従軍慰安婦にまつわる作品は、表現の自由において許されないものなのか―県知事と市長のそれぞれの意見では、県知事の意見をよしとしてみたい

 愛知県で開かれた芸術と文化のもよおしであるあいちトリエンナーレでは、従軍慰安婦にまつわる作品がとり上げられた。それをよしとするのか駄目だとするのかで意見が分かれている。

 主催地である愛知県の県知事と名古屋市の市長とでは、意見が分かれている。県知事は、従軍慰安婦の作品をよしとしている。市長はそれを駄目なのだと言う。

 県知事はこう言っていた。政治がある特定の表現に介入して駄目だとするのは、ナチス・ドイツの手口と同じになる。ナチス・ドイツでは現代芸術や前衛芸術などの、ドイツにとってふさわしくないとされるものについて、退廃芸術だと見なしてそれを拒絶する姿勢をとった。

 市長はこう言っていた。たとえ表現の自由があるのだからといっても、そこには公共の福祉に反しない限りにおいてという制限がある。国民の多数がのぞましくないと見なす表現については、認めないほうがふさわしい。そこに税金を投入することはふさわしくはない。

 県知事と市長とでは意見が食いちがっているが、個人としては県知事の意見の方をよしとしたい。市長の言っていることはあまりのぞましいものだとは言えそうにない。

 もよおしの主催者にたいして、市長は説明の責任を求めているが、そうではなくてむしろ市長のほうにこそよりくわしく説明をする責任がある。なぜ、もよおしについてとり沙汰された事後になって、世論をくみ入れるかのようにして、従軍慰安婦にまつわる作品を問題視することにしたのかについて、市長はもっと説明をするべきだろう。

 従軍慰安婦にまつわる作品は、表現の自由において、公共の福祉に反することになるのだろうか。そう見なすことはできないのではないだろうか。日本の憲法では、たしかに表現の自由について、公共の福祉に反しない限りにおいてという制約がとられているが、大きな方針としては、対抗言論によるあり方をとっているとされている。対抗言論というのは、表現行為については、表現行為をもってして対抗するというものだ。

 対抗言論によるあり方とは、かんたんに言うと市場原理のようなものである。市場では色々なものがやり取りされて行って、その中で駄目なものはすたれて、よいものは生き残って行く。これは駄目で、あれはよし、というふうに、あらかじめあまり評価づけをしないようにして、色々なものが流通して行く中で、あとになって少しずつ評価が決まるというあり方だ。

 従軍慰安婦にまつわる作品について、日本の国がとる歴史からすると嘘に当たるから駄目だとか、日本の国民の多数がよしとはしないから駄目なのだというふうに、あらかじめ評価づけしてしまうのは、対抗言論のあり方をとらないことになるのではないだろうか。対抗となる言論(作品)であったとしても、それをよしとするようにして、市場においてさまざまなものが流通するようにしたほうがよいのだと見なしたい。

 まったく無制限に何でもかんでもあらゆる表現が完全に自由に許されるというのではない。あるていど制限されるのはいるにしても、日本において、歴史修正主義がはびこってしまっている(と個人としては思える)そのもとを見てみれば、そこには対抗言論をよしとするあり方がもとになっているのがうかがえる。あだになっているというか、表現が自由であることの逆機能(マイナス)またはそのあかしとして、歴史修正主義がおきてしまっている。そうしたことから、あらかじめ、これはよし、あれは駄目、と上から決めつけるのは、そもそも憲法のあり方になじまなく、そぐわない。そう言えるところがあるのではないだろうか。

 参照文献 『新・現代マスコミ論のポイント』天野勝文 松岡新兒(しんじ) 植田康夫 編著 『歴史という教養』片山杜秀(もりひで)

