犯罪や不正という点でいうと、一政治家や一報道機関もそうだけど、それより大きなのは国家(政権)によるものなのがあり、大きなものを見逃すわけには行きづらい

 彼らは犯罪者だと思っている。そのように言われたのは、自由民主党石破茂氏や、希望の党玉木雄一郎氏や、立憲民主党福山哲郎氏である。この三人を犯罪者よばわりしたのは、日本維新の会足立康史氏である。

 足立氏が石破氏らを犯罪者だと思っているとしているのは、友敵論でいうと敵と見なしていることにもよりそうだ。こうして敵と見なしてしまうのだと、ごく単純な二元論となってしまう。そうではなくて、とり沙汰されていることの真相がどうだったのかが明らかになったほうが、みなの益になるのがあるから、そちらの方へ力を向けたほうが生産的なのがある。

 石破氏らのほかに、足立氏は朝日新聞の記事の内容にたいしてねつ造だと言っている。石破氏らを犯罪者としている理由と、朝日新聞の記事をねつ造だとしていることとは、ややくいちがっている。これがどちらも同じ理由によっているのであれば一刀両断できるわけだけど、それぞれにちがった理由によっているのだから、どれもを虚偽だとしてしまうのはいささか乱暴だ。

 足立氏のよって立っている視点がまったくもってまちがっているのかどうかは定かではない。そうしたのはあるが、自分のよって立っている視点を確実なものとしてしまうと、それを絶対化することになってしまう。このようにすると、自分の視点が正しく、他はまちがっているとなりかねない。そうではなく、自他の視点を相対化することで、一つの定点をもつのができればのぞましいのがある。どのような視点も、さまざまな遠近法による解釈にすぎないものである。

 自分の視点に確証をもちすぎてしまうと、独断になりかねない。そうした独断から偏見が生み出される。犯罪者やねつ造だと決めつけてしまうのは、偏見によっているのだとしたら問題だ。そこは慎重に見てゆかないとならないものである。慎重に見てゆくとは、認知の不協和があったとしても、それをたやすく解消しないようにすることをさす。不協和となっている対立する認知があるとして、そのどちらが正しいのかはすぐには決めがたい。

 犯罪者だとかねつ造だとかと決めつけてしまうようだと、必然の水準で見ていることになる。しかしそれとは別に、可能性の水準で見られることもたしかだ。可能性として見れば、必然として決めつけられない。必然ではなければ、犯罪者でなく、ねつ造ではないのも真実だ。

 石破氏らを犯罪者だというのについては、制度としての政治と金の問題についても見てゆかないとならないのがありそうだ。これは石破氏らにかぎらず、政治家の人たちのすべてに当てはまるものであり、二重基準のようになってしまうのであればまずい。

 時の権力を信頼しすぎてしまうと専制主義になってしまう。そうした専制を避けるためには、たえずきびしく監視しつづけて行かないとならない。主権は(国家にではなく)国民にあるわけだけど、それを代表してになうのが国家の機関や政権である。そこには代表しているがゆえの避けがたい嘘の横行がある。道徳の崩壊であるモラル・ハザードもおきてくる。

 足立氏が自分による主張をうったえてもよいわけだけど、それは一方的なものであるのではなく、双方向的なものであるほうがよいものである。それに加えて、表現の自由には公共の福祉が関わるのがあるから、最低限の倫理観をもつこともいるだろう。さらに、認知の歪みやまちがいを避けては通れないわけだから、自己修正がよくきくようであることもいる。こうしたことに気をつけられれば、のぞましい社会関係(パブリック・リレーションズ)が築けるのがある。

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個人の闇と社会の闇(表面のうえでの繁栄としての光)

 九人の男女が殺害された。神奈川県の座間市でおきた事件である。容疑者の男性は、ウェブのソーシャル・ネットワーキング・サービスによって被害者と知り合った。容疑者の男性の自宅に誘いこみ、そこで犯行が行なわれたという。

 この事件について、容疑者の男性は特異な性格の持ち主だという意見がある。殺人を犯したり、遺体がそばにあったりしても、とくに動じない。こうした人は社会の中に一定の数で存在する。なので、社会学や心理学での分析はおそらく無効なのだというのである。

 こうした意見はまったく的はずれではないだろうけど、疑問に感じた。容疑者の人物の性格に原因や責任を帰属させることはできるが、それは個人要因としてとらえることになる。そのようにとらえることで、帰属エラーとなるおそれがある。

