よっぽど公平な中身でもないかぎり、ゴールポストは合致しなさそうだ

 ゴールポストが動く。これをムービング・ゴールポストとも言うそうだ。ここで言うゴールポストとは、日本と韓国とのあいだの慰安婦問題についての合意をさしている。合意の到達点が動いてしまってはまずい。こうしたなかで、自由民主党安倍晋三首相は、ゴールポストは動かない、との見かたを述べていた。

 はたして、日本の側は合意の到達点であるゴールポストを動かしてはいないにしても、韓国の側はそれをしているのだろうか。そこがちょっと疑問だなという気がする。日本と韓国とのあいだに共通のゴールポストがあるとの前提があるわけだけど、それ自体が錯覚なのではないだろうか。そのようなものはないわけである。

 もし、ゴールポストが日本と韓国にとって等距離にあたるようなところにあれば、どちらの労力も同じくらいになる。そうして等距離の場所にゴールポストが置かれているのであれば、ことさらに日本が韓国にたいして合意を守れと主張することはおきづらいのではないか。うら返せば、どちらかといえば日本の側に近い場所にゴールポストが置かれているために、日本が韓国にたいして合意を守れと主張することがおきる。そうした見かたもとれるかもしれない。

 日本には日本のゴールポストがある。そのいっぽうで、韓国には韓国のまた別のゴールポストがある。韓国は、自分たちのゴールポストにどんどん球を蹴りこんでいっている。そうしてとらえることができそうだ。

 安倍首相が言うように、ゴールポストは動かないとのとらえ方は、あくまでも日本の側のそれであるにすぎない。なので、日本の側のゴールポストが動かないのだとしても、韓国の側のそれとはまた別の話となってくる。

 こうしたゴールポストの不一致は、ある点ではしかたがないことであるかもしれない。日本と韓国とはおたがいに主権国家として別なものとしてある。そのため、それぞれの主権国家によるゴールポストの持ち方が許されてしまう。そうしたありかたを乗りこえるには、かなりの困難があることはいなめない。日本と韓国とのあいだには(正と反といったような)矛盾があるといえ、その矛盾によってそれぞれのゴールポストができてしまうことになる。

 たとえ一時的、いやもっといえば一瞬のことであるにせよ、日本と韓国とのあいだで意見が一致したのは、意義があることかもしれない。それは日本と韓国とのあいだに温かい義理ができあがったことをあらわす。そうした温かい義理は、ほんの一瞬ですぐさま冷めてしまう。芯からの温まりではなく、ほんの表面が熱せられただけだから、すみやかに冷たい義理となる。内からの本音による心情が前に出てくることになる。

 ゴールポストとは、そこに到達するべきだといった当為(ゾルレン)であると見なせる。これが日本と韓国とでおたがいに利益となるような一つのものであればそれに越したことはない。しかしながら、日本には日本の利益があり、韓国には韓国の利益がある、となってしまうのもたしかである。なすべきものである当為とは別に、現実から見ると、もっと別の強い要求が内なる心理から生じてくる。そうしたことをふまえると、なすべきものである当為のゴールポストは、絶対化されず、相対化されてしまうのはいなめない。

 過去にはペーソスをもち、未来にはユーモアをもつ。作家の星新一氏は、そのようなことを言っているそうだ。問題が問題なだけに、未来にたいしてユーモアをもつのは難しいことではあるかもしれない。どうしても深刻にならざるをえないところがある。そのうえで、未来志向による両国の関わりを目ざすのであれば、そこにゆとりとしてであるようないくばくかのユーモアの切り口があってもよさそうだ。ユーモアと言ってしまうと語弊があるのをまぬがれそうにはないが、二者関係においてはどうしても緊張が高まりすぎてしまうのがあるから、そこを緩和することもいりそうである。

 小さなことからこつこつと、と言われるように、段階をふんで実行が易しいことからやってゆくのもよさそうである。大目標があるとして、それは実行が難しいのだとすれば、小さい目標に細かく分けてしまう。そのようにせずに、いきなり大目標を実行せよとしてしまうと、挫折するおそれが高い。それはやり方がまずいのが原因となっているとも言えるだろう。

