緊急事態条項が憲法にないから、ウイルスの感染の対策がうまく行かないのか

 ウイルスの感染が広がっている。それはピンチではあるが、そのことをチャンスとしよう。与党である自由民主党の議員はそう言っていた。

 憲法の改正をすることのチャンスとして、ウイルスの感染の広がりのピンチをとらえている。新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染のピンチは、憲法の改正のチャンスだと言えるのだろうか。

 憲法を改正して、憲法に緊急事態条項をあたらしく加える。そのことがウイルスの感染に対応して行くさいのよりよいあり方につながるのだろうか。憲法に緊急事態条項がないことが、ウイルスの感染に政治が手を焼いていることのもとなのだろうか。

 修辞学の議論の型(topica、topos)の因果関係からの議論によって、自民党の議員が言っていることを見てみたい。因果関係からの議論によって見てみると、憲法に不備があることが原因となって、ウイルスの感染の対応がうまくいっていない結果となっていることになる。そのさいに、ひとまずは原因と結果のそれぞれを切り離してみたい。

 まずは結果だけをとり上げて見てみられる。結果はすでに現実に出ているものだから、それそのものをとり上げることができる。結果だけを見てみたさいに、政権がウイルスの感染の対応に失敗していて、成功していない。そういう結果が現実に出ているのだと理解してみたい。

 すでに現実に出ている結果として、政権はウイルスの感染の対応に成功しなかった。いろいろな失敗がおきた。それがあるのであれば、そのことをまずはきちんと認めるべきである。何のせいで何がおきたといったような、原因と結果の図式に当てはめる前に、結果そのものがどうなのかを認めて行く。そのことがまずいる。

 結果にたいする原因を見て行く。そのさいに表面においておきた現象が、どのようないくつもの要因によっておきたのかを見て行く。たった一つだけの原因によって結果がおきるのではなくて、いくつものさまざまな要因によっておきることが多い。いくつもの要因があることが多いので、それを体系として分析することがいる。

 できるだけていねいにじっくりと時間をかけて、どれだけのさまざまな要因があって、それらによって結果となる表面の現象がおきたのかを見て行く。そこを見て行くことにできるだけ時間と労力をかけて行く。てっとり早く原因を一つに決めてしまうのではなくて、いろいろな要因をもれがないように見て行くようにしたい。

 てっとり早く原因を一つに決めてしまうと、それがほんとうは真の原因ではないのにもかかわらずまちがって取りちがえてしまうことがおきる。真の原因ではないのにもかかわらずまちがってとりちがえてしまうと、まちがった手を打ってしまう。ぜんぜん有効ではない手を打つことになってしまう。有効ではない手を打つのは意味がないことである。

 何のせいで何がおきたのかの、原因と結果の図式に当てはめようとするのであれば、そうとうにていねいにものごとを見て行かなければならない。原因と結果の因果関係は目には見えないものだから、取りちがえてしまうことが多い。何と何が相関していて、そこにほんとうに因果関係があるのかどうかをそうとうにていねいに見て行かないと、まちがったとらえかたをまねく。

 自民党の議員が言っていることを、修辞学の議論の型の因果関係からの議論によって見てみられるとすると、てっとり早く原因と結果の図式に当てはめてしまっているおそれが高い。結果にたいしていろいろな要因があることを体系として分析する手つづきをとっていない。

 結果にたいしてどのようなさまざまな要因があるのかを、もれがないように体系として分析する手つづきは欠かせないものであり、それを抜きにしているのであれば、ほんとうに結果にたいする真の原因となるものをとらえているとは見なしづらい。まちがったものを真の原因だととらえちがいをしているおそれが小さくない。因果関係では、原因と結果のとらえちがいがおきることが多い。

 何のせいで何がおきたのかの、原因と結果の図式に当てはめるのであれば、場合分けをして見てみるべきだろう。憲法に緊急事態条項があるかないかと、ウイルスの感染の対策の成功と失敗とを見て行く。

 場合分けをしてみたさいに、まず(憲法の改正をすることで)憲法に条項があって、対策に成功することがある。たとえ憲法に条項があったとしても、対策に成功するとはかぎらず、失敗することもありえる。憲法に条項さえあれば対策に成功するとは言えそうにない。条項が悪用されるおそれもある。憲法に条項がなくても、対策に成功することがありえる。憲法に条項がなくて、対策に失敗することがある。

 場合分けをしてみると、たとえ憲法に緊急事態条項があったとしても、それによってウイルスの感染の対策がうまく行く保証は必ずしもないだろう。条項が悪用されることもありえるから、国民の益になるようなことがなされるとはかぎらない。

 憲法に緊急事態条項がなかったとしても、ウイルスの感染の対策に必ず失敗するとは言えそうにない。たとえ憲法に条項がないのだとしても、やりようによってはウイルスの感染の対策に成功することはありえるだろう。憲法に条項がないことが、ウイルスの感染の対策に失敗することをまちがいなく約束することになるとは言えないものだろう。

 条項のありなしは、それほどウイルスの感染の対策の成否を左右するものだとは言えそうにない。そのわけとしては、ウイルスの感染の対策で、国民に少しでも益になるようなことをしたいのであれば、制約があるなかでも色々にできることはあるはずだからだ。制約がある中でできることを最大限にやることがまず大切なことだ。

 制約をとり外しさえすれば、つまり憲法に新しく緊急事態条項を加えて、権力への制約をなくしてしまえば、それで国民の益になるようなことがなされるのかは不確実だ。たんに制約がなくなっただけに終わり、権力の自由度が上がるだけに終わり、それによって国民の不自由さが増す。権力の自由度が上がることは、国民の自由度が上がることを意味しない。

 たとえ権力にたいする制約がなくなったとしても、そのことが国民の益になることにつながる保証はまったくない。権力にたいする制約は、国民にたいする制約とはちがうから、そこは区別されることがいる。国民に益になるように、権力にたいしてできるだけ制約をかけているのである。権力は(制約をむやみにとり外すのではなくて)あくまでも制約がかかっている中でできることを最大限にやらなければならないのが基本だ。

 与党である自民党の政権は、ふつうのときの政治においてすでにかなりの制約をとり外してしまっている。とにかく権力への制約をとり外そうとする動きが強い。権力への制約をとり外すことが自己目的化している。自民党がやみくもに憲法の改正を目ざしているのはそれによっている。

 制約がある中でできることを最大限にやることが行なわれていなくて、できていないことがとても多い。それがあるのだとすれば、たとえ制約をとり外したところで、国民に益になるようなことがとつぜんに政治において行なわれる見こみはそう高くはない。国民に益になるようなことをやりたいのであれば、制約がある中でもそれをできるだけ最大限にやることはできるはずである。