 容疑者の人物の性格に原因があるとするのは、そうした内的特性をもっているとすることであり、これは対応バイアスと呼ばれるものがはたらいている可能性がある。この可能性を避けるためには、個人をとり巻く状況の点について見てゆくことがいるだろう。

 殺人を犯したり、遺体がそばにあったりしてもとくに動じないのは、特異といえばそう言えるかもしれない。しかしながら、だからといってその人物がほかの普通の人と決定的に異なっているとは必ずしも決めつけられない。そこには、社会全体の問題がからんでいるのではないかという気がする。社会の底辺におかれてしまった人の一部がおちいらざるをえないような、経済の困窮や視野の狭窄がある。こうした苦境による希望のなさや虚無感のようなものが少なからず影響しているのがありそうだ。

 人格形成責任論というのがあるそうだ。これによれば、犯行を犯した人物がいるとして、その人の性格がかくある形となったのはすべて当人の責任というわけではなく、当人をとり巻いていた環境や社会にも少なからぬ責任があるとする見かたである。はたして社会が公平で公正なものなのかといえば、それは大いに疑問がもてるのがある。個人が生きてゆく中でかかえてしまう不安や脅威が、自己責任として片づけられてしまっているふしもある。そうした点はあるとして、それとは別に、やったことの悪さは確かにあるわけだけど。

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朝日新聞は、政権にとっての(ある種の)関係先の一つであり、それ自体で単独であるとは言いがたいのもありそうだ(議会外野党として機能している)

 保育園落ちた、日本死ね、になぞらえる。それで、朝日新聞、死ねと言う。これは、日本維新の会の所属議員の足立康史氏によるツイートである。朝日新聞は社説で加計学園について触れていて、一件落着は許されぬとしている。この意見に不満をいだいたことから、朝日新聞、死ねのツイートをしたようである。

 なぜツイートの中で死ねの言葉を使ったのかということで、足立氏はこのように述べている。死ねという言葉は私自身は許容されると思っていないが、今の国会と日本社会は是としているようなので使った。毎日新聞からの取材の中でそう話している。

 朝日新聞、死ね、のツイートを見かける。それで、ああ、これは保育園落ちた、日本死ねを真似しているのだな、とはたして思いつくのだろうか。最後の死ねの箇所しか同じではないから、思いつくのが易しくはないような気がする。

 今の国会と日本社会が死ねの言葉を言うのを是としている。この現状認識がおかしいのではないか。現状の認識がまちがっているおそれがある。もし是となっているのなら、建て前がなくて本音が大手を振ってまかり通っていることになり、風紀が乱れていて退廃してしまっている。正義が死んでいる。

 今の国会と日本社会のあり方として、死ねを言うのが是とされているのだとしても、それで自分もまた是としてしまってよいものだろうか。そうしてしまうと、状況に流されてしまっていることになる。それに加えて、自分のせいではなく、今の国会と日本社会のせいにしてしまうわけだから、自分が悪いのではないというふうにも聞こえる。

 保育園落ちた、日本死ね、では、何々だから、何々、という形にいちおうなっている。しかし、朝日新聞、死ね、では、たんに嫌悪の表明にしかなっていない。形として、何々だから何々というふうにしたほうがよさそうだ。それにしても、死ねという結論はちょっとおかしいわけだけど。冷静にとらえられるとすれば、そうできそうだ。

 たんなるあげ足とりや、つっかかりなだけなのであれば、記事の内容が批判されてもしかたがない。それであったとしても、死ねとまでは言われることはなく、そこは反論をして事実を示すなり、真相を明らかにするために協力するなりといったことをする。そうしたことに努めるのではなく、たんに死ねと言ってしまうのではまずい。

 加計学園森友学園の疑惑について、一件落着させてはならないと朝日新聞の記事ではしている。この記事に意義があるとすれば、一連の疑惑について、もっと知ることをうながしているところにある。これについて、死ねと言ってしまうと、知ることを拒むのに等しい。そうして拒むのではなく、さらにもっと深く知ってゆくのであってもよいはずだ。そのためには、目と耳と口を閉ざしてしまうのではなく、それらをなるべく開くべきである。中途半端でうやむやのままにして終わりでよいのなら、次もまた同じようなことがくり返されてしまうかもしれない。

