集団の長としての、建て前が守られたうえで発言がなされればよかったのだろう

 自衛隊としてもお願いしたい。防衛相をつとめる稲田朋美大臣は、選挙演説でこのようなことを述べた。それが波紋を呼んでいる。自衛隊を政治利用したと受けとられかねない。それで非難を受けているようだ。

 稲田氏が属する自由民主党の関係者からは、どうしてこのようなことを(稲田氏が)言ったのかがさっぱりわからない、とする声も上がっているという。しかし、稲田氏の日ごろからもっているであろう政治思想をふまえれば、むしろつじつまが合っている発言といえるのではないかという気がする。個人よりは集団を重んじる思想をもっているのだろうから、自衛隊を一つの集団として、それを束ねる長の意思がもっとも優先される。そうした全体論による発想をとっていてもおかしくはない。

 ほんらい、自衛隊は政治的に中立であることがいるとされる。しかし、稲田氏の日ごろから抱いているであろう思想をふまえてみると、この中立性がないがしろにされていても不思議ではない。中立をよしとするのではなく、もっと実質にふみこんでゆくような立場をとっているであろうからである。そうして実質にふみこむと、それをよしとしてくれる支持者もいるだろうけど、中立がないがしろになる面はいなめず、それが危険さとして生じるところがあるだろう。

 脳科学者の中野信子氏は、稲田氏が司法試験を通過(合格)している点を持ち出していた。それくらい頭がよいのだから、何かきちんとした計算にもとづいて発言をしたのだろう、といったふうに見ていたようである。たしかにその可能性もなくはないだろうけど、しかし逆に、まったく計算をしていないで、日ごろ頭に抱いている思想にもとづいてごく自然に発言したおそれもある。

 ちょっと例は適切ではないかもしれないが、たとえば頭がよいとひと口にいっても、オウム真理教の幹部をつとめていた信者に高学歴の人が多かったこともあげられそうだ。高学歴で、優秀な学校に入れるような人でも、必ずしもつり合いのとれた見かたができるとはかぎらないだろう。カルトのような、実質による世界観にころっとやられてしまうこともありえる。

 中立とは、何か単一の価値が押しつけられることとはいえそうにない。さまざまな実質による価値を、それぞれの人の意向に合わせて持つことを認めることだろう。そして、できるだけ公の場ではそうした実質による価値を一方的に持ち出さないようにする。こうした中立をある公人が守ったからといって、積極的に褒められたり評価されたりすることはあまりありそうにはない。逆に、中立をないがしろにして、実質による価値をぶち上げたほうが、一部の人からの大きな支持を得られやすい。ただそうした動きには、たとえ誘因や動機づけがはたらいてしまうにせよ、危ないところがあることはたしかだと言えそうだ。

広告を非表示にする

貧しくなる自由があるとしても、市場による調整が成功するとはかぎらない(市場にまかせすぎると、失敗するおそれが高い)

 若い人たちに告ぐ。みなさんには、貧しくなる自由がある。何もしたくないのなら、そうしてもよいが、そのかわり貧しくなる。その貧しさを楽しんだらよい。いぜん、経済学者の竹中平蔵氏はこのようなことを述べたそうだ。

 たしかに、貧しくなる自由はあるのかもしれない。貧しくても豊かな生きかたはありえるだろう。いやむしろ、貧しいからこそ豊かな生きかたができるといったこともありえる。Less is more(より少ないことは、より豊かなことである)とも言われる。しかしいっぽうで、ことわざでは、貧乏暇なしなんていうものもある。竹中氏が述べているような、貧しさを楽しむゆとりは現実にはちょっともてそうにはない。

 なぜ、現実には、竹中氏の述べるような、貧しさを楽しむゆとりをもちづらいのか。いろいろな理由があげられそうだが、一つには、日本が経済一辺倒の単線型社会であることによりそうだ。経済で勝ち組になれればよいが、もしそうなれなくて負け組になってしまうと、お金がものを言う社会のなかでは生きてゆきづらい。

 経済による単線型の社会だと、安全網がはたらきづらいところがある。きちんと安全網をはたらかせるうえで、貧しくて落ちこぼれてしまうのを、負けではないようにする見かたがあってもよさそうだ。そうすることで、単線型ではなく複線型にすることができる。貧しくてもそれは質であり、経済的に勝つのとはまたちがったものだとできるわけである。

