レトリックの痕跡(残された跡としてのレトリック)

 それは一つのレトリックとして言ったことだ。テレビ番組で出演者はそう言っていた。自分が発表した文章の中の表現を、一つのレトリックとして言ったものにすぎないとしている。

 テレビ番組の出演者が言うことを聞いていて、自分が発表した文章の中の表現をレトリックだと言ったこともまたレトリックなのではないかという気がした。何々はレトリックだ、と言ったことがレトリックだというのは否定しきれない。

 レトリックとして言ったというのは、メタ言語だろう。レトリックとして見よということである。そのメタ言語もまたレトリックとなっていることがある。そうなると、レトリックであるものが無限に遠ざかって行くことになる。けっきょく何なのだとか、つまるところどうなんだということになる。

市場原理による生産中心主義のあり方で割り切るのではないようにしたい

 性の少数派は生産性がないと言う。自由民主党の議員は、雑誌の記事の中でそう述べた。これには批判が投げかけられたが、そんなにおかしいのかとして、雑誌では新たに企画を組んだ。議員の発言を擁護するものである。

 子どもを生むか生まないかを、生産性が有るか無いかとするのは、適したものではない。ある一つのことで人を還元してしまっている。なので適したものではないが、かりにそれによるとして、子どもを生まないのは生産性がないとできるのかどうか。子どもを生まないのは生産性がないとするのを、たんに事実を指し示しただけだとするのは、市場原理を当てはめたものだろう。

 市場原理を当てはめてみれば、子どもを生む生産性のある人たちに税金を使うのがふさわしく、子どもを生まない生産性のない人たちには税金を使わないようにする、という見かたがとれなくはない。自民党の議員がした発言や、それを擁護する発言のうらには、市場原理によるあり方がかいま見られる。

 市場原理だけをもってしてものごとを決めるのは、市場原理万能主義になりかねない。その危うさがある。それを避けるためには、贈与原理をとることがいる。市場原理のあり方によって失敗することは少なくないので、贈与原理によって補うようにすることは欠かせない。

 自民党の議員の発言では、なぜ子どもを生まない生産性のない(と議員が見なす)人たちに税金を使わなければならないのか、という疑問がとられている。生産性のない人たちに税金を使うのであれば、そのお金を生産性のある人たちにかけたほうがよいではないか、というものだ。

 市場原理からすれば、生産性のない人たちにかけるお金を、生産性のある人たちに回したほうが、一見するとよいように見えないではない。しかし、その見かたには待ったをかけることができる。

 市場原理によってあらゆるものごとが解決するわけではないのはたしかだ。少子高齢の問題があるとして、その問題を何とかして行くためには、市場原理だけによるようにして、それに徹するようにすればうまく行くのかといえば、そうとは見なしづらい。贈与原理をおし進めたほうがうまく行くことが見こめる。

 冷たいところがあるのが市場原理だ。差別を生む。そのいっぽうで贈与原理は、ある共同体の成員であるというだけでその存在を承認されて、適した財の配分が受けられるものだ。同じ仲間だとする。ただたんにある共同体の成員であるというだけで、その存在が承認されて、適した財の配分が受けられるのは、市場原理からすればおかしいものだと映るかもしれない。

 かりにもし贈与原理がまったくとられなければ、市場原理もまた成り立たなくなるおそれが低くない。市場の失敗がおきるのがあるし、市場のあり方に徹すれば、あらゆる人にとって生きて行きづらいような、冷え冷えとした非人間的な社会になりかねない。幸運と不運という偶然の要素がはたらく。幸運な者は生き残れるが、不運な者はそれが見こめなくなる。

 もともとが、いったい何のための目的なのかを、改めて見直すのは益になるものだろう。できるだけ一人でも多くの人が、社会の中で、その存在を承認されて、受け入れられるようにする。それで適した財の配分を受けられる。みんなを仲間であるとする。それを主たる目的の一つだとできる。また理想として、一人ひとりが自立して、自由と平等と友愛(連帯)によれるようにしたい。そのためには、市場原理だけによるのではなく、贈与原理もあるのでないとならない。両方が必要だから、片方だけをとるのではないようにすれば、偏らないですむ。

