消費税を増税するか減税するかについては、観察の理論負荷性がおきていそうだ(理論の負荷がかかっている)

 消費税増税を問答する。日本経済新聞の大機小機というコラムに、そのようなものがあったのを見かけた。消費税の増税を是とする持論をもつ教授が、四人の学生から意見を聞く。それを受けて教授が成績を判定する、といった内容である。

 消費税の増税を是とする持論を教授はもっているので、それに応じた成績のつけ方となっている。たとえば消費税の減税や、増税の停止をとなえる学生にはよくない成績がつけられる。消費税の増税をとなえる学生には、(教授の持論と合致するために)よい成績がつけられていた。

 減税から増税まで、いろいろな意見が記事の中で示されているのがよい。そうではあるけど、なにぶん教授は学生の成績をつける役をになうので、権力者のような立ち場にある。そのため、学生の聞き分けがよすぎるのはいなめない。素直ではあるにせよ、その聞き分けがよいのが難点だ。聞き分けが悪くて、しつように教授へ疑問を投げかけつづけたほうが、もっと対象世界への理解が深まるのが見こめる。記事の長さの制約があるだろうから、そんなにだらだらとはやりとりをつづけられないだろうけど(際限がなくなってしまいそうだ)。

 記事の中での成績のよし悪しとはうらはらに、ウェブで意見をつのったら、おそらくは成績の悪くつけられた学生の意見に支持が多く集まりそうだ。消費税の減税をとなえるのは記事の中では成績が悪くつけられたわけだけど、その意見への賛同者は決して少なくはない。

 学生から意見をたずねて、教授がそれについて成績をつける。記事ではそのようになっているわけだけど、じっさいにはそうではなくて、教授どうしが各々の持論をとなえ合う。それで口角泡を飛ばしながら激論をやり合う。そのほうが少し現実味があるかなという気がする。

 消費税の増税を是とする持論をもつ教授にとっては、消費税を増税するのが合理的だとなる。しかし、消費税を減税したり、増税を停止したりするのを是とする人にとっては、減税したり増税を停止したりするのが合理的だとなる。この点についての理非曲直はややむずかしい。

 はたして、増税をするのかそれとも減税をするのか、どちらのほうが合理的なのか。これについては、人間のもつ合理性の限界がかいま見られる。残念ではあるが、人間は限定された合理性しかもっていない。なので、それを非の打ち所のないものだと見なすと、教条主義におちいらざるをえなくなる。

 個人的には、記事の中での教授の持論はそれなりに妥当なことを言っていると感じる。もっとも、そうはいっても、これは一つの価値判断にすぎない。じっさいの現実では、神々の争いといったようにして、どの神を自分が選ぶのかによってそれ以外の他のものが悪魔となってくる。そうしたのは、あくまでも相対的なものにすぎない。肯定(確証)と否定(反証)とのどちらか一方だけではなくて、なるべく両面で見ることができればよさそうだ。

 科学でおこなわれるような、要素還元として見なすのだと、とり落としてしまうものが出てくる。複雑系のありようをふまえてみると、要素還元がしづらいのがあるので、そうして見るのではないのがあってもよさそうだ。要素還元したさいの部分とは、あくまでも仮説でしかない。じっさいには連続した全体があるのにすぎないのもある。天気でいえば、晴れとか曇りとか雨の気象は、あるようでいてそうではなく、移ろいゆくものにすぎない。分節すれば(晴れや曇りや雨の)気象はあるわけだけど。

 全体と部分があるとして、部分を見るさいには、有機的に見ることができる。有機的に見るのにおいては、部分を無機的に切りとってしまうのではなく、大宇宙と小宇宙のようにして、照応し合うようなふうに見なす。非科学的ではあるが、全体と部分は、前景と背景のようにして、遠近法的にとらえることができる。

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Twitter というサービスをつくり、利用者にツイートをさせているとすれば、製造物(者)責任が社にありそうだ

 利用していたアカウントが、いきなり凍結される。こうなってしまうと、(よっぽど悪いことをしていたのではないかぎり)その利用者が気の毒だ。ほかの利用者を威圧することにもなりかねない。自分もまたいきなり凍結されてしまうのではないか、と危ぶむことになるからである。

