韓国のアイドルグループへの批判と、表現や言論の自由を制限するかくあるべしの当為(ゾルレン)

 韓国のアイドルグループのアイドルは、過去にナチス・ドイツの軍服を着ていたことがあったという。かぎ十字のもようが入った帽子をかぶっていた。ナチスの行なっていたふるまいを演出としてとり入れた。

 ユダヤ人団体はこれに抗議をした。抗議を受けて、韓国のアイドルグループは謝罪して、ユダヤ人団体はこれを受け入れる意思を示しているという。過去の歴史における基本となる知識の不足はよくない、とユダヤ人団体は言っている。悪ではなく善に役立つために行動してほしい。

 韓国のアイドルグループは、ナチス・ドイツ原子力爆弾のきのこ雲の写真が入った洋服を着ていた。それで騒動が引きおこされた。この件では、表現の自由言論の自由が制限されたと見ることができる。完ぺきな自由があるのではなく、表現してはいけないことが中にはあるのを示す。

 完ぺきな表現や言論の自由があるのであれば、ナチス・ドイツや原爆のきのこ雲の写真が入った洋服を着ていたとしても、それをしてはいけないと非難されることはなくてよい。してはいけないことだという批判を投げかけられなくてもよい。しかし、完ぺきな表現や言論の自由はないことから、非難や批判を受けることになった。

 仮定として、完ぺきな表現や言論の自由があることをよしとするのであれば、ナチス・ドイツや原爆のきのこ雲の写真が入った洋服を着ていることが許されるのがふさわしい。これを許さないで、非難や批判を投げかけるのであれば、表現や言論の弾圧をすることになる。弾圧というのは誇張があるが、ある表現や言論は許されて、別のあるものは許されないというのでは、公平であるとは言いがたい。

 完ぺきな表現や言論の自由というのをとりあえず脇に置いておけるとすると、ある人が自由を行使することで、別の人に影響をもたらすことがある。それがマイナスの影響であることがある。そのマイナスの影響が、はなはだしいものなのであれば、それをこうむる人にとっては受け入れることはできづらい。

 韓国のアイドルグループによる今回の件では、もしかりに、完ぺきな表現や言論の自由があるとするのであれば、非難や批判を投げかけられることはなかった。特定のふるまいや、特定の図がらの洋服を着ていても、それは自由だということになる。どのようなふるまいや、どのような図がらの洋服を着ていたとしても、直接に物理の危害が他者に加わるのではない限りは自由であるべきだとなる。

 現実においては、韓国のアイドルグループは、ユダヤ人団体や原爆の被害者の方たちによる団体や、その他の人たちから非難や批判を受けた。この非難や批判が投げかけられたのは、ある特定のふるまいや図がらの洋服は、それを行なったり着用したりするべきではない、ということが示されたことになる。これが示されたのは、表現や言論は完ぺきに自由であるべきだというのではなく、ある特定のものについては自由であるべきではない、というかくあるべしの当為(ゾルレン)がとられたと見られる。自由と非自由の二つの当為がある中で、一部の表現については制限するべきだという非自由の当為が優先された。

外国人技能実習制度において、偶然性による負のできごと(event)がおきているのはないがしろにすることはできづらい

 制度の適正な 用い方をとって行く。首相や与党がおし進めている、外国人技能実習制度について、首相はそう言っている。

 与党である自由民主党の議員は、制度によって日本にやってくる外国の人たちが権利をとれるようにするのだという建て前や政治的公正を言っている。この建て前や政治的公正は、まったく心にもない嘘やでたらめというのではないだろうが、必ずしも信用することはできづらい。

 日本の社会に外国からやってくる人たちを受け入れる制度を見て行くさいに、いくつかの問いかけをとってみたい。なぜ、この制度を首相や与党である自民党はおし進めようとしているのか。この制度によって、一部の外国からやって来た人が、日本の社会の中でなぜ不当なあつかいを受けることになっているのか。

