いまの与党の議員は、国民が権利、権利、と言うのは馬鹿ではないかと言っていたが、そのうちで言論や表現の自由はきわめて大切な権利であって、これは左派(革新)や右派(保守)に限らずどちらにもとり上げられているものである

 権利、権利、と言う。権利を求める。そのことを、馬鹿ではないかと、いまの与党である自由民主党の議員は言っていた。国民が権利を求めることを馬鹿ではないかと言うのはいただけない。

 権利を求めるのは、左派に限らず、むしろ右派もよく行なっている。自民党の議員の言うことを当てはめれば、左派も右派もどちらも馬鹿だということになってしまう。しかし現実にはそういうわけではないだろう。

 左派だけではなく右派も権利を求めるのは、言論の機会が何らかのことによってさまたげられたさいに、言論の弾圧だと抗議することに見られる。言論の弾圧だと抗議するのが当たっているかは置いておくとして、言論の自由を求めているのがある。右派の人たちが言論の弾圧だとして抗議をして、言論の自由を求めるのは、権利を要求しているのをあらわす。権利というよりもより正確には特権の要求である。

 言論や表現の自由は権利だから、それを求めるのはよいことだけど、少数者にたいする差別や憎悪表現(ヘイトスピーチ)をするのは特権に当たるだろう。この特権は権利とは区別できる。少数者にたいして差別をしたり憎悪表現をしたりするのはよくないことである。言論や表現の自由はきわめて重要であって、あったほうがよいにしても、その権利についての論点ではなく、それを行使したときの論点を見ることができる。言論や表現の自由を行使したときに、少数者にたいする差別や憎悪表現になってしまうとしたら、よくないことなので、できるだけやらないようにしたい。

頭が硬いこと

 頭が硬い。自分の頭がそうであることを自覚する。そしてそれを改めるように努める。努めては来たが、他の人から見れば、いぜんとして頭が硬いままだと映る。それで他の人からは頭が硬いと言われてしまう。そういう話があった。

 前から自分の頭が硬いことを自分で自覚していて、それを改めようと努めてきたのにも関わらず、他の人からは頭が硬いと言われてしまう。変わろうと思っても、なかなか人は変わりづらいものだ。

 自分の頭が硬いことから、それを自覚して、柔らかくなるように改めて行く。それが客観としては功を奏さず、他の人からは頭が硬いと言われてしまう。自分では、柔らかくなるように努めてきて、じっさいに柔らかくなってきたという主観の実感はある。しかし、他の人が自分のことを頭が硬いというのだから、いまだに頭が硬いのかもしれない。

 自分では、頭の硬さを柔らかくしようとして、それに努めたことで、前よりは柔らかくなったと実感することができる。しかし他の人からすると、頭が硬いと言うのである。他の人がそう言うのだから、それをまったく頭から退けるのは難しい。他の人のほうがよく見えているかもしれない。

 このさい、頭が硬いということの意味を改めて見るのはどうだろうか。頭が硬いというのは、改めて見れば、硬いと言えば硬いだろうし、硬くないと言えば硬くはない。そこまで厳密なものではない。世界でいちばん頭が硬いわけではないだろう。いちばん頭が硬い人と比べれば柔らかい。

 頭が硬いというのは、二人くらいの人どうして比べてみたときにどちらの人が硬いか柔らかいかということになる。相対の比較のものにすぎない。比べる人がちがえば、自分の頭が硬いこともあるだろうし柔らかいこともあるだろう。

 何から何まで頭が柔らかい人というのはいるのだろうか。ある人があるものごとについては頭が柔らかいが、ちがうものごとについては硬い。何にこだわりを持っているのかによってちがう。どんなことのどんな所がゆずれないのかがある。それは人によってまちまちなものだろう。

 頭が硬いのを柔らかくすることができればそれに越したことはない。それはそれでよいことだろうけど、それとは別に、頭が硬いということを柔らかくしてしまうのは手としてあるかもしれない。(自分の頭ではなく)頭が硬いということを柔らかくとらえてみる。基本として人はみなそれなりに頭が硬いものだとか、または頭が柔らかいものだとかとする。質のちがいではなく量(ていど)のちがいにしてしまう。頭が硬いのには価値はなく、頭が柔らかいのに価値があるとして、その価値をひっくり返してしまうことができれば、頭が硬いことは必ずしも悪くはない。

