映画館における多数者と少数者

 少数者が、快く映画館で映画を見られるようにして行く。

 からだに障害を持った人などの少数者を排除して、多数者だけが快く映画館で映画を見られるのでよいのだろうか。それとも、少数者を包摂した映画館のほうがよりのぞましいのだろうか。

 とくにからだに障害を持たないような多数者だけが、映画館で映画を見られればよい。少数者は映画館で映画を見られなくてもよい。多数者を主にするものだ。

 少数者は映画館で映画を見られるだけでよしとするべきである。すこしくらい不便なところがあってもがまんするべきだ。ウェブの X(Twitter)ではそうしたつぶやきが言われている。

 少数者を包摂しないで排除する映画館があるのだとすると、それについての正当性を問いかけてみたい。

 たしかに、映画館を営む民間の会社なんかは、財源のじじょうを抜きにはできなさそうだ。財源がきびしいのであれば、少数者を切り捨ててしまいかねない。多数者が優先になってしまう。財源にゆとりがあれば少数者を包摂しやすいのはあるかもしれない。

 財源の点をくみ入れてみると、少数者を排除する発想が出てきてしまいかねない。少数者に不快を与える映画館が作られてしまう。

 映画館で映画を見るさいに、少数者が不快をおぼえる。たとえ不快をおぼえたのだとしても、それくらいはがまんせよ。または、不快をおぼえるのであればその映画館を利用しないようにするべきだ。そういったことが言われているけど、不快をおぼえるところでいったん立ち止まるようにしたい。

 なんでその映画館を利用することで少数者が不快をおぼえるのだろうか。不快さがあるのだとすれば、それを思考して行く。不快を思考することがあったらよい。少数者を排除するような冷たさのある映画館を、人間化して行く。非人間の映画館を人間化して行く。そういった改善がなされればよい。

 いまの時点で、その映画館のありようが、非標準や不平等や非人間なふうになっているのだとすれば、それらを改めるようにして行く。標準化や平等化や人間化だ。

 いっけんすると、少数者が映画館に文句をつけたりけちを付けたりしているように受けとれる。表面としてそう受けとれてしまうのはあるけど、少数者と映画館があるとして、その二つのうちで変わることがあったらよいのは映画館の方なのである。

 ふつうだったら、多数者は変わらなくてよくて、少数者がそのあり方に合わせるべきだとされてしまう。それだと非標準や不平等や非人間なあり方が改まらないのである。放ったらかしにされてしまう。きもになるのは、ふつうは変わらなくてよいのだとされる多数者の方を変えて行く。標準化や平等化や人間化するさいにはそれがきもになる。

 そういうふうに映画館のありようがなっているのだから、少数者はそれに合わせよ。X のつぶやきでそう言われるのがあるけど、そのさいの映画館のありようはかくあるの事実(is)だ。かくあるの事実から、かくあるべきの価値(ought)を自動ではみちびけそうにない。自動でそれを導いてしまうと自然主義の誤びゅうにおちいってしまう。

 少数者が不快をおぼえることがあるのであれば、それについてどんどん批評して行く。映画館で不快をおぼえるようなことがあったら、がまんしないでどんどん批評していったらよい。映画館にかぎらず色々なことについて、少数者が批評をして行く。そうして行けば、うまくすれば多数者のありようを変えることがなりたつ。

 ふつうはそれをやらなくてもよいのだとされてしまうものである、多数者のありようを変えて行く。あり方の標準化や平等化や人間化をなす。できればあり方が改まったほうがよいのがあるから、多数者のあり方を一方的に少数者に押しつけるのは十分な正当性があるとはいえそうにない。

 そういうふうになっているのだからとするのはものごとの自然化だ。それを脱自然化して行く。人が人工で構築したものなのであれば、うまくすればそれを変えることがなりたつ。まったく不変のものなのではない。

 映画館のありようは人が人工で構築したものなのだから、いっさい変えることができないものだとは見なせそうにない。脱構築(deconstruction)することがあってもよくて、少数者を含めて人にやさしいあり方に一から作り直すことがあってもよいものである。

 自分の意思によってのぞましい行動をして行く。自律性(autonomy)だ。いまの日本の憲法では自律性がよしとされている。何らかの強制によって行動するのは他律性(heteronomy)である。

 できるだけ少数者が自律性によるようにできたほうがのぞましい。少数者が自己決定できるようにして行く。他律性によるのだと、父権主義(paternalism)になってしまう。

 父権主義で、こうせよとかああせよとかとされるのは、自分がもしも少数者だったらいやなものである。当事者を抜きにして第三者や局外者がいばるのはこまる。超越の他者(hetero)によって動かされたくないものである。上から命じられるのはゆかいではない。当事者が自己決定できたほうが良いのがある。

 参照文献 『社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』岩田正美 『本当にわかる論理学』三浦俊彦精神分析 思考のフロンティア』十川幸司(とがわこうじ) 『だれか、ふつうを教えてくれ!』倉本智明 『はじめての批評 勇気を出して主張するための文章術』川崎昌平(しょうへい) 『トヨタ式「スピード問題解決」』若松義人 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹構築主義とは何か』上野千鶴子編 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫

うら金の真実:政治家による作られた知識の虚と実

 うら金のことは、まったく知らなかった。口をそろえて政治家はそう言う。当事者の政治家は、自分は政治のお金のことをはあくしていなかったのだとしている。

 知の点から、うら金のことを見てみるとどういったことが見えてくるだろうか。

 権力が関わるのが知だ。知と権力である。じゅんすいなのではなくて、権力が関わった形であるのが知識である。とりわけ政治においてはそうだろう。

 ものごとをはあくする。ものごとを知っている。知識を持っていることだ。与党である自由民主党の政治家は、うら金のことについての知識を持っていなかったのだとしている。まったく知らなかったのだとしているのである。

