることは投資になるのだろうか。

 二〇二五年に関西で行なわれるのが、日本国際博覧会だ。

 かなり難しいものなのが投資することだろう。それに成功するよりも失敗する見こみのほうが高い。

 国が赤字をするのは原則としては禁じられている。その例外として、あとに残る建て物などは赤字が許されている。建設の国債だ。

 万博で建てた建て物は半年したらとり壊されるのだという。形としてあとに残るものではないから、赤字が出たさいに正当化することはできそうにない。

 主体についてを見てみると、国や大都市などの体制(establishment)は投資には向いていそうにない。すでに権力をにぎっている体制からはすぐれた発想が出てきづらいのである。多数派からよい案は出てきづらいのがあり、創造性が低い。

 反対の勢力(opposition)を排除するのが強いのが日本の国の政治だ。反体制(anti-establishment)を排除してしまっている。体制派や多数派だけでものごとを進めることが多い。体制では、世襲の政治家が力をもつ。それによって創造性が落ちてしまっているのである。

 すでにあるていどお金や労力をかけてしまっていると、とちゅうで引き返せなくなってしまう。埋没の費用(sunk cost)のさっかくだ。合理ではなくて不合理なことをしてしまう。

 不合理なことがとちゅうでわかったら、すばやく引き返す。そうできればよいけど、ぐずぐずしてしまい、ずるずるとやり続けてしまうことが多いから、不合理なことがなされてしまうのである。

 とちゅうで引き返すのは消極だ。消極なのがあるからそれをできづらい。あたかもやり続けるほうが積極であるかのようになってしまう。

 いかにすぐに引き返すことができるのかが大事だ。洋服の会社であるユニクロ柳井正(やないただし)氏はそう言う。見切りの値うちである。すぐに引き返せれば、受ける傷は浅くてすむ。ぐずぐずしていると、あとになって受ける傷が深くなるはめになる。痛手が大きい。不確実性への備え(contingency plan)がいる。受けることになる傷をできるだけ浅くするためのものだ。

 戦いは、はじめるのは簡単だが、やめどきが難しい。木に登ることでは、いったん木に登ったとして、そこから降りるのが難しくなる。木に登ったのはよいとして、そこから降りられなくなるのである。

 とり組んでいることへの参与(commitment)がどんどん上昇して行く。ゆでがえるの現象がおきる。不合理なほうにどんどんつき進む。下手をするとそうなってしまう。完全にお湯の中でかえるがゆで上がる。

 万博においては、それを良しとしているのが体制で、それに反対しているのが反体制だ。体制であるよりも反体制のほうが正しいところがあるのが万博だろう。体制よりも反体制のほうが創造性がより高い。体制派は、創造性が低い。

 疑わしいところが少なくないのが、万博を投資だととらえる見なし方だ。すごい利益になるものなのであれば、すごい危険性があることが少なくない。たいして利益にならないことなのであれば、危険性もそれだけ少ない。利益と危険性が相関しているのである。

 政治で何かをなすさいに、長期の視点にはよりづらい。長期の視点によるためには、法の決まりなんかをしっかりと守るようにしないとならない。いまの日本の憲法をしっかりと守って行く。

 法の決まりをやぶることが平気でなされてしまっているのがいまの日本の国の政治だ。憲法を軽んじていて、やぶってしまっている。短期の視点になっていることを示す。長期の視点によれていないのである。

 短期でもうかりさえすればそれで良い。いまの時点でお金になりさえすればそれで良い。あとのことなんかどうでも良い。目先の利益に目がくらむ。日本の国の政治はそうしたあり方でこれまで色々なことをやってきた。

 長期の視点をいちじるしく欠いてきた。日本の政治にはそれが見てとれる。国の財政の赤字など、負のものがすごくたまっているのである。自然の環境などの公共の資源や財(common pool)が大きく損なわれている。あとにまでとっておくべき財を食いつぶす。いまお金を手に入れるために、とっておくべき財をぎせいにしている。

 成功する事例はすごく少ない。失敗する事例がとても多い。国や大都市などの体制がなすことは、たいていは失敗することが多い。そこから良い発想が出てきづらいからだ。反体制からでないとなかなか良い発想は出てこないのがあるから、万博が投資なのだとしても、まず失敗すると見たほうがよさそうだ。

