誇りというのはあるだろうけど、誇りでないものを見ないとならないのではないか

 同じ日本人として、誇りに思う。自由民主党安倍晋三首相はこのように述べている。リトアニアに訪問した首相は、杉原千畝記念館を訪れたという。第二次世界大戦において、ナチスドイツのホロコーストからユダヤ人が逃れようとするのを手助けするために、命のビザを発行したのが杉原千畝氏であるそうだ。

 命のビザを発行したのを受けて、戦後、外務省は杉原千畝氏に職を辞することを迫ったという。退職を迫ったのである。当時の日本政府の指示に従わずに背いたからだろう。朝日新聞の一九九五年四月一五日の記事に、そのあらましが記されている。名誉回復と題して、杉原千畝氏の奥さんである杉原幸子氏の主張が載っているのを、ツイートで見かけた。

 首相は、杉原千畝氏を同じ日本人として誇りに思うとしている。誇りに思えるような大変にすばらしい日本人であることはたしかだけど、そうした日本人がいることで、日本という国はすごいだとか、日本人はすごいといったようなとらえ方をするのであれば、それはどうなのだろうか。そうした文脈でとらえることはあまり適していないような気がする。

 杉原千畝氏がすばらしいのは、当時の日本がまちがったことをしたことに端を発している。対照としてとらえることができる。日本がすばらしかったから、杉原千畝氏がすばらしい行ないをしたのではない。当時の日本が大変にまちがった指示をしたのにもかかわらず、杉原千畝氏は自分の単独で機転をはたらかせて、少なからぬ無実のユダヤ人の命を救った。そうしたのがありそうだ。

 当時の日本は、国家の公として、まちがった正義をもっていた。そうしたまちがったあり方に従うことなく、杉原千畝氏は単独で個人の正義をとった。これは勇気がなければできないことであると言えそうだ。苦渋による英断である。当時の日本が指示したことは不正義だったのであり、いっぽうで杉原千畝氏のとった行動は正義だった。こうした区別をすることができそうだ。当時の日本は不仁(そのもの)だったが、杉原千畝氏はあくまでも自分の意思によって仁の愛をいかんなく発揮したわけである。

 杉原千畝氏の偉大さは、日本という国の同一性(アイデンティティ)ではなく、むしろそこへの反発としての個人性(パーソナリティ)によっている。なので、日本という国、または日本人としての同一性に還元してしまうのはどうなのだろう。そうして還元してしまうと、肯定の弁証法になってしまう。しかしそうではなくて、否定の弁証法でとらえるのが適していそうだ。当時の日本というまちがった命題(テーゼ)があり、それに抗うことによる正しい反命題(アンチ・テーゼ)があった。この二つは合として合わさることがないものとして見なすことができる。矛盾したものである。

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かりに ICAN とは方向性がちがうのだとしても(だからこそ)、会うことに意義はあるのがありそうだ

 日本の首相に面会を求める。核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)はそれを求めたところ、日程の都合で面会には応じられないと政府は答えたという。面会に応じられないのは、日程の都合によるのであり、それ以上でもそれ以下でもない。そのように政府は言っている。

 日程の都合があるので難しいといっても、どこかで何とか都合を合わせることはできないものなのか。都合を何とか合わせようと思えばできそうなものである。全部が全部、かかせない人と会ったり会食をしたり、かかせないことをしたりしているわけではたぶんないだろう。なので、会おうとしないのがあるとすると、会いたくはないというのが本当のところだと勘ぐれる。タカ派として、立場を異にする者とは交わり合いたくない。遠ざけておきたい。

 ICAN は、日本の首相と会おうとするよりも、北朝鮮に行けばよいのではないか。北朝鮮核兵器を開発して持とうとしているのがあることから、そうした意見が言われている。たしかに、北朝鮮による核兵器の開発と所持をやめさせることができればさいわいだ。そのために、ICAN北朝鮮におもむくことがいるのだろうか。

