弱いものいじめと強いものいじめ―権威主義による上から下への抑圧の移譲

 弱いものをいじめる。それがいけないのとともに、強いものいじめもまたよくない。テレビ番組の出演者はテレビ番組の中でそう言っていた。

 政治の文脈において、強いものがいるとして、それはいったいどういうものが当てはまるのだろうか。社会の中で弱いものいじめがまん延してしまっているのがあるとすると、それはいったいどういったことから来ているのだろうか。

 強いものいじめではなくて、強いものすがりがあるのだとすると、そこから権威主義がおきてくる。権威主義がおきてくることによって、上をよしとして下をいじめるあり方がおきてくる。上から下に向かって抑圧が押しつけられて行く。下に行けば行くほど抑圧が強くなっていって、下にいればいるほど抑圧が強くかかる。抑圧の移譲だ。

 強いものとは、他律(heteronomy)において超越の他者に当たるものだ。政治の権力が超越の他者になってしまうと、自発の服従がおきることになり、超越の他者によって動かされてしまう。超越の他者の顔色をうかがい、空気を読んでそんたくする。同調や順応のあり方だ。同調や順応の圧が強くはたらく。

 他律のあり方によることで、自律性(autonomy)が損なわれる。自律性が損なわれると、自由にものが言えなくなってしまう。報道の世界ではそれがおきているのがあり、理想論としての自由主義(liberalism)の公器ではなくなってしまっている。理想論と現実論とのあいだに大きな隔たりが開く。商売としての効率性はよいが適正さを欠く。放送においては放送法と放送の免許の許認可権があることから、政治の権力からの介入を受けやすい。言論に自由がなくなる。NHK にはとりわけそれがよく見てとれる。

 政治において敵かもしくは味方かといったような単純な分け方がとられてしまうと、敵とされるものを排除しようとしてしまう。敵と味方の遠近法(perspective)がとられると、敵をやっつけようとする排除の暴力がふるわれることになり、ぜい弱性や可傷性(vulnerability)をもつものが排除される危なさがおきてくる。

 ぜい弱性や可傷性をもつものは悪玉化されてしまいやすい。悪玉化されて排除されるものがいることによって、差別による秩序が固定化されることになる。差別による秩序の固定化を改めて行くためには、悪玉化されて排除されるものを客むかえすることが必要だ。よき歓待を行なう。低い価値をもつとされる階層(class)をそのままにしておくのではなくて、それをすくい上げるようにして改善することがのぞましい。

 政治において強いものがそのままでありつづけると権力が腐敗して行く。それがおきやすいのがあるから、政治の権力の交代が必要だ。権力の交代がないと権力の中心にうみや汚れがたまりつづけて行く。うみや汚れを少しでも減らして行くためには権力の中心にいるものがそのままいつづけるのではなくて、脱中心化が欠かせない。

 政治において政党(political party)は全体ではなくて部分(part)にすぎないのだから、脱全体化されなければならない。あたかも国の全体を代表しているかのごとくに見せかけるのは誤りだろう。民主主義では多数派の専制がおきてしまう危なさがつねにある。それに気をつけて気をつけすぎることはないから、少数派をきちんと承認して、客むかえ(hospitality)やよき歓待が行なわれることがあればよい。

 日本の政治ではいまのところ客むかえやよき歓待がいちじるしく欠けてしまっている。それがあることによって自律性が損なわれている。ものを言う言論の自由が失われているところがあり、報道などにおいて不自由になっている。自由民主主義(liberal democracy)が壊されているのがある。普遍化することができない差別が多く行なわれてしまっているからそれを改めるようにしたい。

 政治の中心にそうとうなうみや汚れがたまっているのがあり、与党である自由民主党にはもはや自分たちで自分たちをきれいにする自浄の作用がのぞめないから、放っておくとうみや汚れがたまりつづけて行くだろう。中心にあるうみや汚れを少しでもきれいにして行くためには、中心で活躍しているものが脱中心化されることがいる。辺境にいるものがそうじの役をになうために中心で活躍できることがいる。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『権威と権力 いうことをきかせる原理・きく原理』なだいなだ 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『アジア辺境論 これが日本の生きる道』内田樹(たつる) 姜尚中(かんさんじゅん) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『NHK 問題』武田徹 『非国民のつくり方 現代いじめ考』赤塚行雄 今村仁司他 『小学校社会科の教科書で、政治の基礎知識をいっきに身につける』佐藤優 井戸まさえ

中国のウイグルのことと、それに声をあげるべきなのかどうか―総論と各論から見てみたい

 中国のウイグルの人たちにたいする人権の侵害が行なわれている。日本の国内にある人権の侵害に声をあげるのであれば、中国のウイグルのことに声をあげなければならない。ツイッターのツイートではそう言われているが、そのようにすることがいるのだろうか。

 中国のウイグルのことに声をあげなければならないのかどうかについてを、総論と各論の点から見てみたい。総論と各論に分けて見てみたさいに、総論ではそこまでずれがないものだろう。右派であろうと左派であろうと、中国のウイグルのことをとり上げることはよいことだと見なしているのにちがいない。

 中国の国がウイグルの人たちにたいしてやっていることがよくないことである点については、うなずくことができることだろうから、総論としてずれがあるとは言えそうにない。中国のウイグルのことに声をあげることがよいことである点についても、総論としてずれがあるとは言えないものだろう。

 各論として見てみるとそこにはさまざまなずれがあることがうかがえる。中国のウイグルのことに声をあげるだけでよいのかどうかの点がある。声をあげるだけで十分なのかそれとも不十分なのか。声をあげないことはよくないことであり許容することができないことなのか。声をあげることは必須のことなのかそれとも任意のことなのか。