 もともと権力への制約はそれほど強くかかっているとは言えず、日本の政治では抑制と均衡(checks and balances)がとても弱い。やぶろうと思えば政治の権力は法の決まりをやぶってしまえる。法の決まりをやぶっても政治の権力は開き直っていられる。二重基準(double standard)になっているから、もともと権力への制約はかなり弱くなっているはずであり、これ以上に制約を弱めてしまうとさらに政治が悪くなることになりかねない。

 いったい何のために政治の権力への制約を弱めて、憲法に緊急事態条項を新しく加えることがいるのかを、いま一度あらためて見てみたい。いま一度それを見てみられるとすると、これ以上ないくらいに権力への制約が弱まってしまっているのがある。一つにはそう見られるのがあり、これ以上に権力への制約を弱めても、それがいったい何につながるのかが必ずしも明らかではない。

 たとえ政治の権力が法の決まりをやぶっても、憲法の決まりをやぶっても、それで許されてしまっていて、権力への制約がかなり弱まっていて、政治の権力がやりたい放題になっている。したい放題になっている。野放しになっている。日本の政治のあり方はそうなっているのだとすると、むしろ日ごろから制約をしっかりと強くかけて行くことがいる。そのほうが国民の益につながるかもしれない。日ごろから権力に制約がしっかりとかかっていないことの方にまずさのもとがあるのだと見なしたい。

 参照文献 『考える技術』大前研一 『「科学的思考」のレッスン 学校で教えてくれないサイエンス』戸田山和久 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき)

日本の国がオールジャパンになれば五輪は開けるのか―国の全体は非真実である

 日本の国の全体が一丸になってオールジャパンでやれば、五輪を開ける。与党である自由民主党安倍晋三前首相はそう言っている。

 安倍前首相によれば、ウイルスの感染が広がっていて東京都で五輪を開くことが難しくなっているなかでも国民が一丸になれば五輪を開けるのだという。

 新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が広がっているなかで、安倍前首相がいうように、国民が一丸になれば五輪を開くことはできるのだろうか。

 そもそもの話として見てみると、ウイルスの感染が広がっているなかで五輪を開くべきだとは言い切れそうにない。だれがどう見ても五輪を開くべきだとは言えないので、国民のすべてが同じ価値観による大前提を共有することはできそうにない。

 五輪を開くことによって大きな利益を受ける人と、利益をそれほど得られない人とのちがいがある。五輪を開くことへの利害関心が強い人もいれば、それが薄い人もいる。安倍前首相は五輪を開くことへの利害関心が強い。それは五輪を開くことから安倍前首相が受けられる個人としての利益が高いからだ。それをすべての国民に当てはめることはできない。

 オールジャパンによることがいると安倍前首相はいう。そのさいのオールジャパンとはいったい何なのかといえば、いまのところは一億人くらいいる日本の国民のことだろう。いまのところは一億人くらいいるけど、これからどんどん人口が減って行く。さしあたってはいまの時点では量としては一億人くらいはいるのがオールジャパンだろう。

 集団の中にいる人の量が一億人くらいいると、そもそもオールジャパンはなりたちづらい。みんなが同じ一つの方向を向きづらい。全体は非真実であるのだと言われるのがある。オールジャパンによって、日本の国の全体が一丸になるのは、それそのものが幻想によるものだろう。現実論としては日本の全体が一丸になることはほとんどありえそうにない仮定である。

 ことわざでは十人十色(It takes all sorts to make a world.)と言われている。さまざまな人によるさまざまな遠近法(perspective)によって社会はなりたつ。たった一つだけの遠近法による枠組み(framework)によっているのではない。社会のなかには矛盾があり、人それぞれによっていろいろなちがいがある。

 理想論は置いておいて、現実論としてできるだけ地に足がついた形で見てみられるとすると、日本の全体が一丸となって五輪を開くべきだとするかくあるべきの当為(sollen)によってやって行くことはできづらい。かりにそれでやって行くのだとしても、かくあるべきの当為によって日本の全体が一丸になって同じ一つの方向に向かってつっ走っていったさいに、かなり効率は高くはなるものの、正しい方向に向かって進んで行くことの保証はない。効率性は高いが適正さに欠ける。

 かくあるべきの当為とはちがって、かくある実在(sein)のところを見てみると、かくある日本の社会のなかには、さまざまな人たちがいて、さまざまな見なしかたをもつ。かくあるべきの当為ではなくて、かくある実在のところを見てみれば、日本の国の全体が一丸になってものごとをなすことはできづらい。

 日本の国の全体が一丸にならないことが悪くはたらくことはないではないけど、国の全体が一丸になることによって悪くはたらくこともある。状況によっては、国民の全体が一丸になってやったほうがよいこともあるだろうが、それによって逆に全体が破滅に向かってつき進んでいってしまうこともある。

 状況しだいによっては、オールジャパンによって国の全体が一丸になることは悪くはたらく。国の全体が一丸になることに、必ずしもよい含意をもたせることはできない。みんながいっしょなのではなくて、みんながばらばらであったほうがよいことはしばしばある。現実論として見てみれば、みんながいっしょなのではなくて、みんながばらばらにならざるをえないのもある。かくある実在の社会には矛盾がおきざるをえない。

 日本の全体が一丸になるようなオールジャパンにさせるために、五輪を開こうとする。どちらかといったらそう言うのがふさわしいのがある。日本の全体が一つにまとまる幻想を持たせるために、五輪を開こうとしているのだ。五輪のもよおしは、あたかも日本が一つにまとまっているかのようないつわりの幻想をもたせるために利用されている。

 日本の国が一つにまとまっているとするいつわりの幻想を批判することが、五輪を開くことを批判することになるかもしれない。批判がなくて、日本の国が一つにまとまっていて、五輪を開くのがよいとしているのは単眼だ。単純さによる。複雑性をとり落とす。批判がないのではなくて、批判があるようにして、批判の声を自由にあげられるようにして、それが受けとめられるようにしたほうが複眼にできる。複眼のほうが複雑性をとり落としづらい。

 何が何でもどうあっても五輪を開かなければならないとすることは、その必要性がねつ造されているうたがいが高い。日本の全体が一丸になる必要はないし、何が何でも五輪を開く必要もない。東京都で五輪を開く必要がはじめから(もとから)無いほうがよほどよかった。そう見なしてみたい。

 参照文献 『社会的ジレンマ 「環境破壊」から「いじめ」まで』山岸俊男 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『事典 哲学の木』 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ』苅谷剛彦(かりやたけひこ) 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき)