 利用しているアカウントをいっさい使えなくさせてしまうのが凍結である。それで、利用者にそうした処置がとられたことから、ソーシャル・ネットワーキング・サイトの Twitter 社には一部から抗議の声がよせられている。

 評論家の江川紹子氏は、言論プラットフォームとしてのあるべきあり方をツイートで Twitter 社に問いただしている。はたして Twitter が言論プラットフォームであるかどうかはともかく、少なくとも言論プラットフォームとしても使えることはたしかだろう。とすると、できるだけ開かれたありようがとられているのがのぞましい。

 アカウントを凍結するのであれば、Twitter 社はなぜそうした処置をとったのかの理由を説明しないとならない。理由ぬきで問答無用でやるようではおかしいのがある。この点については、どうも Twitter 社としては、具体的な基準を明らかにはしたくないようなのである。明らかにしてしまうと、基準をすり抜けられてしまうからだという。

 国でいえば、Twitter 社のあり方は、法治ではなく人治のようなものだろう。法治であれば、罪刑法定主義といわれるようなことで、どんなことをしたらどんな処罰がある、とあらかじめみなに示されている。そうして示されているからこそ、不当な処罰を受けないでいられるし、安心して暮らせるわけである。これが人治であればそうした利点がのぞめない。

 統治のあり方として、Twitter 社は自分たちのよしとすることだけではなく、利用者からのさまざまな立場の意見をできるだけ聞き入れるのがのぞましそうだ。有名人も利用者としてとり入れて、門戸を広く開放しているのであれば、気に入らない人は使わなければよい、との言い分はちょっと通りそうにはない。

 Twitter 社が利用者のアカウントを凍結するのはよいとしても、なぜそうした処置をしたのかが説明されないと、いろいろな憶測を呼んでしまう。いくつかの解釈がなりたつ。かならずしもふさわしくない発言をしていたから凍結されたのだとは言い切れない。たとえば、真理みたいなのを言っていて、それが他の人の目に触れると都合が悪いと見なされたために凍結された、なんてこともありえる。

 どういった判断で Twitter 社が利用者のアカウントを凍結したとしても、それは Twitter 社の自由なのだからそれでよいではないか。そうした見かたもできるかもしれない。くわえて、凍結されたとすれば、それによって省みることができるきっかけともなるかもしれない。そうしたのもありそうだけど、利用者のアカウントを凍結するのは、Twitter 社がくだす罰であるといえ、その罰が犯した罪ときちんとつり合っているのか、などの検証も欠かせないのがありそうだ。

 凍結されてしまうのをかりに地獄だとすると、いきなり地獄に落とされてしまうのはきつい。車の運転でいうと、青信号と赤信号しかないみたいである。その中間の黄信号みたいなのもあってもよさそうだ。キリスト教では、地獄と天国のあいだに煉獄(れんごく)があるといわれている。煉獄にいればうまくすれば天国に行ける。そういったのがあれば、救済の余地があることになるから、そうしたのを残しておいてくれたほうが人間的だ。

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いきなり解散の利と害があるとして、誰に利となりそうで、どういった害がありえるのかを見るのは、必ずしも負け犬の遠吠えとはいえないだろう

 解散の風が吹きはじめた。自由民主党安倍晋三首相は、衆議院を解散することを目くろんでいると報じられている。野党が求めていた臨時国会が開かれるが、その冒頭で解散の宣言をすると見られている。それがなかったとしても、近々に解散の宣言を発することをねらっているという。

 臨時国会では、いまだに解決されていないものである、森友学園加計学園の不正の問題がとり沙汰される見こみである。これによって(この問題の当事者の一人とされる)首相は野党からきびしい追求をされることになるのがある。そうした追求をされるくらいであるのなら、いっそ解散をしてしまう。そうした魂胆がはたらく。直接の証拠は出ていないにせよ、これまでの説明に著しい不整合があるのはいなめない。それを突かれるのからとりあえず逃れたいとする思わくがありそうだ。

