韓国とけんかをしている場合ではないのではないだろうか(ほかにも深刻な問題が山積している)

 韓国とのけんかに勝つにはどうするか。韓国と日本とのあいだで色々なもめごとがおきてしまっている。これを何とかするために、日本が韓国とのけんかで勝つにはどうしたらよいのか。負けないためにはどうするのがよいかということが言われている。

 けんかをして勝つか負けるかというよりは、それとはちがうことをするようにしたい。けんかをするのではなくて、社会関係(パブリック・リレーションズ)や問題解決や危機管理といったことをするようにしたい。

 どちらかが勝ってどちらかが負けるということであれば、ゼロ和または固定和となる。それとはちがい、どちらにとっても益になったり、益を広げたりするような方向にもって行く。非ゼロ和や非固定和のあり方だ。易しいことではないが、そのほうが日本の国の益になるのではないだろうか。

 たんに日本が正しいとして、韓国がまちがっているとするのではなくて、視点を引き上げて行くようにする。なぜそうなのかというふうに問いかける形で見て行くようにして、気づく範囲を広げて行く。気づく範囲がせまくならないようにする。日本が正しいということにたいする反対の意見をこばまずに、受け入れるようにする。

 人間には合理性の限界がつきものだ。限定された合理性をもつ。完ぺきな合理性を持たないのだから、不完全であることを見こすようにして、他からの批判を受け入れる形での批判的合理主義をとるようにする。

 他からの批判というのだけではなくて、自分たちで自分たちを批判することができる。事実があって、それを自分たちで意味づけして、それで自分たちの見かたが形づくられる。その見かたにたいして、本当はちがうのではないかと批判を投げかけて、それによって見かたが変わることで、より事実に近づいた見かたがとれることがある。

 事実を見るさいに、それを意味づけする色めがねがあるが、その色めがねが偏っていることは少なくない。色めがねが偏るのは、それぞれの人はそれぞれの特定の立ち場に立っているからだ。中立というのではない。客観のことを言うのではなく、意図が少なからず入りこむ。

 こうだからこうだといったように、ものごとを推論するさいには、まったく偏らないようにはなりづらい。日本という国にたいして自尊心を持っていることによって、推論が偏ったり歪んだりする。偏りや歪みがまったくおきていないとは見なしづらい。

 日本には日本の愛国(自己保存)がある。韓国には韓国の愛国(自己保存)がある。日本からすると、自国である日本への愛国はあるが、他国である韓国への軽べつをもつ。こうなってしまうとまずい。お互いに軽べつをし合うのではなくて、できるだけ尊敬の念を持ち合うように持って行きたい。少なくとも、日本の政治家や役人が、いくら国内での受けがよいからといって、隣国への軽べつをそそのかすのはやめるようにしたい。

 日本の政治家や役人は、日本への愛国(自己保存)にかまけるのではなくて、隣国などとおり合いをつけることができてはじめて仕事をやったと見なすことができる。たんに日本への愛国(自己保存)にかまけるだけでは駄目だし、危ないことであって、日本の国や人を防衛したり安全にしたりすることにはつながらず、逆にはたらくことが少なくない。

 日本への愛国(自己保存)をするのは、国どうしがぶつかり合う自然状態(戦争状態)の解決にはならず、むしろ悪化しかねない。どちらかというと愛(や尊敬)は自ではなく他へ向けるほうがふさわしい(難しいものではあるが)。ものごとをはきちがえないことを政治家や役人にはのぞみたい。

 日本はかつて愛国(自己保存)によって戦争につき進んで行って盛大に失敗した。かつてのこの失敗がいまにおいて生かされているとは見なしづらい。ことわざで言う、のど元過ぎれば熱さ忘れるになっているとしたら、失敗情報が活用されていないことになる。かつての失敗が知識化されて情報として生かされることをのぞみたい。忘却するのではなく想起するのは有益だ。

 けんかをするとはいっても、子どものけんかのような低い次元のことをしてもあまり意味はない。子どもじみたけんかをする代わりに、民間の自動車会社であるトヨタ自動車で行なわれているように、あることについて、それを改めるために、なぜなのかといった問いかけを何回もくり返し投げかけることを行なう。原因の特定が日本と韓国のどちらにあるのかを見て行く。行動の主体である日本や韓国(の内)に原因があるのか、それともその外の環境に原因があるのかがある。