一部の野党の議員が言っている、消費税を下げたり廃止したりするという政策の議論には、個人的には必ずしもうなずけそうにはない

 消費税を下げることや廃止することをかかげる野党の議員がいる。それをかかげるのは、政策の議論としてはどうなのだろうか。疑問に思えるところがある。

 消費税を下げるのや廃止するのを政策としてかかげるのは、手段が目的化してしまっているところがあるのではないだろうか。手段と目的が転倒して、自己目的化しているとすると、のぞましいこととは言えそうにない。

 目的と手段の二つは、どういう目的を目ざしていて、そのためにどういう手段をとるのかを見て行くことがいる。絶対の目的とか、絶対の手段ということにはなりづらい。あるていどの柔軟性があることがいる。

 目的は英語では end と言い、手段は means と言うのだという。目的としてののぞましさと、手段としてののぞましさは相いれない。そこで、互いを折り合わせることがいるようになる。

 消費税を上げるとか下げるとか廃止するとかということだと、消費税に焦点が当たりすぎてしまう。焦点が当たりすぎてしまうのを和らげるようにして、現象や問題に焦点を当てて見るようにする。

 現象や問題となることがあって、それがどのような原因や要因によっているのかを探って行って、そこで見つかった原因や要因にたいして手を打つ。手を打ってみてうまく行かなかったら、修正をするようにして、別の手を打つ。

 たとえば、社会の中で苦しんでいる弱者がいて、その弱者が苦しんでいるという現象において、その原因や要因が消費税(の高さ)にあるのであれば、消費税を下げたり廃止したりすることが、有効な手となる。

 社会の中で苦しんでいる弱者がいるとすると、その弱者は消費税によってだけ苦しんでいるのだろうか。そうではなくて、ほかの色々なことがもとになっていると見たほうが現実的なのではないだろうか。人によって何がもとになっているのかはちがうかもしれないから、個別にもととなっていることを見て行って、手を打つことがいるものではあるだろうが。人によって、どういったことが苦しみをまねいているかがちがう。人をとり巻く状況はそれぞれにちがうからだ。

 たとえとして持ち出したことがかなり限定されてしまってはいるが、社会の中で苦しんでいる弱者がいるとすると、その人を救うために、消費税を下げたり廃止したりするという手は、十分条件となるとは言いがたいし、必要条件としてもその有効性には疑問符がつく。そこまで有効性が高いかどうかは定かとは言えそうにない。

 消費税が下がったり廃止されたりすれば、多くの庶民にとっては助かることであるのにはちがいがないだろうけど、あまり消費税ということに強く焦点を当てすぎないようにして、どんな問題や現象があって、それの原因や要因は何かを探って行って、それで見つかった原因や要因にたいして手を打って行く、というふうにしたほうが、社会の問題が片づきやすいのではないだろうか。

 消費税のことについては、大事ではないというのではないだろうけど、最重要なものだとか、もっとも優先順位が高いものだとかとまでは言えないところがあって、消費税ではないそれ以外のさまざまなことを色々と見て行かないとならないし、消費税そのものについても色々な角度からさまざまに見て行かないとならないものだと見なせる。消費税だけが単一の原因や要因となって、それで正や負の結果がもたらされるとはいちがいには言えそうにない。そこについては、多数の原因や要因があって、多数の結果がある、というふうに複数化できるところがある。

 参照文献 『本質を見通す一〇〇の講義』森博嗣(ひろし) 『考える技術』大前研一 『正しく考えるために』岩崎武雄 『現代哲学事典』山崎正一 市川浩

日本の国にたいして投げかけられる批判と、日本の悪いところ―日本の全体がすべて何から何までどこもかしこも悪いということを意味するものではない

 日本にたいして韓国が批判を投げかけてくる。二〇二〇年に開かれる東京五輪では、会場に旭日旗(きょくじつき)を持ちこむことについて、韓国はそれを認めるのはおかしいという声を投げかけている。

