律儀でまじめだというふうに国民を象徴化(一般化)するのは現実を見ることにはなりそうにない

 サマータイムを導入する。それを導入するさいに、コンピュータなどの時間設定を変更することがいり、これが膨大な作業となるため、やっかいだとされる。導入は無理だとする声もあがっている。

 自由民主党の議員は、導入に賛成だとして、律儀でまじめな国民ならば、十分に乗り切れるはずだとしている。自民党の議員はこう言っているが、これをそのままうのみにすることはできづらい。

 かりに国民が律儀でまじめなのだとしても、コンピュータなどの時間設定の変更を乗り切れないことはあるものだろう。律儀でまじめな国民にもお手上げなものである。

 国民とひと口に言っても、一億人以上いるのだから、そのすべてが律儀でまじめなわけではないだろう。それを一緒くたにしてしまうのは、ステレオタイプの見かたである。自民党の議員が国民のことをそう思いこんでいるのだとしても、実在の国民にはさまざまな人がいる。

 国民が律儀でまじめであればのぞましいことであるとは必ずしも見なすことはできそうにない。ものごとにとり組むときには、外からのまたは内からの動機づけがはたらく。どういう動機づけがはたらくかによって変わってくるのがある。

 みんながみんないつもいつも律儀でまじめであればよいというものではないし、あることに協力する人もいれば協力しない人もいるのが自然である。たんに律儀でまじめだと言うだけでは、どういう方向に進むかはわからないのだから、まちがった方向に律儀でまじめに進んでいってもしようがない。

 たしかに、色々なものごとに律儀でまじめにとり組むことはよいことではあるかもしれない。しかし、かなり大局の見かたにはなってしまうが、地球を含む太陽系はいつかは消滅してしまうときが来る。何もかもが消えて無くなってしまうのである。太陽系の中のあらゆるものに死が訪れる。それを念頭に置くとすると、律儀で真面目であることに意味はあるのだろうか。それがあってもよいだろうが、それよりも、ほどほどでまっとう(ディーセント)なことの方により重きを置いてみたい。

猫(現職の首相)の首に鈴をつける人がたった一人しか出てこない、という見かたが一つには成り立つ

 現職の首相が現にいるのにもかかわらず総裁選に候補者として出る。それは現職の首相に辞めろと迫るのと同じだ。自由民主党安倍晋三首相はそう言う。

 産経新聞の記事では、首相の気持ちを忖度している。首相にとってみると、選挙と経済と外交で成果をあげている。首相を代えることはまったくいらないことであるとしている。

 たしかに、現職の首相は現にいるわけだが、それだからといって、総裁選に他の候補者が出るのはいけないのだろうか。それをいけないと首相はしているようだが、これは首相が権力を私物化していることを示してはいないだろうか。権力を私物化しているというのは、もしそうでないのだとすれば、総裁選に他の候補者が出るのをよしとするはずだからである。

 他の候補者が出ないのは、首相にとってはよいことかもしれないが、自民党にとっては必ずしもよいこととは見なしづらい。もし首相が自己中心にではなく党のことをおもんばかっているのであれば、自分が権力の地位に何が何でもいなくてもかならずしもかまわないものだろう。自分が権力の地位から引き下がることになるとしても、もっとほかの優れた人が出てくればよいのだし、それによって党や日本の社会がよくなるのであればそれに越したことはない。

 選挙と経済と外交で成果をあげているとはいえ、それらですべて一〇〇点の結果を出しているのだとは言えない。もしそれらですべて一〇〇点の結果を出しているのであれば、まったくまちがいをおかさない機械のような人間だろう。そんな人間がいるはずがない。そうであるにもかかわらず、首相は無びゅう性のあり方をとっているのが見うけられる。無びゅうではなく可びゅうであるとしなければならない。可びゅうというよりもむしろ誤びゅうだらけであるかもしれないが。

 現職の首相をかりに一つの命題(テーゼ)であるとできるとすると、その命題があることにより、潜在として反命題(アンチ・テーゼ)が生み出される。その潜在している反命題が表に出てくることで、次の首相のにない手があらわれることになる。次の首相のにない手があらわれるのをうながすのがのぞましい。いずれにせよ、潜在としては反命題は生み出されているからである。