 なぜ不当なあつかいを、一部の人たちは受けなければならないのか。これから先に、不当なできごとがおきないように制度を改める確かな約束はできるのか。もし約束ができないのだとしたら、制度についてや、それをおし進める首相や与党である自民党を信用することはできそうにない。

 制度についてを見てみるさいに、負のできごと(event)に着目することは不可欠だ。この負のできごとはじっさいにおきているとされる事件である。制度において、負のできごとが引きおこされたために、こうむらなくてもよかったはずの被害を、一部の外国からやって来た人たちはこうむっている。これは暴力を振るわれたことをあらわす。構造や文化による暴力を振るっていると言ってもよいものだ。

 制度の中で、必然として外国からやって来た一部の人たちが不当なあつかいを受けなければならないということはないだろう。受けるいわれのない不当なあつかいを受けたと見なせるので、偶然による暴力だと受けとれる。このことを軽んじてないがしろにするのであれば、日本の社会は暴力がおきているのを大したことがないことだと見なすことになりかねない。そこに鈍感になるのではなく、もっと政治の権力者は敏感(過敏)になることがあってほしいものだ。

心の環境汚染だと言うが、環境汚染という不適切な言い方は置いておけるとして、心ではなく頭によることなのではないか(頭で知ったり認知したりするものなので)

 あまり本音を言うと、いまの役職を首になるおそれがある。それでも言わせてもらうが、自分にとっては戦時中の従軍慰安婦の問題は、心の環境汚染の問題だ。与党である自由民主党の議員はそう言ったと報じられている。

 日本の子どもたちにまちがった歴史観を教えるのは、心の環境汚染だ。これを思うと夜も眠れなくなってしまう。

 日本は国際連合に多くのお金を出しているのだから、日本にとって好ましくないことを国連が言ってきたら、それにたいして言い返したほうがよい。

 自民党の議員はこうしたことを言ったようだ。この発言は会合の中でのもののようだが、自分でもこの発言をすることで自分の首が切られるかもしれないと言っているように、内輪での利益は高いが危険性もまた高い発言だ。

 この発言によって首が切られるかもしれないという心配は杞憂ではないかもしれないが、そもそもこのような発言をするような思想を持っているから、いまの自民党の中でとり立てられているのにちがいない。

 日本の子どもたちは学校でまちがった(自虐史観による)歴史観を教えられている。議員はそう言っているが、この見なし方ははたして正しいと言えるのだろうか。

 そもそも、学校では近現代の歴史は力を入れて教えられているとは言えそうにない。時間を十分にかけて教えられているのではないだろう。そのこともあって、権力に近い政治家をはじめとして、きわめていい加減な歴史修正主義による近現代の歴史の認識がはびこっている。このことこそ心配するに値する。

 議員が言うことが完ぺきにまちがっているというのではないにせよ、改めて見直して問いかけをしてみることができる。子どもたちというふうに一くくりにしてもよいのか。歴史観において、正しいとかまちがっているとかいうのはどういうことなのか。それは単一なのか複数なのか。そもそも歴史観(歴史の表象)というのはどういうことなのだろうか。

 教えるというのは、一方的に押しつけることでよいとは必ずしも言えそうにない。子どもたちが受動ではなく能動で、色々な質問をもち、それを発信して投げかけるのがあってよい。言われたことをうのみにしないで、自分で調べさせてみるのはどうだろうか。

 歴史については史実だけではなく伝承もまたある。伝承として口伝えで経験が語られていることが必ずしもまちがったことだとは言いきれそうにない。体験した人が自分の体験をもとにして直接に近い形で語っているものもあるから、伝承としてその地で言われていることがまちがっているとは断定はできない。ものによっては寛容の原則を当てはめてみることができる。

 国際連合に日本は多くのお金を出しているということだが、それはそれとして、厳しいことをときには言ってくれるのが本当の友だちだろう。甘いことを言ってくるのはたんにこちらにとり入ってくる茶坊主の疑いが低くない。お金を多く出していれば厳しいことは言われず、少なくしか出していないのだと厳しいことを言われるのであればそんなあり方は公平ではなくおかしい。