いまの時代に合っていなくて古いものなのが日本の憲法なのか―個人の生が多様化しているいまの時代において、時代おくれで古くなっている仕組みや制度はいろいろにある

 もはや日本の憲法は、いまの時代には合っていない。憲法がつくられてからずいぶんと時間が経つ。憲法は古くなっているから変えなければならない。与党である自由民主党菅義偉首相はそうしたことを言っていた。

 ウイルスの感染が広がっているいまだからこそ、その中で憲法がとっている個人の生存権を生かして行く。新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が広がっているなかで、憲法の第二十五条が定めているものである生存権にもとづいた政治をなす。野党の立憲民主党枝野幸男代表はそう言っていた。

 自民党菅首相がいうように、憲法はいまの時代と合わなくなっていて古くなっているから変えないとならないのだろうか。それとも立憲民主党の枝野代表がいうように、憲法がとっている生存権を生かして、それにもとづいた政治をやって行くのがのぞましいのだろうか。

 おもうに、自民党菅首相が言っているように、憲法がいまの時代と合わなくなっていて古くなっているといったことであるよりは、そのほかの日本の社会の中にあるいろいろな仕組みや制度が時代と合わなくなっていて古くなっている。日本の社会の中にある仕組みや制度にはいろいろな穴が空いてしまっていて、それが放ったらかしになってしまっている。

 なにが駄目なのかといえば、自民党菅首相がいうように、憲法が駄目なのではない。憲法が悪いのではない。どちらかといえばそう言えるのがあり、なにが駄目だったり悪かったりするのかといえば、憲法であるよりも、じっさいの政治がそうであり、政治が失政や暴政になっているのがある。政治がまずいのをごまかすために、憲法が駄目だとか悪いとかと言っているように映る。政治のいろいろな失敗をごまかすために憲法を悪玉化(scapegoat)しているのだ。

 日本の政治は無責任の体制になっている。政治が無責任になっていて、責任を他になすりつける。説明責任(accountability)や結果責任を政治の権力が果たさない。責任を他になすりつけるさいに持ち出されるのが憲法だ。憲法を改めるよりも前に、日本の政治の無責任の体制を改めるのが先だろう。憲法を改めても、日本の政治の無責任の体制が改まることにはならない。

 かりに憲法が上位にあるものだとすると、それを変えるよりも前に、下位に当たるものを変えて行く。下位に当たるものである、社会の中のいろいろな仕組みや制度を変えて行く。日本の社会の中のいろいろな仕組みや制度は、いまの時代と合わなくなっていてかなり古びてしまっているものが少なくない。

 いまの時代と合わなくなっていて古びている仕組みや制度としては、たとえば強制の夫婦の同姓の制度がある。これを選択の夫婦の別姓に変えて行く。政治では公職選挙法はいまの時代には合っていない。公職選挙法は明治や大正の時代のときのあり方がいまにも引きつづいているとされる。お上である官僚が上に立って、人々が下にあるような、官尊民卑のようなところがあるとされている。民主主義の時代には合っていないところがある。

 立憲民主党の枝野代表が言っているように、憲法がとっている生存権を生かして行く。そのためにはいまの時代に合っていなくて古くなってしまっている社会保障の制度を改めたい。憲法生存権を現実に具体化して行くためには、社会保障の制度の中にあるいろいろな穴をそのまま放ったらかしにしておくのではないようにしたい。一人ひとりの個人の生存権を満たせるような、個人をもとにした社会保障の制度に改めて行く。それが行なわれることをのぞみたい。

 憲法を生かしながら、日本の社会の中にあるいろいろな仕組みや制度を改めて行くことが可能だ。上位にある憲法を変えるのではなくて、それを生かしながら、下位にある社会の中の仕組みや制度で、いまの時代に合わなくなって古くなっているものを改めて行く。下位にあたる仕組みや制度のほうを改めるのをまず先にやったほうが、順番としては適している。まず下位にある仕組みや制度をいまの時代に合うようにして、古びたままにしておくのではないようにして行く。それができてはじめて、上位についてを見て行けばよい。

 下位にあたる仕組みや制度のなかに時代に合わなくなって古びているものが少なくはないのに、上位にあたる憲法を先に変えようとするのは適したことだとは必ずしも言えないものだろう。より現実に具体性があるのが下位にあたる仕組みや制度なのだから、より具体性があるほうを先に改めて行く。それを抜きにして、下位のものを放ったらかしにしておいて、上位のものを先に変えようとするのは、政治におけるものごとの優先順位(priority)のつけ方としてふさわしいとは言いがたい。

 まずは上位にある憲法を変えないで、憲法を変えないままでできることは何かをいろいろに見て行く。憲法を変えることありきではなくて、憲法を変えないでもできることは何かを色々に見て行くことが先にあるべきだろう。自民党は、憲法を変えることがありきになってしまっているから、上位にばかり目がいっていて、下位がおろそかになりすぎだ。下位のものが見えていない。上位のものもまたろくに見えていないのだ。

 参照文献 『憲法という希望』木村草太(そうた) 『悩める日本人 「人生案内」に見る現代社会の姿』山田昌弘 『デモクラシーは、仁義である』岡田憲治(けんじ)

ウイルスの感染の広がりを防ぐことと、そこにおきてくる矛盾―コングリッジの矛盾

 ウイルスの感染が広まるのを防ぐ。新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が広まっている日本の社会において、気をつけなければならないこととは何だろうか。

 ウイルスの感染の広がりに波がある中で、矛盾があることに気をつけるようにして行く。気をつけるべき矛盾では、コングリッジの矛盾があることが言われている。これはイギリスの学者のデヴィッド・コングリッジ氏によって言われたものだ。

 コングリッジ氏によると、科学技術において、それがもたらす負の効果にうまく手を打てるときには、手を打つことの必要性に思いいたりづらい。手を打つことの必要性に思いいたったときには、すでに手を打ちづらくなっている。気がついたときにはものごとをそうかんたんに動かしづらくなっているのだ。そうした矛盾があるとされる。

 ウイルスの感染が広がることでは、それがおきる前には、ワクチンの開発の必要性に思いいたりづらかった。それが日本の政治においておきていた。いざウイルスの感染が現実におきたときになってはじめて、ワクチンの開発の必要性に思いいたったのである。

 医療のゆとりがいるのかどうかでは、ゆとりがあるのは無駄だとされて削られていった。ゆとりがあることの必要性に思いいたれなかった。ゆとりの必要性に思いいたりづらいのがあった。ゆとりがあることはたんに無駄なだけだと見なされた。いざウイルスの感染が広がってはじめて、ゆとりがあることの必要性に思いいたったのだ。

 ゆとりがあるのは冗長性(redundancy)があることだ。いざとなったときにゆとりがものを言うことがある。冗長性があることによってそれがまちがいを防ぐはたらきをしたり負担を受けもったりするようにはたらく。ゆとりが欠けていてかつかつのあり方だと冗長性がないからいざとなったときに大きな打撃を受けることがある。