 きびしく見てみれば、万博は成功することはまずありえない。やり逃げのようになる。二〇二一年の東京の五輪と同じである。見通しの甘さなどの色々な甘さが見てとれる。体制派は甘やかされていて、甘えの構造になっている。

 参照文献 『考える技術』大前研一法哲学入門』長尾龍一超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『東大人気教授が教える 思考体力を鍛える』西成活裕(にしなりかつひろ) 『組織論』桑田耕太郎 田尾雅夫 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『環境 思考のフロンティア』諸富徹(もろとみとおる) 『世襲議員 構造と問題点』稲井田茂(いないだしげる) 『どうする! 依存大国ニッポン 三五歳くらいまでの政治リテラシー養成講座』森川友義(とものり) 『一勝九敗』柳井正 『見切る! 強いリーダーの決断力』福田秀人(ひでと) 『山本七平(しちへい)の思想 日本教天皇制の七〇年』東谷暁(ひがしたにさとし)

自由主義(liberalism)から見た、政党たたきつぶし問題

 立憲民主党を、たたきつぶす。野党である日本維新の会の代表はそう言う。

 立憲はたたきつぶすけど、与党である自由民主党とはお互いに切磋琢磨し合う。維新の会の代表はそう言っている。

 立憲や自民党について維新の会の代表が言っていることをどのように受けとれるだろうか。

 上の者には弱気で、下の者には強く出る。それが見てとれるのが維新の会の代表の言っていることだろう。自民党のことを批判できない。おくびょうさがある。抑圧の移譲(いじょう)だ。

 事実と価値の二つにふ分けしてみたい。立憲民主党は、たんに有るのだとできるのにとどまる。何々であるの事実(is)にすぎないのが立憲民主党だ。そこから自動で何々であるべきの価値(ought)をみちびいてしまっているのが維新の会の代表だ。

 自然主義の誤びゅうにおちいっているのが維新の会の代表である。立憲民主党や野党の日本共産党などは、何々であるの事実にすぎないものだから、そこから価値を自動で導くことはできそうにない。

 無いのではなくて、あるのが左派の野党だ。事実としてあるのが左派の野党なのだから、政党どうしでお互いにやり取りをし合う。交通(communication)をし合って行く。野党どうしで共闘し合って行く。そうするようにすることがいる。

 おたがいに切磋琢磨し合うとしているけど、自民党と維新の会とは、お互いに対立し合っていない。自民党と維新の会のあいだには対立はないのだから、協調しかなくて、政治は無い。

 維新の会と立憲民主党とのあいだには対立があるから、政治がある。維新の会と共産党とのあいだにも対立があるから、政治がある。

 対立し合う者どうしで、敵に当たる者がいる。敵に当たる者を排除して行く。それだと民主主義ではなくなってしまう。民主主義においてはよき好敵手(rival)はいるけど敵はいない。排除するべき敵はいないのが民主主義である。

 民主主義からいつだつしてしまっているのが維新の会の代表が言っていることだ。できるだけ民主主義によるようにしていって、対立し合う者とやり取りし合う。交通し合うようにして行く。よき好敵手として見なす。

 いくら対立し合っているのだとしても、対立するだけだと良くない。協調することもなければならない。維新の会は立憲民主党共産党などと対立するだけではなくて協調をすることがいる。左派の政党と協調することがいる。

 自然主義の誤びゅうにおちいるのを避けるようにしたい。その誤びゅうにおちいってしまうと非論理になる。論理によっていないのが維新の会の代表が言っていることだ。

 中立な立ち場から判断する思想なのが自由主義(liberalism)である。自由主義の視点の反転の可能性の試し(test)をしてみると、どのような政党や政治家であったとしても、他から一方的にたたきつぶすと言われるのは許容できそうにない。たたきつぶすと言われることはどのような政党や政治家であったとしても受け入れられないものだろう。

 普遍化できない差別に当たるのが、維新の会の代表が言っていることだろう。普遍化できない差別は排除することがいる。特権や差別をなくして行く。自由主義からすると特権や差別があるのは良くないから、なくして行くようにしたい。

 論理や自由主義や民主主義によるようにすることがいる。それらによるようにするためには、いまの日本の憲法を守って行く。憲法ではそれらが良しとされているから、憲法をないがしろにするとまずい。