 一方的に国連に日本が言われっぱなしになる必要はないだろうから、もしおかしいところがあればお互いにやり合うようにしたらどうだろうか。岡目八目というように、日本のおかしいところは国連などの他者からのほうがよりよく見えるものだ。日本のことは日本が一番よくわかっているというのは必ずしも成り立たない。盲点があるものだ。

 

新しく出た愛国の色あいが大きいとされる歴史の本における、形式(手つづき)と実質(内容)

 歴史についての新刊の本が出版された。この本の内容は愛国による色あいの濃いものだとされている。

 この本の内容について、形式と実質に分けて見られるのがある。この本の内容は正しい歴史をあらわしているのだとするのは、実質についての視点だ。

 実質とは別に、形式についてを見られる。十分な参考文献のリストがつけられていたり、他からの批判を受けるのにたいして開かれていたり、どうしてそう言えるのかの根拠が示されたりしていれば、形式としてふさわしいものになるのにつながる。もっとも、まだこれらだけでは不十分ではあるだろう。

 本をつくった送り手の個人の神秘による霊感で、内容が正しいのだと最終的にするのであれば、客観に確かめようがないので、説得性は高くはない。

 内容について批判をするのを敵とするのや、内容をよしとするのを味方とするのは、気持ちはわからなくはないものの、敵と友に振り分ける二元論になるのでいただけない。あまりにも単純に敵と友に振り分けるのは、批判にたいして開かれているとは言えそうにない。

 まったく絶対的に正しいというのではなく、本において歴史をあらわした内容は、一つの仮説にとどまっているものだろう。人間のやることだから、まったく非のうちどころがないほどに正しいというのは考えづらい。

 歴史をあらわすさいには、まったくの中立というわけには行かず、偏向するのはまぬがれない。色めがねをかけることになる。歴史の内容をあらわす送り手の予断(先入見)があらかじめあるだろうし、何らかの特定の価値づけをすることになる。そこをさし引くようにして、内容が何から何までぜんぶ正しいとはしないようにしたほうが教条(ドグマ)におちいる危険性は少ない。

移民とは認めないが、じっさいには事実としての移民を受け入れて、その人たちの権利をとれるようにするという建て前や政治的公正を言いながら、いまの憲法を変えようとするのは、やっていることがばらばらで、何をやろうとしているのかがわからない

 外国の人に日本に来てもらう。日本の社会の中で、外国の人に働いてもらう。これは避けられないことだ。与党である自由民主党の議員はそう言う。外国から日本にやって来た人に共に働いてもらう。外国から来て日本で働く人にも十分な権利をとれるようにして行く。

 いまの首相による政権がおし進めようとしている外国人技能実習制度を正当化する中で、自民党の議員は、日本の社会に外国の人が欠かせないのだと言う。外国から日本にやって来て、その人たちが共に日本の社会の中で働くことがいる。これこそが保守なのだという。

 言葉の用い方の点についてを見てみると、まずは、事実としては移民の受け入れなのにも関わらず、かたくなに移民であることを否定するのがおかしい。事実としては移民なのだと言われているのだから、移民だというふうに見なすべきではないだろうか。それをいまの首相や与党である自民党はかたくなに認めようとはしていないが、これはおかしいことだろう。

 日本の社会の中に、外国からやって来て共に働く人がいるようにする。権利も認めて行く。自民党の議員はそう言うが、それはそれでよいことだ。建て前や政治的公正としてはよいのはあるが、それを保守だと言うのが理解しづらい。それは保守ではないだろう。保守ということの意味を広げすぎである。

 いまの首相や与党である自民党がおし進めようとしている、外国人技能実習制度で、日本の社会に外国からの労働者を受け入れて行く。そうするさいに肝心なことは、自民党の議員も言っているように、基本的人権を尊重することだ。これをないがしろにせずに尊重することは、憲法を尊重して遵守することを示す。