 日本にたいして韓国は批判を投げかけてくることがあるが、それについて、批判と非難を分けて見るようにしたい。批判というのは、何か悪いところがあって、その悪いところについて、何かわけをがあって悪いのだと言うことだ。それとはちがい、非難をするのは、とくにわけもなく悪く言うことだ。

 日本にたいして批判が投げかけられるのは、日本に悪いところがあるおそれがあることを示す。日本にある悪いところを改めることができれば、日本にある悪いところが減ったことをあらわす。そうできれば、よいことにつながったわけである。

 日本にたいして韓国が言ってくることが、すなわち日本に悪いところがあることには必ずしもならない。日本に悪いところがあるのなら、それを改めてよいほうに変えられればよいが、それは日本に悪いところがあることが明らかになったさいに行なえばよいことだ。

 たとえ日本にたいして韓国が何かを言ってきていても、日本に悪いところがあることが認められないのなら、再反論や再批判をすることがあってよいのだから、肝心なのは、日本に悪いところがあるかどうかをできるだけ正確に確かめるようにすることだ。いいかげんに確かめるだけですませてしまい、日本に悪いところがないとつっぱねてしまうのでは、日本のためになることだとは言えそうにない。

 確認する点としてはいくつかの点をあげられる。日本にたいして韓国が言ってくることで、その言っていることが批判であるか、それとも非難であるかのちがいがある。もし批判であれば、日本としてはそれをまともにとり上げてみるだけの値うちがある。もしかしたら日本にある悪いところをきちんとさし示しているかもしれないからだ。

 日本にたいして韓国が言っていることがたとえ批判になっていたとしても、日本はそれにたいしてものによっては再反論や再批判をすることがあってもよいので、韓国からの批判をいついかなるさいにもそのままうのみにしないとならないということではないだろう。そのかわりに、もし韓国からの批判が的を得たものであるのなら、それを受けとめるようにして、日本の悪いところを改めるようにして、日本をよくするように変えるようにしてはどうだろうか。

 日本の国に批判が投げかけられたさいに、確認する点がいくつかあるが、それらの点をどれだけていねいに確かめて行けるのかが大切だ。確かめることがおろそかになってしまうと、一見するとうまくやりすごせているようでいても、じっさいには日本の国の内に悪いところがありつづけることになって、その悪さが拡大して行ってしまうことになりかねない。悪さが拡大するのを避けるには、確認する点をできるだけ一つひとつていねいに確かめて行くという過程をおろそかにしないことが求められる。

 日本の国はよくて、韓国は悪い、みたいなふうなあり方だと、日本の国はよそからの、または内からの批判をいっさい受けつけないといったことになる。それだと非現実的なあり方になる。悪いところがいっさいまるで無い国というのはおよそありえないことだと言えるからだ。

 日本の国はよくて、韓国は悪い、といったあり方だと、日本にたいしていちいちうるさいことを言ってくる韓国にたいして、ふざけるな、という感をいだくことになる。これだとふつうの遠近法(パースペクティブ)だ。日本は近で韓国は遠というものだ。この遠近法を転化して、遠いものほど近づけるようにする。これがおもてなし(ホスピタリティ)や客むかえである。

 近いものではなくて、遠いものほど近づけてもてなすことに意味あいがある。これはやろうとするとそれなりに難しいことではあるけど、そこまで難しいというほどでもなくて、形だけやってしまう手がある。形だけでもむかえ入れるようにして、形から入って行く。はじめから中身(心)がともなっていなくてもよい。はじめのうちは形に重要性を見いだすということだ。日本の伝統の技芸なんかでも、はじめは型から入ることが行なわれている。

 参照文献 『青年教師・論理を鍛える』横山験也 『民主制の欠点 仲良く論争しよう』内野正幸 「排除と差別 正義の倫理に向けて」(「部落解放」No.四三五 一九九八年三月)今村仁司