 生産性があるのとないのとで人を分けてしまうところが市場原理にはある。生産性がある人とない人とで、人にちがいをつけている。これだと、人をあることの手段としておとしめることになる。しかし、それとはちがう見かたができる。東洋の思想では、万物斉同(せいどう)ということが言われている。人はみな同じだという。みな同じだというのは、人を一人ひとり目的だと見なすことができる。贈与原理のあり方に通じるものである。

出版不況でものが売れなくて出版社は大変だろうとは思うが、良心を捨ててまでしてお金を得ようとするのはまちがっているだろう(いち出版社に限ったことではないが)

 性の少数者にたいして、生産性がないと言う。自由民主党の議員は雑誌の記事の中でそう言い、さまざまな批判がおきた。この発言を載せた同じ雑誌で、そんなにおかしいことなのかということで、企画が組まれた。

 この雑誌では、自民党の議員の発言に関することのほかに、朝日新聞を叩いたり野党を叩いたりしている。それによって結果として時の権力に利するようなことをしている。

 雑誌が売れることで、それを発行している出版社の稼ぎになる。売れるか売れないかということでいうと、本や雑誌が売れないけど(中身が)よいものと、売れなくてよくないものがある。売れてなおかつよいものと、売れるけど悪いものがある。それらに場合分けをすることが成り立つ。

 本や雑誌を発行する出版社として気をつけなくてはならないのは、売れるけど悪いものだろう。自民党の議員による生産性がないとの発言を載せて、それを擁護した雑誌は、売れるけど悪いものに当てはまる。

 売れるけど悪いものに当てはまるのは、雑誌を発行する出版社の社長がそれを認めているのからもうかがえる。社長は声明を出した。その中で、雑誌の企画の記事は、あまりに常識から逸脱した偏見と認識の不足に満ちた表現があったと言い、非があったとしている。

 社長が言うように、雑誌が企画した記事の中に偏見があったのはなぜなのか。それは記事の送り手と雑誌を運営する責任者(編集者など)の中に独断があったからだろう。独断があることによって偏見が生み出される。認識の不足がないようにして、認知の歪みを相対化できればよかった。はじめに認知の歪みがあると、それが出発点になり、言うことの中で歪みが大きくなって行く。

 社長が非があったと認めている雑誌は、場合分けをすることができる中で、売れるけど悪いものに当てはまる。売れるというのは稼ぎが高いことであり、悪いというのは危険性が高いのをあらわす。稼ぎが多く見こめるというのは、中身が悪いことによる危険性もそれに相関して高くなることがおきてくる。

 ものが売れて出版社の稼ぎが多くなりさえすればよいというものではない。出版不況の中で、ものが売れないのはあるだろうけど、その問題を何とかするために、中身の悪いものでもお金になるからそれで稼ごうとするのではないようであってほしい。それをしてしまうのであれば、不正義をおかすことになるだろう。中身が悪いものが出回ることで、それを受け入れる人も出てくるし(受け入れるのは人の自由ではあるが)、全体の質が下がってしまう。悪循環になるのがある。

少数者が生きづらいことになっているとすれば、(偏見や差別により)排斥されていることが少なくなく、その問題を改めるようにして、包摂や承認ができればよい

 性のことはおもて立って語るな。性のことはひと目に触れないようにして、隠すようにするのが日本の古くからのあり方だ。日本の古典文学でも、性のことについてはほとんど語られていない。テレビ番組に出演していた評論家はそう言っていた。

 日本の古典文学はともかくとして、近代文学では、性は多く語られているものだろう。性の描写がない小説のほうがむしろめずらしい。日本の文学の特徴は色ごのみにあるという説もある。

 性のことをおもて立って語らないほうがよいかというと、そうとは言えそうにない。その必要性があれば、語ることが益になるものである。国民の一人ひとりは有権者であり、有権者が何を思おうと自由だし、その思ったことを語ることの自由もある。公共の福祉に反しないかぎりは、思ったことを語ることはよいものだろう。