 現実においては、外国人技能実習制度において、不当な目にあっている外国の人が出てきている。それで訴えをおこしている。本来あってはならないことがおきているのはあるが、これを改めるためには、憲法が定めている基本的人権の尊重をないがしろにせずに、みなにおいて確かなものにして行くことがいる。

 いまの憲法を変えて、国民が自分たちの手で自主的な憲法をつくるのを、いまの首相や与党である自民党は呼びかけて動いている。そうしつつも、外国人技能実習制度をおし進めていて、外国から日本の社会にやって来る外国の人に、人間としての十分な権利をとれるようにするのだと言う。これでは、一つの人間または一つの党の中で、やっていることがばらばらだ。支離滅裂だと言うしかない。

 せっかくいまの憲法では、基本的人権の尊重が定められていて、個人の尊重がとられているのだから、それを守るようにして、社会の中で現実化して行くのをやらない手はない。外国からやって来た人を含めて、社会の中のすべての人が、自分の幸福を追求できるように支えて行く。政治の権力はそれを支えるようにするために、いまの憲法で言われていることを受けとめて、現実化して行くようにしてもらいたい。

 外国人技能実習制度を、いまの首相や与党である自民党はおし進めようとしている。それをよしとするために、日本の社会に外国からやって来る労働者を受け入れるのを正当化するような建て前や政治的公正を、自民党の議員は言っている。それこそが保守なのだと言う。自民党の議員によって言われるこの建て前や政治的公正は、受けとるさいに空虚に響く。

 建て前や政治的公正が空虚に響かざるをえないのは、きれいごとに聞こえるからだ。もし心からそう思っているのであれば、憲法を変えようとするのはおかしいことである。むしろ守るようにしないとならない。それで憲法で定められていることを現実化するのがふさわしい。そうしようとはせずに、何が何でも憲法を変えようとするのをもくろむのは、支離滅裂に映る。

 建て前や政治的公正を言うなというのではないが、それを言うよりも前に、現実の社会において、うつろに響いているところに耳をすませるべきだろう。うつろに響いているところとは、権力をになう政治家にとって耳に快くは響かないものだ。弱者や少数者である国民の苦しみのすがたや訴えなどは、社会の中にある、うつろに響くところだ。見すごされてしまいやすい。

 権力をになう政治家にとって耳に快く響かないものに耳を傾けようとはせず、目を向けようとしないのであれば、いくら建て前や政治的公正を言われても、信頼できないし、心からのものだとは見なしづらい。

原子力爆弾の投下を肯定して、日本のことを否定することには、受けとり方によっては必ずしも直結はしないのではないか

 原子力爆弾を投下したときのきのこ雲をあしらった洋服を着ていたことがとり沙汰されている。この洋服を着ていた韓国のアイドルグループのアイドルは、日本での活動をとり止めることを余儀なくされている。きのこ雲をあしらった洋服を着ていたことで、日本のことを否定したと受けとられて、批判を受けているためだ。

 きのこ雲をあしらった洋服を着ていたことを前提条件として、それによって日本のことを否定したというふうに必ずしも言えるものだろうか。たしかに、きのこ雲をあしらった洋服を着ていたのはあるのだろうが、そうだからといって必ずしも日本のことを否定したと見なせるとは限らない。そこには若干の飛躍があるのではないか。

 戦争のさいに日本に原爆が投下されたのは、日本にとってのいちじるしい惨事であり不幸である。しかしそれだけにとどまらず、人類にとっての普遍の意味あいがあるということも成り立つ。日本だけにとどまらず、広く人類にとってあってはならないことがおきたのがある。人類の全体の罪だということもできるだろう。

 きのこ雲をあしらった洋服を着ていたことで、日本を否定したのではなく、戦争を否定したというふうに受けとることはできないものだろうか。なぜ日本に原爆が投下されたのか。日本に原爆が投下されたことについて、独特の受けとり方をなぜ韓国の人はするのか。それはひいては戦争が悪いことを示す。帝国主義による植民地支配もまた悪い。