大臣がツイッターで人をブロックすることは、国民の知る権利を侵害しているのではないか

 国務大臣ツイッターで、自分が気に食わない人(ユーザー)をブロックする。すべての大臣がそうなのではなくて、ツイッターを使っている大臣の中で、ブロックをやたらにする大臣とそうではない大臣がいる。そこから器の大きさ(というか小ささ)が見えてくる。

 大臣がツイッターを使っているのなら、気に食わない人をブロックをしてはいけないのではないだろうか。ブロックをしてしまうと、国民が選別されてしまう。大臣がツイッターで流すツイート(情報)を受けとれる人とそうではない人がおきてしまう。

 同じ税金を支払っているのにも関わらず、大臣にツイッターでブロックされているかどうかによって、受けとれる情報にちがいがおきる。このちがいはとてもささいなことだということもできるが、ないがしろにしてよいことだとはいちがいには言えないことだろう。

 大臣はツイッターを使っていて、自分が気に入らない人をブロックする権利があるのだというのにはうなずきづらい。一般の人であれば、自分が気に入らない人をブロックすることがあってよいことだろう。それとはちがい、大臣であれば、開かれた中で広く国民に平等に情報を示すという意識があることがいる。その意識が欠けているのであれば、大臣としてツイッターを使う資格がないのではないだろうか。

 同じ税金を支払っているのだから、大臣がツイッターで流す情報を受けとることについて、ちがいがおきるのはおかしいことだろう。国民が大臣のツイッターの情報を受けとりたいという意思があるのであれば、その意思がかなうようにして、誰でも情報を受けとれるように開かれているべきだろう。そうでないと公共性において問題がある。

 公共性においては、単一ではなくて複数の声がさまざまに投げかけられることがいる。単一の声だけをよしとするものではない。開かれている(open)ことと、共通すること(common)と、公によるもの(official)が公共性の性質だとされる(『公共性』齋藤純一)。

 国民からたくさんの批判の声がツイッターのツイートで投げかけられるのは、大臣にとってはかなり気にさわるところがあるかもしれないが、ツイッターで大臣からブロックされる人の身にもなるべきである。先まわりして、やたらに人をブロックする大臣であれば、とくにいわれがなく、思い当たるふしがないのに大臣からブロックされてしまう人がおきる。大臣が人をブロックするさいのものさしが変なのだ。

 公共性においては、情報はできるだけ開かれているのがのぞましい。大臣がツイッターで流す情報を、ある人は受けとれて、大臣からブロックされている人は受けとれないということだと、国民どうしが分断されることをうながす。情報に格差がおきる。情報のあつかいについては、できるだけ開かれているようにして、公平になるようにすることがいるのであって、そのことに気を使って使いすぎることはない。

 参照文献 『情報政治学講義』高瀬淳一 『NHK 問題』武田徹

気候変動と階層の問題―階層のちがいによる意識の持ち方の差

 気候変動の問題をとり上げる集会が、世界では行なわれている。ツイッターのツイートでそれが報告されていた。

 気候変動の問題を、西洋の国の若い人が力強くうったえかけている。高校生が呼びかけを主導している。

 気候変動がおきて異常気象がひん発することでより大きな被害を受けることになるのは、これから先が長い若い人だ。まだ生まれていない将来の世代もそうである。

 文明が発達したことで、文明国では便利な生活が送れているが、それによって負の遺産をあとに残してしまっているのがある。これから先の将来がずっと安定して持続してつづくとは言えそうにない。連続性に難があると見られる。

 できれば人類の全体で、とりわけ文明国の人のみんなが気候変動や異常気象についてを強く問題視するべきだ。理想としてはそうするべきだとしても、じっさいはそれとはちがって、より若い年齢の人ほど問題意識が高くて、鋭い関心を持っているところがあるようだ。気候変動の問題には、階層の問題が関わっていることがうかがえる。年齢の階層のちがいによって利害の格差がおきている。