 うそをついている見こみがすごく高いのが、うら金の当事者の政治家たちだ。ほんとうはうら金のことについての知識をうんと持つ。うら金についての知識を持っていないはずはない。政治のお金のことへの動機づけ(motivation)がうんと高い。お金には目がないのである。お金だけで動く。お金によって動く。与党の政治家はそうしたところがとりわけ強い。

 少しややこしいのがあるけど、知識を持っていないのだとする知識を広めて行く。ほんとうは知識をうんと持っているのだけど、それを知られてしまうとはなはだまずい。知られたらまずい知識をかくすために、作られた知識を広めて行く。

 作られた知識であるのが、うら金のことへの無知だ。政治家がうら金のことに無知なのだとするのは、そういう知識が広まったほうが自分に利益になるからだろう。

 たとえそのことへの知識をうんと持っているのだとしても、そのことが知られてしまうと自分に不利益になるのであれば、それが広まらないようにして行く。あたかも全くそのことへの知識がなくて無知であるかのような、作られた知識を広めて行く。

 無知だとする知識を広めたほうが、自分の利益になるのであれば、たとえそれが作られた知識にすぎないのだとしても、どんどん広めようとするのが政治家だろう。悪い政治家だと、どういう知識を広めたほうが自分にとって利益になるのかを計算して、その計算にもとづいて言動をして行く。

 本当はそのことをうんと知っていて、知識をすごく持っているのにもかかわらず、無知をよそおう。無知をよそおった知識を広めたり、そのぎゃくにあまり知らないことでもうんと知っているふうによそおった知識を広めたりすることがある。

 国民がほんとうの知識を得て行く。有権者が本当の知識を得られればよいけど、政治家はしばしばうそをつく。作られた知識を広めて行く。知識には権力が関わるのがあるから、それには気をつけたい。

 うら金についての知識では、そこに権力が関わっているのがあり、当事者の政治家にとって知られてほしくはない知識と、知られてほしい作られた知識とがありそうだ。いろいろな価値をもつ知識があるけど、政治家による作られた知識がその中にあるから、政治家による語りをしっかりとうたがって行きたい。政治において知識をうたがってみるのは益になる。

 構築主義では、知識の社会性が言われているのがある。知識が社会において交通して行く。うら金のことでは、うら金についての知識があって、それが報道などによって人々に知られるところとなった。うら金の問題が発見されたのは、報道の手がらなのがあり、報道の自由によるところのものだ。

 報道の自由があるためには、それをほしょうしている憲法を守ることが大事だ。いろいろな知識を国民が得るためには、国民の知る権利がいり、憲法のだいじさが浮かび上がってくる。具体のうら金のことについての知識とはべつに、憲法のだいじさの知識がもっと広まったらよい。

 憲法の値うちの知識が人々に広まったら、与党である自民党の政治家には不利益にはたらくから、できるだけその知識を広めたくない。あたかも憲法の改正が絶対にいるかのような知識を広めて行く。

 憲法についての知識では、そこに知と権力のことがおきてしまい、憲法のもつ値うちが十分に広まっていない。ざんねんだ。とはいっても、憲法がすごい値うちを持っているのだとする知識もまた、知と権力であるのはうたがいない。じゅんすいな知識とはいえず、権力が少なからず関わる。知識の社会性によるものであり、知識の交通によるものだ。

 つねに当てはまる性質なのが普遍(ふへん)である。つねに当てはまるものであることから、みんながもれなくそれを押さえておくべきだとなる。いまの日本の憲法は普遍なのがあり、押しつけのところがある。

 すごいよいものなのが普遍ではあるけど、押しつけの性格をもつ。知と権力である。固有の性質である特殊なものだったら、押しつけられるいわれはない。必ず押さえていなければならないものではないのが特殊だ。特殊であれば押しつけをこばめるのがあるけど、普遍だとそれができづらい。

 事実と価値はふ分けできるから、あることへの価値については自由にとらえることがなりたつ。あることの価値のあり無しは、人それぞれの自由だ。憲法であれば、事実としてそれがあるとは言えるけど、そこから自動でそれに価値がある(もしくは価値がない)とはみちびけそうにない。

 参照文献 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』西林克彦 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『うたがいの神様』千原ジュニア 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『政治家を疑え』高瀬淳一 『情報操作のトリック その歴史と方法』川上和久 『うその倫理学』亀山純生(すみお) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦現代思想を読む事典』今村仁司

自由主義(liberalism)からの考察:イスラエルとパレスチナの関係

 パレスチナに自由を。パレスチナを自由にせよ。イスラエルへの批判で、それが人々によって言われている。

 イスラエルに暴力をふるわれて攻撃されているのがパレスチナだ。自由にすることがいるのがパレスチナだが、自由についてを改めて見てみるとどういったことが見えてくるだろうか。

 自由にすることがいる点では、パレスチナがまずある。それにくわえて、パレスチナに暴力をふるっているところのものであるイスラエルにもまた、自由をもち出すことがなりたつ。

 イスラエルに自由を。イスラエルを自由にせよ。そう言うこともできるかもしれない。このさいの自由は、自由主義(liberalism)によるものだとしてみたい。中立な立ち場から判断する思想なのが自由主義だ。

 何々への自由は積極の自由である。何々からの自由は消極の自由だ。イスラエルへの自由だけではなくて、イスラエルからの自由もいる。イスラエルにおいて、イスラエルからの自由である消極の自由があるかどうかはだいじだ。何々への自由である積極の自由があるだけではよいあり方ではない。

 どうしてイスラエルパレスチナに暴力をふるって攻撃をしているのだろうか。そのわけとしては、パレスチナイスラム主義の集団が専制主義によっているのがある。悪い意味での共同体主義になっている。

 暴力をふるう正当な理由になるものではないけど、専制主義であるのならば、それは批判されるべきではある。パレスチナイスラム主義の集団が専制主義になっていて、悪い意味での共同体主義になっているのであれば、その共同体は批判されることがいる。

 国の中に悪い共同体があるのであれば、それを国が批判することがあってよい。たとえ専制になっている悪い共同体が国の中にあるのだとしても、それにたいして国が一方的に暴力をふるってよいとは必ずしもいえそうにない。よほどのことがないかぎりは、原則として暴力の手だてを国は使うべきではない。

