数字の善用と悪用(善人による善用と悪人による悪用)

 数字は善用されることもあれば、悪用されることもある。よい人が数字を用いればよく用いられるが、悪い人が数字を用いれば悪く用いられることがある。数字をあつかう人しだいだ。作家の江上剛氏はそう言う。

 いまの政権が、自分たちに都合のよいように数字を用いているものとしてあげられるのは、経済のさまざまな数字や、支持率がある。経済のさまざまな数字では、統計をねつ造している不正が疑われている。支持率については、絶対的に当てになるものではない。まったく信用ならないということは言えないかもしれないが、純然たる客観の世論の反映とは言えないものだ。

 いまの政権が悪人であるとすれば、数字がねじ曲げられたり、数字が悪用されたりする。受けとる方としては、そのままうのみにすることはできそうにない。いまの政権が数字を用いるさいに、数字そのものやそれをもとにした情報が歪曲されているおそれが小さくないということだ。

 参照文献 『会社という病』江上剛

戦争の不合理と、蓄積と蕩尽(消尽)の両極性の振り子

 戦争をしてでも北方領土をロシアからとり返す。戦争をしないと北方領土は日本に返ってこないのではないか。国会議員はそう言っていた。

 議員の発言における戦争というのは、北方領土をロシアから日本にとり返す手段ということだろうが、戦争というのは合理の手段になるものとは見なしづらい。

 戦争とは合理のものではなく不合理のものだ。悪い形での蕩尽(とうじん)や消尽(しょうじん)ということだ。日本がこれまでに築いてきた富などが失われることになる。

 戦争で相手に勝てば、日本は色々なものを得られる。そう見なせるのかと言えば、そうとはできないものだろう。勝っても負けても失うものは大きい。それはアメリカの国を見れば明らかではないだろうか。アメリカのような超大国であっても、戦争に勝てるとは限らず、自国の人間や富を大きく損なうことになる。

 北方領土をロシアから日本にとり返すために、戦争も辞さないというのは、強迫観念(オブセッション)によるものなのではないだろうか。または、戦争でもしないととり返せないという固定観念(イデー・フィックス)によるものだ。

 戦争への強迫観念におちいらないようにして、自国や他国の富を失うはめになるような蕩尽や消尽をとらないようにしたい。その点については、アメリカを反面教師にするようにしたい。アメリカは戦争への強迫観念をもっているという見かたがとられている。

 戦争とはちがった形で、豊かさにつながるような蕩尽や消尽をとれればのぞましい。豊かさにつながるような蕩尽や消尽とは、ただたんに富をためこむのではなく、それをうまい形で贈与するということだ。ただたんに富をためこむだけでは豊かにはならない。それでは蓄積が進むだけである。

 富をためこむというよりも、むしろ巨額の負債(赤字)を日本は国としてためこんでいるのがあるのは無視できそうにない。そうであることから、変な形で蕩尽や消尽の方向につっ走ろうという動きが出てきている。やけっぱちみたいなところがある。危機がおきているということだ。この危機をうまい形で軟着陸できればよいが、うまく行かないと着地に失敗してまずいことになりかねない。

 やけっぱちでも何でもなく、国の巨額の負債は何の危機でもないのだから、危機をあおるのはまちがったことだ、ということが言われている。そう言われるのはあるが、そうかといって、国の巨額の負債はそのままでよいとか、これから先もどんどん負債を増やしつづけてよいとは必ずしもならない。

 国がどんどんと負債をしつづけるという方向につっ走るのは、まちがいなく正しいとまでは言いがたく、色々な穴(問題)が空いているのを見ないとならない。穴が空いているのにフタをするのは、都合の悪い否定的な契機があるのを、隠ぺいや抹消することにしかならないものだ。絶対に確実だというのではなく、不確実さをまぬがれないということだ。人間には限定された合理性や、合理性の限界があるためだ。

 蓄積と蕩尽(消尽)や、過大と過小といった二つの極のあいだにおける両極性や対極性(ポラリテート)がある。その両極性や対極性の振り子が振れるのがあるが、破滅の方向に進んでいってしまうのは、悪い形で蕩尽や過小のほうに振り子が振れてしまうことだ。よりまずくなったりより貧しくなったりするような、豊かではないのをもたらす悪い蕩尽や過小におちいってしまうのは、全体の危機をうまく脱することができなかったということである。