 潜在している反命題を見たくはないものとして見ないようにすることはできるが、あることはあるのであり、単眼の一元論はとれるものではない。複眼の二元論で見るのがふさわしい。現職の首相が一つの命題であるとすると、それが自分で生み出したものが、潜在の反命題なのである。光と影のようなものだろう。光が生み出したものが影であり闇である。

いつまでも議論だけをつづけるわけには行かないというのを一つの議論(の根拠)として見ると、そのまま受け入れることはできないものであり、批判をすることがいる

 いつまでも議論だけをつづけるわけには行かない。自由民主党としての憲法の改正案を次の国会に提出できるように、とりまとめを加速するべきだ。自民党安倍晋三首相はこのように言っているという。

 たしかに、とりあつかうものによっては、いつまでも議論だけをつづけるわけには行かないことはあるだろう。とりあえずやってみることが有効なものはある。しかし、憲法についてはそうは言えないものだろう。論じ合わなければいけない論点は山ほどあるはずだ。

 いつまでも議論だけをつづけるわけには行かない、ということを首相は根拠にしているわけだが、これを受け入れるわけには行かない。議論は時間を量としてかければよいというものではなく、質を見なければならない。質がまるで駄目なのであれば、量があったところで意味はないものだろう。

 上下関係により閉じた中で議論を行なうのでは、上から下に意見が押しつけられることになる。上の者が言ったことを下の者はそのまま受け入れるというのでは閉じたあり方だ。もし上の者がまちがった意見を言っていても、下の者はそのまま受け入れることになる。そうならないようにするには、上下関係をとらないようにして開かれた中で議論をすることがいる。

 これまでをふり返って、どのようなふうに議論が行なわれたのかを見なければならないのがある。そのふり返りがなく、ただ前に向かってつき進むというのでは、まちがった判断につながりかねない。重要なことの意思決定をするさいに、確証(肯定)だけではなく反証(否定)をするようにしないと、まちがった判断を防ぎづらい。

 これまでにどういう議論が行なわれてきたのかをふり返ることがないと、議論をやってきたといってもあまり意味はないものだろう。憲法についてはさまざまな論点があるのであり、それらの一つひとつでどのような議論が行なわれてきたのかを見ることがいる。はじめの出発点において認知の歪みがはたらいていないかを見ることがいる。憲法の改正ありきというのは、出発点における一つの認知の歪みとなる。隠れた前提条件をもっていることを示す。話し合いでは、なるべく細かく話を進めるようにしないと、結論の正しさを損ないやすい。大ざっぱな話の進め方では、結論は誤っていることがある。

 憲法の改正のような大きな論点の話では、改正なら改正だけが正解というふうにはなりづらい。正解がいくつもあって決めがたいのがふつうである。絶対の正解はない。それを強引に一つの方向へもって行こうとするのは乱暴だ。権力者は憲法を守る義務はあっても、改正する義務はないのがある。改正する権利はいちおうあるが、可能ではあっても必然ではない。やらなければならないということではなく、やってもやらなくてもよいものだから、やらなくてもよいというのも十分に見ておかないとならない。

 憲法の改正が正解だとして首相や自民党はつき進もうとしているのだろうが、何ごとにも作用と反作用といったものがおきることが見こせる。憲法の改正をすることで、どういう作用がおきて、どういう反作用がおきるのかを見ることがいるだろう。よい面があれば悪い面もあるのであり、よい面だけを見るのであれば片面しか見ていることにはならない。

 片面だけではなく両面を見ることがいるのであり、それをするためには、たんに自分にとっての味方か敵かで分けるのでは駄目である。味方でもあり敵でもあるとか、味方でも敵でもないといったところも十分にすくいとらないとならない。英語では MECE(ミッシー)と言われるものがあり、漏れもなくだぶりもないというのをとるものであるとされる。MECE によって見落としを防ぐ。漏れがないかやだぶりがないかをきちんと見るのでないと、ものごとの進め方が雑である。あとになって漏れがあったのがわかったりだぶりがあったのがわかったりするのでは、国にとってのいちじるしい損失につながる。