 単線型の社会では同質さによるありようがとられるが、そうではなくて、ちがう質も認められるようにすれば、単純な経済の勝ち負けで振り分けられてしまうことを防げる。たとえば、体質でいうと、陽のタイプと陰のタイプの人がいるとできる。そうした 2つのタイプがありえるが、単線型で同質さのありようがとられていると、陽のタイプを基準としてそこに最適化されてしまう。ちがう質をもった陰のタイプのことはあまり顧みられなくなる。

 生きてゆくうえでの基本的需要(ベーシック・ニーズ)は、誰しもそれを受けられるようなことがあるのがのぞましい。これについてはきれいな手(クリーン・ハンズ)の原則がはたらかない領域と見なせる。もしこうした基本的需要を受けることができないようであれば、それは問題だろう。それが与えられたうえで、さらに自分がどれくらいさまざまな物やサービスが欲しいかの、欲望の度合いに応じて、お金をたくさん稼ぐために努めてゆく。

 働かざるもの食うべからず、といったことわざもあるわけだけど、財政の一つの考えによれば、きれいな手の原則がはたらかない領域として、生存の欲求を見なすことができるそうだ。なので、生存にまつわる最低限の基本的需要を満たすのについては、条件つきの仮言命法ではなく、無条件の定言命法でもかまわない、と理論としては言えそうである。

 人間なら誰しも少しくらいの超自我(良心)は備えていると見なせるので、かりに無条件で基本的需要が満たされるとしても、それですぐさま社会が崩壊してしまうようにはならないのではないかという気がする。そこは、うまく人々の意向をそれとなく社会の維持のほうへもってゆくことも、工夫しだいによってはできなくはないだろう。より以上に欲しいものがあるのなら、市場原理によるところへ自由に参入することもでき、領域を線引きすることによって組み合わせをとるようにする。

広告を非表示にする

厚生労働省による、医療の情報を見るときに気をつけておくべき 10個の注意点

 情報を見きわめる。そのための 10ヶ条の要点を記したサイトが、厚生労働省のなかにあった。それがこちらである。医療についての情報を見きわめるときに意識するためのものらしい。たしかに医療についての情報は、玉石が入り混じっているので、うまく見ぬくことはなかなかできづらい。医療にかぎらず、ほかの情報を見定めるときにもまた当てはまるところがありそうである。

 政治においても、こうした 10ヶ条の注意が守られていたほうが有益な議論になることがのぞめる。逆にいえば、この注意がおろそかにされてしまうようだと議論が不毛になってしまうおそれが避けづらい。おたがいに揚げ足をとり合ってしまうようになることもありえる。

 政権をになう与党であれば、自分たちだけのことを重んじる 1人称の立場がありえる。しかしそれだと、自分たちだけのことを重んじるわけだから、それに都合の悪いことをねじ曲げてしまいかねない。そのようにならないようにするためには、1人称だけではなく、2人称や 3人称の立場にも立たなければならない。そうしたいくつもの視点に立つことによって、はじめて偏りを少なくすることができるようになるとされる。

 先の国会では、与野党による議論が生産的なものにはならなかったとの反省の弁を、首相は記者会見で述べていた。それを、少しでも生産的な議論になるようにするためには、情報を見きわめるための 10ヶ条をふまえることが多少は役に立つ。しかしじっさいの政治の場では、自分たちに有利な情報には飛びつきやすいだろうし、逆に不利な情報はうとんじて遠ざけたい。そうした思わくがはたらく。そこに弱さがあるということもできるだろう。

 弱さがあるのだからしかたがないとして、大目に見ることはちょっとできがたい。それを言い訳にしてしまうようだと、性善説の立場に立ってしまうことにつながってくる。もしそうであれば、政府はいらないか、もしくは夜警国家のようにかぎりなく小さくしてしまってもかまわない。そうではなくて、性悪説の立場に立つのであれば、悪いことをやっていないかをつねに監視されたり、約束をきちんと守るかどうかをチェックされたりすることを受け入れるかぎりにおいて、はじめてあるていどの大きさの政府があってもよいものだろう。