 たとえ中国のウイグルのことに声をあげるとしても、それだけで中国の国のふるまいが変わるとは言えそうにない。日本の国の中から声をあげたくらいでは中国の国のふるまいが変わることはのぞめないから、たとえ中国のウイグルのことに声をあげるのだとしても、それによってウイグルの人たちのあり方が劇的によくなることはのぞみづらい。

 ウイグルの人たちを助けるためには、日本の国が手をさしのべるようにして、日本の国に受け入れて行く。困っているウイグルの人たちを日本の国が受け入れるようにして行く。各論としてそうしたことが言われているが、これは日本の国がウイグルの人たちにたいしてとることができる正義のひとつのあり方だろう。

 たとえ中国のウイグルのことに声をあげるべきだとする人であったとしても、困っているウイグルの人たちを日本の国が受け入れるようにすることにはうなずけない人もいるだろう。それにうなずくことができないのは、総論としてはずれはないのだとしても、各論としてはずれがあることをあらわす。

 中国のウイグルのことについては、総論としてはあまりずれはない。中国の国がウイグルの人たちにたいしてやっていることについて、よくないことだとする点については総論としては合意できやすい。そのいっぽうで各論としてはずれがおきやすい。

 日本の国が中国のウイグルのことについてできることは何なのかや、やるべきことは何なのかがある。それらについてはどちらかといえば各論に当たることであり、その各論についてはさまざまなちがいがある。中国のウイグルのことに声をあげるのをよしとするのがあったり、困っているウイグルの人たちを日本の国が受け入れるようにするべきだとするのがあったりする。

 たとえ各論にちがいがあるのだとしても、総論としては合意ができやすいから、総論として意見が合いやすい点についてはそれを肯定のものとしてとらえることができるかもしれない。総論としても合意が得られないよりかはよいのだとできる。そう言えるのはあるものの、各論としてはずれがあって、いろいろな見なし方があるから、各論がばらばらになっていてはあまり意味がないのだとも言える。

 きびしく言えるのだとすれば、たとえ総論としては合意ができやすいのだとしても、各論がばらばらでまとまっていないのであれば、具体としてはものごとが進むことはのぞみづらい。それは中国のウイグルのことがやっかいな性質をもつことがらであることを示しているかもしれない。

 日本の国がやれることややるべきことをやっていないのがあるとすると、その怠慢があることを批判することができるだろう。日本の国内において日本の国が少数派にたいしてとってきたまちがいがあり、歴史における日本の国のあり方が批判されることがいる。歴史において日本の国がなしてきたまちがいをくみ入れられるとすると、日本の国のこれまでのまちがいを棚に上げることはできづらいから、それを棚に上げたままなのであれば、日本の国が言うことには説得性が欠けてしまうところがある。

 参照文献 『目のつけどころ(が悪ければ、論理力も地頭力も、何の役にも立ちません。)』山田真哉(しんや) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)

新型コロナウイルスと交通―人間とウイルスとのあいだでおきている交通

 新型コロナウイルス(COVID-19)の感染が社会の中で広がっている。その中で、ウイルスを交通の点から見てみられるとするとどのように見なすことができるだろうか。

 新型コロナウイルスは変異種が出ていて、新しいものに変異しているのがある。これは交通の点からすると異交通に当たるものだと言えるだろう。ウイルスが進化して行くのは、より抵抗性をもつ強いあり方にウイルスが変わることだ。もとのものよりもより強いやっかいなあり方にウイルスがなるような交通がウイルスそのものにおきていることをしめす。

 国を越えて新型コロナウイルスが広まるのは双方向性の双交通がおきていることをあらわす。グローバル化の中で国を越えた人の移動が多くなっているから、ウイルスが国を越えて広まりやすい。双交通がおきやすいことをしめす。

 国を越えた人どうしの行き来を自由に行なえるようにするのは双交通だ。それだと新型コロナウイルスの感染をおさえづらい。国を越えた人どうしの行き来を制限するのは交通がさえぎられる反交通だ。限定した人の行き来だけを許す。

 人間が新型コロナウイルスにうち勝とうとするのは、人間からウイルスへの一方向性の単交通を目ざすことだ。人間がウイルスをうわ回ろうとする。その逆にウイルスが人間をうわ回ることもないではない。ウイルスが優になり人間が劣になる単交通だ。

 人間が新型コロナウイルスにうち勝とうとしてワクチンをつくる。そのワクチンが世界中で使われるようになれば、人間がウイルスにうち勝とうとする手だてが双交通になるのをしめす。ウイルスへの対抗の手だてが世界中で双交通になって広まる。

 新型コロナウイルスに感染してしまうのは、単交通がおきているのをあらわす。だれしもがウイルスにかかりたいわけではないから、人間のほうからすると逆方向の単交通になっていて、受動の一方向の交通になっている。ウイルスから人間への逆向きの交通だ。

 人間の体には自然治癒力がそなわっている。新型コロナウイルスにかかったさいには、ウイルスを体の外に出そうとしたり、体の中でウイルスをやっつけようとしたりする反応がおきる。ウイルスはただやられっぱなしではなくて、なんとかして生きのびようとするから、人間の体の自己保存とウイルスの自己保存とのあいだでせめぎ合いがおきる。人間の体の中で、人間の体の自然治癒力にあらがい、なんとか人間の体の外に出てウイルスが生きのびつづける。そうなれば人間の体とのあいだでウイルスは反交通になったことをあらわす。