 国の悪さと、共同体の悪さがある。あと経済の悪さもまたある。経済の悪さは、行きすぎた資本主義である新自由主義(neoliberalism)などだ。市場主義によりすぎるものである。

 三つのものである国と共同体と経済が、たがいに批判し合う。国が悪いのであれば、共同体や経済がそれを批判して行く。共同体が悪いのであれば、国や経済がそれを批判することがあってよい。経済が悪いのであるならば、国や共同体がそれをさし示して、改善をうながす。

 イスラエル専制のあり方になってしまっていて、自由主義の点からするとそこがよくない。それとともに、パレスチナイスラム主義の集団も専制のあり方になっていて、悪い意味での共同体主義になっているのがある。

 二つの主体がいて、一つは国であり、もう一つは共同体だ。主体としての国は、行動者として、客体である相手へ暴力をふるう。客体としての共同体に暴力をふるっている。主体としての国が用いている手段が暴力なのがあるから、用いている手段がよくない。

 主体としての共同体は、客体としての相手へ暴力をふるう。客体としての国(イスラエル)へ暴力を振るっているのがある。主体としての共同体が用いている手段が暴力なのがあるから、そこは悪い。主体としての共同体が用いている手段はよくないものだ。

 一方の主体だけが、悪い手段を用いているのではない。二つの主体のどちらもが悪い手段を用いていて、比べてみると主体としての国のほうがより大きな暴力を用いている。

 主体としての共同体よりも、主体としての国のほうがより大きな暴力をふるう。国は公の国の装置(軍隊や警察など)を持っているからだ。その地域の暴力を独占しているのが国である。公の国の装置の有無のちがいをくみ入れると、より強い理由(a fortiori)によって批判されることがいるのが、主体としての国である。

 パレスチナにたいしてイスラエルが暴力をふるって攻撃しているのを、止めさせる。そのためには、一つにはイスラエル自由主義によるようにして行く。イスラエルに自由を、とできるのがありそうだ。

 イスラエルにおいて自由化や民主化をすることがいる。イスラエルを自由にせよとか、イスラエルに民主主義をとできるのがあり、国や共同体(や経済)の専制のあり方を改めて行くことが必要だ。政治においての自由では、国が反自由の政治になっているのだとすれば、それを改めるようにして行きたい。

 参照文献 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『右傾化する日本政治』中野晃一(こういち) 『ナショナリズム 思考のフロンティア』姜尚中(かんさんじゅん)

日本の社会における差別の問題 : 日本には差別はまったくないのか

 差別は、日本には無い。与党である自由民主党の女性の政治家はそう言う。

 自民党の政治家が言うように、はたして日本には差別がまったく無いのだろうか。

 差別がまったく日本にはないのにもかかわらず、差別があたかもあるかのように語っている。少数の民族の人たちは、無いものをあたかも有るかのようにしているのだという。

 命題として見てみたい。真か偽かの判断の対象となる問題が命題だ。

 日本の国であるのならば、差別はまったくない。自民党の政治家が言っていることからするとそうしたとらえ方が成り立つ。

 命題をひっくり返して対偶(たいぐう)にしてみると、こうすることがなりたつ。差別があるのならば、日本の国ではない。日本の国の中に差別があるのを見つけることができれば、反例を見つけられたことになる。差別がないものとしての日本の国における反例を見つけられたことを示す。

 見つけようと思えばいくらでも反例を見つけられるのがありそうだ。差別は日本の国のあちこちにあるものだろう。反例はいっぱいあるだろうから、自民党の政治家の言っていることを命題としてとらえてみると、真であるとは言えそうにない。

 差別がないのが日本なのだとする命題は、象徴化(symbolize)することで真だとされてしまう。日本の国を象徴化することで、命題を真だとすることになる。象徴化すると、日本の国が抱えている負のところが隠ぺい化されてしまう。差別は日本の国が抱えている負のところだから、それを隠ぺい化しないようにしたい。象徴化した日本は現実の日本とはちがっていて、思想の傾向(ideology)だ。

 そもそも、日本の国には差別はまったくない。そういった価値観を自民党の政治家はもつ。この価値観はのぞましいものだとはいえそうにない。あやまった価値観を自民党の政治家は持っている。

 どういう価値観を持つのがよいのかといえば、そもそも差別はよくないものだ、としてみたい。差別はよくないのがあり、いまの日本の国の憲法でそれが言われている。法のもとにおいてみんなが平等なのがいる。社会における平等のことなのが正義だ。

 できるだけいまの日本の国の憲法を重んじて行く。日本で差別がおきないようにするためには、憲法を重んじるようにするのが有益だ。憲法をないがしろにしてしまうと、日本で差別がおきるのをうながす。差別がおきるのを防ぎづらい。

 まちがいのない真理を自民党の政治家が述べたのだとはいえそうにない。あらゆる意見は、うそを証明できる可能性を持たないとならない。反証の可能性を持っていることがいる。

 そもそも日本の国には差別はまったくないのだとするのは演繹(えんえき)だろう。差別について、演繹はなりたちそうにない。一般の法則から個別の答えをみちびく思考法が演繹だ。

 帰納(きのう)によって見て行きたい。個別の事例から一般の法則をみちびく思考法によってみると、差別がまったく一つの事例も日本の国の中にはないのだとは証明できづらい。日本の国の中で、まったく一つの事例も差別がないかどうかを調べつくすことはできないものだろう。

 日本では、差別はけっこうある。自民党の政治家が言っていることとは逆に、そうとらえることが成り立つ。日本と関わりが深い国であるアメリカなんかでも、東洋の人や、アフリカ系のアメリカ人の人たちへの差別がいまだに根づよい。階層(class)の格差があるのだ。