 なにが無駄なものでなにが無駄なものではないのかを分けることはむずかしい。無駄学においては、目的と期間と立ち場によって何が無駄で何が無駄ではないのかは変わってくるのだという。目的のちがいや期間の長短のちがいや置かれている立ち場のちがいがある。いちがいにこれは無駄だと頭ごなしに切り捨てることはできづらい。

 できるだけゆとりをもつことが大切だとはいっても、日本の国の財政はぼう大な借金をかかえていて首が回らなくなっているから、ゆうちょうにしてはいられない。さけがたく不利益分配の政治の闘争がおきてきてしまう。だれしもがのぞまないものである不利益をだれに押しつけるのかの闘争であり、だれを悪玉化(scapegoat)して排除するのかの闘争だ。だれをやり玉にあげてつるし上げるのかだ。せちがらい世の中だ。

 ウイルスの感染の広がりでは、感染の広がりがいったんおさまりを見せて、そのごにまた大きく広がり出す。そうした波動がある中で、いったんおさまりを見せているときには、気をゆるめてしまう。しっかりとウイルスの感染の広がりを防ぐことに力を入れづらい。備えをしておくことに力を入れづらい。備えることの必要性に思いいたりづらい。そのごにまた感染が大きく広がり出してはじめて、それ以前にあらかじめいろいろな備えをしっかりとしておくべきだったことに思いいたれる。

 東京都で五輪を開くことになる中で、ウイルスの感染が世界中で広がるようになることはくみ入れられていなかった。ウイルスの感染が世界中で広がることが現実におきてから、その中で東京都で五輪を開くことのやっかいさが明らかになった。五輪を開くことが負としてはたらくことがわかった。それがわかったときには、五輪を開かざるをえないことにすでに追いこまれてしまっている。なかなか五輪を中止することができづらい。すでにいろいろな資本が投下されてしまっている。費やした費用をできるだけとり返してやろうとする埋没費用(sunk cost)の錯覚がおきてくる。

 火でいうと、まだ小さい火のぼやのうちは何とかしやすい。消しやすい。ぼやのうちはあまりそれを何とかしようといったことでお尻に火がつきづらい。ぼやが大きくなって大きな火になると、それを何とかすることの必要性に気がつく。必要性に気がついたときには手を打ちづらくなっている。

 いろいろなことにおいて矛盾がはたらいてしまう。コングリッジの矛盾がおきてしまうのがあるので、そのことをできるだけくみ入れておくようにしたい。日本の政治では、矛盾が引きおこることになることがくみ入れられていないために、いざとなったら傷が深くなる。よけいに大きな傷を負う。あとでそうかんたんには修復することができないくらいにとり返しがつかないようなひどい傷を負ってしまう。あと戻りができない不回帰点(point of no return)を超えてしまう。一部にかたよって大きな傷を負う人が出てきてしまう。一部に大きなしわ寄せが行く。そういったことがおきることが危ぶまれる。ウイルスの感染の広がりとは話はちがうが、原子力発電の行政でもそれが言えるだろう。

 参照文献 『知のトップランナー 一四九人の美しいセオリー』ジョン・ブロックマン長谷川眞理子訳 『無駄学』西成活裕(にしなりかつひろ) 『哲学塾 〈畳長さ〉が大切です』山内志朗(やまうちしろう) 『「不利益分配」社会 個人と政治の新しい関係』高瀬淳一

憲法の改正の議論をすることと、義務と許可のちがい―義務であることと、許可されていること

 憲法の改正の議論をしろ。集会の中で、与党である自由民主党安倍晋三前首相はそう言っていた。野党の第一党である立憲民主党枝野幸男代表が、憲法の改正の議論を十分にしていないことをとがめていた。

 安倍前首相がいうように、枝野代表は憲法の改正の議論をやらなければならないのだろうか。それについては、義務と許可の二つに分けて見ることがなりたつ。さらに義務についてを具体の義務(完全義務や消極の義務)と努力義務(不完全義務や積極の義務)に分けることがなりたつ。

 憲法の改正の議論は、それをやらなければならないものとは言い切れない。そう見なすことがなりたつ。何が何でもやらなければならないことであれば義務に当たるが、やってもやらなくてもよいものなのであれば許可だ。

 やってはならないのではなくて、やってもよいけど、何が何でもやらなければならないと言えるほどではない。それが許可である。安倍前首相は、憲法の改正やその議論についてを、義務として見てしまっている。そこにおかしさがある。義務と言えるのは、政治家や役人が憲法を守らなければならないことだ。

 政治家や役人が憲法を守ることは義務と言えるが、憲法を改正することやその議論をすることは義務に当たるのだとは言えそうにない。憲法の改正やその議論は許可に当たるものだろう。安倍前首相は、憲法についてを、義務と許可をはきちがえてとらえている。憲法について、なにが義務に当たり、なにが許可に当たるのかが、安倍前首相の中でおかしくなっているのだ。

 かりに憲法の改正やその議論が義務にあたるのだとしても、義務は具体の義務と努力義務に分けられる。やらなければ駄目なことが具体の義務であり、憲法の改正やその議論がそれに当たるとは見なしづらい。せいぜいが努力義務に当たるくらいのものだろう。

 具体の義務は、他者に危害を加えてはならないものだ。憲法を守らなければ他者に危害が加わることになりやすい。政治家や役人は、権力を持っているために、国民に暴力を振るうおそれがある。国民に危害を加えるおそれがあるので、政治家や役人が憲法を守ることはきびしく見れば具体の義務に当たることだ。政治家や役人が憲法を守らなければ、国民に暴力が振るわれるおそれが高まるからだ。憲法を守らないことが許可されているのではない。

 憲法について義務と許可をとらえちがいをしていてねじれているのが安倍前首相だ。とらえちがいやねじれがおきていることにむとんちゃくになっている。それは安倍前首相の個人だけに言えることでは必ずしもないかもしれない。日本の国のあり方がねじれてしまっていることが反映されている。そう見られるのがあるかもしれない。

 ねじれているのを放ったらかしたままにしておくのではなくて、いろいろな思いこみの観念が入りこんでしまっているのを一つひとつていねいにほどいて行く。科学のゆとりをもつようにして、思いこみの観念が入りこんだままにつき進んでいってしまわないようにする。

 科学のゆとりを持たないで、思いこみの観念が入りこんだままで憲法の改正につっ走っていってしまうと、表面のあり方のままになってしまう。表面の奥にある核心や本質にまでいたりづらい。