 韓国と日本とのあいだで、ぶつかり合いになりかねなかったり、危機がおきかねなかったりする。危うくそうしたことがおきかけた。そこに問題の所在があるのではないだろうか。そうだとすれば、危うくぶつかり合いなどのまずいことがおきかねないのを避けられるようにすればよい。それがおきないように、再発防止などの手を打つ。

 韓国は事実を認めないで、かたくなでありつづけることによって、日本とは仲たがいのようになってしまっている。日本は正しいが、韓国はまちがっている。日本の国としてはこういった見かたをしているわけだが、これでは日本は国としてやるべき仕事をしているとは見なしづらい。政治家や役人のやるべき仕事は、日本の国や人を防衛して安全にすることなのにも関わらず、隣国との対立を深めて敵対してしまってどうするのだろう。

 日本の国がやるべき仕事は、韓国がいかに事実を認めないかを言い立てることではなくて、韓国とのあいだで危ないことがおきかねないのをいかに防ぐかだろう。少しでも摩擦を減らす。それが絶対にできないとは言い切れない。日本の国が使える内外のあらゆる資源(リソース)をすべて動員して使えばよいのだし、やる気や動機づけをしっかりと持ってもらいたいものだ。いまのところ、持っている資源を不十分にしか使っていないし、やる気や動機づけを持っているとは見なせない。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編著

ときめくかどうかという片づけ術のものさし(判断基準)

 日本の片づけ術が、アメリカでとり上げられている。自分がときめかないものはいらないものであって、捨ててしまってよいという。断捨離に通じるものだ。

 より上位(メタ)の視点に立てるとすると、この片づけ術にときめかないのであれば、この片づけ術そのものを片づけてしまうということもありだろうか。片づけるというか、やらなくてもよいと見なす。片づけることにときめかないのなら、片づけることを片づける(やらない)ということができる。へ理屈ではあるが。

 ときめくというのはよいことで、ときめかないのはよくないことだ。ときめく物はよいものなので残して、ときめかない物はよくないので片づける(捨てる)。このさい、ときめくというよい価値や、ときめく物はよい物なので残す(ときめかない物はよくないので片づける)という仮説の価値を改めて見られる。

 片づけるさいに、物を残すか捨てるかで、ときめくということをもってして物を残してよいのかがある。物を残すまたは捨てるときに、ときめく(ときめかない)ことがなければならないのなら、ときめく(ときめかない)ことは必要条件だが、その条件でよいのか。ときめけば(ときめかなければ)よいのであれば十分条件だが、そうと見なせるのか。ときめく(ときめかない)ときにかぎるのであれば必要十分条件だが、そうであるのかを見られる。

 片づけ術に水をさすようではあるが、必ずしもときめくかどうかというものさしにこだわらないのであれば、何々でなければならないという必要条件や、何々であればよいという十分条件や、何々であるときにかぎってよいという必要十分条件を改めて見ることができる。ときめくかどうかというのは手段であって、その手段の適切さは万人に当てはまる絶対のものだとは言えそうにない。

五分五分ではなく、一〇対〇でもちょうどよいのではないか(非現実的ではあるかもしれないが)

 北方領土を四島ともに日本に返還してもらうのは非現実的だ。ロシアにそれをのぞむのは現実的ではないのだという。いまの首相による政権はそうしたことを言っている。

 ロシアにはロシアの、一〇〇パーセントのぞむことがある。日本には日本の一〇〇パーセントのぞむことがある。どちらの国においても一〇〇パーセントのぞむことが手に入ることは見こみづらい。とすれば、五〇パーセントくらいのところで手を打つことができれば、それは成功だ。意見としてそう言われているのがある。

 日本は一〇〇パーセントではなく五〇パーセントまたはそれ以下のことで満足するべきなのだろうか。五〇パーセントまたはそれ以下だったとして、それを成功と見なすべきなのだろうか。