 そうしたふうに言えそうなので、何らかの事情で政権(政府)が弱っているときこそ、あえて他からの批判を受け入れるようになれればよいのではないか。そうしたほうが、医療でいえば、変な情報に引っかかることを防げる。スキャンダルがもちあがって政権が弱っているときに、自分たちに都合のよい情報をもち出したり、都合の悪い情報を隠したりしてしまうのは、人情としてはわからないでもない。しかしそれをやってしまうと、医療でいえば、変な情報に飛びついてしまい、引っかかってしまうことに通じてくる。ちょっと例えがおかしいかもしれないが。

広告を非表示にする

力量のある人が力を発揮するのも大事だろうけど、絶対優位ではなく比較優位であってもよさそうだ

 国のために国会議員ははたらく。あるていど以上の力量をもっているのであれば、つまらないスキャンダルによってつぶされてしまうのはもったいない。国にとっての損失になる。そうした意見も言えそうではあるが、そのスキャンダルの内容がいちじるしく遵法精神(コンプライアンス)を損ねているものなのであれば、おとがめなしとするのはちょっとだめなのではないかという気がする。

 政治家と秘書とのあいだで、力関係による嫌がらせ(ハラスメント)があったとして、多少のことであればやむをえないところもありそうだ。ただこうした嫌がらせは、まったくないのであればそれに越したことがないものでもある。ないですませられればそれが一番のぞましいので、必要悪のようなものだろう。現実には、そうした嫌がらせが少なからずおきてしまうところはあるだろうが、だからといってそれをもってしてよしとしてしまうようだと、自然主義による誤びゅうにおちいるおそれもある。現実にはこうだからとするよりかは、現実(ザイン)と当為(ゾルレン)を分けて別々に見るほうがよいのではないか。

 上の者と下の者といった関わりは、社会のなかでの役割と見ることができる。この役割は、擬制(ロール・プレイ)であることもたしかだろう。なので、その関わりを絶対であるかのように見なしてしまうのは間違いのもとになりかねない。こうした役割は、仏教でいえば空観であったり仮観であったり中観であったりと見なすことができそうだ。角度を変えて見ることができる。

 役割による関わりは相対化して見ることができる。役割による力の差といったものは、社会的な評価などによるものである。そうした評価は思いこみである観念がそこにはたらいている。表象(イメージ)みたいなものであり、それをかりにとっ払ってしまえば、たんなる人間であるのにすぎない。人間はみな自分を愛することがあってよいはずだし、自分を大切にすることがあってよい。そうした自己配慮を、何かの条件をもち出して不当に傷つけるようなことがあるのはまずいのではないか。

 力関係による嫌がらせは現実にはおきてしまうのだとしても、たとえば何かで怒ったのだとしたら、そのあとが大事になってくるのではないか。たんに非を責め立てて怒ってそれで終わりとするのではなくて、怒ったのなら怒ったぶんだけあとで埋め合わせるようにする。下の者が非を犯したのだとしたら、そのあと始末をしてあげるなどができたらよい。怒りっぱなしにするのではなくて、そのあとの面倒までしっかりと見てあげるようにすれば、下の者もついてくるのではないか。もしあとの始末や面倒をいっさい見るつもりがないのであれば、そのかわりに怒りもしない、などとする。じっさいには難しいことかもしれないし、場合によってもちがうだろうから、必ずしもよい手ではないかもしれないけど、怒りっぱなしにするよりかは少しはよいだろう。

広告を非表示にする

失敗をしてしまったことにおける、動機と結果のちがい

 そんなつもりではなかった。それを理由に持ち出して、失敗したことの言い訳としてはならない。政治家の人が、自分の秘書にたいして、そのようなふうにとがめた。そんなつもりではなかったのを言い訳にして失敗が許されるのであれば、たとえば車で人をひいたさいにもそれが持ち出せるではないか、といったことを例としてあげていた。

 そんなつもりではなかったというのは、動機である。そして、失敗をしてしまったのは結果である。このさい、動機はまちがってはいなかったが、結果がまちがってしまった、といえる。動機がよかったのだとしても、結果がまちがってしまったのであれば、台なしであることはたしかである。