 アメリカなんかでも差別がけっこうあるし、日本でもそれがけっこうある。階層の格差があることはいなめない。普遍化することができない差別がアメリカでも日本でもある。そういった差別をなくして行き、差別を排除して行く。普遍化できない差別を排除して行く。視点や立ち場の反転の可能性の試し(test)を行なう。自由主義(liberalism)ではそれがいる。

 中立な立ち場から判断する思想なのが自由主義だ。できるだけ憲法自由主義を重んじて行って、日本の国の中にある色々な差別をなくして行きたいものである。憲法を軽んじたり自由主義をないがしろにしたりするのがあるから、それらを改めて行きたい。

 参照文献 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『人を動かす質問力』谷原誠 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『社会階層 豊かさの中の不平等』原純輔(じゅんすけ) 盛山(せいやま)和夫 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『差別と日本人』辛淑玉(しんすご) 野中広務(ひろむ) 『差別原論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』好井裕明(よしいひろあき) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信構築主義とは何か』上野千鶴子編 『「他者」の起源(the origin of others) ノーベル賞作家のハーバード連続講演録』トニ・モリスン 荒このみ訳 『アイデンティティ(identity) / 他者性(otherness) 思考のフロンティア』細見和之(ほそみかずゆき) 『ナショナリズム 思考のフロンティア』姜尚中(かんさんじゅん) 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『ポストコロニアル 思考のフロンティア』小森陽一

文学のカーニヴァル理論から考えるイスラエルの戦争(内戦)

 国がだらくする。堕落や退廃(decadance)の点から、パレスチナを攻撃しているイスラエルを見て行く。

 だらくがおきているのがイスラエルだとすると、どういったふうにそれを見て行けるだろうか。

 正義のために戦う。正戦論だ。戦争観で、正戦論になっているのがイスラエルだろう。正義のためにパレスチナに暴力をふるう。

 冬の王をやっつける。冬の王は、イスラエルにとっての敵だ。冬の王をたおして、春(夏)を呼びこむ。敵さえやっつけられれば春がやってくる。文学の理論のカーニヴァル理論だ。

 平和な中にあっては、はっきりした目標を持ちづらい。何をすればよいのかが定かではない。これといった答えを見出しづらいのである。たった一つだけの答えがあるのではなくて、いくつもの答えの候補がある。

 答えを一つだけにしぼれるのが戦争の時だ。正しい答えが一つだけある。冬の王をやっつけさえすればよい。敵をたおしさえすればよい。やるべきことをはっきりとさせやすいのが戦争のさいである。

 だらくが起きやすいのが国にはある。イスラエルに限ったことではなさそうだ。どの国にもだらくが起きやすい。少しでも気を許すと国は堕落してしまう。国家主義(nationalism)におちいる。

 正しいことのために戦う。国が正しいことのために戦うことになると、平和を投げ捨ててしまう。イスラエルは平和を投げすてて、正しいことのためにパレスチナに攻撃をしかけている。国が正戦論をとってしまっているのである。

 平和主義がある。日本の憲法の三つの大きな主義のうちの一つだ。平和主義によるのであれば、正戦論をとらないことがいる。正しいことのために戦うのではない。正しいことのために戦うのだと、平和を投げすてることになってしまう。

 あるていど汚いところがあって純粋ではないのだとしても、戦うよりも平和をとって行く。たとえじゅんすいに正しいのではないのだとしても、戦争よりも平和のほうがまだましなのだとするのである。

 じゅんすいさをとる。イスラエルはそうしてしまっている。どこの国も純粋さによることはできず、不純や汚さを抱えざるをえないから、負のことへのあきらめがいる。負があることをあきらめないと、平和によることができない。負があることを引き受けないで、正をとろうとしてしまうと、正義のために国が戦うことになってしまう。

 方法がはっきりとするのが戦争のさいだ。平和なときは、方法をはっきりとさせづらい。ある人によいことであっても、別な人には悪い。すべての人にとってよい方法はありえづらい。

 平和によるためには、一つの確かな方法によるのではなくて、非方法によるようにして行く。方法によるのだと、冬の王を倒しさえすればよいのだとなる。敵をたおしさえすればよい。春(夏)をもたらす方法がはっきりとしていることになる。それだと戦争をみちびく。国のだらくを引きおこす。

 パレスチナイスラム主義の集団にも同じことがいえて、方法によってイスラエルに攻撃をしてしまっている。パレスチナイスラム主義の集団は、イスラエルにたいして犯罪を行なってきている。

 方法と方法とが争い合う。ぶつかり合う。戦争だとそうなってしまう。イスラエルパレスチナに暴力をふるっているのを片づけるには、方法によるのではない非方法のあり方が一つにはいりそうだ。方法によるのだと、戦争をしつづける。

 お互いがお互いの冬の王をたおそうとする。お互いにとっての敵を倒そうとする。お互いにとっての冬の王をたおして、お互いにとってのそれぞれで別々の春(夏)を呼びこんで行く。お互いにだらくがおきてしまっている。とりわけ国のだらくは深刻だ。

 一つの答えの幻想が戦争にはあって、その幻想にはまりこむ。どの国にもそれがある。これがゆいいつの答えなのだとできるのが戦争にはあるけど、それは幻想にすぎない。

 じっさいの現実は、答えがいくつもあったり、またはめぼしい答えがなかったりすることが多い。たしかな答えを見つけづらい。現実はなかなかむずかしいけど、それをたんじゅん化できるのが戦争であり、どの国もたんじゅん化への傾向を強くもつ。戦争への傾向だ。

 戦争への傾向が強いのを、平和のあり方に転じて行く。なるべくものごとを単純化しすぎないようにして行く。たんじゅんな二分法ではものごとは割り切りづらいから、割り切れないことの不快さに耐えるようにして行くことがいる。

 割り切れない不快さをできるかぎり思考して行くようにしたい。不快さに耐えられなくなると、(国であれば)国が戦争をしてしまう。不快さに耐える力がとぼしいと、国民が戦争をかんげいしてしまう。集団における危険さへの移行(risky shift)の心理がおきる。