 参照文献 『社会階層 豊かさの中の不平等』原純輔(じゅんすけ) 盛山(せいやま)和夫

原子力発電所の運営に見られる、危機管理の欠如と無責任体制

 裁判では、福島第一原子力発電所事故についての電力会社の責任が問われた。それで、東京電力の旧経営陣の三人には判決で無罪が言いわたされた。

 原発事故がおきる前までは、原発安全神話によって安全だということで動かされていた。原発は安全だということで、大量の広告費を使って、芸能人を起用して広告を打っていた。それが原発事故がおきることによってそれまでに通用していた安全神話が崩れた。

 原発について安全神話がとられていたさいに、原発の危険性について、危機管理ができていなかったことはまぬがれないのではないだろうか。原発の安全対策というよりは、最悪のことがおきたときにどうするかという危機管理に甘さがあって、それが欠けていたのだ。

 原発にとっての危険性に自然災害があるのだとすると、その自然災害を大したものではないのだと見なすのは、きちんとした危機管理をすることにはつながりづらい。自然災害について、それを最悪で最強なものだとすることによってはじめてまともな危機管理をすることにつながる。

 あらゆる自然災害の危険性までをすべてくみ入れて行ったら、原発を動かすことができなくなるというのはあるだろう。現実の経済性とのかね合いはあるにしても、まあ大丈夫だろうとか、そこまで大きなことは起きないだろうとかいうのだと、車の運転でいえばだろう運転であって、かもしれない運転とは言えない。車の運転でいえば、事故を避けるためには、だろう運転ではなくて、かもしれない運転をするべきではないのだろうか。

 原発は大きな利益をもたらすのとともに大きな危険性を抱えこむことになる。そうであるのなら、危険性を軽んじるのではなくて、それを自覚することがいるが、その自覚の必要性が安全神話へとすり替わってしまった。責任の所在があいまいとなって、無責任体制となっている。

 参照文献 『最後に思わず YES と言わせる最強の交渉術 かけひきで絶対負けない実戦テクニック七二』橋下徹 『快楽上等! 三・一一以降を生きる』上野千鶴子 湯山玲子(ゆやまれいこ)

二〇二〇年の東京五輪における会場への旭日旗の持ちこみの問題―類似からの議論と、滑りやすい坂の議論

 二〇二〇年に東京五輪が開かれる。その会場に旭日旗(きょくじつき)を持ちこむことが事実上では許されているが、それにたいして韓国から批判の声が投げかけられている。

 個人としては、会場に旭日旗を持ちこむ必要性はとくにあるとは言えないので、禁じてしまえばよいのだと見なしたい。それとはちがい、会場へのはたの持ちこみはよしとするべきだ、つまり禁じるべきではないということが言われている。

 言いぶんとしては、こうしたことが言われていた。一つには、愛知県で行なわれた文化と芸術のもよおしであるあいちトリエンナーレにおいて、表現の不自由展のもよおしが行なわれたが、これをよしとして、表現の自由を認めるのであれば、それと同じようにして、東京五輪での旭日旗の持ちこみも認めなければおかしいということがうったえられていた。

 もう一つの言いぶんとしては、かりにもし会場への旭日旗の持ちこみを禁じるとすれば、それは韓国からの批判の声を日本が飲みこんだことになって、そこから韓国はさらに、旭日旗だけではなく日本国旗の持ちこみも禁じるべきだと言ってくるのにちがいない、という見かたがとられている。

 これらの言いぶんは、一つ目のものでは類似からの議論がなりたつかに疑問符がつく。二つ目のものでは、この言いぶんは滑りやすい(転がりやすい)坂の議論になっている。

 愛知県で行なわれたあいちトリエンナーレは、文化や芸術のもよおしであって、それと東京五輪とはもよおしの性質が異なっているので、同じものとしてあつかうのがふさわしいとは必ずしも見なしづらい。もよおしの性質がちがうのだとすると、ちがうものとしてあつかうのが適している。東京五輪は、人々が表現をするためのものではなくて、選ばれた人が運動の種目で競い合うもよおしだ。