 北朝鮮核兵器を開発して所持するのをやめさせるためにも、それ以外の国(大国)が核をもたないようにすることがいる。なくすようにしないとならない。そのようなことが言えるのではないか。核保有国が核をもっていることが、北朝鮮による核兵器の開発や所持の、背中を押してしまっている。とすれば、ICAN は必ずしも直接に北朝鮮におもむくことはいりそうにない。それ以外の核保有国や多くの国に、核を保有するという姿勢を変えさせるように努めるようにする。核保有国やその他の国々は、ICAN による主張にきちんと耳をかたむけて、各国がお互いに協力して核をなくすような方向に向かうのがよさそうだ。

 核などの軍事の力を持っていないと、相手はこちらの話に聞く耳を持ってはくれない。相手にしてくれない。だから、核などの軍事の力をきちんと持つことがいる。そうした意見がある。これを広げると、ICAN は自分たちの主張をまともに聞いてもらうためには、核などの軍事の力を持っていないとならないことになってしまいそうだ。そうなってしまうと矛盾となってしまう。おかしな話となる。もっとも、ICAN は国ではないから、国どうしのこととまったくいっしょの理屈が当てはまるわけではないのはあるが。

 力(might)を持つことと、正義(right)を言うこととは、別なものだと見なせる。なので、正義を言うことを、力を背景にしているかどうかといっしょくたにしないのがのぞましい。そこを切り分けられたほうがよいのがある。現実に物理の力を持っているからといって正しいことを言うとはかぎらない。現実に物理の力を持っていないからといって、正しいことを言わない(言えない)わけではない。ソフトパワーを最大限に生かすようなことができれば、ハードパワーにたくさんのお金をかけずにすむ。別のことにお金を回すことができそうだ。

 現実には、軍事による物理の力であるハードパワーをもつことは欠かせない。そうしたことが言えるのがある。これは認めざるをえないものであるのはたしかだろう。そうであるのはたしかなわけだけど、核兵器などの軍事の力は、安全をもたらす面もたしかにあるいっぽうで、対象化や物象化をもたらすものでもある。それによって全面として死の世界となる。お互いににらみ合うことによる平和や安全なわけだから、一歩まちがうと死をまねくわけだし、一歩まちがわないでも死におおわれる。お互いににらみ合うことでそうなるわけだ。

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さしさわりと、当たりさわり(さしさわりがあるのと、当たりさわりがないのがある)

 顔を黒く塗る、ブラックフェイスをしないようにする。テレビのバラエティ番組において、それを禁じるようにする。そのように禁じてしまうと、バラエティ番組が面白くなくなってしまいかねない。そうしたことが言われていたのだけど、はたしてこうしたことは言えるのだろうか。

 顔を黒く塗るのを止めるくらいで、なぜバラエティ番組が面白くなくなるのか、というのがある。それを止めたくらいで、なんで面白くなくなってしまうのかが若干の疑問だ。顔を黒く塗らないとおもしろくならないわけではないだろうから、とりたてて(面白さの)必要条件なわけではないだろう。たんに一つのことを止めるようにするだけなのだから、それ以外にも無数に面白くすることができる手は残されている。

 すべりやすい坂道や、雪だるまの論法になっているのがありそうだ。顔を黒く塗るのを止めるのは、たんにそれだけをとり止めるのにとどまらない。それに類似した、さしさわりがあるとされるようなものをどんどん止めてゆかないとならない。そうしてどんどん止めてゆくと、バラエティ番組においてできることが少なくなり、面白くなくなってしまう。このような流れがある。この流れは、過剰反応のふしがあることはたしかだ。一つのことだけをとり上げているのに、その他の多くのことを混ぜてしまっている。といっても、一つのことからその他の多くのことを推しはかるのは、まったく分からないことなわけではないのはあるが。

 面白いかそれとも面白くないかというのは微妙なところがある。たとえば、誰かをいじめてそれで面白いとするのは、適切ではない。これについては、おそらくではあるが、大かたの人に賛同してもらえるものだと見なせる。いじめで面白くするのは面白くはない。これを認めるとして、いじめというのは、誰か特定の人の生命本能を阻害することである。幸福になるのを妨害することである。不快にさせることである。

