消費税を上げることと、経営コンサルタントの世界で言われる空と雨と傘の枠組み

 来年の秋から消費税を一〇%に引き上げる。首相はそれを決めたという。決めたとは言っても、新しい判断をして前言をひるがえすこともないではない。

 野党や新聞社などの報道機関は、なぜ消費税を一〇%に引き上げることをまずいことだとして騒がないのか、という声が投げかけられている。新聞社については、自分たちに軽減税率が当てはめられるからだという見かたがとられている。野党については、消費税の増税に反対している議員は少なくない。

 経営コンサルタントの世界で言われる、空(事実)と雨(見解)と傘(提案や判断)の枠組みを当てはめることができる。この枠組みをとるさいに、消費税を上げるのがまずいことだということができるだけではなく、逆に上げたほうがよいとすることが成り立つ。識者の中にはそういう見かたをとっている人がいる。

 消費税を上げるをよしとするのでは、社会保障や国の財政のために上げることが必要だとするのがある。また、いまの日本は景気がよいので、景気がよいときに消費税を上げるのはよいことでありまた必要なことであるという。

 空と雨と傘の枠組みでは、空が曇っていて雨が降りそうで傘がいるのか、それとも空が晴れていて雨が降らないので傘はいらないとするのかの二つのあり方がとれる。はじめの空が曇っているのかそれとも晴れているのかで、人によって見かたが異なっているのがある。そこから話がかみ合わなくなっているのがある。

 消費税という税そのものについて、負の価値だけのものなのかそれとも正の価値を含むものなのかのちがいがあり、前提条件を変えて見ることができる。消費税を上げるのがよいか、それとも上げないのがよいか、または下げたり廃止したりするのがよいのかは、それによってよい結果がおきると言える絶対の確証があるとは見なしづらい。仮定によっているところがある。

東京都がつくった広告の文句は、もとの発言の文脈からずれている

 障がいは言い訳にすぎない。負けたら、自分は弱いだけ。この文句は、二〇二〇年に行なわれる東京五輪パラリンピックに向けたポスターの広告に使われている。これにたいして批判の声が投げかけられて、東京都はこの広告を撤去することにしたようだ。

 批判が投げかけられている文句は、身体に障害をもちながら活躍しているスポーツ選手の発言による。もとの発言は広告で使われている文句よりも長いものだが、それを短くして広告の文句として使っている。

 もとの発言では、発言者はこのように言う。健常者の大会に出ているときには、言い訳ができるところがあったが、パラリンピックの競技では言い訳ができない。勝ちと負けだけがある。負けたら自分が弱いだけだ、としている。

 もとの発言の文脈があるのを、広告の文句では発言者の文脈をはずしてしまっている。文脈をはずしてしまうことによって、もとの発言とは内容がちがうものになっている。発言を広告に用いるのであれば、もとの発言の文脈に沿うようにするのでないと、内容が変わってしまう。

 広告の文句では、短く言い切ってしまっているのがまずい。斫断(しゃくだん)しているのである。一般に短い表現は、短いだけに効果は高いものの、そのぶん危険性が高くなる。言い方に穏当さが欠けているのはいなめない。

 短く言い切ってしまっていることから、広告の文句は格言のようになってしまっている。もとの発言ではそうではないが、それを文脈をはずして一般化してしまっているのだ。

 障害は、というふうになっているのは、主語が大きい。障害とひと口に言ってもさまざまなものがあるから、一概に言えるものではないだろう。身体や精神のものがある。軽いものから重いものまでさまざまにある。置かれている状況は人によってちがう。

 精神論だけでは片づけられるものではないことを、それによって何とかなるというような内容をあらわしてしまっているのがある。精神論だけで片づけられるものではなく、物質の支えが必要なのがある。精神と物質の支えによって、個人の自由の幅が広くなるようにするのがのぞましい。

 障害をもつ人を含めて、少数者の中で、生活の中で困りごとを抱えている人は少なくはないというのがある。少数者だけではなく多数者の中にもまた生活の中で困りごとを抱えている人はいる。それを自己責任として個人のせいにしがちなのがいまの日本の社会だろう。