 もとはと言えば、ロシアが戦争のどさくさの中で不法に日本の北方領土をうばいとったのだし、それ以外にもロシアは日本にたいして不法に悪いことをした。多くの外地(と内地)にいた日本人に物理の暴力をふるい、およそ六〇万人の日本人をシベリアに強制連行して強制労働につかせた。およそ六万人が死亡したと言われる。

 現実的かそれとも非現実かは置いておけるとすると、筋論としては、日本は一〇〇パーセントをのぞむべきだし、ロシアは〇パーセントであるべきなのではないだろうか。筋としては、日本は一〇〇パーセントのことを手にして当然であって、ロシアは〇パーセントとなるのが当然だ。

 非現実的なことをのぞむことはおかしいのはあるかもしれない。現実的にことを進めるほうがよいというのはあるだろう。現実的にことを進めるとして、日本とロシアのあいだでつり合いがとれるようになるのだろうか。もしつり合いをとるのだというのであれば、日本はできるだけ一〇〇パーセントを目ざすのは一つのあり方である。一〇〇パーセントになってはじめてつり合いがとれるからだ。

 日本が一〇〇パーセントをのぞまず、ロシアにゆずるというのなら、それはそれで悪いことではない。もしそうするのなら、大国であるロシアにそうするだけではなくて、大国ではない他国にもまた同じようにするべきではないだろうか。

 ほかの大国ではない国についても、日本は一〇〇パーセントをのぞまないようにして、柔軟にやり取りをし合うようにして、他国にゆずることをするようにする。日本が五〇パーセントまたはそれ以下のことしか手に入らないとしても、それはそれで現実的なのだからしかたがない。そうではなくて、大国(であるロシア)に弱腰なだけなのであれば、なぜ一部の大国にだけ甘いのかというのを言いたい。

 日本とロシアにおける北方領土についてのことを何とかするために、こうでなければならないというのではなくて、色々なやり方があってよいのはある。日本が何がなんでも一〇〇パーセントをとるのを目ざすのではなくてもよいだろう。どうするのかをとるさいに、途中や過程に十分に時間をかけないとならない。

 途中や過程において、どういったあり方がのぞましいのかをみんなで見ることによって、よりよいあり方が見えてくる。その途中や過程がなくて、よく分からないままに、いまの首相による政権が勝手に決めるのはどうしたことだろうか。選挙で選ばれているからといって、勝手に決めてよいのだろうか。

 いまの首相による政権が勝手に決めるにしても、それが正しいことであることを事前に説明しないのはなぜなのだろう。事後において、こう決まりましたとするのだとしても、途中や過程がつまびらかではない限りは、それが正しいことの根拠が確かにあるとは言えそうにない。決めた(決まった)ことが正しいことであるというのでは順序が逆だ。

言論弾圧と錯誤(事実と違法)

 言論の弾圧だ。そう言うさいに、はたして本当にある人の言論や表現の機会(場)が不当にうばわれたと言えるのか。事実と違法の二つから見ることができる。

 事実として言論の弾圧が行なわれたのかどうかがある。改めてよく見てみれば、思いちがいがあって、事実をとらえちがえているということがある。言論の弾圧が行なわれたのではなくて、処置のようなものが行なわれただけだとすると、そこまでおかしいこととは言えそうにない。その処置が適したものであればということではあるが。

 違法ということで言うと、言論や表現を行なうのをテクストだとして、それをとり巻く文脈(コンテクスト)がある。文脈というのは場である。場の決まりにしたがって、その中で言論や表現を行なう。もし場の決まりに反したのなら、違法ということになって、そこから退場させられることがある。決まりに反したのであれば、言論の弾圧だとは必ずしも見なせそうにない。

 言論の弾圧だと言うさいに、それを改めて見れば、事実として本当にそうなのかどうかがある。それに加えて、その場の決まりを破ったかどうかの、違法かどうかがある。事実をとりちがえていたり、決まりを破っていたりすることがあるから、そういったさいには、言論の弾圧がじっさいにはおきていないことがある。そこまで行かないで、抑圧があるというだけのこともあるだろう。