 終極目的(テロス)をどこに置くのかといった見かたもとれる。それを、たとえば両国の友好に置くことができる。さらに具体的には、慰安婦像や徴用工像をあまりたくさん設置しないでもらう(できるだけなくしてもらう)ことを終極の目的とすることもできる。そのようにするのにおいては、目的さえ達することができればよいのだから、手段はとくに限られない。焦ることもない。かならずしも合意やゴールポストにこだわらなくてもよいわけだ。合意によって圧力をかけるのもよいだろうけど、それは目的を達するために本当に有効なのかをそのつど見てゆくことがいる。

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全体は虚偽であるとも言われるから、全体に奉仕することも虚偽であるかもしれない

 戦争において、国のために戦った。または戦わせられた。それで命を失うことになったとして、それははたして崇高なことなのだろうか。これについては、功利主義における例と少しだけ似ているかもしれないという気がした。

 功利主義における例の一つでは、遭難中の船に、船長と船員と、3人のきわめて優れたノーベル賞級の科学者がいるとされる。ここで科学者のうちの一人が、一つの提案をする。船員を残りのみなのための食料として犠牲にするのである。それによって、船員は犠牲となるが、そのかわり人類全体にとっての益は損なわれないですむ。

 船員を犠牲にすることによって、科学者の人たちの命がつなぎ止められるため、功利性が保たれることになる。功利主義の観点からすれば、この判断は肯定することができるような気がしてくる。しかし、それ以外の観点を持ち出すことができるのもたしかだ。

 はたして、このような功利主義による説明を船員が聞かされるかどうかは分からない。かりに聞かされるとして、船員はうんそうだなとして納得するだろうか。納得するかもしれないし、納得しないかもしれない。

 功利主義はとりあえず置いておけるとすると、船員には自然的権利がある。自分の命を保つことができるものである。もしそれが叶わなくなるのだとすれば、その時点において、船員にとっては、社会状態が破られて、自然状態となる。万人が万人にとって狼となるようなあんばいだ。

 個人主義をふまえてみると、人間の一人ひとりの命が保たれるようであることがいる。もしそれが損なわれてしまうとすると、そこで持ち出されてくる理由としては、たとえば国家の論理みたいなのがありえる。こうした論理について、一見すると正しそうな気がしてくるのだとしても、必ずしも完全に基礎づけることはできそうにない。

 正義とは、かくあるべしといったような当為(ゾルレン)であると言えそうだ。そういった正義は、一つだけなのではなく、いろいろな立場においていろいろなものがありえる。誰が犠牲になるべきなのかとして、そこに筋道を立ててつじつまを合わせることができるけど、それだけがすべてではない。というのも、そこでは、同一の世界観による駆り立てが行なわれてしまうのがある。人間が手段として道具のようにあつかわれてしまう。そうではなくて、それぞれの人間が目的としてあつかわれるのが理想だといえそうだ。じっさいには難しいものではあるだろうけど。

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どちらの側にも非があるとしてしまうと、価値についてをとり落としてしまうのがありそうだ

 どちらにも非がある。アメリカのドナルド・トランプ大統領は、ヴァージニア州でおきたもめごとについて、そのように述べたという。このもめごとは、極右団体のデモにたいして、それの止めに入った対抗派とのあいだでおきたものである。これにより、女性が 1人死亡し、19人のけが人が出たと報じられている。

 トランプ大統領は、どちらにも非があり、どちらにも責任があると述べたそうだ。このように述べてしまうと、ことわざでいうあぶ蜂とらずみたいになってしまう。もめごとをおさめることはのぞめそうにはない。

 たしかに、ぶつかり合いがおきてしまったのについては、どちらにも非があるのかもしれない。それは、どちらもが結果として同じようなありかたになってしまったと察せられる(あくまでも想像にすぎないが)。そのあり方とは、強い自我によるものである。この強い自我とは、我とそれといった姿勢だ。これは、哲学者のマルティン・ブーバーが説いたものであるそうだ。

 極右勢力は、自分たちである我から見て、その右翼的思想にそぐわない人たちを、それとして見なす。いっぽう、対抗派において、おそらくではあるが、自分たちである我から見て、その左翼的思想にそぐわない極右勢力の人たちを、それとして見なした。こうしたお互いのありかたによって、不幸にもぶつかり合いがおきてしまったと推しはかれる。

 こうしたぶつかり合いの表向きのありかたを見れば、たしかにどちらにも非があると言えないでもないかもしれない。しかしそれだけで終わらせてしまってはいけない、との切実な声が上がってきているのを無視することはできそうにはないのもたしかである。