 参照文献 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司現代思想を読む事典』今村仁司編 『思想の星座』今村仁司

特定の自動車と、高齢の運転手による自動車の事故との関わり

 トヨタ自動車プリウス車に乗っている高齢の運転手が事故を引きおこす。そうした事故が目だつということが言われている。

 報道機関などは、高齢の運転手による事故とプリウス車との関わりについて、実験をして分析してみてはどうだろうか。高齢の運転手がプリウス車に乗っていると事故を引きおこしやすいという仮説を立てて、それを具体的に検証してみる。その結果を報道するのである。

 まちがいのない因果関係とまでは言えなくても、何らかの相関関係が、高齢の運転手の事故とプリウス車とのあいだになりたつかもしれない。高齢の運転手とプリウス車のあいだに、事故を引きおこしてしまうさまざまな要因があるとすると、その一つひとつの要因を探って行くことで、事故が起きるもとが何かが分かる。

 参照文献 『この国の失敗の本質』柳田邦男

山本太郎氏がうさんくさいというより、まず権力チェックということで、いまの政権のうさんくささやカタリ(騙り)を見て行くことが先決ではないか

 平成のだめだめ政治家で、その一〇位に山本太郎氏が選ばれていた。テレビ番組でやっていた。山本太郎氏について、民の声として、なんかうさんくさいという声がとり上げられていた。

 番組の中では、パネルの山本太郎氏の写真映りについて、人相が悪くなったというふうにケチをつけていた。質問をしているときの人相が悪い。顔つきが変わった。

 人相が悪いというよりも、真剣になっているから顔つきがきつくなっているだけだろう。仏教で言えば、不動明王は怒りで顔つきがきついが、それをもってして内面を悪くおしはかるのは適したこととは言えそうにない。

 山本氏は新しくれいわ新選組を立ち上げたが、ほかの党名の候補として、ねずみ小僧というのがあったという。テレビの出演者は、ねずみ小僧は義賊とはいってもどろぼうにすぎないと言っていた。これはねずみ小僧にたいするわら人形攻撃ではないだろうか。ねずみ小僧は自分がお金を得るためではなくて、お金持ちから貧乏人へとお金を移したのだ。どろぼうという手段は悪いが、経済の格差という社会の中にある紛争の争点を何とかしようとしたのだ。

 最低賃金一五〇〇円や、消費税の廃止や、奨学金の徳政令などを、山本氏は公共政策としてうったえている。これらについて番組では、現実に実現の見こみが立たないということで、詐欺ではないかということを言っていた。

 テレビ番組の中では、平成のだめだめ政治家の一〇位ということで山本氏が選ばれていたが、これには違和感を感じざるをえない。山本氏はとくに失言をしたのではないから、おろかな失言をしたほかの政治家と同列に並べるのは適したこととは言えそうにない。

 いまは、政治の全体がおかしくなっていると見られるのがある。その全体の中に山本氏を位置づけるべきだ。少数派に属する山本氏について、単体でケチをつけるのは、弱い者を標的にすることに映る。ほかに目を移せば、もっと巨悪が政治の中心にあるからだ。政治の全体がおかしくなっている中において、例外的にましなところがあるのが山本氏だ。

 山本氏のかかげる公共政策には、荒削りなものが少なからずあるだろう。それは非や難となるものではあるが、大切なのは、きちんと重要な課題(アジェンダ)を設定したり問題化したり争点化したりすることだ。たくさんある潜在の課題や問題を顕在化させることがいる。山本氏にはたしてどれくらいの柔軟性があるのかはわからないが、まずは課題や問題を見つけて、それからそれをどうするのかという流れで、目的と手段とのあいだに柔軟性がもてればよい。

 いまの政権は、自分たちの手がらをほこっていて、自分たちに都合のよい物語に酔っているように映る。まずはそこから覚めることがいるのではないだろうか。色々な不正やおかしいことが、隠ぺいされたりごまかされたりすることによって、いまの政権がよいとかすごいという物語がなりたっている。

 いまの政権がよいとかすごいという物語にたいする批判は、権力へ寄生する冷笑主義とはまたちがう。批判(キニシズム)と権力寄生型の冷笑主義(シニシズム)とのちがいだ。いまの現実をよしとして、権力へ寄生する冷笑主義は、ナチスドイツにおいて見られたもので、全体主義を許す。