 首相は衆議院の解散権をもつ。なので、その解散権を使うことはとくに問題はない。規則に反してはいないわけである。そうではあるが、国民のためになるのではなく、たんに自分の党が有利なときに解散権を使ってしまうと、党のためにはなっても、国民のためになるとはおよそ言えそうにない。

 疑問がもたれつつも、しかし権利は権利であり、規則には合っている。そうしたこともあるわけだが、逆にいえるとすれば、たとえ規則には合っているのだとしても、それだからといってその行為がふさわしいものであるかどうかはまた別の話だといえそうだ。

 解散権はたしかに首相の権利ではあるだろうけど、それはそれとして、それとは別に説明責任の義務があるのではないか。事態を灰色のままでうやむやにするのはできれば避けたいところだ。表に引っぱり出された当事者があり、かたや雲隠れしてしまっている当事者もいる。一般人ではないといえるから、せめて一回くらいは表での説明があってもよさそうだ。

 解散の手を使わないで、きちんと国会の中で説明責任の義務を引き受ける。それで謝るならば謝るようにする。これは、もしそれをすることがいるのであれば、それほど難しいことだとも言えない面がある。危険さはあるわけだけど、それで乱雑さ(エントロピー)が吐き出されれば、そのほうがどちらかといえばまっとうだ。

 権力者は強者であり、その強者にとって有利なときに権利を使ってしまうのは、それをさしひかえる判断があってもよさそうである。ほかの党のこともあるわけだから、そこをおもんばかることはできないものだろうか。そんな生やさしいことを言っていては競争の中でやってはいけないのかもしれない。そうはいっても、権力者である強者に有利にはたらいて、弱者に不利なようであっては、その競争は出発点からしておかしいものである。

 規則には合っているとはいっても、それと同時にできるだけ正当性もないといけないだろう。それがないのであればやることが空虚になってしまうし、それで競争に勝っても適者が生存したとはちょっといえそうにない。負けて不適者が淘汰されたともいえないだろう。つまり、あまり気持ちのよいものではなさそうだ。どうせなら、正々堂々と(強者と弱者が分けへだてなく)公平に競争をして、そのなかで力を出してゆく。結果として勝つにせよ負けるにせよ、それを受け入れればよいのではないか。そのほうが気持ちがよさそうだ。理想論にすぎないのはあるわけだけど。

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かかえている条件がそれぞれでちがうから、あり方を押しつけてしまうと公平にはなりそうにない

 偏見をなくしたい。そうであるのなら、生まれ持った名前によって活動するのがふさわしい。そうでないと、自分が偏見を持ってしまっていることになる。このようなツイートを見かけた。

 偏見をなくしたいというのは、価値についてを言っている。これは理想である。それとは別に、現実には偏見がある。そのように見ることができる。これをごちゃ混ぜにしてしまうと、価値と現実とが区別されなくなってしまう。なので、これを分けて見たほうがとらえやすくなる面がある。

 現実にある偏見は、なかなかそれを改めようと思っても、一人の力だけではいかんともしがたい。人々がもつ偏見は根づよいものがある。そうしたのがあるので、そこへ適合してゆくために、生まれ持ったのではない名前で活動することがあってもよさそうだ。苦肉の策でありえる。これは、そうした適合の仕方が悪いのではなく、偏見をしてしまう社会や環境のほうがどちらかといえば悪い。

 生まれ持った名前によって活動していれば、その人のよさを示すことになるのだろうか。また、生まれ持ったのではない名前で活動していれば、その人の悪さを示すことになるのだろうか。必ずしもそのように言うことはできそうにはない。いちがいに関連づけることはできないものだろう。これも偏見のうちの一つといえそうだ。

 何か後ろ暗いところがあるから、生まれ持ったのではない名前で活動するのにちがいない。このような見かたは確かとはいえないものである。個人の要因として見てしまっていることになる。そうではなくて、個人をとり巻く社会や環境のほうに大きな要因があると見たほうがどちらかといえば妥当である。まずは社会や環境にはびこっている偏見をとり除くのが急務であり先決だ。そのように言うことができるのではないかという気がする。