 動機はよくても結果がだめだったのであれば、故意ではなくて過失だといえる。そして、動機がよいことをもってして、結果がだめだったことの言い訳にはできない、とするのは正しいだろう。しかし、たとえ正しいからといって、あまりねちねちとしつように非を責め立てるのはどうだろう。少なくとも、動機も結果も共にだめであるよりは救いようがあるし、情状酌量の余地もあるのではないだろうか。性善説により、失敗者へ惻隠(そくいん)心をもつことができる。もっとも、動機がよいとはいっても、それは建て前であり、じっさいにはすごい怠慢をしているのであれば、本音が問われることになる。

 車で人をひいてしまったなんていうことであれば、そうとうな大ごとであり、民事や行政や刑事の責任が運転手には問われることはまちがいがない。そうした事故においては、すでにそれがおきてしまったのであれば、現実と化したわけであり、後戻りできない不回帰点がおきたことになる。

 車の事故であれば、あるていどはどのような罰則が科されるのかの予測が立つ。罪刑法定主義がとられているためである。しかし、仕事での失敗なんかだと、どれくらい上の者からとがめられるのかがわかりづらいところがあるかもしれない。上の者のそのときの虫の居所しだいによってしまうおそれがある。ひどく虫の居所が悪いときであれば、失敗を必要以上に誇張されて、あたかもとんでもないことをしでかしたかのような言われかたをされかねない。冷静に見れば、そこまで言われることでもないものであることもありえる。

 上の者は、絶対君主ではないのだから、朕は法なり、みたいなふうにならないようであればさいわいだ。たとえ上の者において、朕は法なりとして、その法がふさわしいと見なせるものであったとしても、そこにおいて通じている理屈は、完全に正しいものであるとは言い切れない。(上の者による理屈において)下の者を不当にいじめてしいたげるつもりはなかった、との動機から、結果として下の者をそうしてしまったことの言い訳にはちょっとなりそうにない。

広告を非表示にする

出発点となるところをいったん取り消して、原則(石破 4原則)に立ち返ってやっていったほうがよいのでは

 特定の地域の一ヶ所だけ、特区として規制をはずす。その一ヶ所に当たったのが、たまたま首相と長年のつき合いのある友だちのところだった。自由民主党安倍晋三首相は、友だちをとりたてて優遇したのだと見なされるのをたいへんに嫌って拒んでいるようだ。そこから、はじめは一ヶ所だけにかぎって特区にしていたのを、全国にまで広げようとする案を打ち出した。こうすることによって、友だちをとりたてて優遇したと見なされるのをかわす狙いである。

 ちょっとつじつまや段どりが合っていないのではないかな、といったように感じてしまった。というのも、そもそも友だちだからといってとりたてて優遇したのでないのであれば、特区を全国にまで広げることはいらないのではないだろうか。なぜ友だちをとりたてて優遇したのでないにもかかわらず、特区を全国にまで広げようとしているのか。それはいったい何のためにしようとしているものなのかがいぶかしい。かえって、友だちを優遇していたことを認めるふうな、逆効果になりはしないだろうか。

 あくまでも、友だちをとりたてて優遇したのではないが、世間の一部や野党がいろいろうるさいことを言ってくるから、しぶしぶ新しい手を打つことにしたのかもしれない。しかしそれだと、世間の一部や野党がいろいろうるさいことを言ってきたことで、それに屈服したことになりはしないだろうか。屈服したのではなくて、たんに折り合いをつけただけなのかもしれないけど、そこは折れないほうがよかったのではないかという気もする。もし友だちをとりたてて優遇していないのであれば、ぶれたり折れたりしないようにもできたのではないだろうか。

 あとから首相が打ち出した、特区を(一ヶ所ではなく)全国にまで広げる手は、もしそうする必要があるのであれば、はじめからそうするのがふさわしいものだと言える。首相が新しい案を出したことで、今度は、とってつけたような泥縄式でやろうとしているのではないか、何ていう新たな見なしかたもできてしまう。

 はじめは一ヶ所にかぎって特区を認めて、規制をとり外そうとしていた。しかしそれが友だちを優遇していると見なされたことから、特区を全国にまで広げる案を打ち出す。あらためてこの案を打ち出したところで、友だちを優遇したとする見かたが払しょくされるわけではない。なので、友だちを優遇したとする見かたを払しょくしたいのであれば、首相が新たに打ち出した案はさしたる意味がないような気がする。疑惑をかわせたことにはちょっとなってはいない。かろうじて疑惑を薄めることはできるかもしれないが。新しい案によって、公平に近づいただろう、と首相はしたいのかもしれないけど、疑惑の出発点の核のところは消せていないので、そこはとくに変わっていなさそうだ。