 いまの政権のていたらくでは、社会の中の問題を見つけたり、よりよい案(公共政策)をさぐるために話し合ったりすることはのぞみづらい。ご飯論法や信号無視話法がまかり通っているために、創造性が欠けているのだ。おまけに、ねずみ小僧のように義もないし、(儒教で言われる)仁もない。不仁となっているので社会の中がぎすぎすしている。政治の言動は場当たり的で、大衆への迎合(ポピュリズム)になっている。

 参照文献 『本当にわかる現代思想』岡本裕一朗 『一三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『政治家を疑え』高瀬淳一

作家の許可を得ずに、勝手に数字を公にした出版社の社長のツイートについて、批判が投げかけられている

 出版社の社長が、勝手に本の実売部数を公にした。自分が気に食わない作家の、自社で出している本について、ツイッターのツイートで実売部数はこうだったというふうにあらわにしたのだ。これにたいしてほかの作家をはじめとしてさまざまなところから批判が投げかけられている。

 正義(公平)原則をもち出してみると、同じものには同じあつかいをするべきだから、特定の作家のものだけを公にするのはおかしい。もともとそうであるように、すべてを非公表にしておくか、もしくはすべてを公表するべきだろう。すべての作家のすべての本について同じあつかいをするのがふさわしい。

 本の売れ行きというのは、多く売れれば中身がよくて、少なくしか売れないのなら中身がよくないというものとは言いがたい。宣伝に力を入れていれば多く売れてベストセラーになるのは当然だから、それをもってしてよい中身の本だとは言えないものだ。よりつっこんで言えば、ベストセラーの本には、むしろとるに足りないものは少なくない。

 本の世界はできるだけ多様であるのがよいのだから、どれだけ売れたのかという数(量)でもってして値うちをはかるのはふさわしいことだとは言えそうにない。どれだけ売れたのかの量だけではかるのは単一や画一の発想だ。それよりも、量化することができづらい質(質感)のほうが大切である。学校の試験でいうと、どれだけ高い点数をとるかということを中心にすると、それを競い合うことになって、点数でははかれないことが捨象されてしまう。

 参照文献 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『〇点主義 新しい知的生産の技術五七』荒俣宏

デモをやることと、選挙で勝つこと

 デモをするよりも、選挙で勝て。デモをするくらいなら、選挙で勝つようにしたらどうなのか。そう言われるのがある。これにはすなおにはうなずきづらい。

 もしもこうであればこうだ、というのに当てはめていうと、こう言うことができる。もしもよい人が選挙で選ばれるのなら、選挙で勝とうとしたり、選挙で勝つことに力を入れたりするのは合理的だ。現実はどうかというと、その逆に、悪い人ほど選挙で勝って選ばれていはしないか。悪い人ほど政治の中心で権力をにぎる位置につく。

 選ばれる人がよいか悪いかということで、悪いというのは、大衆迎合主義(ポピュリズム)によるのがある。大衆迎合によっている方が勝ちやすいというのは現実にある。大衆社会や大衆国家になっているからだ。大衆は報道機関の報道などにあおられやすいと言われる。

 選挙のあり方に、色々とおかしいところがあるのだと言わざるをえない。これまでのあり方をそのまま自明とすることはできづらい。たとえば、選挙カーで候補者の名前をひたすら連呼するのは、有権者を馬鹿にしたものだ。

 力をもった後援会や知名度や財力のある候補者が選挙に通りやすいのは、公正なあり方とは言いづらい。これは三バンと言われるもので、地盤(後援会)と看板(知名度)とかばん(財力)だ。また、とり上げるべき争点や問題がおもて立ってとり上げられず、隠されてしまう。国民にとって意味のある課題(アジェンダ)の設定ができていない。

 選挙のあり方が開かれたものではなく閉じたものになっている。選挙のあり方や政治のあり方で色々とおかしいことがあるのを改めるのは、政治家にとって動機づけを持ちづらい。改める動機がおきづらいのだ。自分たちがそれによって選ばれているからだ。