 日本の国家の法である憲法では、基本的人権の尊重がとられている。個人の尊厳や尊重をよしとするものである。すべての個人はみな同じように尊厳をもち、尊重される。それとともに、それぞれの個人にはちがいがあってよい。同じであるとともに、ちがいがある個人が、それぞれに幸福を追求することがよしとされる。

 雑誌の企画では、野党を叩いたり、朝日新聞を叩いたり、(性などの)少数者を叩いたり、といったものが組まれている。叩かれることになっているものは、贖罪の山羊(スケープゴート)になっている。贖罪の山羊を生んでしまうのは、一つには、少子高齢が進んでいて、国家の危機がおきているのがあるためだろう。

 国家の危機があるときは、贖罪の山羊がとられやすい。権力チェックとして、強者である権力者をきびしく監視して目を光らせるのならわかるが、そうではなく強者ではない者を叩き、結果として政治の強者に益するようになるのはやっかいだ。結果として政治の強者の益になるようなことをするのは、たやすくやらないでもらえればよい。

 国家にはそのもとになる法がある。国家よりも法を優先することができる。その法(憲法)によれば、個人の尊厳や尊重がある。ここを起点にすることができればよい。日本という国家を起点にするのではないようにしたい。国家のために国民があるのだと、国民は手段におとしめられてしまう。そうではなく、個人としての国民がまずあり、国民の一人ひとりがそれぞれに(手段ではなく)目的である。国家はそれを支えて補うためにある。国民よりも数段階ほど下(下位)にあるのが国家である。

 国民がいちばん上にあり(正確に言うと、個人の尊重がいちばん上にある)、その数段階ほど下に国家がある、というのではない見かたも色々とできるだろう。その中で、国民が上で、国家が下だとすることにより、国家という本質ではなく、個人という実存が先立つ、と見なすことが一つにはできる。

党の総裁選において、やろうとしたこと

 石破茂氏は、自由民主党の総裁選に出馬した。石破氏は総裁選の中で何をやろうとしたのか。それは、党の中の汚れをきれいにしようとすることだった。それができたかというと、残念ながら力およばず、かなわなかった。しかし、どれだけ汚れているのかと、それをきれいにしようとする意気ごみは示せただろう。

 石破氏は、総裁選が終わったあとで、こうしたこと(以下のこと)を述べている。党の中での圧力や、冷や飯を食わせることが行なわれている。それがよくあることだとか、多様性であるとかとは私は思わない。

 いま世の中で、強い者が弱い者に圧力を加えている。弱い者がものを言えない。そんな世の中であってはいけない。いま大勢の人がそう思っているのだと思う。

 その中にあって政権政党である自民党は、国民の範とならないといけない。自民党は、強い者が弱い者に圧力をかけるのではないんだね、と人々から言われるようにすることがいる。圧力とかそんなことはなく、みんなで国家と国民のために尽くす。人々から見習われるようにならなければならない。

 学問やスポーツの現場においても、自民党を見習おうよと言ってもらえるようなふうになるのが大事なことである。

 石破氏は総裁選のあとでこのように言っているが、現実の自民党は、人々から見習われるどころか、反面教師にしかなっていないと個人的には見なさざるをえない。ああいうふうになりたいというのではなく、ああいうふうにだけはなってはならない、となっている。

 石破氏が総裁選において何をやろうとしたのかは、石破氏だけが知るところであり、あくまでもそれをおしはかることができるのにすぎない。まちがいなく正しいのだとは言えないのはまちがいないが、一つには、石破氏は、自分から冷や飯を食うのを買って出ることによって、党の中にある汚れを何とかしようとしたのではないか。

 党の中にある汚れというのは、党の中心である首相や政権によるものにほかならない。中心が汚れをためている。それは膿(うみ)である。膿がたまっていて、それを何とかすることができていないし、しようともしていない。

 中心に汚れがたまっているのを何とかするためには、中心が自分ですることは難しい。それを何とかするためには、中心と周縁を転じさせないとならない。周縁が中心になり、中心が周縁になるようにする。中心と周縁のあり方をひっくり返す。