 参照文献 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『現代思想を読む事典』今村仁司

国の政治の選挙で不正があったのかどうかと、修辞学でいわれる先決問題要求の虚偽―政治の(元)権力者に求められる説明責任(accountability)

 ミャンマーでは民主主義によるデモがおきている。その中でデモの参加者に死者が出ているようである。デモの参加者に排除の暴力がふるわれた。

 力によって政治の権力をうばったミャンマーの軍事政権はあくまでも自分たちの権力の正当性を言いつづけている。

 もしもミャンマーで行なわれているデモのいきさつと、アメリカで行なわれた大統領選挙のいきさつとのあいだに共通点があるのだとすると、それはいったいどういうところにあるのだろうか。その共通点とは、修辞学でいわれる先決問題要求の虚偽だと見られる。

 修辞学でいわれる先決問題要求の虚偽がある。これは先決として解決されることが求められる問題だ。それが解決されないままになっていることで虚偽におちいる。

 たとえば、きみは罪をおかした、だから罪人だ、と言われるさいには、まず罪とは何かがある。ほんとうに罪をおかしたのかがあり、それが客観の証拠によって立証されなければならない。それらがあいまいになおざりにされたままになることが、先決問題要求の虚偽だ。

 自由民主主義(liberal democracy)においては政治の権力者が負う立証や挙証の責任がはたされなければならない。説明責任(accountability)だ。とにかくきみは悪人だから悪人だとか、とにかくあの国は悪い国だから悪い国なのだといったような、論点先取や循環論法もまたおなじ性格をもつ虚偽だ。

 ミャンマーで行なわれた民主主義の選挙で勝ったさいに、選挙の勝利者が不正を行なっていた。選挙の勝利者が法の決まりに反する罪をおかしていた。ミャンマーで政治の権力をうばった軍事政権はそう言う。

 選挙で不正があったから、選挙で勝ったことを認められない。ミャンマーの軍事政権はそう言っているが、これはアメリカでドナルド・トランプ前大統領が言っていることと共通点があるのではないだろうか。そこに見られるのは、先決となる問題が解決されていないことである。

 アメリカで行なわれた世論調査の中では、共和党の支持者の中に、ミャンマーの軍事政権が行なったことと同じようなことがアメリカで行なわれることがいるのだと答えた人がいるのだという。ミャンマーで軍事政権が政治の権力をうばったのと同じように、アメリカでもトランプ前大統領による共和党が力によって政治の権力をうばうことがいる。

 ミャンマーアメリカとで同じ構造が見られるのだとすると、先決となる問題が解決されなければならない。先決となる問題とは、選挙で不正があったのだと言っている、言い出しっぺである政治の(元)権力者のほうが、その客観の証拠をあげなければならないことである。客観の証拠がないのであれば、じっさいに選挙で不正があったのかどうかは不たしかだ。

 先決となる問題が解決されていないのが見られるのがミャンマーアメリカだろう。先決に解決されなければならない問題がそのままになっていて放ったらかしにされている。選挙で不正があったのだと言うのであれば、言い出しっぺの政治の(元)権力者のほうがその客観の証拠をあげないとならないから、立証の責任を負う。

 政治の権力をじっさいに握っている権力者が、自分たちのやっていることを正当化するために、虚偽であるカタリを言う。ミャンマーでは軍事政権がいまの時点で政治の権力をにぎっていて、自分たちを正当化する中で、先決問題要求の虚偽がおきているうたがいがある。

 アメリカではトランプ前大統領はいまは政治の権力の地位をしりぞいているが、トランプ前大統領が政治の権力をにぎっていたさいに、先決問題要求の虚偽におちいっていたうたがいがある。政治の権力をにぎっていた時点においてトランプ前大統領は大統領選挙で不正があったのだと言っていたから、言い出しっぺであるトランプ前大統領が立証の責任を負う。その立証の責任を果たさないで、客観の証拠をあげていないから、アメリカの大統領選挙でほんとうに不正があったのかどうかは確かではない。

 選挙で不正があったのかどうかは、ミャンマーにおいてもアメリカにおいても不たしかなことだろう。その中で気をつけなければならないのは、政治家によるカタリである。ミャンマーであれば軍事政権の権力者が言うカタリに気をつけたい。アメリカであればトランプ前大統領が言うカタリに気をつけたい。政治家が言うカタリの中にはそうとうなゆがみが含まれていることが少なくない。

 政治家が言うカタリの中にどのような政治性や作為性や意図が含まれているかを見るようにして行きたい。ミャンマーの軍事政権の権力者や、アメリカのトランプ前大統領が、いくら選挙で不正があったのだと言っているのだとしても、それはカタリにすぎないかもしれず、カタリの中にゆがみが多く含まれているおそれがある。そこに気をつけるようにしておきたい。

 参照文献 『論より詭弁 反論理的思考のすすめ』香西秀信 『情報政治学講義』高瀬淳一 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『情報汚染の時代』高田明典(あきのり)

国の財政で借金をどんどん増やして行くようにすることはよいことなのだと言えるのか―不利益分配の闘争

 国の借金は悪いものではない。国の財政において借金がどんどん増えて行くのはまずいことではない。むしろよいことだ。そう言われているのがある。はたしてそのように言うことはできるのだろうか。

 ことわざでは、お金のなる木はない(money does not grow on trees.)と言われている。ただで食べられるご飯はない(there is no free lunch.)とも言われている。これらのことをくみ入れられるとすると、負担あっての給付だとなる。負担がなくてただ給付だけが得られるとは言えそうにない。負担とは国民による税金の支払いだ。