 ぶつかり合いにおいては、強い自我による、我とそれのありかたがとられてしまったのがありえる。それはそれとして、そもそもどうあるべきなのかといった視点をあらためて見てゆくことがいりそうだ。というのも、強い自我による、我とそれのありかたでは、白人であるなら白人の、単一のものを至上とする主義が成り立ちやすいのはいなめない。

 そうした単一のものを至上とする主義でないようにするためには、一つには、弱い自我による、我と汝のありかたをとることがいりそうだ。このありかたをとるようにすることができれば、自民族中心主義(エスノセントリズム)を脱することに多少はつながりやすい。我と汝をともに尊重することができるのだとすれば、雑種として、いろいろな人たちがともに混ざり合いながら、調和してやってゆくことがのぞめる。人間はもともと直立猿人からきているのは同じであり、そこからすると、連帯性(兄弟性)がとれないでもないだろう。こうしたことは、建て前であり、理想にすぎないのはあるだろうけど、そうしたものがないと無秩序をまねく危なさもありそうだ。

 トランプ大統領は、強い自我による指導者としてやっていっているのがある。そういう主体的な面があるために、なかなかそれを曲げることができづらい。いわば、自分で自分を仕立て上げているようなところがあるのだろう。もしそうしたありかたを曲げてしまえば、トランプがトランプでなくならざるをえない。逆にいえば、トランプによるトランプというくびきのようなものを、手放すことができるかもしれないのに、その機会を自分でみすみす逃してしまっている、ともいえるかもしれない。

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原発をどうするのかと、現政権が保たれるのがよいのかは、少しだけ似ているところがあるような気がした

 原子力発電所の是非を問う。そうした問いが有効性をもつのは、原発を導入するかしないかのはじめにおける分かれ目のときにかぎられる。導入されてからずいぶん経ってしまった今となっては、原発は是と見なされるよりほかはない。原発のことについて対応する政権の要職者が、このようなことを述べていたようである。

 こうした原発の是非のありかたを問うのは、導入からずいぶん経ってしまった今となっても、いやむしろそれだからこそ有効性をもつところがありそうだ。その点については、固定した見かたがとられないようにすることができる。肯定性である確証をもつだけではなく、否定性による反証によって見ることもできるだろう。

 原発についての賛成か反対かといった問題は、一強他弱といわれる現政権がこのまま維持され続けるのがよいかそれとも退陣(交代)したほうがよいのかといった問題とちょっとだけ似ている。この二つの問題については、維持するのがよいとも見ることができるし、その逆にやめてしまったほうがよいと見ることもできる。大きくいえばそのようにできそうだ。

 それ以上の有益な代替案があまり見あたらないとの点においては、原発と一強他弱の現政権とは相通じるところがある。だからこのまま維持されるのがよいとすることもできる。負の面はあるけど、そこには目をつぶるよりない。これは今のありかたを維持するのが妥当だとするありかただ。

 今のありかたについて、妥当とするのではなく、不当と見なすこともできる。原発でいえば、算定される費用が低く見積もられているのを、破局的な事故のおそれをふまえれば、その費用がもっとはね上がることになる。トイレのないマンションといわれるのがあるように、核のごみをどうするのかの解決がむずかしいのも見のがせない。こうしたやっかいなことがらは、たんに(正しい知識の不足からくる誤りである)欠如モデルをあてはめてそれでこと足れりとするのはできづらいものだろう。

 一強他弱による現政権についてみても、そこには社会関係(パブリック・リレーションズ)のまずさが見うけられるような気がしてならない。たとえば何かの不祥事がおきたとして、それをたんに印象操作だとか、偏向な伝えかただとか、でっち上げだとかして片づけてしまうのは適切とは言いがたい。そうしたことで片づけられたとはできないのはたしかである。支持している人にとっては、十分に片づけられたことにはなるだろうけど。

 なんの悪いこともしでかしてはいないのに、濡れ衣を着せられているだけなのだとしたら、はなはだ心外な気がするのは自然である。しかしそのさい、社会関係である PR の文脈をおろそかにするのは賢明ではない。そうした PR の文脈がからんできてしまうのを想定しておくのが賢明である。なぜなら、あらゆるものは誤解されるからである。誤解への対処をまちがうと、けっきょく損をすることになる。そうした現実はありえるだろう。

 もし個人や少数者をよってたかって叩いてしまうのであれば、弱者をしいたげているのであり、これを独力で何とかしようとすることは困難だ。できるかぎり弱者や少数者をおもんばかるようにして、歩み寄れるようであるのがのぞましい。そのいっぽうで、権力者は強者だといえるので、PR の文脈において説明の責任がある。そうした責任にくわえて、協力をすることもいる。そうした説明や協力がなされないと、一方的なありかたにならざるをえない。

 原発の問題と、一強他弱による現政権とを、同じようにして並べて話してしまうのは、雑なところがあるかもしれない。そのうえで、この二つについては、ほかにめぼしい代替案がないとして、維持されることの妥当性がそれなりに高いのだとしても、だからといって完ぺきに基礎づけられるものでもないのがありえる。いろいろな条件のもとにおいて、いろいろな是非の見かたをとることができるのがあるだろうから、肯定と否定の両面でとらえたほうがよいのかもしれない。

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一問一答式のようには答えが出てこないのであれば、急いで唯一の総論(結論)を出さなくてもよいのもあるだろう

 日本の戦前や戦時中について、あたかも自分で見てきたようなことは語れない。当たり前ではあるが、そうした面があると少しだけ省みられる。いっぽうで、じっさいに見たり経験したりした人であるのなら、語ることができるのはたしかである。しかしそのさいに、自分で見たり経験したりしたことは、何らかの器みたいなものに移すことがいる。経験を入れる容器のようなものである。

 戦前や戦時中に日本がどうであったのかだとか、または日本の憲法をどうするだとかについては、自分で自分を認めるようなところがある。これは自己言及がからむので、やっかいな作業である。芸術では、こうした性質のものは、モダニズムの芸術であると言われているそうだ。一人称の私についての主題をあつかったものだ。たとえば文学ではフランツ・カフカの小説などがそれにあたるという。写実主義のようには受けとることができづらいものとなっている。

 学校での試験のように、一問一答式で、問いと答えが一対一の対応をしてはいない。そうしたものであるとすると、その点に注意するのがあってもよさそうだ。一つの答えではなく、多くの答えが可能であるといったふうでありえる。

 鏡のように、唯一にして絶対の答えをうつし出すようにはなっていない。そのようなあり方をふまえて見ることができる。どういった文脈をとるかによって、意味づけが変わってくることになる。それがあるので、一つの文脈にだけよるのではなく、いくつもそれを持ち替えるようにできれば、固定された見かたにおちいらないですむ。

 なにも、一つの日本であるのではなくて、いくつもの日本があってもよい。そうした見かたもとれるという。いろいろな過去の負の痕跡が日本だけではなく世界(東南アジアなど)の各所にあることをふまえれば、そうした痕跡による部分について、全体と照らし合わせてみる。たとえ小さな痕跡だとしても軽んじないようにする。それによって、いろいろと整合するいくつもの見かたをとることができそうだ。そのさい、全体と部分とが不整合になることについて気をつける(それを避けるようにする)。

 主体としての日本と、客体としての日本とがありえるとすると、主体による見かただけが正しいとは限られそうにはない。盲点や、見落としや、未知なるありようもありえるだろう。主体が善で、客体が悪であるとしてしまうと、客体に悪を押しつけてしまう。主体にもまた非が少なからずあるとするようにできれば、一つだけではなくいくつもの見かたをとりやすい。

 昼の視点と夜の視点といったものもありえる。この 2つがあるとすれば、昼の合理による視点だけで割り切ることはできそうにはない。もしそのようにして割り切ってしまうと、夜の不合理な視点が隠ぺいされてしまう。夜の視点とは、廃墟であるようなものである。暴力のまん延によって、すべてが廃墟と化してしまったような荒廃したありようだ。たとえ昼のさなかの繁栄を謳歌しているのだとしても、つねにわれわれは過去の廃墟である夜の視線にひそかにさらされているのもありえる。昼の世界に向けられた、夜の反対世界からの視線だろう。そうした視線やまなざしを十分にくみとることがたまにはあってもよさそうである。

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矮小化してしまうよりかは、全否定するほうがよいような気が個人的にはする(戦争のあやまちについては)

 全否定は過去を見あやまる。政治学者の三浦瑠麗氏は、東京新聞記事において、このように述べていた。太平洋戦争において、極端に日本人の人権が損なわれたのは、2年間のあいだにすぎない。せいぜい、1943年から 45年の間だけだという。

 そのように 2年間の間だけにかぎってしまうのは、ちょっとどうなのだろうという気がする。全否定が極端なのだとしても、かといって矮小化するのもまずいだろう。戦前や戦時中に日本が自国民や他国の人へおよぼした悪い行ないは、十分に一般化するに足りることだと見なせる。これを矮小化したり限定化したりするのには個人的にはあまり賛同できない。

 記事の中で述べられている三浦氏の意見については、正直いって、矛盾がたくさんあるのではないかという気がする。ちょっと偉そうなことを言ってしまうけど、できるなら、矛盾は一つだけにしぼってほしいところである。いくつも矛盾があると、いちいち指摘するのに労力や時間がかかってしまう。とはいえ、こうしたことは、たんに受けとるほうが勝手に見いだしていることにすぎないとも言えるものではある。

 護憲派改憲派も、ともに志が低かったり、小さかったりする。そうしたことがあるのだとしても、だから駄目だとするのには疑問が生じるのもたしかだ。かりに志が低いのだとしても、いったいそれの何がいけないのだろうか。逆にいえば、志が高かったとしても、それによってめちゃくちゃなことをしでかしてしまうよりはずっとましだろう。志が高いのをもってよしとするのは、日本陽明学の発想のような気がする。

 陽明学については、くわしくは知らないから、とらえ方において的を外しているおそれがある。そのうえで、こうした日本陽明学からの発想は、どちらかといえば、車でいえばアクセルを踏むようなありかただといえる。そうして加速してしまうのではなく、それに待ったをかけるブレーキの視点も欠かせない。

 ブレーキからの視点がいるのについては、一つには、今の日本はそれほど民主主義が成熟しているとは言えないし、人権もきちんと保障されているとは言えないような気がするからだ。民主主義については、成熟ではなくむしろ退廃しているとすら言えるふしがある。人権について見てみても、どうもそれを保障するのに手抜きや手ぬかりがされてしまっているように見うけられる。みなに、生きるうえで基本となる自由の幅が、平等かつ十分に与えられているとは見なしづらい。

 日本の警察は優秀で、抑制がきいているともいうけど、これについてもちょっとうなずきがたい。というのも、ほんとうに抑制がしっかりときいているのであれば、警察は容疑者を逮捕することができないのではないだろうか(現行犯を除いて)。容疑者というのは、疑いをかけられているわけだから、ほんとうに抑制をきかせるのであれば、そうした疑いをもってはならないものであるだろう。疑うのは、有罪推定の前提に立ってしまっているからだ。これはかなり極端な話ではあるわけだけど。

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存立危機事態の主語を(日本だけに限定せずに)広げてしまうと、修辞におちいってしまいそうだ

 アメリカのグアムにある米軍基地が攻撃されたとする。もし北朝鮮によってそうした攻撃がなされれば、日本は存立危機事態となる。集団的自衛権を発動できることになる。自由民主党小野寺五典防衛相は、そのようなことを述べていた。この発言において、なぜ、アメリカのグアムにある米軍基地が攻撃されると、日本の存立危機事態になるのだろうか。

 集団的自衛権は、日本の憲法ではそれを行使することは認められていない。しかし、国際法ではその権利が認められている。ここで要点となるのは、国際法と日本の憲法をごちゃ混ぜにせずに、あくまでも分けてとらえることにあるという。いわば、よそはよそ、うちはうちである。よそとうちとを混ぜてしまわないで見てみると、日本の憲法では個別的自衛権が解釈によって認められるにとどまっている。

 国際法で権利が認められているのだから、集団的自衛権を行使してもかまわない。このように見なしてしまうと、日本の憲法がないがしろになってしまう。ここはあくまでも、国内の建て前を守ることがいるところだという気がする。せっかく国内に建て前として持ち出すことができる理由があるのだから、(言い方は悪いかもしれないが)わざわざ出てゆかなくてもよいのではないか。

 集団的自衛権は、ほんらいは集団的他衛権であるとも言われている。そうしたものを用いるのにさいして、要職に就いている人が勝手に決めてしまうのはうなずきがたい。危機だからというのは決定的な理由とは言いがたいものである。せめて、国民のみなを巻きこんで色々な意見を出し合い、議論したうえでという過程がとられることがあるのがのぞましい。そうした過程すらとられず決めてしまうのであれば、権力の濫用にあたる。

 ほんらいは日本の憲法では認められていないのが集団的自衛権である。そのうえで、(百歩ゆずって)かりにその権利を持ち出すのだとしても、何が何でもそれを使わなければならない、といったことではないだろう。使わないでいることもできるはずだ。

 そうした権利をいうよりも、むしろ義務のほうに目を向けるべきだという気がする。憲法尊重擁護義務は、とりわけ権力者において、その義務を果たさないでもよい自由はない。その(例外的な)自由があるとするのは主権の論理であり、それは独裁制に行きつく。そうしたおそれがあるから、危ないことはたしかである。

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隠ぺいしてしまうのではなく、できるだけ明るみに出して、発見(discover)するほうがすっきりとすることはたしかである(cover しておおい隠してしまうのではなくて、それをとり外すようにする)

 疑惑が国会でとり沙汰される。そのさい、当事者をその場に呼んでくるのでないと、なかなか疑惑が解明されづらい。追求される側が招致に協力的でないのは残念だ。解明されてしまうとまずいことになるから、あえて呼ばないのだと受けとれてしまう。これは、(当事者の)不在による現前みたいなところもある。ほんらいその場にいる必要のある人が不在であるためにかえって現前されてしまうといったあんばいだ。

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いきなり再起動されていてちょっとだけびっくりした

 オペレーティング・システムが更新プログラムによって更新される。そのさい、再起動がいるわけだけど、きちんとこちら側に都合をたずねてからことを運んでくれるようになっていた。しかし新しいウィンドウズだと、何もこちら側にたずねずにことを運んでいってしまう。これは政治でいえばタカ派的な進めかただといえそうだ。機械の側から、またはマイクロソフト社の側からすれば、一刻も早い再起動をするのがいるのだろうけど、切れ目がなさすぎるのだとあまりに機械的である。

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たんなる偽ニュースならとるに足りないけど、本物の疑獄なのであれば、そこだけを外科的に切除はできづらいおそれがある

 政権の支持率が高く保たれてきていた。それをかりに健康なありようだと見ることができる。そうした健康なありようが損なわれてしまうのだと、病気におちいったことをあらわす。これは比喩として言っているつもりなので、ほんとうに健康であったり病気であったりするわけではない。

 政権への支持率が高くて、不支持率が低いのであれば、健康が保たれていると言ってよい。しかしそれが一転して、支持率が低くなり、不支持率が高くなるのであれば、病気におちいったと見ることができる。病気と言ってしまうといささか不謹慎ではある。そのうえで、そこの判定については、有権者の価値判断や倫理や道徳による見かたがかかわってくる。そのいかんによって線引きは変わってくるだろう。

 たとえば、政権の醜聞として、疑獄のようになってしまうようであれば、火の手が上がってしまったことになる。そうして火の手が上がってしまうまえに、いくつかのぼやみたいな前段階がありえる。その前段階でしかるべき対処ができていれば、のちに大きな火の手にならずにすむ。そうしたことが言えるのではないか。これをうら返せば、前段階としていくつかのぼやを放置してしまったがために、そのぼやが積み重なることによって、ひいては大きな火の手となってしまう。

 まだ前段階である小さい火がぼやなわけだけど、これは東洋医学では未病と言われるものにあたりそうだ。未病とは予兆のようなものである。その予兆をないがしろにせずにいちいち対処するのは一見すると面倒ではあるが、あとになってみれば楽である。これを見すごしてしまうことによって、じっさいの病気になってしまう危険さが大きくなる。

 人は色々な事情をかかえているわけだから、かりに前兆や予兆を見落としたとしても、とりたてて何か非があるわけではない。誰しもできれば健康でありたいものであり、健康を損ねたい人がいるとは見なしづらい。そのうえで、対処の楽さといった点に立てば、健康を少し損ねてしまっているくらいのところで手を打てれば、労力をそれほどかけないですむ。

 政権への支持率が高く、不支持率が低いのは、健康なありようであるといえる。その健康であるときに、ひそかに病気の種がまかれてしまう。そうした見かたをとることができそうだ。その種が芽を出して木になってしまうのを避けるためには、芽が出た段階でそれを認知して摘んでしまうことがいる。ひとたびしっかりとした木にまで成長してしまってからそれを切り倒そうとするのだと、下手をすると倒れた木の下敷きになってしまいかねない。そうした危うさがあるのがありえる。

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