 中心と周縁をひっくり返して、周縁を(中心で)活躍させるようにしないと、汚れを出すことはできづらい。中心をよしとして支持するのは権力の奴隷である。権力の奴隷になるのではなく、周縁に身を置き、中心のおかしいところをさし示す。きたない汚れをかかえる中心の、嘘やごまかしやいんちきをあばく。それをさせじとして、中心は中心にとどまりつづけようとする。それで、総裁選では首相が三選をすることになった。

 これ以外にも、色々な見かたができるだろうし、どれか一つの見かただけが正しいというわけではないだろう。一つの見かたにすぎないものではあるが、石破氏が言っていることは、石破氏による不正義の感覚(これが不正義なのだという感覚)の表出である。

 石破氏による不正義の感覚の表出は十分にできているのかというと、不十分なものにとどまっている。かろうじて、総裁選の中で、ごく短い期間の機会が与えられて、言うことができたのにすぎないものだろう。中心にいる首相やそのとり巻きにそれが届いたのかというと、馬の耳に念仏であり、豚に真珠であり、馬耳東風となっている。なぜそうなのかというと、悪いことを自分たち(首相やそのとり巻き)のせいとして引き受けるのではなく、外にあるものになすりつけていることによる。

(自分にとって都合の悪い)批判を排除しても、その批判がまちがっていることにはならない(当たっているから排除されるという見かたが一つには成り立つ)

 みなさん、批判だけしていても何も生み出すことはできない。批判ばかりするのではなく、実行して行く。首相は自由民主党の総裁選の演説で、そう言っている。

 批判ばかりする人は何も生み出さないということだが、何かを生み出せばよいというものではない。いまある悪いものをどけることのほうが、何かを生み出すことよりも必要なことは少なくない。どけるというのは、おおい(フタ)をとり除いて、隠されている穴を見つけることを含む。

 批判よりも、実行をする。それがよいことなのだと首相はしているが、その前に、批判になっているものとなっていないものを分けることがいる。理由があり、だからこうなのだというのは、批判になっている。ちゃんと理由があるものは批判になっているのだから、何の理由もなくただ文句を言うもの(批判になっていないもの)とは分けて見ないとならない。ただやみくもに文句を言っているのが批判なのではない。

 批判になっていないものは置いておくとして、批判になっているものについては、なおざりにすることはできないものである。批判になっているものを投げかけられているのであれば、それが当たっているのかどうかがある。当たっていないというのであれば、それを客観で示せるように説明しないとならない。客観で説明できないのであれば、批判は当たっていることがある。

 国の政治家が国民から批判をされるのは、当然のことである。批判が無いのであればその方がおかしい。なぜ批判がおきるのが当然なのかといえば、政治家は国民を代表しているためであり、国民そのものではないからである。ずれがおきる。ずれがおきないというのは現実にはありえないことである。

 政治家は国民にたいしてまったく少しも嘘をつかないことはできないものであり、そこが政治家の弱点である。国民の代表である政治家は、国民とはちがう意図(intention)をもち、国民にたいして少なからぬ嘘(message)をつく。それにたいして批判をすることができる。

 国民の中にはさまざまな意見を持っている人がいる。国民のすべてではないにせよ、その中の一部と政治家とのあいだに、紛争がおきるのは避けられない。それによって批判がおきることになる。批判がおきることにたいして、批判ばかりしているのはおかしいというのは、解決の手だてにはなっていない。

 解決の手だてをとるためには、批判ばかりしているとされる人たち(じっさいに批判ばかりしているわけではないが)について、十分に承認することがいる。その声を受けとめることがいる。それをしないで、たんに権力者が選挙で選ばれたことをたてにして、一方的に働きかけを行なっても、みんなに値うちのあるものは実らない。

 実行というのは、たんに働きかけをするというだけのことであり、それだけではみんなに値うちのあるものを生み出せない。たとえ権力者にとって不都合な声であっても、それの受けとめが十分にできているかどうかが大事である。受けとめが十分にできていないのであれば、創造性のない実行になる。