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J アラートの警報に目的合理性があるのかが若干の疑問である(うがった見方をすれば、必要がねつ造されているおそれも完全にゼロとは言えそうにない)

 北朝鮮がミサイルを撃ってくる。それで、政府は警戒のために J アラートを鳴らして国民へ注意をうながしている。とはいえ、ミサイルは日本の上空を飛びこえてゆく。日本列島からけっこう離れた海上に落ちているようだ。

 ミサイルは、上空からやってくる鉄の塊なわけだけど、地上にもまた鉄の塊が行き交っている。それにひかれることの現実味や怖さを無視できそうにない。モータリゼーションの社会であるから、車はいたるところを走っている。

 はたして、ミサイルが飛んでこなければそれで安心なのかといえば、そうとは言えそうにない。ほかにも危険なものは少なからずある。けれどもそうしたものにはとくに J アラートが鳴って危険が率先して喚起されるわけではない。

 人々をとり巻いているのが、危険社会となっているのがある。人々は色々な危険さにとり巻かれている。そのような指摘があるのを無視することができそうにない。直接のものではなくても、間接的な暴力はまん延している。

 ミサイルの危険さのほかに、いくつかのものをあげられる。原子力(核)発電所の危険さがまずある。これは脱原発派の人たちが声を上げているものだ。ほかに、国家の財政の深刻な危機もある。もっともこの危機については、楽観論もあるにはある。このほかには、地震破局噴火などの自然災害もあるのでやっかいだ。テロなどの犯罪に見まわれることもある。

 危険社会において、色々な危険があり、それが人々をとり巻いている。その一つ一つの危険を認めてゆき、それぞれについて対応してゆく。そうしたことがあったらよさそうだ。色々あるなかで、どれがより身近であり、どれがそれほど身にさし迫ってはいないのかは、人それぞれとなる。そこを見てゆくことがいるのがあり、その見きわめをとり違えてしまうと見当はずれになりかねない。

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同じ日本人といっても、しょせんは他人なわけだし、テレビのコマーシャルに出るための条件としてはそこまで重要とは思いづらい

 日本人を起用せよ。サントリーのテレビコマーシャルについて、このような抗議の声が寄せられているという。このコマーシャルでは、タレントの水原希子氏が出ているそうだが、水原氏がハーフであることから、一部から標的にされてしまっているようだ。

 サントリーとしては、こうした事態のなかで、自分たちの会社の思想や哲学を示すかっこうの機会であるとの見かたもとられている。ここで、差別は許されないことであり、そうした行ないには断固反対するとの姿勢を示せば、サントリーの会社としての株があがることが見こめる。

 そうした姿勢をサントリーが示したとして、それで相手が黙って引き下がるとは見なしづらい。今度はさらに抗議の声が高まってしまったり、サントリーの商品を買わないようにするといった不買運動がおきかねない。そうしたおそれがあるため、なにか具体的な行動がとれずにおよび腰になるのもある。

 出自がどうかによって人を否定してしまうと、排外主義になる。どういった出自をもっているのかは、本人が自分で選んだものとは言いがたい。たまたまどこかで生まれて育ったにすぎないわけだから、本人に非があるわけではない。

 日本とはちがったところの出自をもっている人であるとしても、それだからといって負の属性をもつわけではないだろう。そこについては、過度の一般化や過度の単純化をしてしまうのに気をつけられればさいわいだ。なるべく単純化しないで、属性によってだけで見ないようにできればのぞましい。

 いくつかの出自や属性をもっているのであれば、日本にたいして多少の距離感が出ても当然だ。距離感があることは悪いことではない。むしろよいことである。そのようにして対象化ができずに、日本の国とぴったりと一体化してしまうほうがややまずい。国とは実体ではなく、超自我が投射される虚焦点にすぎないとフロイト精神分析学では言われているという。法を擬人化したのが国家となる。不安をしずめるための権威となる。

 帰属による同一さとはちがうものがあるからこそその人の個性になる。個性なき帰属には、平準化された画一さしかのぞめそうにない。そのような同一化への圧力はなるべく少ないほうがよさそうだ。同化による画一化された同質さは、平等であるのではない。