 参照文献 『戦争の克服』阿部浩己(こうき) 鵜飼哲(うかいさとし) 森巣博(もりすひろし) 『思考のレッスン』丸谷才一(まるやさいいち) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦法哲学入門』長尾龍一超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『ナショナリズム 思考のフロンティア』姜尚中(かんさんじゅん) 『本当の戦争 すべての人が戦争について知っておくべき四三七の事柄』クリス・ヘッジズ 伏見威蕃(いわん)訳 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『境界線の政治学杉田敦(あつし) 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『目のつけどころ(が悪ければ、論理力も地頭力も、何の役にも立ちません。)』山田真哉(しんや) 『精神分析 思考のフロンティア』十川幸司(とがわこうじ) 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修 『超入門! 現代文学理論講座』亀井秀雄 蓼沼(たでぬま)正美

政治家の語り(message)とうら金

 うら金についての、政治家の語りを見て行く。

 政治でうら金を作っていた当事者の政治家の語りを見て行く。語りを見て行くとどういったことが見えてくるだろうか。

 政治の二大の要素のうちの一つなのが語りだ。残りの一つはお金である。このお金は広い意味でのものであり、(じっさいのお金を含めた)価値をさす。

 ごう引なへりくつを言う。きべんを言っているのが、うら金を作っていた与党である自由民主党の政治家たちだ。きべんの語りを言っているのである。

 ほんとうは悪いことをしていなかったのにもかかわらず、あたかも悪いことをしたかのようにされているのが秘書や会計の責任者たちだ。政治家が悪いことをしたのにもかかわらず、その代わりに秘書や会計の責任者たちが罪を背おう。政治家のきべんがわざわいしている。

 どれくらい政治家のきべんが通じているのかといえば、その通用性は必ずしも高いとは言えそうにない。すなおな人であれば、政治家の語りをそのまま丸ごとうのみにしてしまう。

 政治家のきべんをそのまま丸ごとうのみにしている人もいることは確かだ。意図(intention)とはちがうことを言っているのが政治家だけど、その語り(message)をそのまま受けとる人も中にはいる。語りを信じることによる見解(view)だ。

 いまはお金のことで苦しんでいる国民は少なくない。日本の国の中で、税金の支払いなどのお金のことで苦労している人は少なくないから、政治家のお金のことへの見かたがきびしくなっている。

 通用性が必ずしも高くはないのが政治家のうら金についてのきべんだ。政治家の語り(M)を信じない。そのまま丸ごとうのみにしない。うたがう。語りとはずれた見解(V)を受け手が持つ。

 語り(M)とはちがう意図(I)を持っているのが政治家だ。そうしたことが多いから、政治家の語り(M)をずらす。合わせない。語り(M)とはちがう見解(V)を持つことがいる。語り(M)とは合わない見解(V)を持つようにして行く。

 こんかいの自民党のうら金のことでは、政治家の語りとは合わないで、語りとずれた見解をもつ人が少なからずおきている。うら金のことでは、自民党の政治家が言っている語りと合った見解を受け手が持ってしまうとよくない。政治家の語りと受け手の見解が合ってしまい、ずれていないのはのぞましくない。

 できるだけ政治家の語りとは合わない見解をもつようにして行く。そうすることができれば、政治家をうたがうことが成り立つ。与党である自民党の政治家なんかはとりわけ語りにおいてうそをつくことが少なくないから、政治家の語りとは合わないでずれた見解を受け手が持つことがのぞましい。

 政治家のもっている意図と語りとがちがっている。語っていることと、うらに隠し持っている意図とが合っていない。意図と語りとのずれがろこつなのが、うら金のことだ。明らさまに意図と語りがずれているのがあり、そのずれがわりと見えやすいのがあるから、語りと見解をずらしやすい。送り手(政治家)の語りとはずれた見解を受け手が持ちやすいのが、うら金のことだ。

 うら金のことにかぎらずその他のことにおいても、政治家の語りと合わないずれた見解をもつようにして行く。政治家をうたがって行く。表象(representation)なのが政治家であり、国民そのもの(presentation)なのではない。

 心の中の像(image)を外に表現したものなのが表象である。国民そのものではなくてその代わりに当たり、国民とはずれたところが多かれ少なかれあるのが政治家だから、できるだけうたがっていったほうがよい。内にもつ意図とはちがう語りを言うことが多いのが政治家であり、語りにはできるかぎり気をつけて行きたい。

 参照文献 『疑う力 ビジネスに生かす「IMV 分析」』西成活裕(にしなりかつひろ) 『政治家を疑え』高瀬淳一 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『ホモ・メンティエンス(虚言人)』外山滋比古(とやましげひこ) 『うその倫理学』亀山純生(すみお) 『うたがいの神様』千原ジュニア 『考える技術』大前研一 『なぜ「話」は通じないのか コミュニケーションの不自由論』仲正昌樹(なかまさまさき)

政治家の脱税やどろぼうの問題と、憲法の重要さ

 税金を払わない。どろぼうをする。与党の政治家はそれらのことで批判されているのがある。

 政治のうら金で、なんで与党である自由民主党の政治家だけが、脱税が許されるのだろうか。脱税をした政治家、つまりどろぼうが政治の権力をにぎることがなぜできているのだろうか。

 よろこんで税金を支払う。そうであれば人情をともなった温かい義理だ。いやいや税金を払うのであれば、人情をともなわない冷たい義理である。

 与党の政治家が脱税をしているのは、税金の中でも入り口のところに当たるものだろう。入り口の収入のところである。

 出口のところで税金を取るのもある。消費税だ。間接税である。いくら脱税をしている与党の政治家であったとしても、出口のところでは税金をとられる。

 消費者として見てみれば、脱税をしている与党の政治家でも、消費をしないと生きて行けないのがあるから、税金を支払わざるをえない。入り口ではごまかせても、出口ではごまかしづらい。

 愛があったのが、だんだんと冷めて行く。愛がありつづけていれば、人情をともなった温かい義理だ。愛が冷めてしまうと、人情をともなわない冷たい義理になってしまう。いま日本で税金を払いたくない人が多くおきているのは、愛が冷めて行っていることを示す。