 日本の政治では、表面のあり方でつっ走っていってしまうことが多い。表面の奥にある核心や本質までじっくりと時間をかけて見て行こうとすることが少ない。憲法の改正においてもそれがおきている。

 ねじれがおきてしまっているのが日本の国だから、そのねじれをほどいて行くのにはそうとうな労力がかかる。憲法の改正やその議論でも、ねじれが関わってきてしまうから、ねじれがあるままで表面のあり方でつっ走っていってもあまりうまく行きそうにない。ねじれがあるのをそのままにしておかないで、できるだけ根本(radical)からこれまでの日本の国の歩みをじっくりとていねいに時間をかけてふり返って行くようにしてみたい。

 せっかく憲法の改正やその議論をしようとするのであれば、日本の国がかかえているねじれをくみ入れるようにして行く。せっかく憲法の改正やその議論をしようとするのなら、日本の政治でしばしば見られるような表面のあり方でやるのではないようにしたい。表面の奥にある核心や本質を抜きにするようではないようにしたい。

 たんに立憲民主党の枝野代表が、憲法の改正の議論を十分にできていないのだとは言えそうにない。安倍前首相が憲法の改正において言っていることをやや抽象化して見てみられるとすると、憲法の改正の議論についてを、議論の一般としてとらえることがなりたつ。議論の一般は、政治そのものだと言えるとすると、日本の政治では、政治ができていない。政治において議論ができていない。

 憲法の改正の議論にかぎらず、日本の政治では、議論の一般ができていないことがはなはだしく多いだろう。議論ができていないことが多いのは、政治ができていないことだとも言えるから、政治をやれていないのである。きびしく見ればそう見なすことがなりたつ。

 日本の政治においては、まずは政治をやれるようにするべきであり、議論の一般をできるようにするべきだ。それができてはじめて、憲法の改正の議論ができる出発の地点に立てる。いまのところその出発の地点にすら立てていない。まずは、出発の地点に立てるようにするためにはどのようにすればよいのかを探るのが、ものごとのふさわしい順番だろう。

 参照文献 『クリティカルシンキング 入門篇 実践篇』E・B・ゼックミスタ J・E・ジョンソン 宮元博章、道田泰司他訳 『議論のレッスン』福澤一吉(かずよし) 『ねじれの国、日本』堀井憲一郎 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『政治家を疑え』高瀬淳一 『現代倫理学入門』加藤尚武 『論理的に考えること』山下正男 『まっとう勝負!』橋下徹

ウイルスの感染の広がりを戦争になぞらえて見てみたい―蓄積と蕩尽(とうじん)の両極性

 ウイルスの感染の広がりを、戦争になぞらえることができるかもしれない。戦争になぞらえることは必ずしもふさわしいことではないかもしれないが、そこに類似性があると見なしてみたい。そこからどのようなことが言えるだろうか。

 人間がもつ活力の過剰性があり、蓄積と蕩尽の両極性がおきる。ふり子の二つの極の両極性だ。このうちで戦争は悪い形での蕩尽に当てはまる。悪い形でふり子が一つの極に向かって振れていってしまう。蕩尽はそれまでに蓄積してきたものを使いつくすことだ。新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が広がっているのは、いままでの蓄積のあり方がなりたちづらくなっていることをしめす。

 ウイルスの感染が広がっているのは悪い形での蕩尽だ。これをそのまま放ったらかしにしておけば悪い形での蕩尽が拡大化していってしまう。何らかの手を打つことがいる。

 何らかの手を打つさいに、よい形での蕩尽があげられる。よい形での蕩尽は贈与の原理による。贈与の原理によることによって、資本主義による市場(等価)の原理の行きすぎを改める。市場をよしとする新自由主義(neoliberalism)に歯止めをかけて行く。

 日本の政治ではよい形の蕩尽が弱い。蓄積をとりつづけようとする。悪い形での蕩尽をうながそうとする。そういうところが大きい。それは日本の政治では新自由主義がとられていることがもとにある。

 新自由主義によるのが日本の政治であり、そこから不利益分配の政治がおきている。ウイルスの感染が広がっている中で、その影で不利益分配の闘争がおきているのだ。だれしもがいやがるものである不利益をだれに押しつけてなすりつけようとするのかの闘争だ。国民にがまんを強いる。国民に十分な生活の補償をしようとしない。ただ国民に耐えさせようとする。国家の公のために、個人の私を従わせる。個人の私はあくまでも二の次であり、国家の公が優先されてしまう。

 明治の時代から日本の国では富国強兵をとってきた。これは国家の公をいちばんに優先させるあり方だ。個人の私は二の次になり、あくまでも天皇の下に国民が位置づけられて、臣民(しんみん)としてあつかわれる。天皇の赤子とされる。それがいまにも引きつづいている。そこから日本の政治では蓄積を保ちつづけようとする力が強い。よい形の蕩尽をなそうとする力が弱い。悪い形の蕩尽をうながす力が強い。戦争を引きおこさないように防ごうとする動機づけが弱い。

 明治の時代からいまにおいてもつづいているものだといえる富国強兵のあり方では、ほんとうの意味での豊かさを国民は得られづらい。ほんとうの意味での豊かさとは、よい形の蕩尽からもたらされるものである。日本の政治では、蓄積のあり方を保とうとするのが強く、悪い形の蕩尽をうながすところが大きい。よい形の蕩尽をなそうとするのが行なわれづらい。それがあるために、国民がほんとうの豊かさを得られづらいのである。

 人それぞれによっていろいろなとらえ方ができるから、一方的に決めつけてしまってはいけないが、ほんとうの豊かさとは、その一つの見かたとしては、よい形の蕩尽にある。それは贈与の原理によるものである。市場をよしとする新自由主義によるものではない。蓄積にあるのではない。

 日本の国が置かれている状況としては、よい形の蕩尽をなすのがとても難しくなっている。それが難しくなっているのは、国の財政がぼう大な赤字を抱えていて、首が回らなくなっているためだ。それがあることもあり、蓄積を保ちつづけようとしたり、悪い形の蕩尽をうながしたりする方向性が強い。よい形の蕩尽をなそうとすることが弱くなっている。ほんとうの豊かさを国民が得ることができづらくなっていて、そこから遠ざかっていっている。

 人それぞれによって見かたがちがうのがあるから、一方的にこれがよいとは言えないのはあるが、その中において、国民がほんとうの豊かさを得られるようにして行く。よい形の蕩尽をなして行く。そのためにはこれまでの明治の時代からつづく日本の国のあり方を根本(radical)から批判としてとらえて行くことがいりそうだ。科学のゆとりをもって、できるだけ根本から批判として日本の国のあり方をとらえて行く。それを行なわずに、表面だけですませてしまうのだと市場をよしとする新自由主義や国家の公が肥大化して行くのに歯止めがかからなくなることが危ぶまれる。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『「不利益分配」社会 個人と政治の新しい関係』高瀬淳一 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『現代社会用語集』入江公康(いりえきみやす)