 もし日本のことを心の底から嫌っているのであれば、日本の企業のテレビコマーシャルに出るとは考えづらいし、出るのを断るものではないか。ものすごく日本のことを嫌っているにもかかわらず日本の企業のテレビコマーシャルに出るとは考えづらい。そこは個人の内面の動機をうかがうことになるが、そんなことを外から忖度しても本当に当たっているのかは確かめようがない。

 同じ日本人であるといっても、誰かがテレビのコマーシャルに出ていたところで、その人が出演料をもらうにすぎず、自分にとくに益になるわけではない。他人ごとである。そうしたのもあるし、テレビのコマーシャルには日本人が出るべきだというのであれば、恣意的に非難するのはちょっとおかしい。出自や属性は問わずに、適した人が出ればよいのではないか。

 二〇二〇年に東京五輪を予定していて、そこではおもてなしが言われている。そのおもてなしとは逆行するような風潮もおきていないでもない。せっかくの機会だから、同胞であるわれわれではなく、異邦の人をおもてなしして歓待するようにできればさいわいだ。そうしておもてなしすることで、贈与することになる。このような贈与が異邦の人へだけでなく同胞の中でも盛んになされればよさそうだ。贈与は消尽による消費であり、それは(けちけちしていないような)豊かさであるだろう。格差による分断(ディバイド)をのりこえるための多少の手だてになるかもしれない。

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やる気はないけど言っているだけにすぎないのであれば、それをなるべく見きわめることがいりそうだ(国の関係において)

 挑発されたのに対して、それにのってしまう。そうなってしまうと危なそうだ。あくまでも言っていることにうかつにのらないようにして、慎重になったほうがのぞましい。

 北朝鮮は、日本にたいして煽動するような声明を出している。それを真に受けてしまうのではなく、一歩引くようなふうにして受けとめるのがよい。あまり真に受けている人は多くはないだろうけど、扇動にのってしまうようであれば心配だ。

 相手が言ってきていることと、じっさいにやることとを分けて見る。そうすることによって、二分割してとらえることができそうだ。言っていることをじっさいにやることがありえて、一方でやらないことがありえる。

 過激なことを相手が言っているのだとしても、それをじっさいにやらないのであれば、実害はほとんどないに等しい。気分は害するわけだけど。そこを見きわめられればよさそうだ。

 相手の言うこととやることを分けてみるのは、言と行を差異によって見ることだと言えそうである。これを必ずしも一致させないのである。ふつうであればそれができるだけ一致したほうがよいわけだけど、そうでないほうがさいわいとなることもありえる。

 一致しないほうがよいのは、遂行(パフォーマティブ)の度合いが大きいときだといえる。あることを相手が言っているとして、それがたんに遂行として言われているのなら、事実(コンスタティブ)とはまたちがう。たとえば、殺すぞ、と言ったとしても、じっさいに殺すわけではないのがある。ちょっとぶっそうな例ではあるけど、文字どおりではない受けとり方が可能だ。

 そうしたことについては解釈がからむ。ある一つの解釈だけが正しいとは言い切れないのがあり、さまざまな受けとり方ができるとすれば、それらをふまえてみるのがよい。でないと速断してしまうことになりかねない。

 言っていることを必ずしもやるとはかぎらない、とすれば、疑うことができる。言っているのが、たんにそうした願望(wish)を口にしているだけにすぎないとすれば、そこでとどまることも少なくない。そうした願望なのではなくて意思(will)を言っているのだとしても、それが見せかけであるのだとすれば、じっさいにやるわけではないことになる。意思とはいっても行動に結びつかないものもある。その点は、現実世界と可能世界みたいなちがいがあるかもしれない。

 言葉と心を分けて見るのもできる。哲学者のカール・ポパーは、世界三の理論を説いたという。この理論では、世界一が物質で、世界二が心で、世界三が言葉(観念)である。これをふまえると、言ったことは世界三であり、それとは別に心がある。この心は世界二であり、これをおしはかることができるのだ。そのさい、色々なおしはかり方ができるのであり、正解は言った本人にしかわからない(または神のみぞ知る)。