 テレビ番組の中で、出演した人が顔の黒塗りをすることで、それを見た一部の人が不快に感じる。そうしたことがおきるとすると、それは面白くないことなのではないか。少なくとも、まったく非の打ちどころがないほど面白いことだとは言えなくなってしまいそうだ。このようなことがあるとすると、面白いか面白くないかの線引きは揺らいでいるものだと見なせる。動機(意図)はともかくとして、実在として見てみると、面白くないことでもあるのではないか、というふうにもできるのがありそうだ。面白さの構築は、ものによっては脱構築することができるのがある。けちをつけるようになってしまうかもしれないが。

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肥だめ国というのは実証によらない、適切ではないとらえ方だと言えそうだ(実証としては、形容を抜きにした、国や諸国と言えるのにとどまる)

 肥だめ国から来た連中を、なぜ受け入れないとならないのか。アメリカのドナルド・トランプ大統領は、このような発言をしたのだという。肥だめ国とは、アフリカ諸国やハイチをさしているようだ。そこから非正規で移民としてやってくる人たちをアメリカへ受け入れるのに難色を示している。それにしても、よりによって肥だめ国と言わなくてもよさそうだ。

 現実として、アフリカ諸国やハイチはけっして肥だめ国ではない。国というのは実体ではないのだから、国をまるごと悪い言葉によってひとくくりにするべきではないだろう。トランプ大統領のこの発言を受けて、こりゃだめだ、という気がした。

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文書の管理の価値と負価値(価値の反転)

 文書の管理の徹底を。国税局の長官は、そのように語っている。言っていること自体はまちがってはいない。しかし、長官は、まえに財務省の理財局長だったさいに、いま言っていることとはちがった行動をとっていた。政府の疑惑がとり沙汰されて、それを追求するためにいる文章や資料を、廃棄してしまったと言っていたのだ。そのためもあり、いまでも疑惑はきちんとは晴れてはいない。

 国税庁の長官は、前に自分がやったことと、いま自分が言っていることとのあいだに、矛盾がおきてしまっている。これはなぜなのか。一つには、権威に迎合してしまったせいなのがありそうだ。もし権威に迎合していなかったのであれば、政府の疑惑に関わることでの、文書の管理の徹底ができたはずだし、廃棄をしたとは言わなかったはずである。

 文書の管理の徹底は、一つの原理であるとできる。その原理を、政府の疑惑がとり沙汰されているときに、なぜもてなかったのだろう。なぜ捨てたと言ってしまったのだろうか。別の原理がとられてしまったせいなのがある。それが権威への迎合であると言えそうだ。権威への迎合が優先されたために、文書の管理を徹底するという原理がいちじるしくないがしろにされた。

 時の権力がもし悪いことをまったくしないのであれば、文書の管理を徹底することはいりそうにない。しかし、少しでも悪いことをするおそれがあるのなら、管理を徹底することがいる。管理を徹底するということは、悪いことをするおそれがあるのをあらかじめ見こしているわけだから、そこに理があるということができる。その理を捨ててしまうとすれば、悪いことをしないだろうという見かたをとることになる。理というよりは、気をとることだと言ってもよい。

 文書の管理の徹底をするというよりも、文書の管理の不徹底をしないようにしなければならない。文書の管理の不徹底がなぜおきてしまったのかを見て行くことがいる。そのような不徹底がおきてしまったのは、問題であることはまちがいがない。その問題がなおざりにされてしまうのはまずいことである。徹底から、不徹底へ、という移行(乗りかえ)が、一時においてのことではあれ、とられてしまったとできる。それがある以上は、いくら徹底をと言ったところで、その言葉はうつろに響かざるをえない。