 言論や表現は、宙に浮いたものではなくて、どこかの場の中のものだとすると、その場の文脈(コンテクスト)との関わりがおきる。自由のほかに、平等などのほかの価値との関わりがあるし、また自由においては、ほかの人の自由とのかね合いがある。それらについてを一つひとつ見て行くことで、何がどうだったのかをとらえられる。

 言論や表現の自由が、完ぺきな自由ではなくて、そこからさし引かれる。それをもってして、言論弾圧だということはできそうにない。自由が一部において制約されることと、言論弾圧がされることとは、分けて見られるものだ。たとえ一部であっても自由が制約されるのであれば、言論弾圧が行なわれている、とは言えないものである。

 思想家のツヴェタン・トドロフ氏によると、自由主義や民主主義においては、権利としての自由(その他の権利にも)には一部に制約がかかるのが現実だという。まったく制約のない完ぺきな自由を保障するものではないのだ。もしそれが保障されるのであれば、社会の中が無秩序や混沌になってしまう。

 言論や表現の自由はすごく大事なものであって、それをないがしろにするのはおかしいことだ。そう言うことはできるし、当たっているものである。当たっているのはまちがいないが、絶対論ではなくて相対論で見ることができるのがある。白か黒かの二元論とは別に、連続観である決疑論(カズイストリ)でも見られる。

 言論や表現の自由はすごく大事な価値ではあるが、その一つの価値があるのではなくて、それとはちがったものもある。自由ということの中に矛盾があるのもたしかだ。不完全性定理で言うと、あらゆるものの中には矛盾が含まれるのは避けられない。自由の中には不自由が含まれている。

 もともと自由という語はさまざまな意味あいがあるだろうから、きちんと定義をしないで用いることで、あいまいなことを言ってしまっているのはあるかもしれない。

 言論や表現の自由があるからといって、それを根拠にして、だからどのような言論や表現でも許されるのだ、ということは導けるとは言えないものだ。できるかぎり言論や表現の自由があったほうがよいのはまちがいがない。その自由はできるかぎりとられたほうがよいのはあるが、無条件であらゆる言論や表現がよしとされるのかと言うと、そこまでは言えないのがある。条件がつく。たとえば、条件として、差別や憎悪表現(ヘイトスピーチ)はよくない、といったものがある。

学校で教えられる歴史における、アメリカと日本のちがいで、日本のほうが劣っているとは必ずしも見なせそうにない(現実の本当のところはわからないが、アメリカのほうが優れているとは言い切れそうにない)

 アメリカでは、学校の歴史の教科で、アメリカの国を愛することが教えられる。それで子どもたちはみんなアメリカの国のことが好きになる。愛するようになる。かたや日本はそうはなっていない。日本における歴史の教科では、必ずしも日本の国を愛することは教えられていない。すべての子どもたちが日本の国を好きになることにはつながっていない。

 本当の事実というのではないかもしれないが、アメリカと日本がこのようになっているとして、日本はアメリカのことを見習うべきなのだろうか。アメリカは優れていて日本は劣っているのだろうか。むしろ逆に、この点で言うと、アメリカは劣っていて、日本のほうが優れていると見ることができる。アメリカが日本のあり方を見習うのがあっても悪いことはない。

 アメリカのように、子どもたちがみんな自国のことを好きになるのではないとしても、日本は日本で自信をもってよい。嘘やごまかしをしてまで自国のことを好きになってもらうよりかは、たとえ好きになってもらえなくてもなるべく事実に近いことを知ったほうが有益だ。

 本当のことかどうかはわからないけど、もし子どもたちがみんなアメリカのことを好きになるようなあり方にアメリカの学校ではなっているとしても、そうしたあり方が健全だとは限らないから、日本がそれを真似するに値するとは言えそうにない。全体としてどうかはともかくとして、部分の話としては、アメリカが優れているとは必ずしも言えないし、日本が劣っているとは言えないものだ。

 アメリカの学校で教えられる歴史によって、子どもたちのみんながアメリカの国のことを好きになるのであれば、それはいったい何を示しているのかと言うと、アメリカの国をよくしたて上げているのだ。このしたて上げるのは正しいことだとは言えそうにない。アメリカはよい国だというふうにしたて上げるべきではなく、悪いこともいくつもやっているというふうにずらすべきだ。じっさいにそうなのがある。