 国が借金をどんどん増やしていっていることを、不利益分配の文脈で見てみられる。不利益分配の文脈で見てみると、国が借金をどんどん増やしていっていることは、未来の国民に負担をどんどん押しつけていっていることをしめす。いまの国民ではなくて、未来の国民に負担をさせる。

 民主主義においてはいまの時点の国民の声に重みが置かれがちだ。未来の時点の国民のことが軽んじられてしまう。いまの時点の国民の声が勝ることになる。不利益を分配する闘争において、未来の国民は負けることになり、不利益が分配されることになる。それをしめすのが、国の財政において借金がどんどん増えて行くことだと見られる。

 国が借金をどんどん増やして行くことは悪いことではなくて、むしろよいことなのだと見なす。そう見なすことは、不利益分配の文脈で見てみられるとすると、未来の国民に不利益を分配していることに映る。未来の国民との不利益の分配の闘争で、いまの時点の国民が勝ることになる。

 不利益の分配の闘争では、いまの時点の国民のほうが勝りやすく、未来の国民は負けやすい。民主主義ではいまの時点の国民の声が通りやすいからである。それでいまの時点の国民が不利益分配の闘争で勝るのだとしても、それが正しいことだとは言い切れないだろう。

 闘争が行なわれるさいに、勝ったほうがいついかなるさいにも正しいのだとは言えそうにない。闘争で勝つのは力を持っていることによることがあり、力を持っているのだとしてもそこに正しさがともなっていないことは少なくない。

 いまの時点の国民の中には生活に困っていて苦しんでいる人は少なくはないだろう。それを何とかするために、国の財政で借金をどんどん増やしていって、国民に利益をどんどん分配して行く。国がどんどん借金を増やして行くことによって、国民に利益が分配されることになって行く。そうなることを目ざすことが言われているのがある。

 たとえ国が借金をどんどん増やしていって、国民に利益を分配しようとしたとしても、それによって不利益分配をどうするのかの文脈から脱することはむずかしいのではないだろうか。たとえ国が借金をどんどん増やして行くことをよしとするのだとしても、不利益分配をどうするのかの文脈から脱することにはなっていない。

 国が借金をどんどん増やして行くことがはたして善なる政治と言えるのだろうか。それを善政だと呼べるのだろうか。それはむしろ逆に悪政だと言うことも言えるかもしれない。悪政のしわ寄せを未来の世代に押しつけることになり、未来の世代が不利益分配の闘争に負けることになる。

 いまの時点の国民の中に生活に困るなどで苦しむ人が少なからずいるとして、そのもとにあるのは、国が借金をすることが足りないからだとは言えそうにない。もしも国が借金をすることが足りないことがもとになって、いまの時点の国民の中に生活に困るなどで苦しむ人が多くおきてくるのであれば、国が借金をどんどん増やして行くのは手だてとしては有効だろう。

 どのようなことがもとになって、いまの時点の国民の中に生活に困るなどで苦しむ人が少なからずおきてくるのだろうか。そのもととしてはいろいろなことが要因としてはあるだろうが、ひとつには社会の中に差別があることによっているだろう。

 政治において悪政が行なわれていることによって、社会の中の差別が正されない。それで国民の中に生活に困るなどで苦しむ人が少なからずおきてくることになる。そう見られるのがあるとすると、悪政が行なわれているのを少しずつ改めて行く。それで社会の中の差別を少しでも減らして行く。そのためにはこれまでの負の歴史をきちんとふり返ることも必要だ。

 国がどんどん借金を増やして行くことが、善なる政治になるのだといった声もあるだろう。それを全面として否定するものではないけど、もしかしたらそれは逆に悪政に当たるおそれがないではないから、そのことを少しはくみ入れておいてもよいものだろう。不利益分配の文脈から脱することになっているのかどうかを、できるだけ慎重に見て行くことがあったらよい。

 参照文献 『「不利益分配」社会 個人と政治の新しい関係』高瀬淳一 『赤字財政の罠 経済再発展への構造改革』水谷研治(けんじ) 『年金の教室 負担を分配する時代へ』高山憲之(のりゆき) 『日本国はいくら借金できるのか? 国債破綻ドミノ』川北隆雄 『絶対に知っておくべき日本と日本人の一〇大問題』星浩(ほしひろし) 『事例でみる 生活困窮者』一般社団法人社会的包摂サポートセンター編 『差別原論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』好井裕明(よしいひろあき) 『一冊でわかる 政治哲学 a very short introduction』デイヴィッド・ミラー 山岡龍一、森達也訳 『考える技術』大前研一

中国のウイグルのことと、どのようなことにたいして声をあげることがよいことに当たるのか

 日本の国の中にある人権の侵害に声をあげる。国の中のことに声をあげるのであれば、中国のウイグルの人たちへの人権の侵害に声をあげるべきだ。ツイッターのツイートではそう言われていた。

 ツイートで言われているように、中国のウイグルのことに声をあげないで、日本の国内のことに声をあげるだけなのはよくないことなのだろうか。

 たしかに、中国のウイグルのことに声をあげるのはよいことであるのにはちがいない。よいことであるのはたしかだが、その点についてをもうちょっと間口を広げるようにして見て行くようにしたい。

 間口をせまくしてしまうと、これこそがよいことなのだといったことになってしまう。どのようなことがよいことなのかは人それぞれによってちがってくるから、客観には決めづらい。なので間口がせまくならないようにしてそれを広げるようにしてみたい。

 そもそもの話としてどういった大前提となる価値観をとることができるのだろうか。その点について間口を広げてみるようにできるとすると、人権が侵害されるのはよくないことなのがある。すべての個人の人権が保障されるようにすることがいる。その点については価値観が重なり合うようにすることができる。価値観をおたがいに共有し合うことがなりたつ。