 とくに少数者においては、社会の中で温かい目を向けられずに、冷たく見られて放ったらかしにされることがおきがちだ。そこを何とか改めるようにしないとならない。精神論や自己責任ということで何とかなるのだというようなまちがった情報を公の機関があらわすべきではないだろう。

 すべてのというのではないにしても、少なからぬ少数者や弱者が社会において包摂されずに生きて行きづらいのであれば、それは社会全体のあり方がおかしいことをあらわす。いまの首相による政権には、少数者や弱者を含めて、社会の中で個人が抱える不幸を減らすという具体的な方向性は見えてこず、自己責任として放ったらかしにしてしまっていると見うけられる。安らいで生きて行けるとは言いがたく、人々が抱える生活の不安や政治への根ぶかい不信が減らせていない。

批判ばかりするのはよくないことなのかどうかがある

 批判ばかりしている。それをおかしいとかまずいことだとすることができる。批判ばかりするのははたしていけないことなのだろうか。この質問をとれるとして、それにたいする直接の答えにはならないけど、ある主張にたいして批判は可能である、とする答えが成り立つ。

 ある主張にたいして批判は可能なので、批判をすることになる。ある主張を一つの命題だとできるとすると、それにたいして反命題(アンチテーゼ)をとれる。命題と反命題とで弁証法のあり方が成り立つ。

 批判ばかりするのはいけないことなのかの質問にたいして、直接の答えになるものではないが、ある主張にたいして批判は可能だというふうに答えることができる。可能だというのは、ある主張が完ぺきなものではないのをあらわす。完ぺきな合理性によるのではない。限定された仮説や判断にとどまる。かたよりを含んでいる。

 この例を持ち出したからといって、説得性はとくに高くはないかもしれないが、例えば、日本の国に住んでいて、住みやすいことから、日本はよい国だという主張をする。この主張には批判が可能である。日本の国に住んでいて、住みやすいからといって、日本はよい国だとはかぎらない。別の人には住みやすくないかもしれないのがある。住みやすいとしても、よい国かどうかはまた別だというのがある。

 ある主張にたいして批判が可能なのは、切れ目(すき間)を突くことができることによる。切れ目がないように見えるとしても、改めて見れば連結しているところに切れ目を見いだせる。そこを突く。

 切れ目がないように見えるのは、速度が速いものだが、それにたいして切れ目を見いだしてそこを突くことで、速度を遅くする効果がとれる。批判が的をついていてそれが受け入れられれば、止めることができる。

 批判ばかりしていては、何ごとも決められないから、現実においてはそうするわけには行かない。これは、批判ばかりすることにたいする批判である。批判というのもまた一つの主張であるという見かたは成り立つ。

 ある主張があるとして、その中には切れ目があるものだ。それとは別に、ある主張と現実とのあいだに切れ目がある。現実とまったくぴったりと合っているのではない。媒介していることによる。ぴったりと合うものではないことから、そのあいだに切れ目を見いだすことができて、その切れ目が空いていることにたいして批判を投げかけることができる。

 現実はさまざまなものごとによって複雑にできているが、それを言いあらわすさいに、複雑さを減らすことになるのを避けづらい。単純化することになる。単純化するとわかりやすくなって便利ではあるが、現実の複雑さをとりこぼしてしまっている。その点にたいする注意がおろそかになってしまっているとすれば、そこを批判することができる。

 言われていることにたいして、それを言葉どおりに受けとるのと、そうしないのとの二通りのあり方が成り立つ。言われていることを言葉どおりに受けとることが必然として正しいとは言えそうにない。そうしないほうが正しいことがある。たとえば皮肉で言っていることは、言葉どおりに受けとらないことで適した受けとり方になる。必然として正しいのではないとすると、可能性の水準としては、そのまま受けとるのと受けとらないのとの二つの受けとり方がとれる。

 おもて立って言われる主張は顕在であり、それにたいして対立することになる別の主張が潜在として生み出される。潜在しているものを顕在化させることで、批判を表にあらわすことになる。生成される。その批判にたいしても、潜在としてそれに否定的な主張が生み出されるのはたしかだ。