 デモをやるよりも選挙で勝てというのは、その肝心の選挙や政治のあり方におかしいところが色々とあって、ちっとも改まってはいないのだ。肝心の選挙や政治がおかしいのだから、そのことをいったいどこにぶつけたらよいのだろうか。ふさわしい場所が見つからないから、やり場がないと言うしかない。

 場所が見つからないとか、やり場がないといっても、選挙の仕組みはまがりなりにもあるのだから、選挙の結果はいさぎよく受け入れて認めよ、ということはあるかもしれない。たしかにそれは言えるのはあるが、それで十分ということはないだろう。

 政治が不透明なのを改めて、透明性があるようにして、国民に十分に情報を公開する。国民のさまざまな声を政治がもっと受けとめるようにして、国民の参加や働きかけができることがのぞましい。知らしむべからずよらしむべしのような、権力をもつ政治家に任せてしまうようだと、権力をもつ政治家がやりたい放題になってしまう。

 福沢諭吉は、至強と至尊ということを分けているという。選挙でいうと、それに勝って政治の中心の権力をにぎるのは至強だ。至強はすなわち至尊だということにはならない。至尊はまた別にあるのだ。勝ったから正しいということではないということだ。そこを分けるようにして、至強がおごらないようにすることがいる。

 至強はすなわち至尊ではないので、一つではなく色々な民意をあらわす経路があったほうがよい。デモは民意をあらわす経路となる。表現の自由の権利として認められる行為だ。憎悪表現(ヘイトスピーチ)や排外によるデモはよくないが、そうではないデモであれば、民主主義の畳長性(多元性)をとるうえで益になる。

 参照文献 『学ぶとはどういうことか』佐々木毅(たけし) 『世襲議員 構造と問題点』稲井田茂 『新書で大学の教養科目をモノにする 政治学浅羽通明(あさばみちあき) 『哲学塾 〈畳長さ〉が大切です』山内志朗

出版社と危機管理(危機からの回避ではなく危機への対応がいる)

 出版社が出している売れている商品(本)を批判する。それをした作者が、その出版社からしめ出された。その売れている本は、ウェブのウィキペディアなどから無許可で勝手に引用しているとの疑いがもたれているものなのだ。

 出版社というのは利潤を追い求める営利組織だが、それとともに文化活動を行なっているのでもあるのだから、ふつうのより以上の企業倫理や社会的責任が求められる。出版社が出した売れている本に批判を投げかけた作家を自社からしめ出すのはおかしいことである。開かれたあり方とは言いがたい。

 いくら売れているからといって、不正が疑われている本を出版しているのだから、それについての批判を出版社は受けとめるようにするべきである。でないと文化活動を行なう資格(資質)があるとは言いがたい。出版社は、投げかけられている批判を受けとめて、危機管理を行ない、危機から回避するのではなくそれにまともに対応することがのぞましい。

 本が売れない時代だから、出版社はたいへんなのはあるかもしれないが、それはそれとして、よい商品を売るように努めることはしてほしいものだ。このさいのよい商品というのは、効率よく大量に売りさばくのではなくて、適正な中身にすることがいるということだ。効率よく大量に売りさばいて、とにかく多く売れれば勝ちみたいなことには賛同できづらい。かた苦しいことを言ってしまうのはあるが、(ウェブのウィキペディアなどから不正に引用することなどによって)要領よくてっとり早くつくった商品は、中身がよいものにはなりづらい。

 参照文献 『危機を避けられない時代のクライシス・マネジメント』アイアン・ミトロフ 上野正安 大貫功雄訳

憲政の歴史において例を見ない、権力に近い政治家や高級な役人の嘘や偽りやごまかしのまん延

 憲政の歴史において例を見ないような、言論の府が自分で自分の首をしめる行ないだ。問題となる発言をしたことで国会から辞職をうながされている国会議員は、自分を正当化するためにそう言っている。

 問題となる発言をした国会議員の発言は、失言という次元をもはや超えていて、辞職はやむなしと言えるくらいのものだ。戦争をしてでも北方領土をとり返すというのは、戦後の日本がとってきた憲法による平和主義を損ないかねない発言だ。過去の戦争のあやまちをないがしろにするものだ。テレビ番組の出演者はそう言っていた。

 他国であるロシアとのあいだに日本は領土のもめごとを抱えているが、それを何とかするために、戦争という手段をほのめかすことは、国家主義の感情にうったえかけるものである。