 参照文献 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『リーダーは半歩前を歩け 金大中(きむでじゅん)というヒント』姜尚中(かんさんじゅん) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『現代政治理論』川崎修(おさむ)、杉田敦(あつし)編 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『差別原論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』好井裕明(よしいひろあき) 『政治の見方』岩崎正洋 西岡晋(すすむ) 山本達也

かけごとへの依存症から見る、人間のぜい弱性(vulnerability)

 かけごとに依存する。他人のお金を不正に得て、何十億円もの借金をつくる。

 依存症をわずらっていると、周りが見えなくなってしまう。それで他人のお金を不正に得てまで、ばく大な借金を作ってしまう。

 すごい多額の借金をつくってしまったかけごとの依存症の人は、どれくらい悪いと言えるのだろうか。すごいきびしい見かたとしては、万死に値するとまで言われているのがある。X(Twitter)のつぶやきによる。

 かけごとの依存症で多額の借金を作ってしまった人については、きびしく見るべきかそれとも甘く見るべきか、どちらがよいのだろうか。人それぞれでどちらの見かたもできるかもしれない。

 たとえきびしく見るのであるのにせよ、やり直し(redo)ができるようにして行く。それが大事なことだろう。人権によって、さいていでも命だけは保障されるのでないと、やりなおしができない。基本的人権尊重主義だ。

 いまの日本の憲法では人権が重んじられている。たとえかけごとの依存症の人であったとしても、人権が保障(ほしょう)されていることはまちがいない。人であるのならばもれなく保障されるのが人権だ。

 生きているのでないと、やり直しができない。命が保たれるのでないとならないのがあるから、人権によって生きることが認められるようにする。そのうえで、依存症を治療して行く。依存症が治ればやり直すことができるのだから、新しい人生を歩んで行くことがなりたつ。

 罪をおかしたとなると、どうしても原因の帰属を個人に当てはめてしまいがちだ。原因の帰属で、内か外かがあるけど、内だけではなくて外にも帰属させることがなりたつ。個人をとり巻く外の状況の要因だ。

 状況の要因を見てみると、かけごとの産業がある。かけごとの産業は、人からお金をまき上げてお金をもうけているところがあるのはいなめない。あまりよい産業とは言えそうにない。

 人をだまして、落とし穴のようなものにはめこむ。それでお金をもうける産業が中にはあるから、そうしたものは人を幸せにするものではないものだろう。

 できるだけやり直しの機会が多いのがよい社会だ。いまの日本を見てみると、やり直しの機会が多いとは言えそうにない。階層(class)の格差が固定化している。アメリカなんかもそうだろう。格差がしんこくだ。

 光とやみの二つがアメリカにはあるとすると、依存症は闇に当たるものだ。自分の力によってはどうにもならない。非力を認めざるをえない。無力さをつきつけられることになるのである。

 自分で自分をうまく制御して行く。自分がもっている力によってうまく生きて行く。努力して成功にいたる。アメリカの光に当たるところはそうしたものだけど、光が強ければ強いぶんだけ、闇もまた深くなる。

 自分の力をたのみにするあり方は西洋によるあり方だ。自恃(じじ)である。依存症はそれではうまく治りづらいものだろう。東洋のあり方がいる。自分の無力さをさとる。何とかしようと思えば、自分で何とかできるのではなくて、自分ではどうにもならないことが中にはある。

 自分の無力さをつきつけられるようなものについては、西洋のあり方であるよりも東洋のあり方がふさわしい。西洋のあり方によりさえすれば、たとえ何ごとであったとしても何とかなるものではない。何とかならないものも出てきてしまう。

 西洋のあり方や、アメリカの光のところは、勝利だ。かがやかしさがあるけど、その裏のところには敗北がある。依存症は敗北のところがあるから、敗北を認めることがいりそうだ。

 全てにおいて勝つとはなかなか行きづらい。どうしても勝てないものが中にはあるから、それを受け入れて行く。東洋のあり方によるようにして、人間中心主義や人間万能主義によらないようにして行く。人の力ではどうにもならないことも中にはあるのは確かだ。