 ていねいな説明をしっかりとしてゆく、と言っているのだとしても、じっさいにそれをやるのではない。国内に目を転じてみると、そうしたこともある。これは、言っているだけでやろうとはしていないことをあらわす。やろうとはしていないなんていうふうに決めつけてしまってはまずいかもしれない。とはいえ、言っていることを必ずしもやりはしない、として疑うのがここでは有効にはたらく。それを他のところでもそれなりに生かせそうだ。

 憎悪表現(ヘイトスピーチ)であるのなら、それを言った時点で問題である。個人もしくは少数派が不当な悪口を言われっぱなしであるのなら、それはのぞましい社会のあり方であるとはいえそうにない。宗教で言われる黄金律を照らし合わせてみても、自分が言われたら嫌なことを他の人に向かって言うのは、できるだけ控えるのがふさわしいだろう。

 国との関わりにおいては、その国をとり巻いている状況に目を向けることもできる。もしまわりから追いつめられている状況があるのだとすれば、そうして追いつめられているために口にしてしまうような発言もあるだろう。そうであれば、状況が悪いと見なすこともできないではない。責任の帰属が、主体にあるのか状況にあるのかの見かたのちがいである。これを見まちがうと帰属エラーになる。

 終極目的(テロス)をどこに置くのか。日本が戦争に巻きこまれないですみ、国民が戦争に駆り出されずに安全でいられるのを目的とすることができる。そうであれば、その目的さえ果たせればよいのだから、この手段でなければならない、といったこだわりをもたずにすむ。これでなければならない、といった固定した方法論におちいらないでいられる。

 国はかくあるべし、といった観念を、できることならとっぱらう。そうした姿勢もありだろう。国家の道みたいなのをなるべくもち出さない。国家の道とは、たとえば国家たるもの軍隊を持っていないとならないだとか、交戦権がなければならない、といったものである。そうした道をもち出してしまうと、固定した方法論におちいる。極端な話でいえば、(軍隊や交戦権をそなえた)国家の道からはずれていても安全で平和であればそれでよいし、道にのっとっていても危険をまねくのなら失敗だ。いろいろな手段がありえるなかで、できるだけ平和的で、ぶつかり合うのを避けられるようなことが試みられればさいわいだ。

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圧力が入力であるとすると、そこから出力として爆発がおきるおそれもいなめない

 北朝鮮へ、異次元の圧力をかける。自由民主党安倍晋三首相はそのように述べていた。核兵器の開発をやめず、ミサイルを撃ってくるのがあり、それにたいする応報のようなかたちでの意見であるのだろう。

 はたして、異次元の圧力とはいったいどんなことをさしているのか。そこの点はちょっとよく分からないのがある。おそらく誇張によるものでもありそうだ。安倍首相が言うように、異次元の圧力をかけるのだとして、もしそれができたとしても、それだけでは終わりそうにない。

 圧力をかけたのに等しいだけ、爆発力もまたおきてくる。そうであるから、圧力をかけるのであれば、爆発してしまうことにも注意しなければならない。ましてや、異次元のというくらいなのであれば、異次元の爆発や暴発がおきてもそれほどおかしくはない。そうした負の事態を誘発しかねないのがあるから、よくよく慎重に言動をとるようであったほうがよさそうだ。

 甘いことを言ってしまうのはあるだろうけど、厳罰のような強い圧をかけたとして、それで相手が懲りてくれるとは必ずしもかぎらない。根にもつおそれがある。理想にすぎないかもしれないが、のぞましいのは、最小の圧によって最大の効果を得られることだろう。圧をかけるのは目的ではなくあくまでも手段にすぎないわけだから、それが目的化してはややまずそうだ。

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関係を解消しようとしている過程で、それとは別の新しい関係を築くときの、判断の難しさ

 夫婦で、離婚するのを協議している。そのさなかに、担当している弁護士と不倫をした。このようなことが報じられている。

 夫婦で離婚の協議をしているときに不倫をするのは、どうなのだろうか。これはこれで、ある面では大目に見られてもよい例はありえる。そこまでひどく批判されなくてもよいのがあるだろう。というのも、すでに夫婦の関係はほぼ破綻していると見なしてもよさそうだからである。まだ破綻しきってはいないのもありえるけど、少なくとも夫か妻の一方の気持ちは離れてしまっていて、それをお互いがわかっているといったことになっていそうだ。