 どのようなことにたいして声をあげるべきなのかでは、価値観のずれがおきてしまい、間口がせばまってしまう。それをできるだけ広げるようにしたいのがあり、それをするさいに、具体論ではなくて抽象論によって見てみたい。

 具体論とはちがい抽象論で見てみられるとすると、具体としてどのようなことにたいして声をあげるのがのぞましいのかではなくて、それをもうちょっと抽象化することがなりたつ。抽象化してみられるとすると、社会においておきている政治などのことに目を向けるかどうかがある。

 社会でおきている政治などのことは、自分の外にあることだ。自分の外にあることに目を向けるようにするのはひとつのよいことだ。それがよいことだからといって、みんなが絶対にやらなければならないこととは言えそうにない。自分の外に目を向けなければならないとはいえず、それをしなくてもかまわない。すごく忙しい生活を送っている人もいるから、その中で無理やりに自分の外に目を向けなくてもよいものだろう。

 たとえ自分が不幸になってまで、自分の外に目を向けなくてもよいものだろう。すべての個人は自分の幸福を追求する権利があるのだから、自分の幸福を完全に犠牲にしてまでも、自分の外のことに目を向けなければならないとは言えそうにない。その人が幸福であるのであれば、たとえ自分の外に目を向けないのだとしても、法の決まりに反していないのであればとうぜんに許されることだ。

 具体論によるのだと間口がせまくなってしまうことがあるから、抽象論によってそれを広げるようにしてみられるとすると、自分の外に目を向けないことはとくに悪いことだとは言い切れないし、自分の外に目を向けるようにするのはよいことだと言えるのがある。どちらもとくに悪いことだとは言えそうにない。

 自分の外に目を向けるようにして、社会の中でおきている政治などのことに目を向けてみることにはいろいろな効用がある。政治の無関心から脱せられる。政治の無感情(political apathy)や政治の無力感から脱せられる。どうせ世の中は変わらないだとか、どうせ政治は変わらないだとかといったあきらめに深くおちいるよりはほんの少しくらいはよいことだろう。政治の無関心や無感情や無力感が社会の中に広くおきてくると政治が悪くなり、政治家が悪いことをやりやすくなってしまう。有権者による監視がはたらかなくなる。政治家の思うつぼになってしまう。

 自分の外に目を向けるようにすることのひとつが、日本の国内のことに声をあげることだから、そこにはさまざまな効用があり、よいことだと言えるだろう。よいことだといっても、客観によいことだとは言い切れないのはある。客観によいことだとはいえないが、そもそも客観によいことはわからないのがあるから、主観としてよいことだったとしても、社会にとって悪くはたらくとは言い切れないし、社会にとってまったく益にならないとは言い切れそうにない。

 中国のウイグルのことに声をあげるのはよいことではあるが、たとえそれをしているのだとしても、そのあいだに日本の国で政治が悪くなって日本の国が崩壊してしまうことは可能性としてあることだ。中国のウイグルのことが改善されるのはよいことではあるが、そのいっぽうで、日本の国の政治が悪くなってそのことによって日本の国が崩壊してしまうのだとしたら、それでもよいのだろうか。

 日本の国民としては、日本の国の政治が悪くなることは放っておくことができないから、日本の国の中のことに目を向けるようにするのは必要なことであるのにちがいない。必要なことなのであれば許容されてよいことだろう。

 中国のウイグルのことには声をあげないが、日本の国の中のことには声をあげることは、許容できないほどにおかしいことだとは言えそうにない。たとえ日本の国の中のことにだけ声をあげるのだとしても、それが民主主義においてまったく必要がないことだとはいえない。具体論で間口をせまくするのではなくて抽象論で間口を広くして見られるとすると、法の決まりに反していないかぎりは、日本の国の中のことであろうと国の外のことであろうと声をあげることは許されてよいことだろう。

 参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『十三歳は二度あるか 現在を生きる自分を考える』吉本隆明 『ポリティカル・サイエンス事始め』伊藤光利

中国のウイグルのことと、それを表象すること―代わりに声をあげることによる表象の利点と欠点や弱点

 中国のウイグルの人たちの人権が侵害されている。日本の国内でおきている人権の侵害にたいして声をあげるのであれば、中国のウイグルのことにも声をあげないとおかしい。ツイッターのツイートではそう言われている。

 ツイートで言われているように、日本の国内のことだけではなくて中国のウイグルのことにも声をあげなければならないのだろうか。そこには表象(representation)が関わってくるのがありそうだ。表象はだれかの声を代わりに言うことであり、代弁することである。代理をすることが表象だ。

 声をあげるさいには、それを二つに切り分けることがなりたつ。ひとつは当事者のじかの声(presentation)であり、もうひとつはそれを代わりに言う声である。生の声と代弁の声の二つに分けられるとすると、代弁の声には弱みがある。間接性があるためだ。

 たとえ当事者による生の声であったとしても、実存としての個別性をかかえている自分のことだけではなくて、いく人もの当事者たちのことをまとめて声をあげて行く。現実には当事者たちのことをまとめて声をあげて行くことは少なくはないから、そのさいには表象によるところをふくむ。

 日本の国内のことに声をあげるのであれば、中国のウイグルのことにも声をあげるべきだとは、当事者による生の声に向けた批判ではないだろう。表象と比べると、当事者の生の声に向けてはやや批判を投げかけづらい。まさに自分が人権を侵害されている当人による生の声にたいして批判をすることは倫理として適したことではないだろう。