 よろこんで税金を払うのではなくて、払わないといけないからし方なく払っているのにすぎない。そこには愛はなくて、愛は冷めてしまっている。人それぞれで愛の冷め方にちがいはあるけど、ものすごく愛が冷めてしまっている人も少なからず今の日本にはいる。与党の政治家が脱税をしていることがわざわいしているのである。

 すすんで税金を払う人は、まだ愛が冷めていない。人情をともなった温かい義理だ。日本人の中にはそういった人もいそうだ。実定法と自然法が合っている。

 いやいや税金を払う。税金を払うのをこばみたい。払うのをこばむことを訴えかける。こばむ運動をおこす。冷たい義理になっている。いまはそうした日本人も少なくない。実定法と自然法がずれている。

 実定法としては税金を払わないとならないことになっているが、自然法としては払わないほうがよい。自然法を持ち出せばそうすることが成り立たなくはない。悪い法の決まりは法といえるのかどうかである。

 結婚でいえば、かんぜんにお互いの気持ちが離れて、愛が冷め切っているのなら、離婚したほうがよいのかである。形としての(制度の)結婚が実定法で、気持ちとしての愛が自然法だ。

 なんで税金を払わないといけないのかでは、社会契約論をもち出せる。人民が契約によって国を支配するためのりくつなのが契約論だ。

 契約論が弱いのが日本の国である。国が上で、人が下のようになっている。国が先にあるのだとされている。契約論ではそれとはちがって、人が先にいて、人どうしが契約し合うことで国が作られることになる。社会の状態(civil state)がなりたつ。

 いまの日本で税金を払うのがすごくいやになっていて、愛が冷めているのは、契約論が弱いことがわざわいしている。契約論が弱いから、税金を払うのがいやになる。ただでさえ払うのがいやなのが税金だけど、それがますますいやになるのである。

 どろぼうの政治家に、権威はあるのだろうか。脱税をしている政治家に権威はあるのだろうか。きちんと税金を払わない与党の政治家に権威はあるのかといえば、うたがわしい。権威がなくなっているのがあって、自然の状態(natural state)になっているところがあるのがいまの日本だろう。

 作りごとにすぎないものなのが契約論ではあるけど、それによって見てみると、自然の状態になっているところがあるのが今の日本であり、権威がなくなっている。与党の政治家に権威がなくなっているのがあり、社会の状態が成り立たなくなっている。きびしく見てみればそう見なすことがなりたつ。

 国が先にあるのだとはしないようにして、契約論によるようにして行く。作りごとではあるけど、契約を主にしたあり方にして行く。契約を守るようにして、与党の政治家は払うべき税金を払うようにして行く。与党の政治家は、脱税をしないで、どろぼうをしないようにする。契約をやぶらないことがいる。

 憲法を守らないことが多いのが与党の政治家だ。なんで憲法をやぶっているのかといえば、日本の国が、契約論が弱いからだろう。契約によるものなのが憲法であり、憲法をきちんと重んじて行かないと契約を守ることができづらい。国を設立する(constitute)ためのものなのが憲法(constitution)だ。契約によって国を設立して行く。

 なかなかよろこんで税金を払うとは行きづらいのがあるけど、それがますますいやになる。税金を払いたくなくなるのは、与党である自民党憲法をやぶっていて、憲法をないがしろにしているせいなのがある。契約論の弱さがわざわいしている。

 少しでも税金を払うことのいやさを減らすためには、憲法を重んじるようにして、契約論にもとづくありようにして行く。契約を主とするあり方に日本の国をして行くことが、税金を払うことの動機づけ(motivation)を高めることにいることだ。そう見なしてみたい。

 参照文献 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『法哲学入門』長尾龍一 『義理 一語の辞典』源了圓(みなもとりょうえん) 『法律より怖い「会社の掟」 不祥事が続く五つの理由』稲垣重雄 『十八歳からの格差論 日本に本当に必要なもの』井手英策(えいさく) 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『憲法主義 条文には書かれていない本質』南野森(しげる) 内山奈月

国と国民とのあいだの差異性と、イスラエルについての論争

 なんで、世界のいろいろな国において、イスラエルへの批判の声がおきているのだろうか。

 パレスチナに暴力をふるう。パレスチナに暴力をふるうことを批判する声が、世界のいろいろな所でおきている。

 イスラエルを見てみると、国と国民が必ずしも同じではない。差異性がある。すべての国民が、イスラエルの国がやっていることを良しとしているわけではないだろう。

 パレスチナに暴力をふるっているイスラエルでは、国と国民とのあいだに差異性がありそうだ。国と国民がぴったりと完全に類似性によっているわけではない。

 アメリカや日本なんかはイスラエルを良しとしている。アメリカや日本なんかの、イスラエルではないほかの国においても、国と国民とのあいだに差異性がおきている。差異性を見てとることがなりたつ。

 かくあるべしによっているのがイスラエルだ。かくあるべしの当為(とうい)によっている。パレスチナに暴力をふるうべきだとしているのがイスラエルだ。パレスチナにいる暴力主義者の集団をやっつける。

 アメリカや日本なんかも、かくあるべしの当為によっている。イスラエルを良しとするべきだとしているのがアメリカや日本だ。

 イスラエルだけではなくて、それ以外のほかの国もまた、国が上からかくあるべしの当為のあり方をとっている。国によるかくあるべしの当為とはちがっているのが、人々がイスラエルへ批判の声をあげていることだ。

 人々がイスラエルに批判の声をあげているのはかくあるの実在である。いろいろな考え方を持っているのが国民だから、国民の中にはイスラエルに批判の声をあげる人たちが少なからずいる。実在においてはさまざまな声があるのである。

 中国やロシアなんかは、国がイスラエルのことを批判している。イスラエルを批判しているのがあるけど、国が上からかくあるべしの当為によっているのはいなめない。イスラエルパレスチナに暴力をふるうのを止めるべきだとか、暴力をふるうのは許されるべきではないのだとしているのが中国やロシアだ。