 批判ばかりするのがよいことかどうかはわからないものではあるが、じっさいに批判を投げかけないにしても、ものごとを批判的に受けとることは有益である。批判的に受容するようにして、そのまま受けとらないようにする。

 批判ばかりするとしても、そこに一貫性があり、日和見で態度がころころと変わってしまわないものであればよい。的を得ていて、根拠がしっかりとしたものであれば、絶対によいものかどうかはわからないのはあるが、少なくともあるていど(以上)は有益なものであると見なせる。

 批判ばかりするのを、見かたを変えてみれば、あえて批判をするというのが成り立つ。確認のためにあえて批判をするのは、試しに批判をしてみるものである。試しにやってみて、やってみたらその批判が当たっていて、それが受け入れられれば、うまいぐあいにもとの主張は正されることになる。これはよいことだ。見直すことにつなげられる。見直す中で、見落としやうっかりしたまちがいが見つかることがある。批判を経ないよりも経たほうが有益にはたらくことは少なくない。

 確証(肯定)だけではなく、反証(否定)があったほうがよい。批判をするのには反証の意味あいがある。確証だけであると、確証の認知のゆがみがはたらく。それを避けるようにできれば有益だ。そのためには、弁証法のあり方をとることができる。一つの命題にたいして、反命題があるのをくみ入れるようにする。文脈どうしがぶつかり合ってしまわないようにして、すり合わせをして調整する。民主的に話し合いをして、相互に了解をとることを試す。

首相の言う責任は、じっさいには責任をとることにはなっていないで、言葉で言うだけになっている

 憲法の改正によって、自衛隊憲法に明記するのを目ざす。いまを生きる政治家の責任だ。首相はそう言っている。責任を言うのであれば、ほかにもっとやらなければならないことがあるはずだが、それはほったらかしにしたままだ。

 首相は、憲法の改正を目ざすうえで、いまを生きる政治家の責任を言っているが、これはじっさいには責任をもっているのではなく、ごう慢になっている。おごりにおちいっている。

 たんにいまを生きている政治家だというだけでは、責任をもつことになるとは言いがたい。責任をもつというのは、いまを生きている政治家であるということをことさらに重んじないようにすることである。いまという時点に重きを置きすぎない。

 いまというのはすぐに過ぎ去るものだ。であるから、いまを重んじるのではなくて、これから先と、これまでの過去を重んじるのがふさわしい。未来の人の意思と、過去の人の意思を重んじる。

 未来の人と過去の人の意思を重んじるには、いまを生きる政治家の意思と同一なものにしないことがあったほうがよい。いまを生きる政治家の意思とはちがう意思をもっていることが、未来の人や過去の人には可能性としてある。ちがう意思をもつ人との対話を行なう。独話や(同質の者どうしの)会話をするのではない。

 未来や過去の人は、いまを生きる政治家とはちがう意思をもっている可能性があるのをくみ入れて、いまを生きる政治家の意思を相対化しないとならない。絶対化しないようにする。それが、いまを生きる政治家がもつことがいる責任だろう。それをもたないのは無責任となる。

 いまを生きる人たちの中にも色々な意見があるのだから、その一つひとつをていねいに見て行かないのもまた、いまを生きる政治家に責任が欠けているのをあらわす。責任をもつというのは、実行するということにそのまま結びつくものではないから、急進にものを進めるのを避けられればよい。急進にはものを進めないで、色々な呼びかけがあるのにたいして、時間をかけて受け答えをして行くことがいる。応答責任(responsibilty)や説明責任(accountability)を果たしてもらいたいものだ。

生死は勝ち負けの文脈ではなく、権利と義務の文脈で見られる(生存権その他の権利が人によって十分ではない現状がある)

 死んだら負けである。それをもっと教えて行かないとならない。テレビ番組で出演者はそう言っていた。悪気があって言っているわけではないだろうし、必ずしもまちがっているわけではないが、個人としてはうなずくことはできそうにない。

 死んだら負けだというのは、自殺したら負けだということだが、そうかといって生きていれば勝ちなわけではない。生きているだけで勝つわけではないだろう。生きているだけでは勝ちではないのは、社会の中でさまざまな悪いことやまちがったことがあるのによっているのがある。