 徹底と不徹底とのあいだに、二重運動がおきる。不徹底の否定が徹底なわけだけど、その否定がとられないと徹底がないがしろになる。徹底である禁止が侵犯されることで、不徹底となってしまう。徹底するのを価値として、不徹底をいましめるのであれば、不徹底をしてしまったことに対して直面して、再発の防止の策がとられないとならない。そうしたことが行なわれないのであれば、信頼することがひどくむずかしいと言わざるをえない。

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両論併記の是非の両論もあるかもしれない

 両論併記だと、割り合いが見えづらい。憲法学者の木村草太氏は、そのように言っているという。そう言われてみると、たしかに、両論を併記してしまうと、あたかも半々で分かれているかのように受けとれるようにできてしまうのがある。一〇〇のうちで、一方が九九で、他方が一であるとして、それを両論で併記することで、五〇と五〇みたいなとりあげ方ができる。極論で言えばの話ではあるが。

 両論を併記することは、必ずしも悪いことではなく、中立にするための手だての一つではあると言えそうだ。ただ、とりあげ方が、必ずしも現実の割り合いを反映していないのであれば、悪い方にはたらくこともおきかねない。そうかといって、現実の割り合いを正しく反映したとしても、それがそのまま正しさにつながるとも言えないのがある。

 ある話題があって、ある人たちはこう言っている。それに対して別の人たちはちがうことを言っている。このちがうことを言っている人たちを、それぞれにとり上げる。そうしてとり上げるのはよいわけだけど、それだけでこと足れりとしてしまうのであれば、ただ認知や承認しただけで終わってしまう。それぞれの論の質が問われていないことになる。相互の交流が欠けている。

 こういうものがあるとして、認知や承認をするのはよいわけだけど、それは現実にあるものをひろい上げただけにすぎない。そのようなことにも意義はあるわけだけど、そこから価値は出てはこないのがある。価値についてはまた別に見て行かないとならないのがある。

 場合分けができるとすれば、両論を併記することはよいというだけではなく、悪い面ももつ。両論を併記しないことは悪いというだけではなく、よい面ももつ。そのように分けて見ることができそうだ。単純によいともできづらいし、悪いともできづらい。

 両論が併記されれば、形式としては整う。しかし、実質として見ると、質のよし悪しが整っていないことがある。もしかりに、形式として整えるというのであるとしても、やったりやらなかったりといったことではあまりのぞましくない。これは重要なことがらだから、中立にするために両論を併記するべきだ、という意見があるとしても、それが重要かどうかは人によって異なる。すでにあるていど見かたが定まっているものであれば、それについて改めて両論を併記して形式を整えることの意味がまちがいなくあるとはちょっと言えそうにない。

 両論を併記したうえで、そこにどんな共通点があるのかや、どんな相違点があるのかを見られればよさそうだ。二元論におちいってしまわないようにするために、ほかにどんな中間の論があるのかも見られればよい。論どうしがぶつかり合っているようでいて、じっさいにはそうではないということもある。次元がずれているのである。両論を併記したうえで、それを疑うようにする。ほんとうに両論はあるのか(対立しているのか)、何ていう視点ももてるかもしれない。

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最終かつ不可逆として、ふたたびあと戻りすることの禁止と、それの許容(不回帰と回帰)

 最終かつ不可逆な解決を確認する。これが、日本と韓国とのあいだの、従軍慰安婦をめぐる合意の精神である。日本政府はこのように述べている。合意の精神ということで、そこに精神論を持ち出すとしても、はたしてそれでうまく行くのかといえば、それはちょっと考えづらい。

 最終かつ不可逆な解決をするためには、何らかの条件がないとならない。そのように見なせるのではないか。その条件を満たせれば、最終かつ不可逆な解決となる。しかし、条件が満たせていないのであれば、最終かつ不可逆な解決にはならない。必要条件が満たせているとしても、十分条件とは必ずしもいえないのがある。

 最終かつ不可逆な解決とは、ふたたび元には戻らないことをあらわす。これは、改めて見ると、そうとうに高い目標だということができる。目標が高すぎると失敗するおそれが高い。日本にとってはそれほど高くはないかもしれないが、韓国にとってはそうとう高いということができる。