 国会では首相や大臣などの権力者たちは、ご飯論法や信号無視話法をしばしば行ない、議論をほうり出している。これで憲法については議論ができるというのはおかしい。議論ができていないにちがいないという推測が成り立つ。この推測は当てずっぽうとは言えず、それなりの確からしさがあるはずだ。議論はできていないにちがいないのはいなめないが、議論をするというだけではなく、討論(ディベート)なんかもやったらどうだろう。公開で議論や討論をどんどんやるようにするのは国民にとってとくに損になるものとは言えそうにない。問題点が浮きぼりになる効用が見こめる。

番組の中のキャラクターである五歳の女児に最大級の厳しい言い方でしかってほしいのは、国の政治をつかさどっている権力者たちである

 五歳の女児が大人をしかる。NHK の番組に、チコちゃんに叱られる ! というのがあり、視聴者からの人気が高いという。五歳の女児であるチコちゃんが大人に質問をして、それに大人が答えられないと、厳しい言い方でしかられる。それが新鮮さを感じさせるようだ。

 個人としては、チコちゃんにぜひとも厳しい言い方でしかってほしい大人は、国の政治をつかさどっている権力者たちである。大人というか、大きい子どもと言ってもよいだろう。大きい子どもは、力を持っているだけによけいにしまつが悪い。国の政治をつかさどっている権力者たちは、しかられるのは嫌いで、ほめられたくてしようがないだろうけど、そこは良薬は口に苦しとしたいところである。

 チコちゃんは番組の中で、質問に答えられない大人を厳しい言い方でしかるそうだけど、これは一つの面白いやりとりのあり方だ。そこまでしないとしても、せめて質問に見あったことを答えるのはいるだろう。国の政治をつかさどる権力者たちは、国会の中で、ご飯論法や信号無視話法をたびたび用いて、聞かれたこととは関わりのないことを言ってはぐらかす。これは質問に答えられないという以前の話であり、議論の放棄である。それにもかかわらず、しかられずに許されていて、逃げ切ることができているのだから、社会はいったいどうなってしまうのかというのが心配だ。

国民にではなく国家に主権があるとしてしまうと反動の見かたになる

 国語として、主権は国民にではなく国家にある。国家に主権があるのであり、その国家主権は国民をないがしろにすることはない。群馬県の伊勢崎市の市議はツイッターのツイートでそうつぶやいている。それについての反論や批判が投げかけられている。

 日本は民主主義の国なのであり、民主主義は民が主となるものであって、国が主となるものではないだろう。民が主となり有権者になることで民主主義は成り立つ。民ではなくて国家が主権を持つとしてしまうと、民主主義を放棄してしまうことになりかねない。

 主権は国家にあるのか、それとも国民にあるのかというのは、憲法を見ることがいる。憲法の定めでは、三大主義として、国民主権主義があり、国民に主権があるとされている。明治時代の大日本帝国憲法では、国民にではなく天皇(国家)に主権があるとされていた。

 伊勢崎市の市議は、国家主権は国民をないがしろにすることはないとしているが、国民をないがしろにすることはざらにあるだろう。国民に主権があり、国民の意思を代表する国の政治家がものごとを決めるが、国の政治家は国民の意思を代理しているのにすぎない。すべての国民の意思を反映することはできず、寛容性がないと少数派の国民の意思はひどくないがしろになる。まったく矛盾の無い集団のあり方はありえるものではない。

 国民の代表である国の政治家は、国家におけるものごとを決めることをになうが、それには権威がある。国民や報道機関は、権威をもつ国の政治家の行ないをしっかりと監視して、批判を積極的に行なうことがあるのでないと、やりたい放題になってしまう。やりたい放題になってしまうと、国民にではなく国家(国の政治家)に主権をにぎられてしまい、国家の公が肥大する。国家の公の権威にすがる権威主義専制主義のあり方になる。これは形としては民主主義であっても、実質としては民主主義ではない。肥大した国家の公によって国民の個人の私は押しつぶされることになる。