雑誌のほうに冷静さがあれば、他からの批判の投げかけがある中で、当たっているものについては認められるはずだから、そうしてほしいものである

 性の少数者には生産性が無いと言った議員の発言について、そんなにおかしいかとして、雑誌では企画が組まれている。(生産性が無いという)議員の発言への批判はどれも冷静さのかけらもなかったという。雑誌ではそう言っているが、思わず冷静さを失ってしまうくらいに燃料を投下してしまっているのは雑誌のほうだろう。雑誌のかまえが上から目線なので、それもまた燃料になっている。上から目線ということについては、あまり人のことは言えないものではあるが。

 雑誌では、投げかけられた批判がどれも冷静さのかけらもないものだとして、まっとうな議論のきっかけとなる論考をお届けするとしている。それで、そんなにおかしいかという企画を組んでいる。題では、そんなにおかしいかとしているが、じっさいのところは、全然おかしくないというものだろう。批判をする方がおかしいというわけである。議員の発言や、それを載せた雑誌の記事と、新しく組まれた雑誌の企画について、非がないということで自己防衛に走っている。

 まっとうな議論のきっかけとなる論考をお届けするとのことだが、まっとうな議論のきっかけにならない論考をお届けしてしまってどうするのか。お届けしているものがおかしいだろう。まっとうな議論という前に、まっとうな認識ができていないことを疑わざるをえない。

 雑誌の記事の中では、こんなことを述べているという。性の少数者である LGBT が生きづらいなら痴漢常習者も同じだとのことだ。生きづらさとしては共通しているというのを言っているのだろうが、同じものだとして同列にするにふさわしいものではない。痴漢常習者は犯罪者なのであり、犯罪を犯した者と同列にあつかうべきではないから、類似していない。

 痴漢をする者の触る権利を社会は保障すべきでないのかとも記事では言う。触られる女性のショックを思えというか、とつづけている。そうであるのなら、LGBT 様が論壇の大通りを歩いている風景は私(執筆者)には死ぬほどショックだ、とのことだ。

 痴漢をする者の触る権利を社会が保障したとすれば、電車の中などで、人を触り放題になる。すでに、触られない権利があるのだから、触る権利ができたらおかしなことになる。触ることは、他者に危害をおよぼすことになるから、それをしない義務がある。電車の中などで、他の人を触ることの必要はないのだから、(触る権利を)受け入れることはできるものではない。

 触られる女性のショックを思えというのか、については、それを思うことはいるものだろう。自由主義では、現実に自分が男性であったとしても、もし自分が女性であったらという想定をとれる。もし自分が女性であると想定すると、ショックを思うことはできる。現実とまったく同じショックを思うことはできないが、ショックは思うことができるので、そこを無視することはできない。ショックというよりも、危害が加わるものではあるが。

 LGBT 様が論壇の大通りを歩いている風景は私(執筆者)には死ぬほどショックだと記事では言われている。ここで言われている、LGBT 様が論壇の大通りを歩いている風景というのは、本当にそんなものがあるのだろうか。その風景があるというのを客観で示せないのなら、主観であるのにとどまっている。論壇というよりも、世間で人々が声をあげているのがあるのだから、そちらのほうがずっと大事なことだろう。

 違法に人に触られるさいのショックと、LGBT についてのことで雑誌の執筆者が個人的に死ぬほどショックを受けるのとでは、ショックの意味あいがちがう。人に触られるさいにショックを受けるのは当然のことだ。それとは別に、雑誌の執筆者が個人的に死ぬほどショックを受けるのは、当然のこととは言えそうにない。個人的に死ぬほどショックだというのは、そう言ってはいるが、本当にそうしたショックを受けたのかは定かではない。

 ほかの多くの人が、死ぬほどショックを受けていなかったり、そこまでたいしたショックを受けていなかったりするのなら、ほかの多くの人の受けとり方のほうが正しいこともあるだろう。個人の受けとり方が絶対に正しいとは言えないという意味あいにおいてのものである。