 ふたたびそのことについてを持ち出さないようにする。これは、ふたたび持ち出すのを禁止をしているとすることができる。この禁止が功を奏するのかどうかがある。功を奏さないこともある。禁止というのは一つの暴力であり、それを侵犯する新たな暴力をもたらしかねない。抑圧からの反動を呼びおこしてしまう。

 合意を構築した。それについて、脱構築がおきる。そのようなふうになってしまうのがありそうだ。合意とは主体どうしの契約であるとできる。その契約は、前の主体(政権)が行なったものだとすると、そこに一つのずれがある。契約として見ると、主体がそれを決めてとり結んだものであるから、それと同じ理屈として、主体がそれを解くこともできてしまう。主体は意思決定の最終単位であることから、そのように見なすこともできなくはない。主体のもつ危なさである。

 自由民主党菅義偉官房長官は、合意は一ミリメートルも動かない、と述べている。日本としてはそのような主張をすることになる。そのいっぽうで、韓国としてみると、日本にとっての合意とはややちがっているあり方になっているかもしれない。

 日本としては、合意は一ミリメートルも動かないとしているわけだけど、韓国においては、韓国の理は動く。前の政権のときの理から、今の政権の理は動いているわけだ。この理が、合意に意味づけするものだということができそうだ。理が動くことで、合意の意味づけもまた変わってくる。

 日本の理と、韓国の理とは、どちらが正しいものなのか。それは、絶対ではなく相対によるものだと見なせる。というのも、二つの理を比較したときに相対として正しさが決まるからである。韓国においても、前の政権の理と今の政権の理を比較することで、相対として今の政権の理にやや分がある、といったようなことになっていそうだ(もし分があるとすれば)。

 日本としては、合意にもとづいて、最終かつ不可逆の解決に向かうべく、韓国がそれを実行することを求める。そうして合意の着実な履行をせよということなわけだけど、これについて、認識と行動の二つの次元に分けられそうだ。認識と行動について、いくつかの場合をあげられる。わかっていなくて、行動もしないのが一つにはある。わかってはいるけど、行動ができないのがある。わかってはいないけど、行動ができるのもある。わかっていて、なおかつ行動もできるのがある。

 日本が合意について認識していることと、韓国が認識していることとで、ずれが生じていそうだ。認識の次元で一致していないのがある。なので、行動の次元について、それぞれがちがった見かたをとっているのがありそうだ。日本としても、日本がよしとする合意の精神を、韓国はわかっていないとしている。であるのなら、行動の次元をのぞむのよりも、まずは認識の次元でお互いにすり合わせを行なうのがよいのではないか。認識の次元でお互いに一致していないのなら、行動の次元で日本がのぞむようなことを韓国が行なってくれるのは見こみがかなりうすい。

 認識については、合意をきちんと果たすのは必須であるとしても、合意についての受けとり方は任意なのがある。どのように受けとるのがふさわしいのかは、お互いに不確実さがある。日本が確実にこうだろうとしていることと、韓国が確実にこうだろうとしていることのあいだに、ずれがあると見なせる。なので、合意をきちんと果たすのは必須であるといくら言ったとしても、それとは別に、受けとり方は任意であり、自由の余地があるのはたしかだ。合意という文書の内容と、それをとりまく文脈とにおいて、色々な解釈がもてる。そこが両者にとってやっかいなところだろう。

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大道すたれて、仁義もすたれて(散文的な現実)

 大道すたれて仁義あり。東洋ではこのようなことが言われている。これは老子の言葉だそうだ。大道廃(すた)れて仁義ありのあとには、こうつづく。慧智出でて大偽あり。原始のあり方である大道から外れることで、人間は原罪をもつ。性善説のあり方だと言えそうだ。大道がとられていたのは、黄金時代であるとされる。それから時代が下るにつれて、だんだんと悪くなって行く。それで現在にいたる。下降史観である。