 かくあるべしの当為では、内容としてはアメリカや日本なんかはまちがっている。中国やロシアなんかは正しい。(あらゆることがらについてではなくて)あくまでもイスラエルのことにかぎっていえばそう見なすことがなりたつ。

 内容についてである実質論ではなくて形式論で見てみると、イスラエルはかくあるべしの当為によっている。それ以外の国もまた、かくあるべしの当為によっているのだ。イスラエルのことを良しとするのにせよ批判するのにせよ、ほかの国もまた形式においては当為のあり方である。

 世界のいろいろな国において示威(しい)の活動がなされている。示威(demo)の活動がなされているのを重んじるようにしてみると、かくあるべしの当為によるのはのぞましくない。実在のところに価値を置く。実在を良しとして行くことがいるのだと見なしてみたい。

 形式においてかくあるべしの当為を良しとしてしまうと、へたをするとアメリカや日本のようになってしまう。うまくすればイスラエルのことにおいての中国やロシアのようになることがあるが、国が上からかくあるべしの正しさを下に押しつけるのはのぞましいこととはしづらい。

 世界の中には色々な国があるけど、その中でアメリカが絶対に正しいのだとは言えそうにない。いついかなるさいにも、どのようなことでも常にアメリカが正しいとはしづらいのがあり、アメリカの正しさを基礎づけできそうにない。正しいものなのがアメリカなのだとは基礎づけたりしたて上げたりできないのがある。

 世界の国のありようを見てみると、かくあるべしの当為であるよりも、かくあるの実在のありようになっているのがうかがえる。アメリカの正しさを基礎づけできないのがあり、反基礎づけ主義なのがある。

 一極のあり方で、アメリカが常に正しいのであれば基礎づけ主義がなりたつ。世界において一極のあり方が崩れていて、多極化している。基礎づけ主義がなりたちづらい。反基礎づけ主義のあり方になっている。アメリカは常にまちがっているとか常に悪いとも基礎づけることはできないから、アメリカを負とする基礎づけ主義もまたなりたちづらいのがある。

 実在においてはイスラエルのことを良しとする国もあれば、批判する国もまたある。当為としてイスラエルのことを良しとするべきだとはしづらい。かくあるの実在のところを見てみれば、イスラエルのことを批判する国もあるのだから、批判する国にも目を向けることがいる。

 たとえイスラエルのことを批判する国があるのだとしても、国がかくあるべしの当為を上から下に押しつけるのは良いあり方ではないことに気をつけたい。形式としては、かくあるべしの当為であるよりも、かくあるの実在のところに重みを置くほうがよい。

 参照文献 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『ナショナリズム 思考のフロンティア』姜尚中(かんさんじゅん) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信構築主義とは何か』上野千鶴子編 『現代思想を読む事典』今村仁司

日本の地から考えるイスラエルやロシアへの批判

 なぜ、日本の地において、イスラエルを批判する声をあげるのだろうか。

 なぜ、日本の地にいて、パレスチナの人たちを救うための声を投げかけるのだろうか。

 じっさいに争い合いがおきている地であるのがイスラエルパレスチナや(ロシアとウクライナの戦争であれば)ウクライナだ。そこから離れたところである日本の地にいながら、イスラエルやロシアへの批判を行なう。それはいったいなぜなのだろうか。

 もしもイスラエルやロシアへの批判を行なうのであれば、そこから離れた地である日本にいながら声をあげるのはおかしい。じっさいに争い合いがおきている地であるイスラエルやロシア(パレスチナウクライナ)へ行け。それらの地へ行ってそこで批判の声をあげるべきだ。X(Twitter)のつぶやきではそう言われているのがある。

 日本にいながら、日本から離れたところでおきている争い合いへの批判の声をあげて行く。日本の地にいて、そこから離れたところでおきている悪いことへ批判を投げかけるのは、近代ならではのところが一つにはありそうだ。時代性だ。

 いまは後期の近代だ。空間や時間が圧縮されることになるのが近代である。空間や時間がちぢむ。日本とは離れているのがイスラエルパレスチナやロシアやウクライナだけど、近代においては空間や時間がちぢむのがあるから、遠いようでいて近い。あんがいそう遠くはない。

 後期の近代であり二十一世紀なのがいまである。いまは情報の技術が進んでいる。交通の便がすごく良くなっている。交通の行き来がさかんだ。世界主義(globalization)のありようになっている。国どうしのあいだの境界の線をこえやすい。

 人や物やお金や情報などが、境界の線をこえて行く。お金なんかでは、日本の外への税金のばらまきなんていう批判があるけど、これは色々なものが(良くも悪くも)境界の線をこえて行きやすくなっていることが関係していそうだ。

 お金は天下(世界)のまわり持ちである。浮きものであり、世界のきぼで人から人へとお金がわたって行く。とどまらずに、どんどん人から人へ、または国から国へと交通して行く。ぎゃくに、片(かた)行きであり、世界の(または日本の内の)どこかにお金がかたよってあるのもいなめない。階層(class)の格差の固定化が深刻になっている。

 繁栄している地は、お金が外からたくさん入って来ているとの説がある。外資がたくさんその地に入ってくる。外からお金をその地にたくさん呼びこめる。具体としては国ではシンガポールなんかがある。

 日本にとっては日本人は自分たちだ。外国の人たちは他者だ。外部に当たるのが他者である。自分たちである日本人が幸せであるためには、他者である外国の人たちが幸せかどうかが関わる。他者が幸せかどうかが、日本人に関わってくる。

 他者である外国の人たちがものすごい不幸におちいっている中で、日本人だけが幸せでいられるのだろうか。それは難しいだろう。ことわざでは知らぬが仏(Ignorance is bliss.)と言われるのがあるけど、近代の今のありようはそれが成り立ちづらいところがある。色々な情報を得られるからである。