 政治家が国民にたいして言うことにおいて、国家主義などの感情にうったえかけるものと、知性(頭)にうったえかけるものとがある。ミランダとクレデンダとされるものだ。そのどちらにおいても政治家は国民にたいして嘘や偽りやごまかしを言うことが少なくないから、そのままの形でうのみにしないようにすることがいる。

 感情にうったえるものでは、国家主義における愛国心国益などをあおるものがある。国民の自我の不安定感や不確実感につけこんで、権威主義による自発的服従をうながす。権力の虚偽意識(イデオロギー)による呼びかけに従う従順な主体をよしとするものだ。

 知性にうったえるものでは、一見すると正しい規則を持ち出してはいるものの、その持ち出し方がきわめて偏った不公正なものであるのがある。場当たり的になっているのだ。

 長期の視点に立っているのならともかく、短期の場当たり的なあり方になっているのなら、政治家というよりも、大衆迎合主義(ポピュリズム)による政治屋だ。そうした権力に近いまたは権力にとり入ろうとする政治屋の言うことをそのままうのみにはしないようにして、本末転倒にならないかどうかを批判として見ることが欠かせない。

 参照文献 『新書で大学の教養科目をモノにする 政治学浅羽通明(あさばみちあき) 『「本末転倒」には騙されるな 「ウソの構造」を見抜く法』池田清彦 『日本人論 明治から今日まで』南博 『現代思想を読む事典』今村仁司

領土の問題と戦争と複雑系

 他国にうばわれた領土を、戦争によってでもとり返す。話はそう簡単なものではないだろう。領土の問題というのは複雑系として見られる。複雑系というのは複雑な系ということで、複雑というところに力点(強調)がかかっているものだという。

 領土の問題は複雑系であることから、解決が難しいものとなっている。そこをくみ入れることがいるのであって、近道や短らく(ショートカット)な戦争という手段によってとり返すのはふさわしいことだとは言えそうにない。

 日本からすれば、領土の問題について、日本は善でロシアは悪ということになるが、そうすると単純さのわなにはまりこむ。単純に日本は善でロシアは悪だということで、まちがった問題の解決の手段(変換操作)を行なわないように気をつけないとならない。

 参照文献 『「複雑系」とは何か』吉永良正 『創造力をみがくヒント』伊藤進

戦争の不合理と、戦争をよしとする発言の合理化(正当化)

 北方領土を戦争をしてでもとり返すということを国会議員は言った。それで批判が投げかけられている。国会では辞職を迫られている。

 問題となる発言をした国会議員は、自分の発言についてや自分の議員の職を、言論の自由が危ぶまれるということで、言論の自由をたてにして合理化(正当化)しようとしている。これはカタリ(騙り)であるのにほかならない。

 たしかに言論の自由は大切なものではあるが、それをたてにしたところで、そもそも言っていることの内容が政策論としてまったくと言ってよいほど妥当ではない。戦争ということになれば、武力不行使の原則に反するし、大国であるロシアを敵に回しかねないのだから、日本にとって益にはならないことだろう。

 言論の自由というのは、おもに国民に与えられている権利であって、国会議員が何でも言いたいことを言ってもよいということとは言えそうにない。戦争ということを持ち出すのは、かなり大きな波紋を呼ぶものだ。いわば水面にかなり大きい石を投げこんで、国内外に大きな波紋がおきたようなものだから、石を投げこんだ議員の責任はまぬがれられるものではない。

 言論の自由というのは隠れみのではないのだから、議員が言ったことによって波紋がおきたり危機がおきたりしたことに、まともに向かい合って対応することが求められる。

 言論の自由と合わせて大切なのは、国家の権力が肥大化して暴走しないようにする歯止めだ。その歯止めをかけることがいるのだから、言論の自由ということをたてにして、国家の権力が暴走する最たるものである戦争という手段を肯定することはできづらい。国家の公をいたずらに大きくしないようにして、個人の私(の自由)を重んじることがいる。

 参照文献 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『政治家を疑え』高瀬淳一 『危機を避けられない時代のクライシス・マネジメント』アイアン・ミトロフ 上野正安 大貫功雄訳 『社会をつくる「物語」の力 学者と作家の創造的対話』木村草太 新城(しんじょう)カズマ 『新版 ダメな議論』飯田泰之