 はじめの一ヶ所ではなくて、全国にまで特区を広げる案は、それがうまくゆくのであればよい。ただ、市場による調整の仕組みがうまくはたらくとはかぎらないし、失敗するおそれがある。そこは万能ではないだろうから、心配な点である。

 岩盤規制を打ち壊す、なんていうのは勇ましいかけ声であり、なかにはそれが有効なものもあるのかもしれない。しかし、規制がかかっていることに意味があるものもありえる。必ずしも既得権益として悪と見なせるものばかりとはかぎらない。自生的秩序とか具体的秩序といったものがありえるので、それを外から一方的にぶち壊そうとしてしまうのも、一概によいものとはいえないおそれもあるだろう。

広告を非表示にする

推測によるとはいっても、的はずれなものもありえるし、当たっているものもありえそうだ

 推測にもとづくものが多い話である。なので、それについて何かコメントするには値しない。政治スキャンダルの当事者の一人とされる政治家の人が、そのようなことを記者に述べた。これは、文部科学省事務次官をいぜん務めていた人の記者会見を受けての発言である。

 推測によるところが多い話だから、何かコメントするには値しないというのは、ちょっとどうなのだろうという気がした。推測によるとはいっても、いっさい何の関わりもない部外者によるあてずっぽうなものとはわけがちがう。官僚組織のなかで、しかるべき地位にいて、じっさいのことに長く携わっていたわけであり、それなりの情報の質と量を備えていると見なせる。なので、推測であるからといって切って捨ててしまうことはできづらい。

 娯楽ではあるけど、ミステリーなんかでは、探偵の役を担う人が、確たる証拠が無いなかで、自分の推測の力をもってしてものごとの真相を突き止めてゆく。いくつかの足跡が残されているのをふまえて、そのたどられたであろう道ゆきをさぐる。これは、物語と言ってしまえばそのようにも言えるものである。そのうえで、柔軟な大衆的知性(インテリジェンス)をもちいて、いくつかの残された足跡という情報(インフォメーション)から、試みとして一つの小さな物語を導くことはあってもよいものだろう。

 でまかせの物語を導いてしまってはよくないところがあるだろう。とはいえ、大きな物語といったものが通用しづらい現状もある。いまの世の中は情報過密社会なので、何が本当かがわかりづらくなってはいるが、そうであるのなら、小さな物語に自分なりに賭けてみることがあってもよいだろう。そのさい、自分がよしとするものがあるとして、そこへの認識がまちがっていることはありえる。そのまちがいのおそれはあるが、あえて多少のまちがいをいとわないで一つの立場を選びとることがあってもよい。

 いくつかの足跡と見なせる情報が明らかになっているとして、その足跡がほぼまちがいなくたどったであろう道をさぐる。その動きを強いて止められるものではない。そこには動機づけがはたらく。動機づけをはたらかせるなとするのは無理な話だろう。意欲と経験がかけ合わされることによって、何かが形づくられたり表出されたりする。

 明らかにこういうふうな足どりを運んだであろうと受けとれるものがあれば、そこから整合性を見いだしてつじつまを合わせて読みとるのがむしろ自然なのではないか。それを、まったく非の打ちどころのない完ぺきな根拠がないからとしていっさいを退けてしまうほうがちょっと不自然だと言えてしまいそうだ。

 いずれにせよ、罪ありと見なすか、それとも罪なしと見なすか、どちらにおいても、あるていど推定することは避けられそうにはない。そのさい、罪といっても、違法でないのであれば問題ないではないか、とする見かたもなりたつ。しかし、合法的正当性だけが正当性ではない。違法でないとしても、それは十分条件とはいえないところもあるだろう。くわえて、法の網の目をかいくぐってといったこともありえる。古代ギリシャでは、法はクモの巣であり、大きいものは巣を突き破って飛んでゆき、中くらいのものや小さいものだけが巣に引っかかる、と言われていたそうだ。

広告を非表示にする

合理に重きが置かれてもよいだろうが、そこには限定と限界がある(可謬的であり、可疑的である)