雑誌の企画では、もとの発言について、そんなにおかしいか、という題になっているが、ますますおかしくなっている(そんなにおかしいかというどころではない)

 性の嗜好は他人に見せるものではない。迷惑だ。雑誌の記事ではそう言っているのがあるという。この雑誌の記事は、自由民主党の議員が、性の少数者について生産性が無いと言ったのに関わるものである。自民党の議員の発言を擁護するために企画が組まれている。

 雑誌の記事では、性の少数者について、倒錯的で異常な興奮に血走るものだとしているそうだ。犯罪そのものでさえあるかもしれないとも言う。

 性の少数者について、倒錯的で異常な興奮に血走るとして、決めつけてしまっている。性の多数者であっても、倒錯になることはあるし、異常な興奮に血走ることはまれではない。まちがった決めつけになっている。

 性の少数者は、性の嗜好によっているわけではないから、そこの認識は当たっているものではない。犯罪そのものでさえあるかもしれないなどとして、おかしな言い方をしているが、犯罪かどうかというのは、あらかじめ法律で定められているものである。他者に危害をおよぼすものであれば犯罪になるが、そうではないのであれば、性のあり方をふくめて、自己決定することが許されるのはまちがいない。

 自由主義では、もし自分が性の少数者であればという想定をとることができる。多数者ではなく少数者である想定がとれるので、そのさいに多数者から不合理な差別や偏見をもたれるのは受け入れられるものではない。性における多数者か少数者かは反転することができる。自分が少数者であることもあるのだから、少数者が社会の中で尊重されるのがのぞましい。

 性の少数者のことをさす LGBT はふざけた概念だ。記事の中ではそう述べているという。これは LGBT を不当に悪く一般化してしまっている。LGBT の概念にたいするまちがった思いこみだろう。ふざけたという形容は主観によるものであり、客観とは言えない。

 身体の性のちがいは染色体によって決まるが、これについて、性は XX のメスか XY のオスしかいないと雑誌の記事ではしている。雄しべと雌しべのほかに、レズしべやゲイしべなどは無いという。

 XX と XY はあるが、レズしべやゲイしべは無いということだけど、すべてが染色体によって決まるわけではないだろう。性のちがいは染色体によって還元することができるものではなく、ほかの色々な要素が関わっているものだととらえられる。

 性のちがいというのは、身体の性(セックス)と文化の性(ジェンダー)があるとされている。そうしたちがいがあるから、それらについてそれぞれに見て行かないとならない。男性か女性かというのだけではなく、その二つのあいだの連続したところを見ることができる。

 ユングの心理学では、アニマとアニムスというのがあるという。男性の中にある女性の部分や、女性の中にある男性の部分があるとされる。男性は男性とするのや、女性は女性とするのは、それぞれを基礎づけてしまっている。したて上げているものだろう。現実のあり方としては、基礎づけることはできるものではない。

 男性なら男性とするのや、女性なら女性とするのは、基礎づけているものであり、白なら白というふうに純粋に見るものである。しかしじっさいにはそうではなく、まったくの白というのではなくて、白の中に黒が混じっていたり、黒の中に白が混じっていたりする。

 男性や女性というのが実体としてあるわけではない。表象や記号である。抽象によるものだから、人によって頭に思いえがくものにちがい(差異)がある。男性と女性の記号は関係によるものであり、そのあいだにある分類の線は揺らいでいる。きっちりと線が引かれているのではない。男性と女性というのだけでは、じっさいの性のありようを見るさいに、ざっくりとしすぎている。

 男性と女性というのだけでは、たった二つしか概念がないので、概念の数が足りない。もっと概念の数を増やしたほうがより現実に適った見かたをすることができる。概念はものを照らす明かりであり、明かりが当たらない暗いところができる。明かりがおよばない暗いところに明かりを当てるようにする。