外務相の受け答えにおける説明責任(アカウンタビリティ)の欠如

 つぎの質問どうぞ。記者から質問を投げかけられて、その受け答えとして外務相はそう返した。記者からの質問に答えずに、つぎの質問どうぞと言ったのを、四回ほどくり返す。ロシアとの領土をめぐる外交についての質問にたいしてである。

 外務相は記者からの質問にたいして、つぎの質問どうぞとしか返さない。それを見かねて、記者はこう質問をした。なぜ大臣はさっきから記者の質問にたいして、つぎの質問どうぞとしか答えないのか。そう質問された外務相は、それについてもまた、つぎの質問どうぞと返していた。

 記者クラブ外務相にたいして、説明責任をきちんと果たしてほしいと申し入れた。それにたいして外務相は、神妙に受け入れるとしている。神妙に受け入れるとはいったいどういうことなのだろうか。真摯(しんし)に受け入れるとか、謙虚に受け入れるというのならまだわかるが、神妙にというのはいったいどういう受け入れ方なのかが定かではないし、まともに受け入れるのかどうかもはっきりとしない。

 記者からの質問について、外務相はつぎの質問どうぞと返したが、これは国会で与党が行なっているご飯論法や信号無視話法に通ずるものだろう。

 外務相による、つぎの質問どうぞの受け答えは、直接の受け答えにはなっていない。婉曲によるものだ。記者に忖度させようとしている。空気を読ませようとしている。

 つまびらかにすることができないことがらを記者から質問されたとしても、そうならそうと答えてくれたほうがわかりやすい。答えづらいことがあるにしても、だからといって受け答えることそのものを投げてしまうのは、議論の技術を外務相が持ち合わせていないことをあらわす。外務相だけではなく与党の政権の全体に当てはまることだ。その中でも、とくにこのたびの外務相の受け答え方はまずいものだと言わざるをえない。

 婉曲の話法を用いないで、記者に忖度させず、空気を読ませないで、聞かれたことに沿うように受け答えるように努めてもらいたい。そうしてもらわないと、議論の技術を持っていることにはならない。答えられない質問だったら、それにはこういう理由があって答えられません、という返し方もできる。この返し方はとくにのぞましいものではないが、つぎの質問どうぞと返すよりは多少はましだろう。

 外務相が記者の質問にたいしてまったく答えないという答え方をしたおかげで、ことわざでいう雨降って地固まるではないが、大臣は記者からの質問にまともに向かい合って答えないとならないということが再確認されたのならよい。そうあってほしいものだ。外務相の派閥の長であるという財務相はきわめてふてぶてしいが、外務相はそこまでではなく中途半端なので、まちがった受け答えのやり方が通用しないで失敗に終わった。そう見なせる。

フランスでおきたデモに見られる、フランスと日本の自由さのちがい

 フランスではデモが行なわれた。このデモが行なわれたことで、じっさいの政治を動かした。大統領は、デモにおいて主張されていたことを部分的に受け入れた。デモをしたことはまったく無駄にはならなかった。

 フランスではデモが行なわれたが、日本ではあまりそういった動きはおきていない。フランスのように、日本でもデモを行なってじっさいの政治を動かすことはできないものだろうか。それができたら、いまの首相による政権の多数にのぼるまちがった行ないを少しは改められるかもしれない。

 フランスと日本にちがいがあるとすると、フランスはより自由なのがある。フランスよりは日本は自由が小さい。そのことによって、フランスではデモがおきて、日本ではそれがおこらないのではないだろうか。このこと一つを理由にしてしまうのはあまりにも乱暴かもしれないが。

 フランスとはちがい日本では自由よりも空気を読むことが重んじられる。デモで暴れてはいけないというかくあるべしが日本では先に来る。

 日本でも学生運動のさいにはそうとうに大規模なデモが行なわれていた。その他にもデモが行なわれることがある。しかし活発にデモが行なわれているとは言いがたい。行なう必要があるときにデモが行なわれているとも言いがたいのがある。

 頻度の話にすぎないものだし、地道にデモを行なっている人に失礼なことを言ってしまっているかもしれない。それはあるのは確かだが、もっとさかんに日本でデモが行なわれてもよいといえるくらいに、政治や社会はひどいことになってしまっているのではないか。

 フランスが自由なのとはちがい、日本では空気を読むことがとられる。いまの首相による政権が生き霊になって、日本の社会ににらみをきかせている。これは御霊(ごりょう)信仰によるものだ。亡くなった人にたたられるのを防ぐために、御霊として供養する。そうすることで益をもたらすものになるという。権力者などの生きている人では、生き霊となって、その生き霊を周りがとり立ててしまう。