 テレビ番組の出演者は、自殺をしてしまったことの原因はわからないものだという。たしかに、本当の原因はわからないのはある。しかし、たんに自殺がおきたという結果だけで負けだと見なすのには納得が行かない。結果だけで負けだとするのではなく、本当の原因はわからないのはあるものの、なぜということができるだけ問われなければならない。

 一般論でいえば、自殺を加速してしまう因子と、減速する因子があるという説がある。加速する因子が多かったことで自殺にいたってしまったことがうかがえる。それは負けたことを意味するものではないだろう。そうではなくて、その人をとり巻く外の環境である社会が悪いのである。

 自殺を加速してしまう因子は、色々な問題を一人でかかえこんでしまうことがある。つながりや関わりをとることができない。問題を色々とかかえていて、それが深刻なものであり、かつつながりや関わりがとれないと、視野がどんどんせまくなってくる。視野がどんどんせまくなってしまうのは、個人がおかれた大きな不幸ではあるが、負けということではないだろう。

 自殺というのは、じっさいには形を変えた他殺なのであると、作家の安部公房氏は言っている。ことわざでは、悪貨は良貨を駆逐するだとか、憎まれっ子世にはばかるだとかというのがある。死ぬのは負けで、生きるのは勝ちかというと、そうとは言えず、善人であるほど世の中で成功して、長く生きながらえるとは言うことはできない。

 世の中には色々と悪いことやおかしいことがあるが、その中の一つに、個人の人格が十分に尊重されづらいのがある。人格が尊重されずに手段におとしめられてしまう。抑圧や搾取などの文化による暴力をこうむる。平準化や画一化の圧力がはたらく。同調の圧力にそむく人は疎外される。人が物であるかのように、質ではなく数字(数値)ではかられる。労働などでまっとうなあり方がとられていないことが多い。差別と憎悪表現のまん延がおきていて、(社会的)包摂ではなく排斥の動きが目だつ。共生にはほど遠い。神経が過敏で感じやすい人ほど生き苦しくて生きづらい世の中であるとおしはかれる。精神や身体の根ぶかい疲労がひどくたまってたいへんな生き苦しさや生きづらさにおちいるのは、社会の構造に問題があると見てさしつかえがない。

医学部の入学試験で、かげでこそこそと一方の性を減点していたことにおける、じっさいの前提条件のちがいをあげられる

 男性よりも女性に不利な入学の試験のしかたをする。それをおもて立ってやらずにかげでこそこそと行なう。かげでやっていたこと(の一部)が発覚しているのがある。

 女性に不利な入学の試験のしかたをしていたことのわけとして、医師の世界では男性のほうが適合していて女性はそうではないというのが言われている。この見なし方は必ずしも正しいとは言えそうにない。

 三つの可能性があげられる。一つ(一番目)には、言い訳として言われている通りに、男性のほうが適合しやすく女性はそうではないのがある。医師の世界においては男性のほうが一般的に優秀だというものだ。

 もう一つ(二番目)には、男性と女性は能力において差はないというものがある。性別によってちがいがあるのではない。

 さらにちがうもの(三番目)として、じつは言い訳による見なし方とはまったく逆で、一般的に男性よりも女性のほうが医師の世界で優秀だというのがある。じっさいには女性のほうが男性よりも一般的に能力が高い。

 この三つの前提条件のちがいがあげられる。一番目の前提条件がとられることで、女性に不利な入学の試験のしかたがとられていた。この前提条件とはちがうものである、二番目と三番目のものを見ないとならない。

 総合的に見たら、二番目と三番目の前提条件が当てはまることがあるのではないか。そうだとしたら、一番目の前提条件による言い訳はまちがいということになる。

近代に入ってから生み出されたものが、ぜんぶ虚偽意識だというのはやや極端である(すべての集合の中にはよいものは多少はあるだろう)

 近代につくられたものは、虚偽意識(イデオロギー)にすぎない。虚偽意識にすぎないものだから、これから先の数十年でまた変わってくることがある。人間の少数者の権利がよいとしているとしても、それは近代につくられた虚偽意識だとすると、数十年も経てばまた変わってきたりすたれたりすることがなくはない。