 仕事ができないとして、強く責め立てられる。その責め立てかたは、しつようなものであったらしい。それで、その政治家の人のもとで働いていた秘書の人は、長くは持たなかったようである。秘書がひどい責め立てられかたをしていたのが明らかにされて、政治家の人は所属していた党を離党することになったという。

 仕事ができないのだとしても、それでひどく責め立てられてしまうと、嫌がらせであるハラスメントが関わってくることになる。そうした力関係からの嫌がらせによって、それを受ける側は小さくはない精神的外傷をこうむることがありえる。ひどいのであれば、そうかんたんに癒えない深手を負う。

 仕事ができない人において、その人自身に原因があるともできるが、必ずしもそれだけとはかぎられない。仕事ができないのを結果であるとすると、何かほかのところに原因があることもありえる。そのように複雑系によって見ることができるのではないか。何かちょっとした小さなかみ合わせが合っていないだけなのかもしれないし、また何らかのことで動機づけがうまくはたらいていないのかもしれない。賞罰(アメとムチ)のありかたがおかしいこともありえる。

 強く叱るというのも、一つの手として絶対に認められないものではないかもしれない。しかし、その強く叱る手だけしかないわけではないだろうし、その手がじっさいに有効に作用するかどうかもいぶかしい。たんに自分がその手を用いたいだけなのだとすれば、手段が自己目的化しているだけであり、撞着してしまっている。

 仕事ができるかできないかで区別されてしまうのはある程度はしかたがないところがあるかもしれないが、差別になってしまうおそれがいなめない。区別は差別にたやすく横すべりしてしまう。そうではなく、できるだけ個人が尊重されるようであるのがのぞましいだろう。人と違うようであってもよいわけで、その違いが否定されないようであればさいわいだ。

 あまりに効率性が重んじられすぎてしまうと、あたかも個人が部品のようにあつかわれかねない。そうした機械的な世界像に適合できないものは、邪魔ものであるとか役立たずであるとか見なされてしまい、ののしられたり排除されてしまう。そうした世界像においては、量が重んじられ、質がないがしろになる。量にできない質をもったものは、同一ではなく非同一さをもつ。同一をよしとするのであれば、非同一なものはのぞましくないので悪玉化されやすい。かっこうの標的になる。

 同一をよしとする世界像に当てはめがたいものを悪玉化するのではなく、できるだけ有用性を持つものとして見ることができたらよさそうである。そういったゆとりがあったほうが、関わり合いのなかで心理的な効用が高くなることがのぞめる。そうした実践をすることができれば、抑圧されてしまうことが少なくなるだろうし、解放につながることが見こめる。何か一つのありようにのみ還元されるようでないほうがよいだろう。力関係において、弱者がなるべくしいたげられないようなふうであればのぞましい。

広告を非表示にする

他党を排斥するのではなく、包摂できればのぞましい(異質なものを排除しないようにできればよい)

 日本共産党にたいして、3つの負の点をあげる。公明党は、そのような内容をのせたツイートをしていた。これは、東京都議会議員選挙をふまえてのもののようである。共産党は、汚い、危険、北朝鮮、として、3K であるとしている。汚いは他党(公明党)の成果の横どりで、危険は公安警察に監視されているのをさす。北朝鮮については、その危険さを小さく見積もりすぎていることにたいする批判である。

 共産党は、公明党からのこのような負の印づけ(スティグマ)を受けて、自分で正の印づけを行っていた。共産党は、きれい、キレキレ、苦難軽減、の 3K であるとしている。ここで、公明党に負の印づけをするべく、3K でやりかえさなかったのがよいと感じた。

 共産党がきれいなのは、政党助成金などを受けとらないことから、お金についてを言っている。キレキレは、国会の内外で政権与党を厳しく追求するさまをさしている。苦難軽減は、立憲主義に立ち、国民の平和的な生存権を守ってゆこうとしている。

 公明党共産党にたいして投げかけた 3K のなかで、北朝鮮についてのものがある。これについては、共産党のありかたがそれほど大きく的はずれなものとはいえないのではないかという気もする。北朝鮮の危険さを見るさいには、どこに参照点を置くのかのちがいがある。それを置くのについて、位置が高いのが安全で、低いのが危険だとすることができる。低いところに置いて、北朝鮮をすごく危険だと見なすにしても、そこには欠点もある。大げさに危険を煽りすぎてしまうおそれがあるのはいなめない。