 会場への旭日旗の持ちこみを禁じたら、日本国旗の持ちこみも禁じるべきだという声が韓国からおきるというのは、滑りやすい坂の議論となっているものだが、現実にほんとうに滑りやすいかどうかは定かではない。滑りにくいこともあるだろう。

 日本にたいして韓国が言ってくることそのものに重点があるのだとは見なしづらい。いくら日本にたいして韓国が何かを言ってきたとしても、日本はそれにただ従わされるのではないのだから、日本にたいして韓国が何かを言ってくることそのものに害があるのだとは見なせないものだろう。日本がとれる手としては、日本にたいして韓国が何かを言ってきたとしても、それがまともにとり合う内容のともなっていないものであれば、とくにとり合わないという手もとれるはずだ。

 日本にたいして韓国が何かを言ってくることそのものに害があるというよりも、その言ってくることが現実としてどういうことをもたらすかに重点を置いて見るのはどうだろうか。そこに重点を置くとすれば、旭日旗について韓国が言ってきていることは、へたをすると国際的な問題になりかねない危なさがある。国際的に波紋が広がるおそれがある。そのいっぽうで、日本国旗について韓国がそれの持ちこみを禁じるべきだと言ってきたとしても、そのことが国際的な問題になるとはあまり考えづらい。国際的に波紋はとくに広がらないのではないだろうか。

 心配が杞憂に終わるかもしれないので、絶対にこうだということは言えないのはある。悲観論だけではなく楽観論もまたとれる。悲観論にもそれなりの理があるので、楽観論を確かにとれるのではないのもまた確かだ。

 旭日旗の持ちこみの是非について、滑りやすい坂の議論によるのだと、一を認めるとそこからさらに一〇を認めなければならない羽目におちいるといったとらえ方になる。

 一を認めたからといってそこからさらに一〇を認めなければならない羽目におちいるとは限らないし、逆に見れば、一を認めないことで、それがためにかえって一〇より以上の害がおきることがないではない。一を認めてさえいれば、一〇の害がおきるのは防げた。とはいっても、一を認めない、つまり会場への旭日旗の持ちこみを禁じないからといって、一〇より以上の害がまちがいなくおきるとは限らないのはあるが。

 参照文献 『論理病をなおす! 処方箋としての詭弁』香西秀信 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信

歴史の正しさと、近道(最短距離)と遠回り(最長距離)―直接性と間接性

 韓国や、日本の国内にいる自由主義者(リベラリスト)が言うことはまちがいだ。それらが言っている歴史はまちがった歴史だ。日本の愛国の歴史こそが正しいのだ。ツイッターのツイートでそう言われていた。

 韓国や、日本の国内の自由主義者が言っていることは、まちがっていることだということで、決めつけてしまってよいものだろうか。歴史で言えば、その正しさやまちがいというのは、正しさそのものというよりは、議論や意思疎通によるものだ。

 歴史の正しさということで、一気にそこに向かって行ってしまうのではなくて、その実質に向かう手まえの、形式の手つづきのほうが意味あいが大きい。

 歴史の正しさでは、その実質に少しでも近づいて行くためには、議論や意思疎通といった形式の手つづきをどれだけ重んじられるのかにかかっているのであって、それをないがしろにしてしまえば、むしろ実質から遠ざかってしまう。

 いきなり実質に向かって行って、そこに近づいて行こうとしても、ほんとうの意味で近づいていることにはなっていなくて、かえって遠ざかってしまっていることがないではない。

 極端に響いてしまうかもしれないが、ほんとうの歴史の正しさの話というのは、歴史の正しさの実質についての話ではなくて、むしろ形式の手つづきについての話だと言えるのではないだろうか。いきなり歴史の正しさの実質に向かって行ってしまうのは、本当ではなくて、にせの歴史の正しさのおそれが否定できない。