 上の者からにらまれると弱い。とりわけ大手の報道機関にそれがあらわだ。そこに危なさがある。デモを行なうのだけではなく、報道の自由がもっと高まったほうがよい。そのほうが日本の社会は今よりもよりよくなるのではないか。

 報道の自由の点を含めて、フランスよりも日本は自由さが劣っているのがある。大きな話で言えばのものだ。じっさいにはフランスにはフランスの不自由さがあって、日本には日本の自由さがあるだろうから、単純化はできないのはあるだろう。

よいのと悪いの両方を見られれば理想だが、現実にはいつもできるわけではないし、できなかったとしても必ずしも悪いとは言い切れない

 ある人が一生を送る。その人について、よいところだけをとり上げればよい人に、悪いところだけをとり上げれば悪い人になる。それと同じように、国においても、悪いところだけをとり上げるのはいただけない。悪いところだけをとり上げるこれまでのあり方を改めるために、日本の国のよいところをとり上げている。そういうツイートがツイッターで言われていた。

 悪いところだけではなくよいところもとり上げるべきだ。理想としてはそれはあるだろう。しかし、こうも言えないだろうか。悪いところだけをとり上げるのは必ずしも悪くはない。よいところだけをとり上げるのは必ずしもよくはない。順説ではなく逆説(パラドックス)としてはたらくのがある。

 愛国をよしとするのであれば、それの逆をするのは反日売国となる。反日売国というのは、あり方の悪いところだけをとり上げられてしまっている。自虐史観というのもそうで、あり方の悪いところだけをとり上げられてしまっているのがある。

 ものごとの一般においては、よいところを見ればよいし、悪いところを見れば悪い。そう言えるのだとすれば、それを反日売国自虐史観とされるものにも当てはめることがいる。あり方の悪いところだけを見るのではなく、よいところも見ないとならない。そうしないと、よいところや悪いところの、どちらか一方しか見ることになっていない。

 よいのと悪いのをともに見ることでつり合いがとれる。これについては、反日売国自虐史観とされるものにもそうあってよいものだろう。これらを悪いとばかり決めつけるのはいただけない。よいところもきちんと見るようにするのがのぞましい。

 よいと悪いのとは別に、言っていることとその論拠の関わりもある。論拠がこうで、それでこうだと言うのがある。そうではなく、論拠もなしにただこうだと言うのは、決めつけになりやすい。議論になりづらい。たんに悪いとか、たんによいというさいに、よいか悪いかの一方だけをとり上げているから駄目なのだとは言いがたく、そこにあるていどきちんとした論拠があるのであれば、言っていることが当たっていることがあるから、なるべく受けとめたいものだ。

 日本という国をよしとするのはやらないようにしたい。それをやらないようにすることの論拠は色々とあるかもしれない。その中の一つとして、なぜ日本の国をよしとするのをやらないようにしたほうがよいかというと、たとえばそうした歴史をあらわすことで、利得を得ようとしてしまうのがある。

 日本の国にとって都合のよいことをすると利得を得られる。こうなるのは危険だ。戦前や戦時中の日本はこれによって戦争につき進んでしまったからである。日本の国をよしとすることで、精神や物質の利得を得るのは、平和を損なう危なさがあるのに注意をしておきたい。

 参照文献 『人はなぜ戦うのか 考古学からみた戦争』松木武彦

大学の医学部による釈明は、手段にたいするものだが、目的がどうなのかというのをはっきりとさせてほしいものだ

 受験の時点では、女性のほうが精神的な成熟が早い。意思疎通の能力も高い傾向にある。それがあるために、受験の判定の公平性を確保するために、男女間の差を補正したつもりだった。大学の医学部で、女性をひそかに減点していたことの理由として、大学側はそう言っていると報じられている。

 大学の医学部は、受験のさいに、女性の点数をひそかに減点していたという。それでとり沙汰されている。大学の医学部が行なっていたことは、積極の父権主義(パターナリズム)と見られる。これを行なうのは、たとえば男性が不当に差別されているときに、それを何とかするための手だてというのならあるだろうが、そうであるとは見なしづらい。

 現実の社会のあり方として、男性が優位であることはあっても、女性が優位であることはあまりないのではないだろうか。現実においては、男性のほうが優位になってしまっているとすれば、男性にさらに下駄を履かせるのはふさわしいことだとは言えそうにない。