 他者である外国のことについて、関心を持ちづらい。国際の報道が弱いのが日本だ。国際の報道に強くはないから、国の外にいる他者への関心を強めづらいのがあるけど、他者が疎遠(そえん)な外部にならないようにして行く。他者が疎遠な外部に置かれないようにして行く。

 日本の国の内や外に、色々な他者がいる。それらの他者が疎遠な外部に置かれないようにして、関心を持つようにして行きたい。国の中のことと共に、日本で国際の報道がもっとさかんになればさいわいだ。外部の他者が不幸なのであれば、日本人が幸せになりづらいのがあり、外部の他者と共に日本人もまた幸せになるようにして行く。

 幸福を追求する権利を持つ。個人がその権利を持つ。日本ではその権利があるけど、これはいまの日本の憲法によるものだ。日本人が幸福を追求するさいには、他者である外国の人たちを排除することはできそうにない。

 他者を排除しないで包摂して行く。他者を排除してしまうと、日本人の幸せがなりたちづらい。近代のありようや世界主義のありようをくみ入れるとそうとらえることが成り立つ。日本を含めて、国の中にいくつも穴が空いていて、国は多孔(たこう)化している。外部の他者をくみ入れることがいるようになっている。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『アイデンティティ(identity) / 他者性(otherness) 思考のフロンティア』細見和之(ほそみかずゆき) 『境界線の政治学杉田敦(あつし) 『グローバリゼーションとは何か 液状化する世界を読み解く』伊豫谷登士翁(いよたにとしお) 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『考える技術』大前研一 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『十三歳からの日本外交 それって、関係あるの!?』孫崎享(まごさきうける)

政治のお金の管理のあり方と、状況の要因

 政治家は(あまり)つかまらない。その代わりに、秘書や会計の責任者がつかまった。政治のうら金では、政治家ではなくて、下の者がつかまった。

 うら金のことでは、あたかも政治家の身代わりであるかのように、秘書や会計の責任者がつかまったが、それでよいのだろうか。

 因果の関係から見てみると、個人の要因と、状況の要因の二つで見てみられる。

 お金を管理して行く。そのさいに、性悪説で見ることがいる。性悪説を前提の条件にしなければならない。お金に関することで、もしも悪いことができるありようになっているのだとしたら、悪いことをしてしまう。それが人間のさがである。

 悪いことができるありようになっているのにもかかわらず、悪いことをしない。お金に関することでは、人の良心を当てにしてはならない。良心を当てにしたら、裏切られることになる。人の心は当てにならないのである。

 うら金のことで、かりに秘書や会計の責任者が悪いことをしていたのだとしても、秘書や会計の責任者が悪いとは必ずしも言い切れないかもしれない。当人が悪いのだとするのは個人の要因だ。

 個人の要因でとらえるのはありがちなものだ。ほかの視点を持ち出せるのがあって、状況の要因でとらえることがなりたつ。はじめから悪いことができないような仕組みになっていれば、悪いことをやりようがない。そのほうが親切な仕組みである。たとえ悪いことをやりたくてもできない仕組みになっていたほうがのぞましい。

 やろうと思えば悪いことができてしまう。悪いことができてしまう仕組みになっていたのだとすれば、それは仕組みが悪い。当人が悪いとは言い切れそうにない。状況の要因でとらえてみるとそうとらえることがなりたつ。

 お金に関することでは、人は信頼できない。人を信頼してはならない。人にたいして不信や猜疑(さいぎ)を持たなければならないのがある。人を信頼した上でなりたつ仕組みではよくないのがあり、裏切られる見こみが高い。

 悪いことをやる動機づけ(motivation)からすると、秘書や会計の責任者よりも、政治家のほうがそれが強い。比べてみると、秘書や会計の責任者が悪いことをすることがあるのであれば、政治家はなおさらそれをする見こみが高い。なぜかといえば、政治家のほうがより野心や欲望が強いからである。権力への意思がより大きい。力への意思がより強いのが政治家だ。

 仕組みが悪い中においては、悪いことをやってくださいと言わんばかりのありようになっている。悪いことをしてはならないとか、悪いことをするなとなっているのではなくて、どうぞ悪さをしてくださいといったふうになっている。お金に関することでは、人を信頼した上でなりたつ仕組みになっているのだと、さあ悪さをしてくださいと言っているのと同じことになる。悪さをするのをうながしているのに等しい。そう言っても必ずしも言いすぎではないかもしれない。

 視点を増やしてみて、個人の要因だけではなくて、状況の要因をくみ入れてみると、秘書や会計の責任者をとり巻く外の状況におかしさがある。外の状況の中には、政治家を含む。上の者である政治家がおかしかった見こみが低くないのである。

 お金に関することでは、もともと悪さができないような仕組みになっていないといけないけど、そうなっていなかったのだとすれば、集団として悪さをしようとするこんたんを持っていた見こみがある。

 体系(system)として見て行く。関係し合うことがらが集まったものなのが体系だ。体系として見てみると、その集団が悪さをしようとしていたとするのならば、体系の中のいち要素だけを見てもしようがない。木を見て森を見ずになってしまう。

 秘書や会計の責任者はたんなる集団の中の歯車や部分に当たるだけだとすると、集団の上の者に責任があることになりそうだ。視点を増やしてみるとそうとらえられるところがある。

 信じないようにして、うたがう。お金の管理のことでは、秘書や会計の責任者を信じない。うたがう。お金の管理のことを含めて、政治家についてはうんとうたがう。政治家が言っていることをそのまま丸ごとうのみにはしないようにする。

 何をいちばんうたがうようにするべきなのかといえば、下の者である秘書や会計の責任者なのだとは言えそうにない。疑うべきなのは上の者である政治家の言動だ。なぜかといえば、政治家は表象(representation)だからである。国民そのもの(presentation)なのではない。心の中の像(image)を外に表現したものなのが表象である。

 参照文献 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『クリティカル進化(シンカー)論 「OL 進化論」で学ぶ思考の技法』道田泰司(みちたやすし) 宮元博章(みやもとひろあき) 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹 『うたがいの神様』千原ジュニア 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし)