犯罪というか、役人は公職者なのだから、公職者としての責任というものがあり、それを果たすことがいるのではないかという気がする

 はめられたのにちがいない。記者に役人が性の嫌がらせをしたことについて、じつは(じっさいには)役人が記者にはめられたのだとする。自由民主党の議員の人はテレビ番組の中でそのように語っているという。記者の人が、役人の音声を録音したものを週刊誌にわたしたことを、ある意味では犯罪だと言えるとしている。

 議員の人は、役人がはめられたとして、ある意味では犯罪だとしているけど、これはそのまま受けとることはできづらい。疑うことがいるものだろう。役人が記者にはめられたのだというのなら、はめたということの証拠を示すのがいる。録音とは別に、それがないのであれば、決めつけることはできそうにない。

 一つの文脈として、役人が性の嫌がらせにあたることを記者に言い、記者の精神が傷つけられたというのは、おおむねとれるものである。性の嫌がらせはいけないことだがとか、あってはならないことだがとかというのは、建て前としてのものであり、一般論であり、原則であるのをあらわす。この原則とは別に例外があるというのはできるが、例外を持ち出すよりも、まず原則から具体の例を見ることがいる。原則に照らしてみて、具体の例を見てみるようにして、それで性の嫌がらせに当たるのであれば、そこに主となる重心をおくのがよい。重心をずらしてしまうのはどうなのだろうという気がする。

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言っていることとやっていることが合っているとは見なしづらい

 行政の責任者として、その責任を痛感している。桜を見る会がもよおされた中で、首相はこのように語っていた。行政の責任者としてその責任を痛感しているということだけど、もしそうなのであれば、桜を見ている場合ではなさそうだ。膿(うみ)を見る会をやるのはどうだろうか。

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距離化では、遠ざけるのと、近づけるのがある(二つのあり方があるので、軽べつして遠ざけるのだけが現実なのではない)

 国際的な国どうしの政治において、二つの見かたがとれる。一つは現実主義であり、これはどちらかというと悲観主義のものである。争いは避けられないというものである。もう一つは国際協調主義である。この二つの見かたをとることができる。どちらかだけだというのだと、残りの一つをとり落とすことになりかねない。

 ほんとうに実現するかどうかはわからないけど、朝鮮半島では、北朝鮮と韓国が休戦している戦争を終戦にさせようとしているようであり、また北朝鮮核兵器の開発を放棄する動きを見せているという。これは国際協調主義のものだということができる。

 現実主義の、争いは避けられないという、悲観主義によるものを主として見ていると、もう一つのものをとり落とすことになる。どちらをも見ることができればよい。それによってつり合いをとりやすくなる。争いは避けられないというのはたしかにあるが、それは判断をどうするのかが関わってくる。悲観で見ると、争いでお互いがぶつかり合う確率は高くなるが、楽観で見ると、その確率は低くなる。

 いきなりお互いがぶつかり合うというよりも、そのあいだに何段階かあるとすると、そのあいだの段階をすべてすっ飛ばしてというのはあまりおきづらい。あいだに段階があり、それがいくつかある。いくつもの段階を経て、どうしてもこちらの集団としての存続がいよいよとれなくなりそうだということになって、はじめてぶつかり合うことになる。これはどちらかというと楽観によった見かたではあるけど、争い合うのだけが国際的な(または国内の)現実なのではないというのはたしかだろう。

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身内だからということでかばってしまうのであれば、けっきょく性の嫌がらせへの意識が低いのだと見なさざるをえないのがある(価値判断として、身内びいきにならないようにしたほうがよいだろう)

 女性の記者を、政治家などにつけなければよい。女性の記者を政治家などにつけてしまうから、性の嫌がらせがおきてしまう。財務相はそのように言っていた。女性の記者を政治家などにつけなければよいだけだとしている。これは問題の解決の一つの手としてはあるだろうけど、必ずしも納得することはできづらい。

 ほかの人も言っていることではあるけど、そもそもの話として、社会の高い地位に男性が多いというのが前提としてある。その前提を受け入れるのに待ったをかけられる。社会の高い地位に女性がもっと多くいれば、性の嫌がらせが今よりもおきづらくなるだろう。

 男性が有能だから社会の高い地位に多くいるとは必ずしも見なすことができないものである。有能だから社会の高い地位につくことができたというのもあるにはあるだろうけど、そうであるからといって、替えがきかないほどかというと、必ずしもそうとは言えそうにない。

 機会の平等はある程度はあるだろうけど、結果の平等が十分とは言えそうにない。不平等になってしまっている。そこを改められればよいのがある。性の嫌がらせを一つの問題とできるとすると、(美しい)女性の記者をしめ出すという手はとれなくはないかもしれないが、本当の解決につながっているとは言いがたい。表面ではなくて、構造を見なくてはならないのがあるし、男性の側の意識を変えないとならないのがある。文脈をすり合わせて行くことがいるだろう。なかなか難しいことではあるのはたしかだけど。

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取材された経験がないから的はずれになっているかもしれないけど、手段や形式(見た目)ではなくて、目的や実質を主としてとることはできないものなのだろうかというのがある(脱線しないようにする)

 記者が、取材する対象である政治家などに、取材をする。これを、目的論として見ることができるとすると、その目的に、政治家などから仕事である政治のことがらを聞き出したり尋ねたりするのがある。これは硬派である。もう一つには、政治家などからスキャンダル(醜聞)を引き出すのがあり、これを軟派であるとできる。

 記者は、硬派と軟派の二つの目的をもてるかもしれない。このうちで、記者が硬派の目的を持っているのだとすると、それを軟派の目的を持っているのにちがいないと見なすのは、とらえちがいになってしまうのではないか。

 建て前としては、たいていの記者はおそらく硬派の目的を持っているものだろうと言えるだろうから、その目的を優先させるというのはできないものだろうか。取材を受ける政治家などは、その目的を優先するようにする。手段に引っかかってしまわないようにする。手段に引っかかってしまうというのは、手段に気をとられてしまうということである。そうならないようにできるかぎりの工夫することはできないものだろうか。その工夫はできるのではないかというのがある。素人の意見ではあるが。

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外交に強いというよりも、交渉に強いか弱いかのほうがより重要なのではないか(交渉に弱いのは、創造性や柔軟性がないのをあらわす)

 外交に強いというのは、交渉に強い。そう言えるだろう。日本の首相がアメリカの大統領に会いに行き、会談をする。日本の首相ははたして外交に強いのかどうかを見ることができる。外交に強いかどうかは、交渉に強いかどうかが関わってくる。

 外交を重んじるのであれば、交渉に弱いようであってはならない。外交に強くて交渉に弱いというのは考えづらいのだから、交渉に弱いと外交にいちじるしく不利である。日本とアメリカの今のあり方では、日本は弱い立ち場に立たされてしまっていると見ることができそうだ。アメリカにたいして日本は(これまで以上に)強く出ることができないようになってしまっている。

 日本の国内では、政権与党は一強として、一見すると強いように見うけられるが、じっさいにはそうとは言い切れそうにない。交渉として見ると、反対勢力を敵に回してしまっていて、いちじるしい不満をおこさせてしまっている。これは短期ではそれほどのことでもないが、中期や長期で見るとのぞましいことではない。反対勢力を敵に回してしまうと、中期や長期では自他ともに損になることが見こめる。一人勝ちというのは、中期や長期ではなかなかできないものである。

 危険さ(リスク)を分散(ヘッジ)できていないのがある。危険さを分散させるのは、一点に賭けるのではなくて、つり合いをとることである。危険さを分散させるのは、権力をもっている者がしなければならないことであるが、そうであるにもかかわらず、反対勢力にそれを丸投げしてしまっている。反対勢力に丸投げしてしまっているので、危険さを分散できていない。答えを一つにしてしまっていて、単数になってしまっている。単数ではなくて、複数にしなければ、色々と不利になってしまわざるをえない。

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日本では関係による空気が重んじられるから、個がしいたげられやすいのがあり、集団が幅を利かせやすい

 役人に性の嫌がらせを受けた記者の行動は、正しいものだったのか。これを見るさいに、基本として、役人が性の嫌がらせをしたと見られているのがあり、記者はそれをされたのだから、記者は被害者であるというのがある。絶対にそうだということは言えないかもしれないが、基本としてはそのように見なすことができる。

 記者のとった行動は完ぺきに正しいものではなかったかもしれないが、行動に非があるとしても、非があるから駄目だとは言えそうにない。非があるから駄目だとしてしまうと、記者に原因を当てはめることになってしまい、原因の当てはめまちがいになりかねない。記者という人の内に原因があるとするのではなくて、外に原因があるとすることができる。

 アメリカや西洋の社会では、個が独立していることができやすいが、日本ではそれができづらい。個が独立してあるのは絶対の主体だが、日本ではそうではなくて関係の主体となりやすいと言われている。組織の中で、個は独立しているのではなくて、関係としていることになる。組織の空気にさからいづらい。組織の空気が第一としてあり、それを読まないことには組織の中ではやって行くことが難しいのがある。

 組織の空気というのは、組織の中の個を守るようには必ずしもできてはいない。組織の中の個を多かれ少なかれ犠牲にすることによって、組織が成り立っている。みんなが平等のあつかいというのではなくて、閉じたようになっていて、経済権力が下の者にふるわれる。下の者は支配をうける。

 いざというさいに、個を救うようにはできていない。よほど強い個でないかぎりは、集団の力に押しつぶされてしまう。集団と個では、集団に分があるのは明らかであり、その集団が国家であるのならなおさらのことである。個がたちうちできる相手ではない。集団や国家は強者であり、個は弱者であると言えるのがある。強者よりも弱者の立場に立って、弱者を救い出すことがいる。じっさいには色々な例があるだろうから、一概には言えないのはあるだろうけど、日本の社会では、残念ながら、個を救い出すようにはほとんどなっていないのが現状なのではないかという気がしてならない。

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権力者や、権力者に準じる人には、無罪推定を当てはめてそれでよしとすることは、必ずしも適したことだとは言えそうにない(権力チェックをすることがいる)

 リベラリズムとして、無罪推定をとるのがのぞましい。記者に性の嫌がらせをしたと見られている役人にたいして、リベラリズム(自由主義)の無罪推定を当てはめるのがふさわしいというのが言われていた。たしかに、性の嫌がらせをしたと見られている役人が無罪であると推定することはできそうだ。しかし、そのように見なすのがふさわしいことかどうかは改めて見ることができる。

 自由主義ということでは、無罪推定とは別に、反転可能性の試しをすることができる。性の嫌がらせをしたと見られている役人の人を無罪推定で見ることが、被害者からすれば、納得の行くあり方だとはちょっと見なしづらい。被害者とされる人からの告発を、寛容の原則を当てはめて見ることができる。寛容の原則を当てはめれば、被害者が虚偽の告発をしているという明らかな証拠がないかぎりは、虚偽の告発ではないという見かたが成り立つ(加害者とされる人の無罪推定とは別に)。

 一般人と一般人のあいだのことであるのなら、無罪推定によって見るのでよいけど、公人(役人)と一般人(記者)ということだから、おたがいが一般人のものとは同列にはあつかえそうにない。公人には説明責任(アカウンタビリティ)があるから、説明責任が果たされることがいる。録音という物の証拠があり、その音声の一方がほぼ当人(役人)だとされるのがあるので、まったくの白とは言いがたい。まちがいなく黒とも決めつけられないのはあるけど、まちがいなく黒ではないのなら、黒ではないとしてしまうのは、甘い見かただというのがある(厳しく言えば)。

 非の打ちどころのないほどの立派な人格をそなえていることはいらないとしても、国民の納税意識を保つことを損なわせるようでは、批判をされてもしかたがない。国民といっても色々な人がいるだろうから、あたかもすべてを代表するようなことは言えないのはあるけど、納税意識を保つためには、人となりがそれなりにきちんとしたようであってもらわないとならないのがある。

 たとえ建て前としてではあっても、政治的公正(ポリティカル・コレクトネス)というのがあるのだから、それへの意識が薄いようでは、時代錯誤(アナクロニズム)の認識をもっていると見なせるのがある。政治的公正として、一般人よりも少し高いくらいの意識をもっていてもよいものだろう。昔とはちがい、時代は変わったのがあるのだから、それに合わせた意識をもっているのを求めるのは、そんなにおかしなことだとは言えそうにない。

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国民の敵だという発言は、国家の危機となるものであるということもできるかもしれない

 おまえは国民の敵だ。野党の議員の人に、こうしたば声をくり返しあびせた。ば声をあびせたのは、現役の自衛隊の幹部自衛官であるという。国会議員自衛官がば声をあびせるのは、文民統制をないがしろにするものであり、見すごすことができそうにない。

 国会議員に向かって国民の敵だというくらいだから、国民のことをおもんばかっているのだろうか。もしそうなのだとすれば、防衛省自衛隊ではなくて、国民にとって何が益になるのかということで動いてもらいたいものである。防衛省自衛隊にとって不都合になることであっても、国民にとって益になることであるのなら、隠すのではなくてどんどん情報を開示してほしい。開示するのではなくてあったことを隠してしまうのなら、国民の益にはなりそうにない。

 国民の敵という集合(外延)がもしあるとするのなら、それは、国民の敵というふうに誰かのことを言いつのることなのではないかという気がする。国民の敵というふうに誰かのことを言いつのらないようにすることが、平和につながる。建て前ではあるかもしれないが、建て前を抜きにして本音をそのまま口に出してしまうようだと危ない。国民の敵というのをつくってしまうのだと争いをまねきかねないのがある。できるだけ国民の敵という表象(イメージ)を生産してしまわないようにすることができれば、平和につなげられるのではないかという気がする。

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遊牧論の倫理

 地位にしがみつく。まずそれがあり、そこからどうやって地位にしがみついたままでいられるのかをさぐる。そうなってしまっているような気がする。これは偏執症(パラノイア)のあり方と言えそうだ。この偏執症のあり方が行きすぎると、偏執症がこうじてしまい、非倫理となりかねない。

 偏執症のあり方が行きすぎないためには、遊牧論(ノマドロジー)のあり方をとれるとよい。遊牧論による倫理というのがあげられる。遊牧論では、偏執症のようにしがみつかない。もし何かあれば、地位を引き下がるのをいとわない。見切りや切断をする。

 偏執症のあり方をとって行き、ものごとを積み上げて行く。ためこむ。こつこつとためこんできたものを手ばなすのはおしい。そこで手放したくないとなり、地位などにしがみつくことになるけど、あまりしがみつきすぎると、はたから見ていて見苦しいのがある。

 偏執症のあり方を補強するのではなくて補正することができるとすると、遊牧論のあり方をとることになる。遊牧論といっても色々とあるのだろうし、その本質をとらえ損なっていて、うわべでものを言ってしまっているおそれがあるが、それはひとまず置いておけるとする。そこで言えることの一つとして、偏執症のためこみやしがみつきが豊かさにつながるとはかぎらないのがある。

 ためこみやしがみつきによって、何かの邪魔になってしまう。ためこみやしがみつきをなくすことによって、何かの邪魔にならないようにすることができる。邪魔になるかならないかは、見かたによってちがってくるのはあるかもしれない。そこのさじ加減はむずかしいのがある。必要ではあるが、悪くはたらいたり邪魔になってしまったりといった二つの面があると見なすことができる。

 世の中から遊離するのは、根なし草となるものである。この根なし草のあり方は、悪いことだというのがあるが、そのいっぽうで、高等遊民のようなものにつながらないでもない。高等遊民(またはたんに遊民)は、世の中から多少の距離をとることができるので、遊牧論のあり方となり、世の中にたいする批評ができやすい。世の中に強く参与(コミット)していなくて、離脱(ディタッチ)していることによる。

 参与(コミット)しなくて離脱(ディタッチ)ができるのは恵まれたことだと言えるかもしれない。その点については否定できないのがある。そのいっぽうで、世の中に強く参与(コミット)してしまうことからくるまずさもあげられる。世の中がそれを強いているのもまた無視できない。参与や参入するのだけをよしとして、それを強いるのは、それ自体があまりのぞましくはないということもできるだろう。

 ためこみやしがみつきを手放すことで、捨てることになるが、この捨(しゃ)のあり方のよさがあると言われている。捨による豊かさだ。捨てるのはいつもできることではなく、難しいのもあるけど、それができればよいのはあるので、適したときに行なえるとさいわいである。

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