 前近代と近代を分けたとして、近代に入ってからできたものがすべて虚偽意識だということになると、そのすべてを同じように軽んじて見ないとならないことになる。否定で見ることになる。そうしないと公平な見かたになるとは言えそうにない。虚偽意識だとしておきながら、あるものは肯定で見て、別のものは否定で見るというのでは、都合よく使い分けてしまうことになる。

 近代に入ってからのものを含めて、人間のなしたことは、仮説であると見なすことができる。その仮説は虚偽意識だということはできるが、有力な仮説として定説に近くなっているものが中にはある。信ぴょう性や妥当性が高い説と低い説があるから、その中で高い説についてはほぼ普遍に近いと言ってもそこまでまちがいではないだろう。暫定的なものではあるかもしれないが。

 歴史の流れがあり、それを通時で見れば、人類がこれまでにさんざん愚かな行為をくり返してきて、多くの血が流され、それを省みることによって得られたものがある。愚かな行為の理性による反省から、国が武力を行使するのが基本としては禁じられるようになった。戦争は基本としては違法となった。建て前としてのものにすぎないが、許可や合法としていたときよりはわずかにではあってもよくなったのではないか。

 たいして有効ではなく、いざとなったら元のもくあみになりかねないが、一国で単独で動くよりも、多国がまとまってものごとをいっしょに決めるほうがのぞましいというのが大すじではよしとされているのがある。これが大すじでよしとされているのは、しょせんは文化的なものにすぎず、物理の力が振るわれたり、一国(大国)が勝手な行動をしはじめたりしたら、止めるのは難しいだろうけど、それとは別に、文化的に大すじでよしとされているものが内容としてまちがっていることにはならない。

 文化よりも物理の武力などのほうが強いのはある。しかし、文化の力もそこまで弱いものではない。文化として武力の行使を禁じる原則や、戦争を違法とする規則があるが、これらの決まりは建て前にすぎないものではあるにしろ、発見された法である。いまのところじっさいにはそこまで有効ではないとしても、この法が発見されたことによって、それがまったくないよりかはずっとよい。根拠としては使える。

 シオドア・スタージョンの法則を持ち出してみると、近代に入ってからさまざまなものが生み出されたとして、その九割くらいは大したことがないものかもしれない。しかし一割くらいはすぐれたものがあるだろう。一割よりももうちょっと少ないかもしれないが、その一割のものは、創造的なものであり、前と後とで区切りをもたらす。まったく前に戻ってしまうのではない。そういう達成が生み出されたのはわずかにはあるだろう。

 虚偽意識(イデオロギー)というよりは、虚無主義(ニヒリズム)の見かたができるのはある。虚無主義になり、さまざまな文脈が乱立して争い合うようになると、血みどろの争いになりかねないから危ない。それは避けられればのぞましい。それぞれの文脈を絶対的に基礎づけられないのはある。それぞれの文脈のあいだで調整ができれば、激しいぶつかり合いは避けられる見こみがある。

 文脈どうしの争い合いでは、調整が行なわれるようにして、双方向のやりとりが行なわれるようにできれば血みどろの争いになりづらい。近代に入ってからできたものだからといって、それをただちに虚偽意識だとして退けないようにして、中には(一割くらいは)よいものもあるというふうにする。虚偽意識だとしてすぐに退けてしまうのは偏見だが、そうならないようにする。それなりに的を得たものであれば、承認することができる見こみがある。頭から退けてしまわないものだ。自己の了解にとどまるのではなく、双方向のやりとりから相互の了解につなげたいものである。

文明の衰えと、首相による言葉の使い方のおかしさ

 国難として、文明の衰えがある。日本という国の文明の衰えとして、国の長である首相による言葉の運用(使い方)のまずさがある。背後という漢字をせごと読んでしまうような基本のところにおける足りなさを含む。

 一般の人ならとくにかまわないものではある。それとは別に、政治をつかさどっていて、その中でいちばん上に立っているのだから、細かいところであっても基本となるものをまちがえるのはいただけない。

 国難は、文明の衰えとして、首相がそれを自分からうながしてしまっているし、首相にあらわれてもいると見られる。ご飯論法や信号無視話法を平気で使う。要を得ない話や中身のない話をして、貴重な時間と労力をむなしく空費している。