資源としての時間が限られている中でウイルスの感染を減らすために政治家にできたことと、それがじっさいにできたのかどうか

 ウイルスの感染が広がりはじめてからいまの時点までにおよそ一年間ほどの時間があった。

 一年間の時間があったあいだに、権力をもつ政治家はいったい何をやってきたのか。新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染を減らすために政治家はどのようなことをやってきたのかが問われている。そのことについてをどのように見なすことができるだろうか。それについてを、経済学でいわれる目的と制約と最適化の三つの点から見てみたい。

 いまの時点からふり返ってみて、一年ほど前の時点から逆にさかのぼって見てみると、一年間の時間があった中でやれることは色々にあっただろう。一年間ほどの時間があったことは資源(resource)だと言える。その資源を有効に活用したのだとは言えそうにない。きびしく見なせるとすればそう見なすことがなりたつ。

 経済学の合理的期待形成理論でいわれる目的と制約と最適化の三つの点から見てみられるとすると、まず権力をもつ政治家は、目的をはっきりとさせるべきだった。いまの時点からふり返ってみて、一年ほど前の時点から、どのようなことを目的にするのかをはっきりとさせて定めるべきだった。

 日本の政治では、目的よりも手段を優先させてしまうことが多い。手段が目的化されて転倒してしまう。ウイルスの感染を何とかするさいにもそれがおきたうたがいがある。

 政治において、目的と手段の組みがある中で、手段を優先させないようにしたい。手段を優先させるのではなくて、目的を主とするようにする。あくまでも目的が主(main)に当たり、手段は従(sub)に当たるようにする。その関係をはっきりとさせたい。その関係が逆になりやすいのが日本の政治だろう。

 やるべきことは何かに迷ったとしたら、目的は何かに立ち返るようにして、それが主であることを改めて確かめる。具体論としては、ウイルスの感染をできるだけ減らして行くことを目的にする。すべての国民の生活を守るようにして行く。そうしたことを目的に定めることができる。

 目的が主であることを確かめるようにするのは、手段が主になってしまうのを防ぐためである。手段が絶対化されないようにして、それを相対化して行く。どのような目的が主に当たるのかがあり、その中でいろいろな手段を見て行く。制約がある中でよりふさわしい手段を選ぶ。

 理想論と現実論がある中で、理想といえるほどに最適化されているのがいまの日本のあり方だとは言えそうにない。部分の最適にとどまっている。理想といえるような全体の最適になっているとは言えず、ウイルスの感染が広がってしまっている。

 理想といえる全体の最適から遠くて、部分の最適になってしまっている。その現実があるとすると、それは権力をもつ政治家が主となる目的は何なのかをなおざりにしていることがそのもととしてある。主となる目的は何で、そのための手段としてどのようなことをやるのかを整理できていない。

 一年間ほどの時間があった中で、もしも権力をもつ政治家が主となる目的をしっかりと定められていたのであれば、いまよりももっと現実にいろいろなことを行なえていたのではないだろうか。もっといろいろな手だてを打てていた。主となる目的にたいする手段としてはどのようなことができるのかを整理できていれば、いろいろな手段がある中でこれとこれはできていて、これとこれはまだできていないといったように腑分(ふわ)けしてとらえられる。

 現実に制約がある中で色々にできる手段があり、それらの手段のなかで、どれとどれはいまのところできていて、どれとどれはまだできていない。主となる目的を達するために、制約がある中でできるいろいろな手段をできるかぎりやって行く。もしもそのようにやっていれば、一年間ほどの時間があったなかで、その時間の資源をむだにせずにもっと有効に活用できた。

 ことわざでは時間の資源について、時は金なり(Time is money.)とか時は飛ぶようにすぎる(Time flies.)と言われるのがある。時間の資源が有限であり、それがいかに貴重なもので、それを失いやすいのを説いている。この一年間ほどのあいだで、時間つまりお金をむだに浪費してしまった。時間がむなしく飛ぶようにすぎていってしまった。

 時間の資源を必ずしもうまく生かせなかったことのもととして、権力をもつ政治家が主となる目的は何なのかをなおざりにしたのがある。目的と手段の関係をあべこべにしてしまい、目的を従にして、手段を主にしてしまった。目的と手段のそれぞれについての柔軟性を欠いていて、固定化させてしまった。それらがあったことで政治の創造性が低くなり、理想といえる全体の最適から遠ざかり、部分の最適にとどまったのがありそうだ。

 参照文献 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『正しく考えるために』岩崎武雄 『ラクして成果が上がる理系的仕事術』鎌田浩毅(ひろき) 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)

五輪から透けて見えてくるかもしれない、近代における社会や生の空虚さや虚無さ

 ウイルスの感染が社会の中で広がっている。新型コロナウイルス(COVID-19)の感染の広がりに対応して行くなかで、不要不急のことはやらないようにすることが言われている。はたして不要不急のことにはいったい何があるのだろうか。

 東京都で行なおうとしている五輪は不要不急のものに当たる。五輪は不要不急のもよおしだ。そう見なすことができるかもしれない。

 政治の優先順位(priority)からすると、まず第一にすべての国民の生命を守ることがあげられる。すべての国民の生活を守り、基本の必要(basic needs)である衣食住が得られるようにする。それができてから、そのあとに来るのが五輪のもよおしだといえる。この優先順位があべこべになってしまっていて、国民の生命や生活よりも五輪が優先されているように映る。これは日本の政治で小さい政府をよしとする新自由主義(neoliberalism)が強まっていることのあらわれだとも見なせそうだ。

 東京都で五輪をひらかなければならないことが日本の社会にとってわざわいしている。それがわざわいとなっているのは、ウイルスの感染の広がりがあるためだ。わざわいとなっている点をとり上げてみると、五輪のもよおしの意味の空虚さが浮かび上がってくる。もよおしとして意味を欠いているのである。幻影のようなところがあり、それに飛びつくわら(ことわざのおぼれる者はわらにもすがる、のわら)のようなものだととらえることがなりたつ。

 五輪はあとに正の遺産(legacy)を残すものと言えるよりは、むしろ負の遺産を残すとされるのがある。あとに経済の不況がおきると言われるのがあり、無理して建てた建て物があとには使われないことがおきるとされる。一過性のそのときだけの盛り上がりのところが小さくない。

 五輪のもよおしに空虚さがあるとすると、そこから浮かび上がってくるのは、社会そのものの意味の空虚さかもしれない。社会そのものが空虚であるからこそ、五輪のような空虚なもよおしにかまけるのではないだろうか。社会そのものや、社会における人の生が空虚になっていて、虚無におちいっている。いっけんすると社会の表面は充実しているようでいて、その内実はうつろになっている。