 大げさに危険を煽りすぎてしまうと、平時の規範が損なわれてしまい、実存による政治の領域を呼びこむ。これは必ずしものぞましいありかたとは言えそうにない。いたずらに、国民のみなを恐怖ですくみ上がらせてしまう。そうではなくて、落ち着いて状況をふまえることもいるだろう。恐怖と(具体的な対象をもたない)不安を混ぜ合わせてしまうのも問題である。

 プロゴルファーのタイガー・ウッズは、試合において、競争相手のことを引き下げようとしないのだという。そうではなくて、逆に競争相手がよい結果を出すことを願う。そうすると自分が勝てなくなるおそれがあるが、そのおそれはとりあえず置いておく。そうすると、競争相手を否定して引き下げようとしないぶん、自分の意欲を高く維持しやすい。競争相手もよい結果を出せばよいし、自分もまたよい結果が出ればよい。おたがいにうまくゆけばよいのである。

 公明党は、共産党を否定して引き下げようとするのではなく、逆にタイガー・ウッズの方式でやっていってもよいのではないだろうか。そうすれば、自分の意欲も高く維持することができるようになることがのぞめる。つり合いの点でいうと、共産党には悪い面もよい面もあるだろうから、悪い面だけを言うのではなく、ついでによい面も言ってあげれば、両論併記になるので、報道機関が報道するさいのお手本になるのではないか。

広告を非表示にする

官邸の最高レベルも間違いをしでかすことはありえる(人間なので)

 官邸の最高レベルが言っている。そうであるのだから、しかるべく空気を読んで忖度せよといったあんばいだ。こうした文句が、行政の文書において使われたという。あくまでも官邸側はそうした文書は無いとして否定しているようだ。文書が有るのか無いのかとなると、水かけ論になってしまわざるをえない。言ったことを文書に書きとめたとして、言ったこと自体はすでに消失してしまっている。

 官邸の最高レベルが言っていることについても、大きくいえば二つのものがありえそうである。一つは正しいことであり、もう一つは間違っていることである。正しいことであれば、みなが納得しやすいのでそれほど問題はない。やっかいなのは、間違っていることである。間違っていることだとしても、それは間違っているのではないかと、気やすく指摘できるようであればよい。しかしそうでないのならやっかいさが増す。下の者によけいな気苦労をかけることになる。

 官邸の最高レベルが言っていることなのだから、有無をいわずにただちに命じられたことに従うのがのぞましい。そうした意見もありえるが、しかしこれには個人的にはちょっとうなずきがたい。ここには人を動かす政治がからんでくる。人を動かすさいに、一番のぞましいのは、動かされる人が納得できるように、適した説明がなされることである。きちんと説明されて、納得できて、それで動くことになる。のちの帰結にまで気が配られていないとならない。

 あまりのぞましくないやりかたとして、力で動かしてしまうのがある。これは、権威をふりかざしたり、強制してしまったりするものである。官邸の最高レベルがこのような力を用いたとしても、広くいえば民主主義の範ちゅうに収まることはありえる。しかしこれは民主主義とはいっても、かなり専制主義に近いものとなるおそれがいなめない。ものによってはそうしたおそれを指摘することができる。

 民主主義といっても、力づくの専制主義に近いものもありえるので、そうしたありかたで人を動かしてしまうのだと、正当性が問われるところが生じてきても、ある点ではしかたがない。民主主義で選ばれたからだとか、官邸の最高レベルが言っていることだからといったものは、論拠として完全なものとは言いがたい。そこには不完全さがあるので、反論を受け入れることがいるだろう。もし反論をまったく拒んでしまうのであれば、反発を受けることにつながる。

 民主主義とは下克上でもあるから、上へ向けて下が反発をすることは当然ありえる。この反発は個人による自然的権利の行使といえよう。くわえて、そもそも上と下の隔たりがはじめからできるだけ少ないほうがよい面もあるので、隔たりが大きいのをもってしてよしとすることはできづらい。一つの立場として、隔たりが大きいのをもってしてよしとすることもありえるが、それだと下の意見を押さえつけることになるおそれがある。下からの意見は、上へ聞き届けられることが十分にあってしかるべきところがあると言えるのではないか。

広告を非表示にする