 大学の医学部が言っていることにおいては、受験の時点においてとられている仮定と、そのごにおいてとられる仮定とが、どちらも信ぴょう性が確かだとは見なしづらい。受験の時点での仮定とそのごの仮定として、女性が一般としてどうとかというのと、男性が一般としてどうとかというのは、個人のそれぞれに差があることを無視している。

 受験の時点では、女性のほうが精神の成熟が早く、意思疎通の能力が高いと言うが、これは観念による思いこみになっているのではないか。ステレオタイプになっているところがある。女性であっても精神の成熟や意思疎通の能力はそれぞれでちがう。男性であってもまたそうだ。

 個人のそれぞれによってちがうし、受験の時点においてどうなのかと、そのごにどうなのかというのは、決めがたいものだ。性のちがいによって還元できるのだとは言いがたい。性のちがいを二元論ではなく連続によるものだと見ることができる。ほかの色々なことが関わってくることで決まるものだから、性のちがいによって決めるのはふさわしいとは言えそうにない。

 手段として、受験において女性の点数を減点するというのを行なっていたとして、その目的とは何だったのか。そこをはっきりとさせないとならない。目的として、男性の医師が多くなって女性の医師が少なくなるようにするのがとられていたのだとすれば、目的と手段とのつながりはあるが、とられている目的と手段はどちらも正しいことだとは言えそうにない。そこには、男性のほうが優秀だとか、男性のほうがこれまでの制度の中において都合がよいといった、まちがった前提条件がとられているのではないだろうか。

国会などの政治の仕組みを変えるべきだという与党の議員の発言には、賛同できるところがある(大幅に変えるというのではないとしても、微調整はあったらよい)

 野党が悪いのではない。悪いのは国会の仕組みである。このままのあり方の国会をつづければ、どこが野党や与党になっても同じようなことをやる。時間と税金と議員の無駄づかいになっている。これをそのままにするわけには行かない。自由民主党の議員はそう言っている。これには個人としてはうなずけるのがある。

 自民党の議員は、国会の仕組みが悪いと言う。これには個人としてはうなずけるが、こう言ってしまうと、いや悪いのはいまの与党だ、というのが脇に置かれてしまう。国会の仕組みが悪いと言ってしまうと、いまの与党が行なっている悪さが脇に置かれてしまうことのまずさがあるのは確かだ。与党をよしとする人にとっては、いや悪いのは野党だ、と言うかもしれないが。

 自民党の議員が言っていることは、人間の性(せい)として見られる。この性はセクシャルの性ではなく、人間一般がもつ人間性という意味だ。性悪説性善説があるが、これは人間の性を善と見るか悪と見るかである。それらとは別に、置かれた状況によって善になったり悪になったりするという説がある。

 性善説は中国の思想家の孟子が唱えたという。性悪説荀子が唱えたという。それらとは別に、置かれた状況によって善にも悪にもなるとしたのは告子や韓非子だという。

 自民党の議員は、国会の仕組みが悪いと言っているが、これは告子や韓非子の言っている、置かれている状況を見るものに少しだけ通じるのだとすることができる。自民党そのものが悪だったり、野党が善だったりというよりは、どこが与党になってもいまの自民党に似たようなことをやってしまい、どこが野党になってもいまの野党と似たようなことをやってしまう。そうだとすれば、そうなってしまう要因に国会や政治の仕組みがあるとして、そこを改められればよい。

 時間と税金と議員の無駄づかいになっているという点にはうなずかざるをえない。これらは何によっているかというと、色々な要因があるだろうけど、一つには、与党である自民党のいまの政権が正しさ(適正さ)というのをないがしろにしていて、効率に走っているためなのがある。

 正しさが欠けた中で効率に走ると、時間や税金や議員がいちじるしく無駄になる。たとえば、国会の議論においてご飯論法や信号無視話法を与党が行なうのは正しくないが、これをすることによって時間や税金や議員の大きな無駄づかいになる。これについては主としていまの与党による政権が悪いと言うしかない。

国民から選ばれて大統領になったのだから、大統領のやろうとしていることに反対するデモについて、デモをやっている人たちの言い分はまったく無視してしまってもよいのだろうか