 現実は単純なものではなく、複雑なあり方をしているのがあるので、色々な見かたが成り立つ。

 染色体を理由にして、男性と女性しかなく、そのほかの性の少数者によるあり方はないのだとするのは、それそのものが男性中心主義による見なし方に通じる。男性中心主義では、男性を優として、女性を劣とする。その劣の中に、性の少数者によるあり方を含めてしまう。男性や女性だけではなく、そのほかの色々な性の少数者によるあり方があり、それらすべてが互いに平等になるのがのぞましい。

 性の少数者によるあり方を悪玉化して排除したところで、社会がうまく行くわけではない。再生産がうまく行くことにはつながらない。むしろその逆に、男性と女性だけではなく、ほかの色々な性のあり方を認めるようにして、みんなが安らいで生きて行けるようになれば、そのほうが社会がうまく行くようになる見こみが成り立つ。人口が拡大する再生産にまちがいなくなるとはならないかもしれないが、単純(定常)な再生産はうまく行く見こみは十分にとれるだろう。

 性の少数者が、生きて行きづらい。生きて行きづらさは、性の少数者が悪いのではなく、その外をとり巻く社会の環境が悪いせいだとできる。生きて行きづらさがあるのを、生きて行きやすいようにする。自己責任だとしてしまわない。それがよいのではないだろうか。生きて行きづらいのを生きて行きやすいようにするには、十分に承認するようにして、そのうえでできればお金などで支援もできればよい。かりにお金で支援はすぐにはできないにしても、せめて承認は十分にしたいものである。声を受けとめられるようにできればよい。

外交で会談の回数を重ねるのは蓄積であり、その数を積み重ねれば積み重ねるほどよくなるとは必ずしも言うことはできそうにない(蓄積とはちがう、消尽がある)

 二二回も会談を重ねる。日本とロシアは、いまの(日本の)首相のもとで、会談を積み重ねている。首相が会いに行くと言えば、ロシアはそれなら会おうとして迎え入れてくれる。

 二二回もの会談の数を積み重ねているのは、量によるものだ。それとは別に、質によるものもある。回数が多いというのは量によるものだが、それが質をあらわすのだと言うことはできない。量を重んじたとしても、質がないがしろになっているおそれがある。

 会談の回数は量であり、その数を重ねれば重ねるほど、期待は高まる。期待は高まるとしても、裏切りのおそれがある。期待が裏切られるということはありえないことではない。

 いままではロシアとはなかなか会うことができなかったが、首相が就任してからというもの、ロシアと会うことができるようになった。こちらが会おうと言えば、向こうはそれに応じてくれる。このさいの会うというのは、手段なのであって、それそのものが目的なわけではないだろう。手段であるはずの会うことが目的となっているふしが見うけられる。

 歴史において、負けることになる者の特徴がある。予備校講師の林修氏はそう言う。思いこみであり、慢心であり、情報の不足である。この三つに気をつけることが何よりも大事なのであり、この三つのうちのどれか一つでも十分に気をつけられていないのであれば、いくら会う回数を重ねたとしても、負けることになるおそれがいなめない。

 会う回数を重ねれば重ねるほどよくなって行くのだとは見なしづらい。会ってよくなるのと、会って悪くなるのとの二つに場合分けができる。会わなくてよくなるということはないにせよ、会わないで悪くならないのと、会わなくて悪くなることの二つの場合分けがとれる。会うことそのものによい価値があるとは言えそうにない。悪い価値もまたある。

 ロシアに日本が外交で勝つことができるとするのは、相手が相手だけに、そう簡単にできることとは言いがたく、そうとうに見こみは低い。ロシアが勝ち、日本が負けるということはあるだろう。ロシアと日本が共に勝つということもないではない。共に勝つことは簡単かと言えば、そうとは言えそうになく、相手にだし抜かれることはある。こちらが少しでもすきを見せさえすればやられることはある。

 ロシアと日本が共に勝つことができるのは、ロシアと日本のいまの首相は、お互いに信頼関係があるからだ。信頼関係を築けている。この前提条件は、反対にひっくり返すことができるものだろう。反対にひっくり返すことができるのは、ものごとに負けるさいに、思いこみが働くことがあるからである。信頼関係が築けているという(首相の中の)思いこみが働いているおそれがある。この思いこみや、そのほかに慢心や情報の不足があるのなら、ロシアとの外交において、日本に危ないところが無いとは言うことはできない。