 近代における社会や生には空虚さや虚無さがある。散文のようであり詩情がない。砂漠のようにからからでありうるおいを欠く。そうしたことがあるとして、そのわけとしては、さまざまなものが質として見なされないで数や量の多い少ないに置き換えられてしまう。テレビ番組であればその質ではなくて視聴率ではかられる。また、社会のなかに意思の疎通のやり取りが少ない。とりわけ政治において充実した議論がなされていない。じゃまくさい議論は不要だとされてしまっている。国際社会では国どうしの話し合いがぜんぜん足りていない。

 近代の個人には生きて行きづらさがおきる。それがおきてくることになるのは、ほかの時代とはちがって、近代は制度の再帰性(reflexivity)によるからだとされる。国を越えたグローバル化や普遍化を目ざす動きだ。大きい物語がなりたちづらくなり、小さい物語しかなりたたない。確かなものが手に入りづらい。しっかりとした土台となるものの上にものを築きづらい。個人は安定した自我の物語をもちづらいのである。個人の自我の物語が崩れやすい。ある人が幸福であることや不幸であることの客観の説明がなりたちづらく、たまたまさによる。幸福や不幸の神義論をとりづらい。社会学の自我論ではそう言われているようである。

 五輪についてでは、それを行なうことが決められているからウイルスの感染が広がっている中で何とかして行なおうとしているのがある。それを改めて見てみられるとすると、五輪をひらくことがいったい日本にとって何の益になるのだろうか。国民にどういった益になるものなのだろうか。そこは必ずしも自明であるとは言えそうにない。

 五輪をひらくことの根拠があるのだとしても、その根拠の根拠の、といったようにどんどん掘り下げていってみると(または上位に視点をのぼって行くと)、とくに何の根拠もないといったことになる。最終の根拠が無限に後退して行く。そうなのだからそうだといったような自己循環論法におちいる。それが貨幣(お金)なのは、それが貨幣とされているから貨幣である、といったものだ。なぜそれがよいことなのかや、なぜそれが悪いことなのかの根拠は、さかのぼってみるとそこまで確かなものだとは言えそうにない。あやふやなところをもつ。

 根拠が確かではないからといって何でも許されるのではないが、とりわけ日本の政治には原理(principle)が欠けているのがあるので、何のために何をやるのかといったことがよくわからなくなっていることが目だつ。よいとされているものや悪いとされているものを改めて見てみると、たんに思いこみの観念によるのにすぎないことは少なくはないだろう。

 予備校講師の林修(おさむ)氏は、歴史において失敗がおきるもととして、慢心と思いこみと情報の不足をあげていた。日本の政治にはこの三つがよく見られる。さらに政治の権力がごう慢(hubris)になっているのもある。ごう慢さがあることから、与党である自由民主党は集団としていろいろな不祥事がおきていて、自浄作用が欠けている。

 参照文献 『悪の力』姜尚中(かんさんじゅん) 『善と悪 倫理学への招待』大庭健(おおばたけし) 『レトリックと詭弁 禁断の議論術講座』香西秀信 『正しさとは何か』高田明典(あきのり) 『ネットが社会を破壊する』高田明典 『資本主義から市民主義へ』岩井克人(かつひと) 聞き手 三浦雅士 『作ると考える 受容的理性に向けて』今村仁司社会学になにができるか』奥村隆編

ウイルスの手ごわさのていどのちがい―不確実性への備えと受ける傷の大小

 ウイルスははたして手ごわいものなのだろうか。新型コロナウイルス(COVID-19)の手ごわさをどれくらいのていどとして見つもるのがふさわしいのかがある。

 たいしたことはないのだとするものとしては、風邪ていどのウイルスだと見なすものがある。たかをくくる。これは一つの仮説だろう。ウイルスの手ごわさの度合いについてはたった一つだけではなくていろいろな仮説がなりたつ。

 与党である自由民主党の政権が記者会見などにおいて記者からの質問を受ける。そのさいに仮定の質問には答えないのだとしている。仮定の質問には答えないのは、政権がたった一つの仮説しかとらないで、ほかのいろいろな仮説を切り捨てて捨象してしまうことになる。

 政権が仮定の質問に答えないのだと、いちばん最悪のていどの仮説をとり落とす。そうなることがあり、いちばん最悪のていどの仮説をとり落とすのは、政権に戦略が欠けていることをあらわす。戦略をもつには、いちばん最悪のていどの仮説をとっておくことがいる。いちばん最悪といえるくらいに手ごわいものだと見なす仮説をとることがいる。

 いろいろなていどがある中で、いちばん最悪の仮説をとることによって、不確実性への備え(contingency plan)ができる。与党である自民党の政権には、不確実性への備えが欠けている。そう見なせるのがあり、それは政権が戦略を持っていないからだろう。

 仮定の質問には答えないことによって、政権は確実性によるだけになる。不確実であることをないがしろにしてしまう。不確実な中でどのようにやって行くのかの視点が欠ける。不確実な中での視点が欠けることによって、確実性によるあり方が裏目に出たさいにこうむる傷の深さが大きくなる。できるだけこうむるおそれのある傷を浅くしようとする目くばりが欠けていることによる。

 日本の政治は無責任の体制になっているために、もしも大きな傷をこうむることになったのだとしたらそれは国民が悪いのだとする。国民のせいだとする。いざとなっても権力をもつ政治家がだれも責任をとろうとしない。きびしく見なせるとするとそう見なせるのがある。

 すごく小さい傷をこうむるのかそれともとんでもなく大きな傷をこうむるのかがある。それがある中で、一つにはかたよって大きな傷をこうむる人たちがおきていて、それは医療関係者があげられる。医療関係者には大きなしわ寄せが行ってしまっていて、社会の中でかたよって大きな傷を受ける人たちがおきているのだと見なせる。それがおきているのはおもに政権の責任だろう。

 一部にはそれなりに大きな傷を受けることがおきてしまっていて、これから先にさらに全体がすごく大きな傷を受ける見こみがある。これから先に全体がすごく大きな傷をこうむることがありえるが、政権は仮定の質問には答えないので、最悪のていどの仮説をとることをしない。不確実性への備えをしようとしない。そこから危険性がおきている。

 ほんらいであればもっと傷を小さくすることができるのに、それができていなくて、それなり以上の傷を受けることになってしまっている。いまの時点においてそれがおきているのがあり、そこから先には、どれくらいの傷をこうむることになるのかの予断を許さない。そのなかで願望思考(wishful thinking)によってしまっているのが政権のあり方だろう。これは戦前や戦時中の神風の神話にほぼひとしい。