 抽象的に見れば、戦争が悪いことから、戦争にまつわるさまざまな不幸が引きおこされた。戦争を記憶して風化させないで、想起しつづけるようにしないとならない。戦争は自国や他国の国民を不幸にするから、肯定しないで否定するようにする。

 きのこ雲をあしらった洋服について、それをつくった製作者が善意をもっている(悪意をもっていない)とするとして、寛容の原則を当てはめられるとすれば、必ずしも日本の国を否定する意図をもっているとは見なさないことができる。大きな論点でいえば、自国や他国の国民を犠牲にしたもとである、戦争を引きおこした責任のある独裁による国家権力や、戦争そのものや、膨張主義による他国への侵略が、責められたり憎まれたりするべきだと見なしたい。

前提条件としての論理(ロジカル)と非論理(イロジカル)

 論理なのか非論理なのか。そのちがいを見られるのがある。

 二分法として論理なのか非論理なのかを見られる。これは二項対立のものだ。論理によるのがすぐれていて、非論理なのは劣っている。

 二項対立では論理は優で非論理は劣だとできるが、これを反転させることができるとすると、一方が優で他方が劣だといついかなるさいにも言えるとは必ずしもできづらい。

 均質で均一になっているのなら、同一さや標準のあり方が成り立つ。しかし、非均質や非均一なのであれば、非同一や非標準となるので、ちがいがおきてくる。

 もともとが論理によっているのであれば、論理によるのが優でそうでないのを劣とできる。しかし、その逆にもともとそこまで厳密に論理によっていないのであれば、論理によりすぎるのではなくよりすぎないのが優となる。論理によりすぎないほうがむしろ理にかなうことがある。ゆるい(ファジー)論理や、多数の論理(パラロジー)によるものだ。

 断定するのではなく、言い切らない形によるがい然性によるのがある。ていどのちがいによるものである。完全というわけには行かず、中に矛盾を含むのを避けられない。不完全となる。人間のなすことには合理性の限界がつきまとう。矛盾においては、正(テーゼ)だけではなく反(アンチテーゼ)があることで対立が引きおこる。

戦時中の徴用工(他民族の労働者)では、外から日本にやってきた人は(国内において)少数者に当たるために、立ち場が弱く、生きづらく苦しい目にあったのだという

 いまの首相による政権は、移民を受け入れるのではないという。移民ではなく労働者だという。しかしじっさいには事実としては移民であると見られている。事実としては移民であるのなら、きちんとそのことを表にして明らかにして、たんなる労働者というのではなく人間としてのあつかいをとるようにしないとならない。

 いまの首相による政権がおし進めようとしている外国人技能実習制度では、外から日本にやってきた外国人の中で、不当な負のできごとに見まわれている人がおきているという。本当かどうかは確かではないが、中には、鉄パイプでなぐられている人もいるというのだから、それが本当だとすれば深刻だ。

 現代の外国人技能実習制度でおかしなことが引きおこされているのだから、戦時中における過去の徴用工のことを否定することはできづらい。外国人技能実習制度は、現代版の徴用工に当たると見られる。まったくつながりのない非連関なことだとは言えそうにない。

 いまの首相による政権は、移民ではなく労働者だと言うが、じっさいには事実としては移民だと言うことができる。制度によって外から移民を受け入れるのであれば、外からやって来る人たちにたいして、日本の国内で不当なあつかいを受けないことを確かなものにしないと、現代版の徴用工が引きおこされることになる(すでに引きおこされていると見られる)。

 外からやって来る人たちにたいして確かなものにしないとならないことは、できるだけ分断線を引かないで、人間として平等なあつかいをすることだろう。国家主義のようなことで分断線を引いてしまうと、戦時中において非国民をつくってしまったあやまちをくり返すことになる。

 分断線を引いて非国民をつくらないようにするためには、そもそも外から人(移民)を受け入れないようにするという手があるが、もし受け入れるのであれば、非国民のようなあつかいにならないようにするために大きな注意を注ぐことがいる。