首相が言っていることと、やっていることとが、合っているのではなく、大きくずれているのだと見なせる(有言不実行である)

 首相にたいする忖度がおきている。巨大な首相の像にたいするおびえがおきている。これについて首相はどう思うかとたずねる。

 テレビ番組の中で、出演者にたずねられた首相は、こう答えている。首相がこう考えているからこうするということはない。自由で闊達な議論が自由民主党の中で行なわれている。無い無いと言われているが、丁々発止のやりとりはされている。

 質問をした出演者に向けて、さらに首相はこう言う。あなた(質問者)だって、私(首相)にたいして別におそれを抱きはしないだろう。ふつうはしないだろう。質問をした出演者はこれにたいして、おそれを抱いてはいないと受け答えていた。

 質問をした出演者にたいして、首相におそれを抱いてはいないだろうというふうに言い、おそれを抱いてはいないと出演者は受け答えたが、これは首相による誘導尋問である。あらかじめ答えや結論が決まっていて、それを答えさせるようにしむけている。

 首相が言っていることと、(首相の誘導尋問に答えた)出演者が言っていることは、疑わしいものだと言わざるをえない。もしかりに、首相にたいしておそれを抱いていないのだとすれば、もっと厳しい追求がばんばん行なわれていないとならない。テレビ番組の中でもそうだし、ほかのさまざまなところでそれが行なわれているようでないとならない。

 首相の顔色をうかがいつつ、おそるおそる質問を投げかけているのだから、おそれを抱いているのがある。へっぴり腰のようになっている。腰が引けている。首相の機嫌を損ねないようにして、おべっかを言う。機嫌を損ねるようなことは、たとえ言う価値のあることであっても、ひかえざるをえない。何かというと、印象操作だ、と言われかねない。

 首相や政権にたいして、おそれやおびえをまわりが持っている間接的な証拠はある。一つには、N◯K が大本営発表のような報道をしているのがある。権力にたいする批判をせずに、やたらと権力を持ち上げるような報じかたをしている。これは首相や政権がそうするようにしむけているおそれがきわめて高い。圧力をかけている。

 N◯K にかぎらず、ほかの報道機関にたいして、首相や政権への批判をしづらくさせるようにしむけている。それによって閉塞感がおきている。首相や政権のことを、とりあえず持ち上げたりほめたりしておけばまちがいない。さわらぬ神にたたりなしとなっている。

 首相が言っていることをそのまま受け入れるのではなく、その反対が本当のことだと見なしたい。首相が言っていることは、すべて反対のことが本当のことなのではないか。うのみにすることはできないのは確かだ。

 自民党は、国家の公を肥大させることをねらっている。個人の私を、国家の公に都合のよいものにしようとしている。これは生やさしいことではなく、とても危ないことだ。大したことではないというふうに見なすことはできない。肥大した国家の公は、個人の私を押しつぶすことをいとわないものである。

 自民党やいまの首相による政権は、国家主義をとっている。国家主義は国家にそぐう者とそぐわない者を線引きしてしまう。国家にそぐわないとされる者は、権力にたいしておそれやおびえを抱くことになる。それをはねのけて勇気を持つことはあるだろうが。

 国家にそぐう者とそぐわない者を線引きしている中で出てきたのが、自民党の議員による、特定の少数の者を生産性が無いと見なす発言である。こうした線引きをしておいて、権力にたいしておそれやおびえはないだろうと言ってもとうてい信用することはできない。

 形としてはそうであっても、いまは民主主義ではなく、権威主義専制主義になってしまっている。横すべりしている。強い権力がいて、それにおもねることが多く行なわれている。こんな中で、自由で闊達な議論や丁丁発止のやりとりができるわけがない。(自由な議論が)無い無いと言われているのが正しいものだろう。権力や権威をかさにきて、強い者と弱い者に分かれてしまう。権力が濫用される。それを改めないかぎり、おそれやおびえは無くなることはのぞめない。