 代わりに言うことは表象であり、そこには弱みがある。弱みのひとつとしては、ほんとうに代わりに言うことができているのかがある。きちんと意図をくみ取れていないことがある。純粋な意図によるのではなくて不純さが入りこむ。不純さをかんぐられることになる。

 交通の点から見てみられるとすると、代わりに言うことは、もととなるものとのあいだに双方向性による双交通がおきている。うまくすればそれがなりたつ。双交通がおきることから、たとえ日本の国内にいるのだとしても、他国である中国のウイグルのことに声をあげることができるのである。

 日本の国内にいながら他国である中国のウイグルのことに声をあげられるのは、双交通になっていることによる。それはよいことではあるものの、もしかすると中国のウイグルの人たちの意図をきちんとくみ取れていないことがありえるから、完ぺきに双交通にはなっていないかもしれない。ずれがおきているおそれがある。

 どのようなことについてを代わりに言うようにするべきなのかがある。さまざまなところでさまざまに人権の侵害がおきているのがあるから、そのすべてにたいして代わりに言うことはできづらい。どれかについてを代わりに言うことができるのだとしても、そのほかのことを切り捨ててしまっている。どれかについては双交通がなりたつのだとしても、そのほかのことについては交通がなりたたない反交通になってしまっている。

 人権を侵害されている当人がじかに声をあげることとはちがい、それを代わりに言うことには弱みがあるのはいなめない。それは代わりに言うことがもともと抱えている欠点だ。欠点があることをくみ入れられるとすると、ごう慢さや自己満足やかんちがいにおちいっていないかどうかをつねに気をつけることがあってもよいものだろう。代わりに言うことには利点があるのとともに欠点もまたあるから、たとえ中国のウイグルのことについて声をあげるのだとしても、そこには欠点があることになり、客観で完全に純粋な善になっているとは言い切れそうにない。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『文化人類学二〇の理論』綾部恒雄(あやべつねお)編

政治における悪いことと、悪の平凡さや凡庸さ

 大量の偽造した署名をつくるなどといった貧乏たらしいことはわれわれはしない。もしも悪いことをやるのであればもっと堂々と大がかりにやる。記者会見の中で、愛知県知事をやめさせる運動の責任者はそう言ったという。

 愛知県知事をやめさせる運動の責任者が記者会見において言ったことをどのように見なすことができるだろうか。人それぞれによっていろいろに見なせるのにちがいない。その中で、大量の偽造した署名がつくられたうたがいがあることについて、それがどういったことだったのかの事実をできるかぎり明らかにして行くことがいる。貧乏たらしいことなのかどうかより以前に、まずはおきたことである事実ができるかぎり明らかにされるようにして、もととなるいくつもの要因を体系として分析するべきだろう。

 責任者が言っていることについてを逆(対偶)から見てみられるとするとこういったことが言えそうだ。運動をになうわれわれが行なうことなのであればそれは貧乏たらしいことではない。堂々と大がかりなことをやらないのであれば、運動をになうわれわれは悪いことはしない。

 大量の偽造した署名が運動の中でつくられたことが、もしも貧乏たらしいことではなくて、堂々と大がかりなことをしたことに当たるのであればどうだろうか。もしもそうだとすると、愛知県知事をやめさせる運動の中で悪いことが行なわれた見こみは十分にあることになる。あらゆる悪いことを一切やらないとまでは言っていないからである。

 たとえ貧乏たらしくなくて、堂々と大がかりなことであったとしても、あくまでも悪いことはやらないのだとは言っていないから、悪いことをなすことは可能性としてはありえるだろう。偽造した署名をつくるさいには多くのアルバイトをつのって署名を書かせていたのだとされる。それなり以上の資金力がないとできないことだとされる。

 法の決まりを破るような不正が政治において行なわれたのであれば、それがたとえ小さいことであったとしても、また大きいことであったとしても、その大きさの大小のちがいはさしあたってはわきに置いておける。範ちゅう(集合)と価値を切り分けたうえで、範ちゅうについてを見てみればそう見なすことがなりたつ。

 政治において守らなければならない法で決められた具体の義務に違反したのであれば、そのことは違反をしたことの範ちゅうの中に属する。その範ちゅうの中にはいろいろなものがあるが、範ちゅうの中に属していることではすべてに共通点がある。

 運動の責任者が言っていることは、具体の義務に違反するものの範ちゅうの中に属するものどうしのあいだでの相違点を言っているものだろう。小さいことか大きいことかといったちがいだ。それもたしかにあるが、それとはちがって、範ちゅうの中とその外とのあいだに相違点があるから、それによるのだとすれば、範ちゅうの中にあるのならそのすべてに共通点がある。

 具体の義務に違反した範ちゅうの中ではすべてに類似性があることになるから、範ちゅうの中で大きいものが駄目なのと同じように、小さいものもまた駄目なのだと見なすことがなりたつ。

 政治においては小さい悪いことが大きな悪いことへとだんだんひどくなって行くことがありえるから、たとえ小さいことだからといって必ずしも正当化することはできないかもしれない。政治家が小さいうそを一つついたことから、それをごまかすためにどんどんうそをつきつづけて行く。それでついには巨大なうそのかたまりと化す。そうなったら倫理として正当化することはできない。国民に大きな損失や害がおきることになるから、そうなってしまってからでは手おくれになってしまう。