 国民から選ばれたのがフランスのエマニュエル・マクロン大統領だ。マクロン大統領が進める政治の公共政策がある。それにたいして反対しているのがフランスでおきている過激派のデモだ。このデモがおきたことで、なぜマクロン大統領は自分が進めようとしている公共政策を変えなければならないのか。変える必要はないのではないか。テレビ番組では司会者がそう言っているようだ。

 たしかに、マクロン大統領は国民から選ばれることでその地位についたのはある。それで自分がやろうとしていることを進めようとしている。それにたいして反対するデモがおきた。デモがおきたのだとしても、それはそれとして、自分が進めようとしていることをあくまでもマクロン大統領はやるべきなのだろうか。やるのがふさわしいことなのだろうか。必ずしもそうとは言えないものだろう。

 なぜフランスでデモがおきたのかといえば、マクロン大統領がやろうとしていることについて、国民の理解が不十分なのがあるのではないか。国民の理解が不十分なままでものごとを進めようとしたことで、国民の怒りを買い、デモが引きおこされることになった。

 論点としては、国民から選ばれることでマクロン大統領はその地位についたというのとは別のものをとることができる。ちがう論点として、デモが引きおこされたことにおいて、マクロン大統領が進めようとしていたことが、正しいことだったのかや、のぞましいことだったのかがある。これが正しくなくのぞましくないものだというのが、デモを行なっている人たちの主張だろう。

 たとえ国民から選ばれて大統領になったからといって、それを根拠にして、マクロン大統領が進めようとしていることが、必ずしも正しいことだとは言い切れそうにない。それは必ずしも導かれないものである。また、デモを行なっている人たちが持っている主張が、必ずしもまちがったものだと言うことはできそうにない。デモを行なっている人たちがもつ主張は正しい見こみがある。

 国民から選ばれて大統領になったことは、それをもってして正しい政治のものごとを行なうことを絶対かつ必然に導くものとは言えない。国民の代表を選ぶことで大統領となったのだから、国民を間接として代表しているのにとどまる。そこにまつわる欠点がある。国民にたいして本当のことを言わず、嘘を言う宿命をかかえている。これは日本でも多くおきていることだ。

 マクロン大統領がおし進めようとしていることの逆が正しいことがあるし、デモを行なっている人たちが持つ主張が正しいことがある。そこは色々なふうに見られるものだろう。マクロン大統領は国民から選ばれることで権威をもち、力をもっている。しかし、力(might)と正しさ(right)は分けて見るべきだろう。力を持つ者が正しいとは必ずしも言えるものではない。

制度を通して外国から日本の社会にやってくる人を含めて、日本の社会にいる人にとられてほしい権利と義務

 いわゆる移民ではない。移民政策ではない。外国人材の活用や受け入れである。外国人技能実習制度において、与党である自由民主党の政権をになう首相はそう言っている。

 じっさいには移民である、外国からやって来る人たちにおいて、受け入れる日本の社会は、何をやってはならないのか。何をやることがいるのか。さまざまにある中で、権利については、制度を通して外国からやって来る人は消極の権利をもつ。そして受け入れる日本の社会は消極の義務を負う。

 消極の権利とは、他者から危害や加害を加えられないでいられるものだ。消極の義務とは、他者に加害や危害をおよぼしてはいけないものだ。物理として暴力を振るったり、精神の嫌がらせ(ハラスメント)をしたり、生活ができなくなるほど貧しい目にあわせたりするのは、消極の権利が損なわれている。それの侵害だ。そして受け入れるほうは、消極の義務を果たしていることにはならなくなる。

 制度を通して外国からやって来る人たちを日本の社会に受け入れるのであれば、消極の権利を侵害してはならないし、消極の義務を果たさなければならない。これは、外国からやって来る人に限らず、日本の社会にいるすべての人に当てはまるものだ。すべての人の消極の権利が守られて、消極の義務が果たされるのがのぞましい。そのためには、貧富の差や格差による不公平や不平等がなるべく小さくなることがいる。

 生活が苦しくなるほどの低い賃金しか払わないのや、長時間の労働をさせるのは、加害の行為をしていることになる。消極の権利を損なっているし、消極の義務を果たしていない。労働をしている中では、生活が送れて、衣食住を整えられるくらいの賃金をもらえることがいる。長時間の労働をさせられずにすんで、なるべく時間が短くてすむのならそれに越したことはない。労働(賃労働)とは経済権力に従わせられる隷属だからだ。そこに自由はない。