 日本はすべての子どもたちが日本をよい国として好きになるのではないのであれば、自己批判ができていると見なすこともできなくはない。相対的なものではあるが、みんなが自国をよい国だとして好きになってしまうよりかは、まだいくぶんかはましなのではないだろうか。ほんのちょっとだけましというくらいのものではあるが。

死のうとしているのではないのだし、(たんに)ハンガーストライキをやるつもりというのではなく、じっさいにやったのだから、大したものである(国の権力にこびへつらう政治家や役人や報道機関よりもよほど立派だ)

 沖縄県で、県民投票が行なわれるが、五つの市はそれを行なうのをこばんでいるという。新しいアメリカの軍事基地を沖縄県に建てることを問う県民投票が、五つの市で行なわれないと、県のすべての有権者が投票できなくなる。

 五つの県でも投票できるようにするために、ハンガーストライキが行なわれた。このストライキは一人の男性によるものだが、ドクターストップがかかっために一〇五時間でとりやめとなった。

 ハンガーストライキを行なった男性のそばには医療の関係者がついていたようだが、これについて、死ぬ覚悟でやらないと駄目だという声が投げかけられている。死ぬつもりでハンガーストライキをやらないと駄目だというのだ。

 医療の関係者をそばにつけず、ひたすらものを食べないようにして、死ぬつもりでハンガーストライキをやらないと、まったく意味をなさないのだろうか。そうとはいえないものだろう。ハンガーストライキのやり方の問題ではなく、問題があるから、それを何とかするための手段の一つとしてハンガーストライキを行なう。

 手段としてハンガーストライキをやるのはあまりよくないというのはあるだろう。それは手段としてのハンガーストライキの問題であって、ハンガーストライキのやり方の問題とはまたちがう。

 問題(争点)となることがあって、それを何とかするために男性はハンガーストライキを行なった。陰でものを食べていたのではないのだから、偽りがあるものとは言えそうにない。死ぬつもりでないと駄目だといったような、手段であるハンガーストライキのやり方ではなく、問題となっている争点に目を向けることがいる。

 手段としてハンガーストライキを行なえば、それで主張が通るというものではないけど、肝心なのは、問題となっている争点にある。ハンガーストライキを行なった男性が、それなりに筋の通った言い分を持っているのであれば、それを無視してしまうのではなくて、受けとめるのがあってほしいものだ。それが民主主義に適うことになるのであって、手段としてのハンガーストライキ(のやり方)がどうかというのとはまたちがった論点だ。

自己責任の縮小と拡大

 自己責任を縮小させる。自己が最終の単位ではないとすると、それをもっと縮小させて、器官でいうと脳責任とできるかもしれない。脳では前頭葉は、会社の地位でいうと社長に当たるという。前頭葉責任になる。脳の一つひとつの細胞に責任があるとすると、脳細胞責任となる。

 細胞の一般ということでは、細胞責任がある。細胞は原子から成り立っているから、原子責任もあるだろう。もっとさかのぼれば、素粒子責任というのがあるかもしれない。

 思想家のカール・マルクスは、ある人の意識は社会によって規定される、と言っている。そうしてみると、自己責任を拡大させられる。ある人の意識は社会に規定されるのがあるとすると、社会責任または世間責任が成り立つ。社会責任を広げると世界責任や地球責任があるとできる。もっと広げると宇宙責任となる。虚空責任もある。

 仏教では、一切が空だと言われるのがある。(自己)責任というのも空だと見なすことが見かたによっては成り立つ。これはそう見なすことも見かたによってはできるというものであって、絶対の真理とまでは言えないかもしれない。

 一切が空だというのは空観とされる。そのほかに仮観や中観というのもあるという。空観を無(ニヒト)とすると、仮観は有(ザイン)とでき、中観は生成(ヴェルデン)とできるかもしれない。自己責任は無でもあり有でもあり、生成されるものだと見なせる。自己責任とするべきだというかくあるべきの当為(ゾルレン)がとられるが、それがまちがいなくふさわしいとは必ずしも言えそうにない。