日本の国はよいか、それとも悪いかで、よいと言うのではなく悪いと言うことは悪いのかがある

 日本はよい国か。中立や客観としてそうであるとは言いがたい。

 国がかかえる大きな問題がある。中くらいのや小さいのもある。それらは、ある人にとっては大きなものに感じられる。中くらいや小さいものに感じられる。そうではなく、まったく何の問題も感じない人もいる。人によってそのちがいがある。

 それぞれの人が大事にしているものがある。とくに価値を見いだしているものがある。それはそれぞれの人による遠近法だ。ある人の遠近法からすると、日本という国のよくないところやおかしさが深刻なものであり無視できないものであることがある。切実なものだ。

 ある人の遠近法だけがすべてではなく、ほかの色々なものがあるから、一つだけによって決めつけるのはよいことではない。まったく偏りがないということはできないものだが、国がかかえる正(プラス)のものばかりを見るのではなく、負(マイナス)のものを見るのは役に立つ。負のものを見るのは、国(時の政権)がやることの足を引っぱるようなところはあるが、それをするのが有益なのはある。

 国がかかえるプラスのものは、改めて見たさいに、本当にプラスのものなのかどうかがいぶかしいのはある。じつは改めてよく見たらプラスでも何でもないということはあるだろう。たんに雰囲気だけだったという。

 マイナスのものを見のがしてしまうのはよいことだとは言えそうにない。マイナスのものを見つけることが、それを改めることの第一歩として欠かすことができない。見つけなければ、改めることに手をつけることはできないから、まず見つけることが大切だ。

 マイナスのものを見つけるのは、みんなが等しくやるものではなく、人によって差があるものだろう。心理としては、自分が赤い色が気になる人は赤いものばかりが目につきやすいし、黒い色が気になる人は黒いものばかりが目につきやすい。その心理の差があるので、あることのマイナスのものが目につきやすい人がいる。それは行きがかりとして偶然(たまたま)によるのも含む。

 日本という国がよくないことになっているというふうに言うのは、マイナスのものを見つけているのによることがある。たんに日本の国をおとしめようとしているわけではない。日本の国の内部にある危険があるとして、その危険の信号をたまたま受信する人がおき、それを外に向けてあらわす。それが活かされるよりも活かされないことのほうが多いだろうけど、活かされないのはもったいないことだ。耳に快くないことであっても、的を得たものであれば、すくい上げるようにして、活かされたほうがよい。

 極端な話でいえば、かりに日本が天国のように非の打ちどころのないすばらしい国であったとしても、それでも人によってはよくないと言える。逆によくないのだと言える。天国のように非の打ちどころがなくすばらしいのは、非がないという点で非がある。矛盾はしているものだが。天国のように非の打ちどころがなくすばらしいのが日本であるとしても、それは中立や客観とは言えそうにない。主観のものだろう。そういうのが嫌いだという人も中には出てくるのがある。

脱水のやり方の賢さ

 洗濯するものが多い。そのさい、洗濯機の中の洗濯ものは、水を含んでいるので、けっこう重くなっている。それを脱水するさいに、はじめのうちは水を多く含んでいるので、洗濯機の本体の揺れが大きい。揺れが大きいと危ないと判断して、洗濯機はすぐに止まってしまう。

 脱水のやり方が悪いと、洗濯ものがはじめのうちは水を多く含んでいることを見こしていないので、本体の揺れが大きくなるような脱水のやり方をすることになる。これだと揺れが大きいために洗濯機はすぐに止まってしまい、人間にとってははなはだ都合が悪い。問題がおきてくる。

 動かしては止まり、動かしては止まり、というふうにすることで、洗濯ものに含まれる水をうまくとり除くことができる。それであるていどまで水をとり除くことができてから、本格的に動かすようにすれば、揺れが大きくなって本体が止まることなく滑らかに脱水することができる。

 人間であれば自分で気がついて工夫をすることができるけど、機械だとそれができない。融通がききづらい。機械を人間になぞらえるとすると、不器用なものと器用なものがあり、不器用なものだと問題がおきてしまうのがあるが、器用なものは問題解決者としてすぐれている。