 大道とは一である。その一から離れることで、二となる。二になることで、さまざまな悪いことがおきてくる。そのように見なすことができそうだ。たとえば、有権者である国民と、政治家(代議士)との関係がある。政治家は国民の代理であるが、国民にとって(後々の)益にならないようなことをすることも少なくない。ちなみに、建て前としてみれば、二はよいことだともできる。人が二人いることで仁という字ができるという。仁とはやさしさの徳である。

 二のあり方では、一方のものと他方のものが、並列の関係にあるのではなく、優劣の関係になってしまう。優劣の関係となることで、優とされるものと劣とされるものとが区別される。これは差別であると言ってよい。そういうふうにして秩序が形づくられる。この秩序は抑圧としてはたらく。抑圧の加害をしてしまっているとすると、その被害を受けるものが生じるわけだから、できるだけ改められることがいる。

 大道というのは理想や心情としてはあるかもしれないが、現実にはあるとは見なしづらい。一つの理想の価値としてはとることができそうだ。大道がすたれて、二になってしまうことで、優劣の関係となる。それを少しでも改めるようにするとして、一である大道のあり方をかりにとってみる。これは一でありながら同時に多でもある。一であるのにとどまらず、多でもある。一即多、多即一といったあんばいだ。

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天才の主観(自己言及)と客観

 私は天才だ。私の精神は安定している。賢くて利口である。アメリカのドナルド・トランプ大統領は、このようなツイートをしている。トランプ大統領にたいして批判をしている暴露本への反論として、このツイートをしたそうだ。

 はたしてトランプ大統領は自分でいうように天才なのだろうか。これは真理であるといってよいのか、それとも虚偽(フェイク)なのだろうか。天才の集合があるとして、その中にトランプ大統領は含まれるのか、含まれないのかがある。

 一つには、トランプ大統領が天才であるというよりも、そのまわりをとり囲む側近の優秀さがありそうだ。まわりの力によるところが大きい。そのように察することができる。それを自分の手がらであるかのように錯覚しているのかもしれない。

 商売の世界で大きな成功をした。それはすごいことである。大統領にまでのぼりつめた。それもすごいことである。これらのことは、実力によっているとだけ見なせるものだろうか。必ずしもそうとは言い切れそうにない。そこには運がはたらいていることがあると見なせる。運をもつ者が生存競争に勝った、ということができる。実力をまったく否定するわけではないが。

 商売の世界は水ものであると見なせる。それは政治の世界でも同じと言えそうだ。一寸先は闇であるといわれる。とすると、成功が持続せずに、失敗に転落することがある。もしそうなったとしたら、天才から馬鹿に転じるのだろうか。一度でも成功をしたら天才ともいえないでもないが、しかしそれはいっぽうで、過去の栄光にすがることにもなりかねない。

 必然として天才であるというのはちょっと考えづらい。そうであるためには、誰がどう見てもということで、正真正銘の天才でないとならないからである。そうした人はごくまれにしかいないものだろう。そうではないとすると、がい然性による天才だということが言える。がい然性によるのであれば、確証(肯定)をもつだけではなく、反証(否定)もあることがいる。他からの批判に開かれていないとならない。そうでないと、狂人になってしまうおそれもある。

 自分を天才であると見なすことで、精神が安定している。そのようなふうになっているとすると、そこに循環の構造があると見なせる。自分を天才であると見なすことで、自我が防衛されて、精神が安定する、といったあんばいである。精神が不安定になって、とんでもないようなめちゃくちゃなことをしてしまうよりかは、まだよいことなのかもしれないのはある。

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意が合っているのかといえば、そうとは言えそうにないから、形骸化してしまっているのがあるかもしれない

 日本とのあいだに結んだ合意を、あらためて見直す。韓国政府は、そのように決めたことを発表するという。これは、戦時中の従軍慰安婦について結ばれた日韓のあいだの合意についてである。それを見直して、日本から送られた一〇億円を、使わなかったことにして金融機関に預けて凍結するそうだ。