 議論や意思疎通なんかの、形式の手つづきができるかぎり阻害されないようにするようにして、そのうえで歴史の正しさの実質に少しずつ近づいて行く。そうしたほうが、一見すると遠回りや時間がかかるように見えて、かえって近道になるのではないだろうか。

 てっとり早い促成栽培ではなくて、時間はかかるが低温熟成になるようにするとよい。促成栽培によって、最短距離をとろうとして、議論や意思疎通を欠いてしまい、陰謀理論を持ち出すのだと、近道をとっているようでいても遠回りになっていて、正しさの実質から遠ざかってしまっているとしたら逆効果だ。

 てっとり早い促成栽培は、直接性によって、じかに正しさの実質をとろうとするもので、拡散や発散をするものだ。拡散や発散というのは、外にはっきりと言い切る形であらわすのをさす。そうすることに待ったをかけて、低温熟成になるようにして、すぐに拡散してしまうのではなくて、収束するようにする。収束というのはとちゅうの過程をふんで行って、最終の結論としてこうだとは定めないようにするのをさす。

 歴史の正しさの実質とは、終わりなき収束の過程だということができそうだ。ほんとうに収束してしまい、はっきりと拡散できるのなら、歴史の学問の営みには終止符が打たれることになる。

 参照文献 『歴史学ってなんだ?』小田中(おだなか)直樹 『究極の思考術』木山泰嗣(ひろつぐ) 『最新 読書の心理学』岡田明 『書物の達人 丸谷才一川本三郎

日本に観光でやって来てくれる韓国人の数を増やすことの、日韓の友好における有効性―数字にはね返ってくる

 日本にやって来てくれる韓国人の旅行客が大きく減った。一ヶ月でおよそ五割弱ほど減ったのだと報じられている。

 日本と韓国とが仲よくする。そのことと、日本に韓国人の旅行客がたくさんやって来てくれることには、関係がない。そう見られているのがあった。

 これまでに韓国人が日本に旅行客としてたくさんやって来てくれていたのに、日本と韓国との国どうしの関係は悪くなってしまっている。日本に韓国人の旅行客がたくさん来てくれることは、日韓の友好には有効性がなかった。そういうことが言われていた。

 はたして、韓国からの観光客を多く日本にまねくことと、日韓の友好とは結びつかないものなのだろうか。それについては、それなり以上の有効性があるのではないだろうか。日本は韓国からやって来る観光客を、もっとどんどん受け入れるようにして、その数が多くなるようにできるだけ努めるべきだ。

 韓国人が日本に観光でやって来てくれる。日本にやって来てくれる韓国人の観光客の数が多くなることで、日本にとってとくに損になることはない。日本にとっては、観光客が日本でお金を落としてくれることで、経済の利益になる。

 一ヶ月で、韓国人が日本に観光にやって来てくれる数が五割弱も減ってしまったが、そのわけとしては、日本の政府が愚かなことをやっているせいなのが大きいのではないだろうか。その愚かさに、大手の報道機関の多くは追随してしまっている。とくに日本の時の政権に批判を投げかけてはいない。むしろ(なぜか)韓国の政府に批判を投げかけている。

 韓国人の訪日観光客の数が多ければ、その数字は健康診断の数値みたいに見なすことができる。日本の時の政権が愚かな対外の外交の政策をすれば、それがその数値の減少という形ではね返ってくる。韓国人の訪日観光客が減少する。数値が減ったとすれば、それは韓国の病理というよりは、むしろ日本の時の政権の病理のおそれが低くない。それにくわえて、日本の大手の報道機関が抱える、国家のイデオロギー装置としての病理をあぶり出す。

 日本に観光にやって来てくれる韓国人の数が多いのは、日本の経済の利益につながることだから、よいことだろう。経済の利益は、理と気の枠組みでいえば気に当たるものだが、その気を捨ててまでも、日本の理を優先させるべきなのだろうか。日本の経済の利益つまり気が減るということは、日本の時の政権による理に少なからずおかしいところがあることを示しているのではないだろうか。