 事実としての移民を日本に受け入れるのであれば、それらの人たちは、可傷性(ヴァルネラビリティ)をもつ。悪玉化されやすく、贖罪の山羊(スケープゴート)になりやすい。それらの点をあらかじめ見こしておかないとならない。排除されやすいというのをあらかじめ見こしておくことがいる。

 過去に戦時中において徴用工が引きおこされたことの失敗による教訓をくみ入れられるとすれば、現代版の徴用工が引きおこされるのではないようにするための、防ぐことに生かされればよい。国内では、外からやってきた人を含めて、少数者はしいたげられやすい。排除されやすい。

 国内において、少数者に当てはまることなどによって、生活に困るような人は、その人にたいしてステレオタイプによる独断や偏見がおきていることが少なくない。まちがった思いこみによるステレオタイプをとらないように改められればのぞましい。法の決まりによって少数者や弱者を守るようにして、労働において不当なあつかいを受けないようにすることがいる。

 制度によって外からやってくる人たちは、国内において少数者に当たりやすいために、少数者が不当なあつかいを受けないようにするのを確かなものにしたい。制度によって外からやってくる人を含めて、少数者や弱者が、よき歓待(ホスピタリティ)を受けるようにして、もてなす。制度によって外からやってくる人たちを含めて、少数者や弱者が、差別や排除をこうむらないようにするためにいるのが、よき歓待によるもてなしだ。

ヒストリーのストーリー(物語)における開かれの度合い

 ヒストリーの語源はストーリーだ。これは、私たちの物語なのだ。新刊で出た歴史の本の売り文句にはそう記されている。この本は小説家によるもので、愛国の色合いの大きいものだとされている。

 あたかも免罪符のようにして、ヒストリーの語源はストーリーだと言うのはどうなのだろうか。硬派と軟派でいうと、ストーリーだということなら軟派に当たってしまいかねない。

 人間のやることであれば、主観が入りこんでしまわざるをえないから、多かれ少なかれ物語(ストーリー)になってしまうのはある。たとえ物語になるとしても、軟派に偏りすぎないようにして、きちんとした裏打ちをもたせて、客観になるように努めることがのぞましい。

 自虐史観はよくないということで、愛国の色合いの大きい歴史を語る。それで新刊の本がつくられたのがあるだろうけど、愛国の色合いの大きい歴史だと、日本が過去におかした戦争にまつわる悪いことが過小に見なされてしまうのがおきてくる。

 日本が過去におかした悪いことを過小に見なすのは、歴史の見なし方としてふさわしいものだとは言えそうにない。日本が国として、過去に悪いことをしたのにもかかわらず、罪を中和化することになるからだ。罪の中和化の技術にいくら長けたとしても、それは歴史をきちんととらえて語ることにはならないのではないだろうか。

 歴史の新刊の本には内容に送り手の主観が入っているだろうし、それを受けとる受け手の主観もそこにつけ加わる。主観がいくつもの層にわたって入りこむことになるから、まったく主観の入りこんでいない客観にたどりつけるものではない。

 歴史の客観の真実は示せるものではないのだから、白か黒かといったように割り切らないようにしたいものだ。白なら白として、新刊の本の内容をまったくの真実としてしまうのは極端だ。極端にならないようにして、一体化するのではなく距離をとるようにしたほうが危険性は少ない。物語は複数のものによって相対化するようにして、一つのものを絶対化しないようにしたほうが安全である。

 日本の過去の歴史において、戦争では、従軍慰安婦や徴用工などの主題があるが、それらの主題について、さまざまな切り口の語り方をすることができる。従軍慰安婦という主題においては、一つだけではなく色々な文脈(言説)をとれる。複数の文脈がある中で、そのうちの一つのものをよしとすることの根拠や意図を見ることができる。