 日本との再交渉は行なうつもりはない。日本が自分から、従軍慰安婦(戦時中性暴力被害)を含めた歴史の事実をきちんと認識して明らかにするように努めるのをのぞむ。韓国政府は、このように述べている。日本の側へ球を投げ返したというか、渡したようなかたちになっている。日本がそれを受けとるとは限らないが(受けとることはあまりのぞめない)。

 なぜ韓国は、日本とのあいだの従軍慰安婦の合意を見直して、一〇億円を凍結するというのだろうか。それははっきりとはわからないのがあるけど、一つには、結婚になぞらえることができるかもしれない。

 結婚式では、結婚を決めた二人が、永遠の愛を誓い合う。その誓いは嘘ではない。しかし、時が経つとともに気持ちが変化してゆく。およそ三組に一組くらいは離婚をすることになる。はじめに誓ったこととはずれてしまうわけだけど、ずれてしまうのが自然だとも言える。これは、誓った時点に焦点を当てるか、それとも今の時点に焦点を当てるかで、見かたがちがってくる。その二つの時点のあいだで、焦点の当て方によってちがった意味づけが成り立つ。

 理想論としては、日本にも韓国にもともに益になるのがよい。または、損になるとしても、それを共に等しいくらいに分担する。そのようになっていないで、どちらか一方に多く益になったり損になったりしてしまうのであれば、理想論は成り立たない。現実を見なければならない。合意を守ることで、韓国にとっては損になる。逆に、合意が守られないことで、日本にとっては損になる。これは、そもそもお互いに主要な価値を共有できていないことをあらわす。お互いに信頼がもてていない。これでは、合意の以前の話と言えそうだ。

 仕立てあげられたものとして、合意がある。そのように見なすこともできそうだ。合意が完全な善であるとすると、それを実行することもまた完全な善となる。しかし、人間のやることで完全なものはありえそうにない。不完全さをもつものだと見なせる。その不完全なところについて、あらためて見なおしてみることができる。実行することだけが善であるわけではない。

 日本としては、合意を守るべきだというのは当然の主張なわけだけど、それをすることでかえって、お笑いで言われるフリがきいてしまうといったのもあるかもしれない。合意を一ミリメートルも動かすなよ、絶対にするなよ、という圧をかけることで、それが逆のメッセージに転じてしまう。逆にはたらいてしまい、オチになってしまう。オチになるのはけしからんというのもあるわけだけど、これは一つには、フリをきかせてしまっているせいだとも見なせないでもない。

 もし柔軟性をもてるのだとすれば、合意を守ることをかたくなによしとするのを避けることができそうだ。そこにかたくなになってしまうと、固着することになる。はたして固着することが合理といえるのかといえば、それがかえって不合理に転じることもなくはない。不合理に転じてしまうと、お互いにぶつかり合いになってしまう。これでは問題の解決にはなりそうにない。

 もし合意を守ることにかたくなにこだわるのだとしても、それは長期の視点に立つものでないと、合理によるとは言いがたい。長期の視点に立たないと、どちらもともに益にはなりづらい。逆に、短期(瞬間)の視点に立つと、合意を破ることにも合理性が生じるのがある。はたして日本が長期の視点に立っているのかといえば、そうとは言えそうにない。ということは、お互いさまなところがある。相手のことばかりを責められそうにない。

 日本が譲歩をすることになってしまうのがあるかもしれない。そのうえで、一度は合意ができたのがある。これは結婚で言うと、一度は愛を誓い合った仲である。そこに一すじの光があると見なせるのではないかという気がする。どうせ、合意を結んでもそれがきちんと実行されないだろう、というのもできる。そのような見なし方をもつのとは別に、一すじの光の可能性をもつのがよいのではないか。そうした可能性をもつのは、まったく不合理なことではない。隣国どうしであり、長いつき合いが想定できる。そのためにも、(この件については)日本はまったく悪くないとして自己欺まんにおちいるのではなく、少しは自己非難をするのがあったらよさそうだ。

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