 そうはいっても、ほぼ破綻しているのと、完全に破綻したのとでは、一緒くたにはできないかもしれない。ほぼ破綻しているときに不倫をしてしまうと、関係にとどめを刺すようなふうになってしまいそうだ。それに、節操の問題もあるから、あんまり節操のないことをするのはほめられたこととはいえそうにない。

 一と口に不倫とはいっても、十把一絡げにすべてを一緒くたにするのだと大ざっぱとなる。これは、表現(シニフィアン)が先か内容(シニフィエ)が先か、といったことで見ることもできそうだ。表現として使われる語の熱量がそもそも高く、そうした表現が先にくるから、不倫だとして非難されるのがある。それとは別に、内容を先に見てみると、これはそこまで非難されなくてもよさそうだな、といった例もあるはずだ。そうした例まで問題だとしてしまうと、叩くために叩くみたいなことにもなりかねない。

 あつあつの夫婦なのであれば、そこには(人情をともなった)温かい義理があり、お互いを結び合う紐帯(ちゅうたい)がある。しかし、気持ちがそうとうに離れてしまっているのであれば、冷たい義理となってしまっている。これはいわゆるお義理といわれるものだ。たんなるお義理になってしまっているのであれば、そこには人情はあまりなくなってしまっている。

 たとえ冷たい義理ではあっても、義理は義理なのだから、守られないとならないものだろうか。もしそうであるのだとしても、形式的なふうになってしまう。内実がともなっていない形式にはたしてそこまでの意味があるのかは若干の疑問である。

 車の運転でいえば、目的地にもうすぐ着きそうなところであんがい事故がおこりやすいという。もうすぐ着くので、そこで気がゆるんでしまう。それと同じように、離婚の協議をしていて、まだ離婚がきちんと成立していないけど、成立するのぞみによって気がゆるんで不倫にいたる。そうしたことがありえそうだ。なのでその点に気をつけるのがよいかもしれない。

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よい面を図として、悪い面を地とすると、それは反転させられる

 不道徳であっても能力が高い。そうした政治家の人がありえる。そのさい、一つの可能性としては、こういう見なし方ができる。あの人は、不道徳ではあるけど、政治家としてはきわめて優秀だよね、と見なす。

 政治家としての優秀さは、政策を提案したり実行したりするなどといったことにおける有能さだろう。こうした有能さをもっていたとして、そのいっぽうで、私生活ではだらしないなどの不道徳さがある。こうしたようであると、認知的不協和を呼びおこしそうだ。

 認知的不協和がおきるとすれば、それはいったいどのようにして解消されることになるだろうか。政治的な有能さが上回るか、それとも不道徳が上回るのか。政治的な有能さが上回ることもありえないではないだろうが、じっさいにはそれは難しい。不道徳が上回ってしまいそうである。

 よい価値と悪い価値があるとすると、よい価値は限定化されやすく、悪い価値は一般化されやすい。なので、政治的な有能さは限定化されることになり、不道徳は一般化されることになる。そうした流れがありえる。まちがいなくいつもいつもこうした流れになるとはいえないだろうけど、このようになる確率はそれなりにありそうだ。

 もし不道徳なできごとが表ざたになり発覚してしまったのだとすれば、それを受けとる方は、信頼をもつのが難しくなる。たとえその人が政治的に有能であったとしても、どうしてもそうした面がおきてしまうものなのではないか。不信感を払しょくしきれない。そこで、どのようにすれば損なわれた信頼をふたたび回復できるのかをさぐるのがよい。

 少なくとも、不道徳であるのを居直ってしまうよりかは、これから先に改めるようなきちんとした手だてをとったほうが、双方向のあり方が期待できるのがある。なるべく口先だけではない手だてであるのがのぞましい。受けとる方がそこまで寛容であるかどうかはわからないけど、そうした寛容さがときにはあってもよいかもしれない。

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