 積極の義務や権利というのは、他者にたいして貢献する(他者から貢献される)ことであるという。それをできるだけやれるようにする。消極の義務や権利はとりわけ重んじるようにして、それが損なわれたり果たされなかったりしないように気をつけたい。もし損なわれたり果たされなかったりしている(してきた)のであれば、あるべきではないことだ。できるだけ早急に改められることが必要だ。積極の改善の策をほどこすことがいる。放ったらかしのままにしないようにしたい。

 参照文献 『貧困の倫理学馬渕浩二

野党が支持されないことには色々な要因がからんでいるだろうから、必ずしも野党の力の不足によるのだとは決めつけられそうにない(原因の帰属がどこにあるのかが関わってくる)

 与党の数の力によって押し切られた。野党はそうした文句を言う。しかし、有権者である国民は国会の野党の議席を少ない数しか与えていない。その理由について野党の議員は考えていないし反省もしていない。そうしたツイートがツイッターで言われている。

 野党はなぜ有権者である国民から、少ない支持しか得られていないのか。これには色々な要因がからむ。一つの要因があるだけとは言えそうにない。そのうちで、一つの要因としては、具体の野党というよりは、抽象としての野党の意義が十分に理解されていないのではないか。

 野党は与党にたいする反対勢力(オポジション)だ。自由民主主義では、与党が一党あるだけではなく、野党があることがいる。与党と野党が複数あることでお互いに競争がとられないとならない。与党がすくいそこねてとり落とした民の声を野党はすくい上げる。そうして民の声が包摂される。

 いまの日本のあり方では、野党の力がたいへんに弱い。弱いことによって、競争性や包摂性がうまく働いていない。与党が多くの議席をもち、多数の数をとってしまっている。与党と野党のあいだに競争が働いていないために、与党は腐敗してしまっている。与党の政権は説明責任(アカウンタビリティ)を果たさず、ご飯論法や信号無視話法を多く用いているしまつだ。与党の政権が説明責任を十分に果たさなければ競争性ははたらかない。

 野党の力が弱く抑えられてしまっているために、与党の腐敗と暴走に歯止めがかかっていない。これは、野党の力の不足というよりは、与党による自由民主主義の破壊によるところがかなり大きいだろう。与党が破壊しているのは自由民主主義に限られるのではなく、色々なものを壊していると見られる。

 これまでの選挙においては、与党は多くの議席を得て、多くの数をもっている。それはたしかだが、あくまでもそれはこれまでの選挙のやり方を前提条件にしたものだろう。

 これまでの選挙では、国民にとって大切な政治の争点がきちんとおもて立ってとり上げられているのか。多くの国民が選挙に積極の関心を持てるようになっているのか。あきらめや無関心におちいらされていないか。政治家(候補者)がお互いに建設的な主張をして、建設的な議論ができているのか。答えはすべてノーであって、イエスであるとは言えそうにない。

 なぜ野党が国民から少なくしか支持されていないのかを反省する。それを考える。野党はそれをすることがいるというよりも、むしろ、それとは別に、選挙や政治のあり方を反省することのほうがより重要なのではないだろうか。これまでの選挙のやり方やあり方ではたして本当によいのか。もっと充実した中身のあるやり方をすることができれば、それができるように改めるようにしたい。

 政治においても、与党が多くの議席や数を得ているという既成事実をそのままよしとするのではなく、そのことが本当にふさわしいことなのかや、大衆迎合(ポピュリズム)によって多くの数を得てしまっていることを危ぶむことがいる。

 反省するのや考えることにおいては、野党が自分たちの議席や数の少なさを反省したり考えたりするのはあってよいが、それよりもより大事なのは、もっと大きな論点や視点にあるのではないだろうか。

 もっと大きな論点や視点として、日本の全体の選挙のあり方や政治のあり方や社会のあり方が、はたしてこのまま進んでいってよいのかや、これまでに与党が進めてきたあり方でよかったのかを、ふり返ることをしつつ改めて見ることができればよい。

 たんに、野党が弱いから駄目だとか、野党が自分たちで考えたり反省したりすることが足りていないから駄目だとか、そういった話ですむのだとはどうも見なしづらい。野党が弱くて、少ない数しかもっていなくて、あまり支持されていなのは、与党による独裁になっていて、社会における寛容性がそうとうに損なわれてしまっていることを示している。

 野党がいることの意味すなわち必要性が十分に理解されていないので、少ない数しか許容されていない。それですべてが尽くされるわけではなくて、もっと色々な理由があるだろうけど、一つにはそうしたことがあげられる。