 神風の神話が現実化しないで、神風が吹かないおそれがあることもくみ入れておくべきだろう。それにくわえて、神話がとられることによって現実が隠ぺいされてしまっていることも無視することができない。戦前や戦時中のように、報道が大本営発表となり、情報が統制される。現実とはずれた神話がとられる。

 現実はどうかをちゃんと見て行かないで、神話にすがってしまうのだと、神話と現実とのずれが大きくなって行く。ずれが大きくなって行くことで神話が崩れることになる。ずれが大きくなりすぎないようにして、こまめにずれを修正して行くようにしたい。

 参照文献 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『情報政治学講義』高瀬淳一 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫 『相対化の時代』坂本義和

証拠があるのかどうかと、そこから言えることの確からしさ―人間の合理性の限界

 そうであることの証拠(evidence)がない。証拠がないのだから、そうであるとは言えない。政治において、与党である自由民主党の政治家などがそう言うことがある。そうであることの証拠がないことをもってして、そうではないのだと言うことはできるのだろうか。

 そもそもの話としては、政治において、あらゆることについてを証拠があるかどうかにもとづいてやっているのだとは言えそうにない。日本の政治では、証拠や事実を重んじて、それにもとづいてものごとをやっていっているとは言いがたい。証拠や事実をかなり軽んじていることが少なくない。証拠や事実を抜きにして、精神論によるあり方がとられることが多い。

 一か〇かや白か黒かの二分法では割り切らないようにしたさいに、証拠があるのであれば、そうであることの見こみは高くなるだろう。仮説として当たっている見こみが高くなる。証拠がなかったとしても、その仮説がまったく当たっていないとは言い切れず、可能性としては当たっている見こみがある。灰色のものであるととらえることがなりたつ。証拠がないからといって、その仮説がまったく的はずれだと言い切ることはできづらいだろう。

 浮気をしたかどうかで互いにもめているのがあるとしよう。そのさいに、浮気をしたことの証拠がないからといって、浮気をしていないとは言い切れないだろう。たとえ浮気をしたことの目ぼしい証拠が見あたらないからといって、浮気をしたうたがいを完全に払しょくできないことがある。あとに証拠を残さないで浮気をすることはありえるかもしれない。かなり用心ぶかく浮気をしていることはないではない。

 場合分けをして見てみられるとすると、そうであることの証拠があるかどうかと、そうではないことの証拠があるかどうかをとれる。そうであることの証拠を見るだけではなくて、そうではないことの証拠もまた見なければならない。そうではないことの証拠がなければ、そうではないと言い切ることはできないものだろう。

 そうでないことの証拠はじかには探しづらいから、直接の証明ではなくて間接の証明となる。そうではないことの反対はそうであることであり、そうであると仮説を立ててみて、その仮説がなりたつかどうかを見て行く。成り立たなければ仮説が否定されたことになり、そうではないことの間接の証明になる。

 そのことの証拠がないのであれば、仮説として完全に正しいとは言い切れそうにない。そのさいに、証拠があるのかどうかをていどのちがいによって見てみられる。さがしてみればほんの少しくらいは証拠となるような何らかのものが見つかることは少なくはないだろう。その証拠が十分ではないとすると、完全に正しいとは言い切れないが、そうかといって完全にまちがっているとは言えないのもある。

 証拠の範ちゅうを広げてみて、品詞でいうと名詞ではなくて形容詞のようにしてみて、証拠らしきものや、証拠になりそうなものや、証拠的なものとしてみれば、ていどとして見てみられる。厳密な証拠そのものは見つからないとしても、証拠らしきものや、それになりそうなものや、それ的なものであれば、少しは見つかりやすい。証拠らしきものや、それになりそうなものや、それ的なものがあれば、少しくらいは仮説が当たっている見こみはある。

 人間は合理性に限界をもつ。どのような証拠にもとづいて、どのように見なすのかにはつねにまちがいのおそれがつきまとう。ほんとうの客観の真実は何なのかを見て行くさいには、かなりの制約がかかっている。その制約をくみ入れることがいり、制約の中でものごとを見て行くしかない。

 ほんとうの客観の真実そのものがわかることは理想論だが、現実論としてはいろいろな制約があるから、けっきょくのところどういったことがほんとうの客観の真実なのかはわかりづらい。あくまでも有力な手がかりの一つになるのが証拠があるかどうかだが、それがあるかどうかだけをもってして、そこからほんとうの客観の真実を知ることはできないのがあり、一〇〇パーセントの完ぺきな合理性によるとは言えそうにない。

 厳密な証拠を探すのはむずかしいことがあり、実証することがむずかしいことがある。たとえば、世界の中に不死身の人が一人もいないかどうかを探し出すことはきわめてむずかしいだろう。しらみつぶしに世界中の人を調べて証拠をつくらないといけないから、それは困難だ。いちおう人間の死亡率(致死率)はみなもれなく一〇〇パーセントだとしておけて、その例外がじっさいに発見されないかぎりは原則としてはそう見なすことがなりたつ。

 完ぺきに客観の証拠がなかったとしても、それは実証することがむずかしいことによるときがある。そうしたさいをふくめて、あらゆる仮説は反証に開かれていることがいる。たとえどのような仮説をとるのにしても、それが当たっていないことがあるから、仮説がまちがっていることがあり、まちがいが明らかになることである反証されることをくみ入れておかなければならない。

 反証に開かれているようにするうえでは、かりに完ぺきに客観の証拠がいまのところないのだとして、そうであるのなら、さしあたってはそのことがないのだと言えるのにとどまる。あくまでもいまのところさしあたっては完ぺきに客観の証拠がないことからそれがないのだと言えるのにとどまり、それがこれから先にまったく反証されないわけではない。たとえどのような仮説であったとしてもそれがこれから先に反証される見こみがあるから、まちがっているおそれを含む。

 たとえどのような仮説をとるのにしても、それが完全に正しいことを実証することはできづらい。証拠があるかどうかとは別に、そもそもあらゆる仮説はそれが完全に正しいことを実証することが困難なのがあるから、反証にたいして開かれているのでなければならない。

 こういう条件であればこの仮説は正しいと言えるが、そうではない条件であればこの仮説は正しいとは言えない。そういったように、どういったときに仮説が正しいと言えて、どういったときにまちがいと言えるのかをきちんと明らかにしておく。それをやらないで、たんに証拠がないからといって、そこからとれる仮説が無条件で正しいことにはならないのがある。その仮説がまちがっていて反証されるのだとすればそれはどういったさいにそうなるのかを明示しておくようにしたい。

 参照文献 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫反証主義』小河原(こがわら)誠 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)