 戦前や戦時中の日本は、国民にではなく国家(天皇)に主権があり、国家の権力が暴発して破滅にまでつっ走っていった。人間というのは、自分(たち)が死ぬぞというところまで行かないと理性による反省はできづらい、と西洋の思想家のトマス・ホッブズは言っているという。ふだんは人間は虚栄心にかられているのだ。日本の作家の星新一氏は、過去にペーソスを、未来にユーモアをもつことがよいとしている。過去のペーソスとして、歴史における大失敗をしっかりと見て、そこでとられた理性による反省を大切にする。のど元過ぎれば熱さを忘れるとはならないようにしたい。

首相にやってもらうのが国益に沿うと言うべきだというのが、(首相にやってもらうのが)国益に沿わないことであるのをあらわしている(批判を封じているので)

 このあいだの辞退のしかたは何だい。理解ができないよ。総裁選に出馬するのを辞退した自由民主党の議員について、辞退の説明のしかたがおかしいと言うのは、自民党財務相である。財務相は、どうせ出ないのなら、もっとかっこよく、きちんと説明しなきゃと言ったという。出馬を辞退した議員に面と向かって、基本的に話にならんと財務相は言ったそうだ。

 どういう辞退のしかたがふさわしかったのかというと、財務相によると、安倍(晋三首相)にやってもらうのが国益に沿うから出馬はしません、と言うべきだという。もし自分が出馬を辞退した議員だったらそう言うとのことだ。

 安倍首相にやってもらうのが国益に沿うから出馬はしませんと言うことの、どこがかっこよくて、どこがきちんとした説明なのだろうか。かっこよくはないしきちんとしていないものだろう。財務相にしたらかっこよいしきちんとした説明なのかもしれないが、(出馬を辞退した議員のものよりも)こちらのほうが理解できないし話にならないものだという気がする。

 よほどおかしなものでないかぎり、どんなふうに総裁選の出馬を辞退するのを説明してもよいはずだ。こうでなければといったものではないだろう。それが許されず、首相に忠誠を誓わないと利得を与えないとするような、質の低いいじめのようなことが党の中で行なわれているにちがいない。こうしたことがおきることを含めて、首相にやってもらうことが国益に沿っていないのがあり、それを意図せずに示してしまっているものだと見なせる。

正直と公正ということからすると、いまの政治のあり方は退廃のきわみだろう(そこまで言いすぎではないはずだ)

 正直、公正をかかげる。自由民主党の総裁選に出馬する石破茂氏は、正直と公正を売りの言葉としてとっている。その二つにくわえて、謙虚でていねいな政治をつくりたいとしている。

 正直と公正とは逆に、嘘と不公平がいまの首相のあり方だとして、パロディの画像がつくられているのを見かけた。これはまさしくその通りであり、いちじるしい不公正でもある。これは改められなければならない。

 いまの首相は、できるだけていねいに説明して行くとして、口では言うものの、じっさいの行動がまったくと言ってよいほどともなっていない。いまの首相が口では言っているが、まったくと言ってよいほどできていない行動の欠如を指し示しているのが、石破茂氏による正直と公正の売りの言葉だろう。いまの首相のあり方のちょうど反命題(アンチ・テーゼ)になっている。

 いまの首相が陽だとすると、石破茂氏は陰だろうか。いまの首相は陽に偏りすぎていて、自己欺まんの自尊心がはなはだ強い。政治や社会のあり方がそれに引きずられて偏ってしまっている。夜郎自大や、大に事(つか)える事大主義になっているのはいなめない。それにたいして疑問を投げかけているのが、石破茂氏による陰のあり方である。いまの首相によってものごとのつり合いがぶち壊されてしまい、不つり合いになっているのを、中庸をとるために、つり合いを戻すことは重要だ。

 少なからぬ人からは嫌われるだろうが、個人としてはよいと見なせるのが、石破茂氏は外交や財政(経済)なんかで、短期ではなく長期の見かたをとっていそうな点だ。いまの首相は長期の視点をほとんど持ち合わせていないで、短期の視点しか持っていないのがどうしようもない。