 つねに小さいことがやがて大きくなって行くとは限らないから、すべての小さいことについてを深刻にとらえなくてもよいかもしれない。すべてについてを深刻にとらえすぎなくてもよいのはあるが、かといって軽んじすぎると手に負えないくらいにひどくなりかねない。ことわざでは後悔先に立たずといわれる。手おくれにならないようにするためには、たとえ小さいようであったとしても、政治において政治家がうそをつくなどの悪いことについてをできるだけ見逃さないようにして、それをひとつの悪い兆候だと見なすことが役に立つ。

 参照文献 『悪の力』姜尚中(かんさんじゅん) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『うその倫理学』亀山純生(すみお) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『リベラルアーツの学び 理系的思考のすすめ』芳沢(よしざわ)光雄

中国のウイグルのことに声をあげることと、いまとかつてのあいだにおける人権の侵害―交通におけるいまかつて間から見てみたい

 中国のウイグルの人たちにたいする人権の侵害にたいして声をあげる。それはとても大切なことだ。現在の時点の横軸で見てみると、日本の国内だけではなくて、国外でもさまざまな人権の侵害がおきているから、それらがとり上げられて、解決されたほうがよい。

 現在の時点の横軸だけではなくて、過去をふり返るようにして、縦軸で見てみたとするとどういったことが言えるだろうか。縦軸で見るさいには、交通でいうといまとかつての間のいまかつて間によることになる。

 かつてである過去をふり返って見てみられるとすると、日本の国では天皇制によって国民の命がひどく軽んじられた。天皇のためであれば国民の命は失われてもよいのだとされていたのである。

 日本の国の中ではいちばん上に天皇がいた。天皇との距離が近いものほど価値が高いとされていて、距離が遠くなるのにつれて価値が低いものだとされていた。たとえ人間であったとしても、天皇との距離が遠いのであれば、その命は軽いものだとされていたのである。たとえ物や動物であったとしても、天皇との距離が近ければそれは人間よりも高い価値をもつ。人間においてはすべての人間の命がみな等しく平等にあつかわれていたのではなくて、そこには不平等さがあったのである。

 天皇制においてなぜ国民の命が軽んじられることが行なわれたのだろうか。それは天皇が一番えらいものだとされていて、天皇が目的だとされていたからだろう。目的である天皇のためであれば、国民の命は失われてもかまわない。国民の命はたんなる手段や道具だととらえられていた。国民の命そのものがそれじたいにおいて目的だとされていたのではない。

 国民の命そのものをそれじたいとして目的だとするのは人格主義(personalism)だ。これは日本において戦争に負けてからとられるようになったあり方だが、徹底されているとは言いがたく、さまざまなところに穴が空いていてほころびがある。それはなぜかといえば、戦前や戦時中の天皇制のあり方がまだ払しょくされていないためだろう。かつての悪いあり方がまだ生き残りつづけているのである。そればかりかそれをふたたび復活させようとする反動の動きが目だつ。

 日本の国では国民の命を大切にして行こうといった人格主義が弱い。そこが弱いのがあり、それは天皇制から来ているのがある。人格主義によるよりも、日本の国のことをよしとするところが強くて、日本の国のためなのであれば国民の命は失われてもかまわないといったところがある。日本の国のことをよしとする同一性(identity)を強いるのがあり、その圧がはたらいている。

 日本の国のことをよしとする同一性が強すぎるのがあるから、それを弱めるようにして行く。かつての日本の国による大きな失敗がふたたびくり返されないようにして行く。いまの現在の時点ではなくて、かつてをふり返られるとするとそう言えるのがある。かつての負のところをくみ入れるようにして、いまにおける負のところを改めることに生かして行く。

 ことわざでは痛みなくして得るものなし(no pain no gain)と言われるのがある。この痛みとはかつての負のことがらをくみ入れることをあらわしているのがあるから、それをくみ入れるようにして行きたい。ただたんに得るものを得られるのではなくて、そこには痛みがもとになっている。痛みとはかつてにおいて人権がいちじるしく侵害されたことが当てはまる。

 さまざまな痛みがかつてにおいておきたことによって人権の思想が形づくられることになった。それにくわえてさまざまな痛みがかつてにおいておきたのがあり、人権が侵害されてきた。そこから、人権にはかつてをふり返ることをうながすところがあると言えるだろう。ただたんに人権が得られたのではなくて、そのよいものを得られることになったのは、さまざまな痛みがかつてにおいておきたことによっている。

 かつてをふり返る歴史性が人権の思想にはあると言えるから、たんにいまの現在の時点だけによっているのだとは言えそうにない。かつてをふり返るようにするのであれば、日本の国が天皇制によって大きな失敗をしたことを無視するわけには行かない。すでにすんでしまったことだといったことで片づけてしまうのは必ずしも正しいあり方ではないだろう。

 まがりなりにもいまの日本において人権があるていど守られて保障されているのがあるのだとすれば、それは当たり前に得られていることではなくて、かつての日本やその他のところでさまざまな痛みがおきて血が流されたことによっているものだろう。そのもとにあるのはおもに国民国家のおかすまちがいであり、日本でいえば天皇制がそれに当たる。国民国家は暴力を独占しているのがあるからつねに危なさがつきまとう。

 参照文献 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『憲法という希望』木村草太(そうた) 『十三歳からの教育勅語 国民に何をもたらしたのか』岩本努 漫画 たけしまさよ

中国のウイグルで行なわれていることと、再帰性があることからくる選択の恣意(しい)性―選択をするさいにおきるかたより

 日本の国内における人権の侵害をとり上げるのであれば、中国のウイグルの人たちへの人権の侵害をとり上げなければならないのだろうか。

 たしかに、中国で行なわれているウイグルの人たちへの人権の侵害は放っておいてよいことではないから、できるだけとり上げられたほうがよいし、できるだけ解決されたほうがよいことがらであるのにちがいない。