 単純な分類づけではあるかもしれないが、性でいえば、西洋のあり方は男性のあり方であり、東洋のあり方は女性による。東洋や女性のあり方は手当て(care)だ。他の人の力を借りたり、自分への配慮をしたりして行く。手当てがすごく充実している社会であるのがのぞましい。手当てを充実させて行くために、西洋中心主義や男性中心主義を見なおすことがいる。

 参照文献 『ヘンでいい。 「心の病」の患者学』斎藤学(さとる) 栗原誠子 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信原理主義と民主主義』根岸毅(たけし) 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明罪と罰を考える』渥美東洋(あつみとうよう) 『クリティカル進化(シンカー)論 「OL 進化論」で学ぶ思考の技法』道田泰司(みちたやすし) 宮元博章(みやもとひろあき) 『構築主義とは何か』上野千鶴子

抑制を忘れた日本の経済と政治のゆくえ

 日本の経済をよくして行く。

 経済をよくするために、当たり前のことをやって行く。積極の財政だ。国の財政でお金(借金をふくむ)をどんどん使って行く。

 あたり前のことをやれば、日本の経済はよくなって行くのだろうか。

 ほんとうに芯のところにあることなのではなくて、芯からずれてしまう。ずれたことが言われてしまう。

 まさに芯に当たることではないものが、あたかも芯に当たることであるかのようにされてしまう。ずれがおきることになる。

 ずれているもののほうが、受けがよい。人々からの受けがよいことが言われることになり、どんどん芯からずれて行ってしまう。芯からのずれが大きくなって行く。

 受けが必ずしもよくないのが、芯に当たることだ。派手さはなくて、地味なことなのが芯に当たることだから、それを言っても人々からの受けがよくない。受けがよくないことは、わきに置いやられてしまう。

 どういうことが芯に当たるのかといえば、抑制と均衡(checks and balances)だ。抑制をかけて行く。抑えをきかせることは、人々から受けがよくない。それよりも抑えをとっ払ってしまうようなことのほうが受けがよい。

 中立な立ち場から判断する思想なのが自由主義(liberalism)だ。芯に当たるようにできやすい。抑制(よくせい)と均衡(きんこう)をかけることがのぞめる。自由主義がこわれると、抑制がかからなくなってしまう。専制主義になる。芯からどんどんずれて行ってしまう。

 頭が良ければ、芯から外れて行かないようにできる。なるべく芯に近いところにいつづけようとする。頭がばかだと、芯からどんどん外れていってしまう。

 頭がかしこければ、抑制をかけて行くことの大事さをふまえられる。頭がばかだと、抑制をかけることの値うちがわからない。抑制なんてとっ払ってしまったほうが良いのだとすることになる。

 集団はばかになりがちだ。集団の浅慮(せんりょ)だ。危険性への移行(risky shift)がおきる。集団の思考(groupthink)だ。集団(社会)の心理としてそうしたことがおきる。

 経済を良くする上で気をつけないとならないのは、芯からどんどんずれていってしまうことだろう。芯からずれたことがやられてしまう。そうすると、集団の浅慮のまずさがおきる。危険性への移行になる。

 少しの芯からのずれだったら気がつきづらい。それがつもりつもって、気がついてみたらとんでもなく芯からずれていってしまっていた。抑制がぜんぜんかからなくなってしまっている。それがいまの日本のありようであるかもしれない。

 なんで抑制をかけることが大事なのかといえば、それがえてして外れやすいからだ。集団の浅慮がおきやすい。危険性への移行がおきるあやうさがある。芯から外れてしまいやすいのがあるけど、これまでの日本はその動きがおきている。それで今にいたるのである。

 芯に近づいていって抑制をかけて行くのではなくて、その逆に芯から外れていって抑制をとっ払っているのが日本だろう。そこに少なからぬ危なさがありそうだ。抑制をかけて行くことの値うちが見失われている。

 自由主義によって抑制をかけることをやらないと、経済にせよ政治にせよ、下手をするとはめつがおきかねない。はめつしたあとになって、抑制をかけることの値うちに気がついてももはや手おくれだ。その時になって気がついてももうおそい。

 参照文献 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修 『思考のレッスン』丸谷才一(まるやさいいち) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『すべての経済はバブルに通じる』小幡績(おばたせき) 『右傾化する日本政治』中野晃一(こういち)