 あたかも健康診断の数値のように、ものさしにつかえるところがあるので、韓国人の訪日観光客の数が増えるのはよいことだし、日韓の友好にとって有効性がけっこうあるのだと見なしたい。

 数字というのは、そこにどういう意味を読みこむのかということで、主観が入りこむものではあるし、ただ一つの意味に定まるものではないだろう。絶対にと言えるくらい確かなものではないにしても、韓国人の訪日観光客が大きく減ったことは、日本の時の政権が賢い対外の外交の政策をなしたためだとは言えそうにない。日本が得られる観光による経済の利益である、受けとれる気の量が減ってしまっているのは無視できない。

 日本の時の政権の本意としても、韓国からの訪日観光客が少なくなるよりは、多くなる方がよいのにちがいない。少なくなることをのぞんでいるのではないのにちがいない。日本の経済にとって損になることではなくて、得をもたらすものなのだから。

 とってつけたように、苦しまぎれのように、日本の時の政権はあわててこう言っていた。日本と韓国は国どうしは政治で対立してしまっているが、民間では交流し合うことがのぞましい。そう言っているのがあるので、韓国からの訪日観光客を少しでも多くむかえ入れることは、基本としては日本の国としての動機づけに適合していることであるし、それなりに合理的なことだと言えるのではないだろうか。

 参照文献 『韓国人のしくみ 〈理〉と〈気〉で読み解く文化と社会』小倉紀蔵(きぞう) 『姜尚中にきいてみた! 東北アジアナショナリズム問答』姜尚中(かんさんじゅん) 「アリエス」編集部編 『ダメ情報の見分けかた メディアと幸福につきあうために』荻上チキ 飯田泰之 鈴木謙介

神の死と、日本と韓国とのそれぞれの遠近法―単一性と複数性

 神は死んだ。哲学者の F・ニーチェはそう言ったという。そこから、最高価値の没落がおきて、価値の多神教となる。

 一つの神であれば、それは一神教で、多くの神であれば、多神教だ。

 日本と韓国との関係において、一つの国というのではなくて、いくつもに分けたり、多くのものとしたりする見なし方がなりたつ。

 一つの日本や韓国というのだと、それは言うなれば一日や一韓だ。これは一元化した見なし方だ。そうではなくて多元化して見てみると、多日や多韓となる。または分日や分韓となる。

 たった一つだけの遠近法(パースペクティブ)によるのであれば、一つの日本や一つの韓国と言えるだろう。そのように一つだけではなくて、多くのものによるのであれば、そのそれぞれを見て行かないとならない。

 日本は正しく、韓国はまちがっている。そう見なすと、日本は白で、韓国は黒だとなる。日本はまったくの白で、韓国はまったくの黒なのであれば、白日と黒韓だが、そうではなくてどちらもが灰色なのであって、灰日や灰韓となっている。また、日本は純粋に正しくて、韓国は不純そのものでまちがっているというのではないので、純日や純韓とは言えず、雑種となっているために、雑日や雑韓だ。

 日本についてを見てみると、日本の国がよいというのもあるし、また悪いというのもある。たった一つだけをよしとするのではないのであれば、そのどちらもがありえるのではないだろうか。それが(一つの日本ではなくではなく)多日や分日ということだ。韓国についてもまた、一元化して見るのではなくて、多元化するようにして、多韓や分韓とできるのであって、できるだけ一斑(いっぱん)を見て全豹(ぜんぴょう)を卜(ぼく)すのは避けるようにしたい。

 参照文献 『韓国は一個の哲学である 〈理〉と〈気〉の社会システム』小倉紀蔵(きぞう) 『社会階層 豊かさの中の不平等』原純輔(じゅんすけ) 盛山(せいやま)和夫 『トランスモダンの作法』今村仁司他 『現代思想の断層 「神なき時代」の模索』徳永恂(まこと)