 たとえ中国のウイグルのことをとり上げるのにしても、そこには自律性(autonomy)と他律性(heteronomy)が関わってくるのがあるだろう。自分からすすんで中国のウイグルのことをとり上げるのであれば自律性による。自分からすすんでなのではなくて、他によってそうさせられるのであれば、他律性になってしまう。

 他によってさせられるものである他律性によるよりも、自分からすすんで行なう自律性によったほうがより価値があるとする見かたがなりたつ。それぞれの人にはそれぞれの考えがある(several men,several minds)ので、それぞれの人の自由な自発性(spontaneous)にまかせるようにするのはひとつのやり方だ。それぞれの人の自由な自発性にまかせるのではなくて、一方的に見かたを押しつけるのだと他律性になるのがある。

 日本の国内でおきている人権の侵害についてをとり上げるさいに、そのついでみたいなこととして、ふと思い出したような形で、そういえば中国のウイグルのこともとり上げることがいるのだとする。それだとそこに不自然さがあるところがある。人為の構築性があるのはいなめない。

 日本の国内でおきている人権の侵害をとり上げる中で、そこにあたかもとってつけたかのようにしてくっつけるような形で中国のウイグルのことを結びつけなくてもとくにかまわないものだろう。それにくわえて、そこに結びつけるような形だと、ついでのようになってしまうから、中国のウイグルのことを日本の国内でのことと同列にあつかうことにはならないかもしれない。

 なにかとなにかを選び出す。そのさいには必ずしもあれかこれかの二者択一の形でなくてもかまわない。あれかこれかの二者択一の形だと、日本の国内のことかそれとも中国のウイグルのことかといったことになるが、その二つのとり上げ方には必ずしも必然性があるとは言えそうにない。二者択一だとわかりやすいのはあるが、二つだけではなくてそれ以外にもいろいろに選べるものがあることが少なくない。

 日本の国内のことかそれとも中国のウイグルのことかといった二者択一だと、その二つの選び方には恣意性がつきまとう。選び方に恣意性がおきてくるのは、そこに再帰性(reflexivity)があるからだ。二つのことについてを選ぶさいには、その何と何を選ぶのかもまた選ばれてしまっているのがあり、かたよりがおきている。かたよらない選び方ができるのではなくて、どういった選び方をしたとしてもいずれにせよかたよりがおきてくるから、どの選び方にも恣意性があるのはまぬがれない。

 どのようにすれば少しでも適した選び方になるかといえば、範ちゅう(集合)の中のすべてのものをとり上げるようにして、そこにもれがないようにすることがいる。もれがあると選ぶべきものが選ばれないでとり落とされてしまう。日本の国内のことと中国のウイグルのこととがあるとしても、その二つだけではなくて、それ以外にも世界中にはさまざまな人権の侵害がある。世界中でおきている人権の侵害の範ちゅうの中で選ばれていないものが多くあると、そうとうなもれがあることになる。多くの選ぶべき選択肢がもれてしまっていると、適した選び方になっているとは言えそうにない。

 日本の国内でおきていることと、国外の中国でおきていることとは、まったく同じ次元のものだとは言えそうにない。同じ次元のものどうしでないとつり合わないから、差異があることになる。同じ次元のものどうしであれば類似性があるから比べることに意味があるが、ちがう次元のものどうしであればそこには差異があるから比べてもあまり意味がない。

 修辞学の議論の型(topos、topica)の比較からの議論を当てはめてみると、日本の国内のことをさしおいて、それよりもより強い理由(a fortiori)によって、中国のウイグルのことをとり上げるべきかどうかを見てみられる。はたして日本の国内のことと比べてそれよりもより強い理由が中国のウイグルのことにはあるのかといえば、客観としてその理由があるとは言えそうにない。主観としてはあるとは言えるだろうが、日本の国内のすべての人がうなずくことができるだけの客観の必要性があるとは言いがたい。

 いちおう日本と中国とのあいだには国境の線引きが引かれているから、その線引きをまったく無視するのでないかぎり、日本の国内においては日本の国内のことのほうがより強い理由をもつといえるのがある。日本の国内のことをより優先させるのは、世界の全体の点からすればそれはそれでかたよりがあることはまぬがれない。かたよりはあるにしても、日本の国内で行なわれる政治において、日本の国内のことをより優先してとり上げたらいけないとは言い切れないだろう。国民国家の文脈においては、日本の国内においては日本の国内のことのほうが国外のことよりもより強い理由をもつとはいちおう言えそうだ。

 国民国家の文脈によるのだとしても、自民族中心主義(ethnocentrism)になってしまうことがあるからそれには気をつけるようにしたい。国民国家がどういったあり方になっているのかでは、中国は独裁主義になってしまっているのがあり、法の決まりで治める法治主義ではなくて人が治める人治主義になっているのがあるとされる。そこから中国のウイグルの人たちへの人権の侵害が引きおこされているのだと見られる。それは国民国家のあり方のまずさによっているから、独裁主義を改めることがいる。

 国民国家のあり方のまずさについては、日本の国は一〇〇点満点中で一〇〇点で中国は〇点だといったようなことではなくて、日本の国にもいくつもの人権の侵害がおきていることは否定できない。その点で日本の国は(中国ほどではないにしても)理想論と現実論とのあいだにかなりの開きがある。きびしく見ればそう言えそうだ。

 参照文献 『正しく考えるために』岩崎武雄 『日本の難点』宮台真司(みやだいしんじ) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信現代思想を読む事典』今村仁司編 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)