 一つの主題について、色々な切り口や語り方があるとしてしまうと、相対主義になってしまうのはあるが、一つの切り口や語り方だけを絶対の教条(ドグマ)としてしまうよりは多少はよいものだろう。ある主題について、何か一つの切り口や語り方をよしとするのは、それぞれの者が、特定の思想や物語のにない手となっていることをあらわす。

カロリーがゼロになる理論の信ぴょう性

 カロリーゼロ理論が言われている。この理論はお笑い芸人の人によるものである。

 ドーナツの形は〇キロカロリーをあらわす。ドーナツの真ん中はくり抜いてあるが、甘い食べ物は真ん中にカロリーが集まってくるので、そこをくり抜いてあるので残りのカロリーはゼロだという。

 カステラは小さく押しつぶしてしまえばカロリーがゼロになる。

 お菓子の柿の種は、小さくて辛いのでカロリーが燃焼するからカロリーはゼロになるという。

 カロリーは熱に弱いものであるため、油で揚げてしまえばカロリーはゼロになる。熱でカロリーは死ぬ。

 アイスクリームは冷たいからカロリーはゼロである。アイスクリームにカロリーはない。

 肉まんは白いからカロリーが白紙に戻ってゼロになる。

 お笑い芸人の人によるカロリーゼロ理論ではこうしたことが言われている。この理論はとても面白いものだ。こうあってほしいとか、こうだったらよいなというのを言っている。ボケのネタであるものであり、受けとる人は真に受けることはなく、ツッコミをしつつ受けとるものだろう。

 真に受けることはまずないものではあるが、あえて批判をさせてもらえるとすると、もしカロリーゼロ理論が正しいものではなくまちがっているのだとすると、カロリーがゼロというよりは信ぴょう性がゼロということになる。

 一般に、おいしいものほどカロリーは高い。カロリーを多く摂りたくなければ、カロリーの低いものを食べればよいけど、カロリーの低いもので積極的においしいものは多くない。

 おいしいものはカロリーの高いものだが、おいしさをとると、そこにカロリーの高さがくっついてくる。カロリーを多く摂ってしまうことになる。ここに問題がおきてくる。この問題の解決の手だてとして、カロリーゼロ理論があみ出されることになる。

 カロリーゼロ理論によって、問題は解決されることになるのか。おいしくてカロリーの高いものを食べると、気がとがめるものだが、その気がとがめるのを減らすという問題の解決にはなる。しかし、カロリーの高さが低くなったりゼロになったりするのではないから、その点での問題は解決していない。

 気がとがめることではなく、カロリーの高さという問題を解決するためには、カロリーゼロ理論で言われていることを一つの仮説として、じっさいに検証をしてみることがいる。それでカロリーがゼロにならないようであれば、まちがった仮説ということになる。

 せっかく面白いボケのネタなのに、それにケチをつけるのはよけいなことであるのはまちがいない。そこをあえて言わせてもらえるとすると、カロリーゼロ理論の問題点があるとすれば、それは土台がぜい弱なところにある。土台がぜい弱なので、言っていることの説得性を下げて見ることができる。

 ボケのネタだから、面白ささえあれば説得性はとくにいらないものだ。ネタによる面白さを置いておけるとして、説得性を見てみるとすると、一つの見解において、反論が成り立つ。カロリーについての性格づけが正しいものではなくてまちがっている。独断と偏見になっている。

 カロリーがゼロになったらよいなという思いがあって、そこからカロリーゼロ理論がつくられている。はじめの出発点において、認知の歪みが大きく働いている。はじめの出発点において、いかに認知の歪みが働かないようにするかが肝心だ。はじめに歪みが大きいと、それによってあみ出されたものの全体の中によくない雑音(偏向)が多く混じりこむことになる。雑音だらけということになってしまう。

 人間のなすことには、雑音が多かれ少なかれ混じりこむことにはなるが、それをくみ入れるようにして、合理性の限界があるのをわきまえるようにしておく。絶対にまちがいがないとするのではなく、教条(ドグマ)にしないようにして、相対化することができればのぞましい。