 たとえば外交では、日本ととなり合う国とは、将来の影がついて回るのであり、ずっとつき合って行くことになるから、いがみ合うのはのぞましくない。くっついたり離れたりが気軽にできる人間の関係とはちがう。それをいまの首相は、外交で一番やってはいけないことの一つである、日本ととなり合う国への敵対の感情をあおってしまっている。それで一部の国民をたきつけて、首相への支持へと結びつけている。これは首相が短期の視点をとっていることをあらわす。

 少なからぬ国民からは嫌われるのはあるが、国の財政においては、均衡や健全化をとるようにすることが大切だ。この点については、いやそうではないのだとする意見もあり、色々な見かたはとれるものかもしれない。短期の視点であれば、財政の均衡や健全化などどうでもよいとできるのはあるが、そうではなく長期の視点をとると、均衡や健全化は重要になってくるものだろう。短期としては損や痛手になっても、長期としては益になるというのが、いまの首相のあり方に決定的に欠けている点である。

 財政の均衡や健全化をとらないのは、短期だけではなく長期の利益にもなる、という見かたもあるかもしれない。そこは専門的なことはくわしくはわからないが、勉強不足だとかわかっていないとかという欠如のあり方ではなく、対話のあり方をとることがのぞましい。欠如モデルや伝達モデルではなく、対話モデルや構成的モデルがとれるとされる。〇か一かのような、正解か不正解かのどちらかにはっきりと分けられるのではなく、対話(議論)によって少しずつ見えてくるものがあることが見こめる。勉強不足を解消することも大事ではあるだろうけど。

 いまの首相のあり方は、効率が重んじられすぎていて、適正さがないがしろになり、大衆迎合になっている。それによるおかしさを言うことはあってほしいものだ。限界はあるだろうけど、いまの首相のように大衆に迎合するのではなく、そうするのをなるべくいましめて、多少は煙たがられても言うべきことは言い、おかしいものに対してはおかしいという声をあげられるようになればのぞましい。

反日と名詞(せめて何々的として形容詞にするべきである)

 反日であるとされていた県知事をよしとした芸能人が、反日であるとレッテルを貼られている。この芸能人は反日であると一部から言われてしまっているようだ。この反日というのは、名詞で言うことからあたかもそれがあるかのようになるが、じっさいには無いものだろう。

 反日というのは、その反対の反日でないものがなければ成り立たないものであり、実在のものではなく名目のものにすぎない。関係によって成り立っているものである。反日でもなければ、反日でないのでもないといったものもあるはずであり、色々なあり方が成り立つ。一か〇かではなく、ていどの差はあれみんな反日だというのもできる。ていどの差はあれみんな反日ではないというのもできる。かりに反日があると認めるにしてもの話である。

 場合分けができるとすると、反日であるものに、正しい(よい)ものとまちがっている(悪い)ものがあるとできる。反日ではないものに、正しいものとまちがっているものがあるとできる。反日だからまちがっているとは言えないし、反日ではないから正しいとも言えない。反日だから悪いとは言えないし、反日ではないからよいとも言えない。

 反日というのはスタップ細胞のようなものだろう。スタップ細胞では、研究者によってそれがあるとされていたのがあるが、改めて見たところ、あるとは言えないのがわかったものである。スタップ細胞をあるとしてしまっていたのは、それを名詞でとらえていたことが要因の一つとしてあげられる。名詞でスタップ細胞と言ってしまうと、本来はそれが無いのだとしても、それがあるかのようなとらえ方を引きおこしやすい。

 スタップ細胞があるとは言えないのと同じように、反日というのも無いものである。名詞で言ってしまうから、あたかもあるかのように用いることはできるが、絶対にそうであるかのようにレッテルを貼るのはいましめられなければならない。

 改めて見れば、反日というのがかりにあるのだとしても、それについての確かな見かたはとりづらい。誰かが誰かを反日であると言ったとしても、そう言われているものはかえって反日ではないというとらえ方が成り立つ。誰かが反日であると言われていないのだとしても、そう言われていないものはかえって反日であるというとらえ方も成り立つ。反日というのは、くるくると回る回転扉のようにできるのであり、無限後退させることができる。

 めくり返らせられるとすれば、反日反日である(反日という語こそが反日である)とできるし、宙づりにすることもできる。もっとも反日から遠い(もっとも反日ではない)ものこそが、もっとも反日であるというふうに、逆転させて見ると正しくなることがあるから、そうして見ることも必要だ。反日というのは無いのであり、観念による思いこみにすぎず、それを用いることで社会的偏見をうながしてしまう。