 参照文献 『人生のほんとう』池田晶子

選挙は戦いであって、戦いに勝った者は何でもやってよい、というのには疑問を感じざるをえない

 選挙で選ばれたら、与党や政権は何をやってもよい。選挙で勝って国民から支持をされたら、政権をになう政治家は自由にやりたいことをやってよいのだという。選挙は戦いといっしょであって、戦いに勝ったら勝った者はやりたいことをやれる。テレビ番組で出演者はそうしたことを言っていたが、この見なし方にはうなずきづらい。

 たしかに、選挙は戦いに似たところはあるのだろう。戦いであれば、勝った者がやりたいことをやる資格を得るということも中にはある。しかし、選挙と戦いがまったく同じだとしてしまうと、目的と手段が転倒して、勝ちさえすればよいということになる。じっさいにそうなってしまっている。

 選挙と戦いは似たところはあるものの、ちがうところがあるから、まったく同じだというふうには見なしづらい。戦いであれば、勝った者がえらいということになることがあるが、選挙においては、それとまったく同じとは言えそうにない。えらくない人が選挙に勝ってしまうことがある。ふさわしくない人が選ばれてしまうことがある。いまの大衆迎合主義(ポピュリズム)の中ではそれがおきがちだ。

 戦いであれば、勝ったものは勝者である。負けた者は敗者だ。選挙でもそうしたところはあるが、ちがいもある。選挙で勝った者はたんなる代表者だ。国民の意思を代理する者にすぎない。選挙で勝って選ばれたとはいっても、国民の意思とぴったりと合っているのではないだろう。嘘やごまかしが行なわれるのは避けられない。

 選挙という戦いに勝って、選ばれたのだから、与党による政権のやることは正しいのだろうか。そこについては切り分けられるものだ。選挙に勝って選ばれたことを根拠にして、政権が必然として正しいことを行なうとは必ずしも見なせない。歴史においては、ドイツのアドルフ・ヒトラーによるナチスの政権は選挙で国民から選ばれたが、そうだからといって正しいことをしたわけではないとふり返られる。選挙に勝って選ばれた者による政権が、正しいことをするとは限らないことを示している。

 政権についている者は、たとえ選挙に勝ったからといって、まったくまちがいをおかさないのではない。たとえ選挙に勝って政権についているからといって、完ぺきな合理性を持っていることにはならない。合理性の限界がつきまとう。政権が行なうことが確実に正しいという保証はない。

 政権をになう者がまちがったことを進めるのは、一つの文脈(仮定)としてとれるものだ。その文脈を絶対化するのではないにせよ、無いのではなくあるものだとするようにして、権力チェックをしっかりととって監視することがいる。それがないがしろになると、政権がやりたい放題になって、めちゃくちゃになってしまうことがおきるとまずいことだ。

元宮司の人と靖国神社とのあいだで見かたが異なっているようだ

 靖国神社宮司だった人が、持論を言う。それについて、それとはちがう見かたを靖国神社は言っている。宮司だった人と靖国神社とのあいだで、ちがう見かたがとられているようだ。論壇 net のサイトを見てのものである。

 なぜ祭神や神霊を祀るのかということで、宮司だった人は、祟らないように祀るのだという。いっぽうで靖国神社は、日本のさらなる発展と平和につなげるために祀るのだとしている。

 靖国神社の外に祭神や神霊はいないのだと宮司だった人は言う。いっぽうで靖国神社は、みたまがいるところは靖国神社に限られないとしている。亡くなった人の縁のあったところにはどこにでもいるとして、さらに祈りの中にもいるのだという。

 宮司だった人と靖国神社のそれぞれにおいて、日本の神道というのだけではなくて、ほかの色々なものが混ざり合っているのがある。御霊(ごりょう)信仰や、汎神論(アニミズム)や、中国で発祥した儒教からの影響がうかがえる。このうちで、儒教を一つとっても、純粋なものとは言えず、その中には仏教などの色々なものが混ざり合っているのだという。