核兵器を持っている国(強国)が、自分から核兵器をなくして行くことがいるのであり、双方の協力がいるというのはちがうのではないか

 この長崎が、核兵器の被害に苦しむ地球最後の場所となるよう決意しましょう。国連事務総長アントニオ・グテーレス氏は日本の長崎市でそう言ったという。いっぽう日本の安倍晋三首相 は、核兵器国と非核兵器国、双方の協力を得ることが必要です、と言ったという。

 グテーレス氏と首相の言うことは、どちらか一方だけが正しく、もう一方はまちがっている、という白か黒かのものとは言えそうにない。どちらも言っていることは正しいものだろう。そのうえで、首相の言っていることを見ると、現実主義によるものであるというのはあるが、当たり前のことであるし、だからどうなのだ(so what?)と言いたい気がしてくる。

 核兵器保有国と保有していない国との双方の協力を得ることが必要だと言うだけでは、現実主義を気どっているだけだろう。核兵器保有することが正しいとは言いがたく、どちらかということであれば、核兵器保有しないほうが正しい。その逆に、核兵器保有することがよいことであり正しいことであるのだとすれば、どんどん核兵器を持つのがのぞましいことになるが、これはおかしいものである。

 核保有の是と非については、観点のちがいにすぎないのであり、どちらも正しいということもできるのはあるが、その観点については批判をしたいのがある。たしかに観点のちがいにすぎないとして、どちらもそれなりに正しいということは言えるのはあるが、そうしてしまうと判断を投げ出すことになりかねないし、いたずらに現状(現実)に盲目に追従することになりかねない。現実がかくのごとくになっているというのがあるとしても、その現実から価値をそのまま導き出すことはできづらい。

 核兵器保有しないあり方のほうが正しいのだとできるとすると、核兵器保有することはまちがっているのだと言うことがいるのがある。声をあげて意思を示すことがいる。双方の協力を得るのがいるというよりは、核兵器保有することのまちがいを言うことがいるだろう。

 現実には、アメリカの核の傘に守られているのがあり、欺まんになってしまうのはあるが、その現実の文脈をカッコに入れられるとすれば、脱文脈化した中での話(理想論)もできるものだろう。

党の中でまちがった虚偽意識(イデオロギー)がはびこっていて、批判の声がほとんどあげられていないのが見うけられる

 かつての党の総裁選では、候補者が五人ほど出ていた。それが今回の総裁選では、首相のほかに立候補する人が見あたらない。首相への支持をわれ先にと示すことが行なわれている。立候補する人は、あとで首相とそのとり巻きから冷遇されて干されるとおどされていて、つぶされているのである。

 かつての自由民主党のあり方と今とでは、変質してしまっているのだと言うのは、石破茂氏である。かつての議論を戦わせ合う健全なあり方はどこへいってしまったのだろうかとなげいている。このなげきにはうなずけるところである。かつてもそうたいしたものではなかったような気もするが。

 かつては総裁選に候補者が五人くらい出ていたのが、いまでは出ようとする人が見あたらず、はやばやと首相への支持を示しているていたらくである。それで首相とそのとり巻きから利得を得ようとしているのである。これは戦争につながるあり方だと言ってよい。

 戦争につながるあり方だというのは、飛躍や誇張があるように響くかもしれないが、それは権力者とそのとり巻きからやすやすと利得を得ようとするあり方にある。これははなはだ危険なあり方である。この危険なあり方をよしとしてうながしているのが、首相とそのとり巻きである。首相とそのとり巻きは、戦争をできるかぎりおこさないようにしようという気がないと言ってよい。

 権力の維持のためであれば、他国からの脅威を必要以上にあおり立てることをする。自分を支持する者はとり立てて、そうでない者は周縁へ追いやる。これは自民党の中でのみならず、社会の全体に広く広がってしまっていて、社会が偏ったふうになってしまっている。中立さが損なわれてしまっている。この点については、ほかのちがう見かたもできるものではあるかもしれないが。