 宮司だった人や靖国神社がとっているのは、主として日本の神道なのかもしれないが、知らないうちにほかの色々なものが混ざり合っているのではないだろうか。そこまできわ立った個性や特色があるのではなくて、色々なものからの影響が雑居しているように見られる。

近代の国家の司法制度というのは、同じようなことを目的としているのだから、それにたいするじっさいのあり方や手段などについてを比較することに意味はあるのではないか

 日産自動車の元会長であるカルロス・ゴーン氏をとりしらべる。そのさいの日本のやり方に、海外から批判が寄せられている。日本の法相はこれについて反論をしている。それぞれの国の司法制度にはちがいがあるので、一つひとつの相違点に目を向けて単純に比較することは適していない、と言う。

 たしかに、法相が言うように、それぞれの国の司法制度にはちがいがあるのだろう。しかし、そうだからといって、そこから、ちがいを比べるのは適していない、とは言えそうにない。どこの国もみんな同じ司法制度なのであれば、比べてもあまり意味はないが、ちがいがあるのだからよし悪しを比べるのはよいのではないか。

 一つひとつの相違点に目を向けて単純に比較するのはおかしいということを法相は言う。この言い分はうのみにすることはできづらい。というのも、それぞれの国とか、それぞれの国の司法制度というのは、抽象(普遍)のものであって、そこには共通点があるのではないだろうか。だから批判が成り立つ。同じ近代の国民国家だというのがある。

 どういうことを元(理念)にして、どういう制度にするのかや、どういうやり方にするのかは、宗教などの超越のものを持ち出すのでない限りは、かなりの程度において共通するものだろう。世俗における抽象(普遍)の考え方や概念としては同じようなものがとられている。世俗の理念として何をよしとするのかにおいても、同じようなものがとられる。おもに、日本が近代化するにあたって、日本が外(海外)からとり入れてきたものだ。じっさいの具体の形としては、同じところとちがうところがある。同じところとちがうところを比べることができる。

 ゴーン氏がいる拘置所では、冬はろくに暖房が効かなくて寒いそうだ。それで、以前に拘置所にいた元学園の園長夫妻は、ゴーン氏にフリースなどを差し入れたという。経験者ならではのものだ。

 拘置所で冬に寒い思いをするとしても、ゴーン氏は悪いことをしたのだから、それでよいではないか、というのがある。これははたしてふさわしいものだろうか。ゴーン氏が悪いことをしたのなら、確かに冬に寒い思いをするということで、応報によるつり合いがとれているというのはあるかもしれない。悪いことをやったことが決まったのならそうだが、まだそれをとりしらべている途中なので、そうと決まっているのではない。

 悪いことをしたのだとたしかに決まっているのではなくて、えん罪のおそれがなくはない。悪いか悪くないかがまだわからない。そうであるのだとすれば、有罪推定で見るのではなくて、無罪推定の原則で見るのがいる。それをもとにしてとりしらべが行なわれるようであればよいが、日本ではそうはなっていないというのなら、それに批判が投げかけられるのはおかしいこととは言えそうにない。

 ゴーン氏が悪いことをやったのであれば、それを裁く。罰する。こらしめる。そういう正義はある。その一つの正義だけではなくて、それとは別のものもある。とりしらべるさいには、とりしらべられる人(たとえばゴーン氏)がじっさいには無罪であることがまったくゼロではない。無罪であるかもしれない人(民間人)を、まちがいなく罪があるとは決めつけないようにする、という正義がある。これが十分にとれていないのだとすれば、それにたいする批判が成り立つ。

 日本ということからいったん離れられるとすると、ある国で、のぞましくないとりしらべのやり方が行なわれているのであれば、それは改められたほうがよいというのが言える。そのある国というところに日本を当てはめてみるのはどうだろうか。法相が言うように、日本のやり方とほかの国のを比べるのが適していないというのではなくて、日本で適していないとりしらべのやり方が行なわれているのなら、それを変えるのがあってよいし、日本の適していないやり方に海外から批判が投げかけられるのは、適していないことだとは言えそうにない。

 参照文献 『裁判官の人情お言葉集』『裁判官の爆笑お言葉集』長嶺超輝