 太鼓もちや幇間(ほうかん)であっては、権力の奴隷となりかねない。そうしたようではなく、反対勢力をもって任ずるようなのが役目としてあることは欠かせないものである。甘いのではなく、苦いのが薬になる。少しは甘いものがあってもよいわけだけど、それはよい薬であるとは言えないものだろう。過去のあやまちや失敗なんかの苦み(ペーソス)が教訓となるのもある。風化や忘却をさせなければの話ではあるけど。

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問題があるのか、問題がない(ノー・プロブレム)のか、そして問題があるとしたら、どこが問題なのか

 獣医学部の設置を認めるか否か。その審議会が開かれ、設置が認められる見通しが立った。ゴーサインが出たのである。これについて、学園の長とされる人は、万感迫る思いだと言っているという。ただし、いまだに疑惑の渦中となってしまっているせいもあり、表に出ての弁ではなく、陰ながらの発言だとされる。

 獣医学部の認可について、一つには義務論の点から見ることができる。これは手続きから見てどうかということである。この観点からすると、明らかに非があるといえそうだ。この非は多くの人からさまざまに指摘されている。閣議決定された石破四条件をきちんと満たしていないのがある。これは手続きの過程をすっ飛ばしていることをあらわす。

 獣医学部を設置するのについては、四国に獣医が足りていなくて、それを供給するためだというのがある。ところが、学園は、隣国である韓国から生徒を募っているというのである。韓国から生徒を募るのが悪いというわけではないが、これだと日本の獣医の不足を何とかするという説明はいったい何だったのかということになってしまう。

 質の高い教育サービスが提供されるのならよい。この点についても、必ずしも質の高さがとれていないという指摘がされている。日本にあるほかの獣医学部の質と比べて、それに肩を並べるか、もしくはそれを上回るだけの質がとれるのなら、設置する正当性が生じる。しかしそうではなくて不備があるのであれば、そこをきちんと改めてからの開校であってもよい。

 義務論の点からいうと明らかに非があるように見うけられる。そうした点とは別に、帰結から見たらどうなのだろうか。この点については、加計学園獣医学部の認可を、審議会で通したわけだけど、これを逆に通さないのと比べてみるのがいる。

 獣医学部を設置したとして、いったいそれによって日本に何の益があるのかを明らかにする。益ではなくて害があるのならそれも明らかにする。それに加えて、反対に設置をとり止めたさいにどういった益があり、どういった害が出そうなのかを見てみる。

 公にとってのことがらなのであれば、日本の有権者にとって具体的にどういった効用(満足)がもたらされるのかによって決められるようであればのぞましい。そこをきちんと説明してほしいものである。設置した場合にこういう益があり、設置しなかったとしたらこういう害がある、というふうに説く。なぜ手続きのうえで明らかに非があるのに、それを押してでも設置しなければならないのかの理由や根拠を示す。そして、隠された益(私益)や隠された害がないのかを確認しないとならない。

 手続きのうえで非があるのだけではなく、帰結がどうなのかについてもまたあいまいになってしまっていそうだ。立証責任が果たされているとはいえず、意思決定の過程が開示されていて透明性があるとは言いがたい。民主主義は説明責任が果たされないとならないものだ。これが言い訳や自己弁護であってはまずいわけで、それからすると問題があるという見かたはできるだろう。国家の根幹を揺るがすほどの問題なのかどうかはわからないが。

 ほんのささいな不正というだけで、政権の首がすぐに飛ぶのは行きすぎかもしれない。そうしたのはあるけど、有権者背信となるようなことを政権がしたさいに、それで政権を次の新しいのに取り替えができるようでないと、責任(アカウンタビリティ)がいちじるしく欠けている。ほかに替えが見あたらないとして、かけがえがないのもよいけど、それだと緊張感がなくなりがちだし、権力が腐敗しやすい。権力にあやかる(あやかろうとする)人が多出する。こうしたのに歯止めをかけられて、きちんと責任がとれればさいわいだ。

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硬い場所で転んだのではないのでまだしもさいわいだ

 ゴルフ場の砂地で、ひっくり返ってみごとに転ぶ。砂地が上り坂になっていて、上がりきった芝の面の傾斜に足をとられてごろんと体がうしろに転がった。転がってしまったのは、自由民主党安倍晋三首相である。首相はアメリカのドナルド・トランプ大統領が来日したさいに、いっしょにゴルフ場でゴルフをやってもてなした。そのさいのできごとだ。

 トランプ大統領と側近の人は、芝の上を歩いている。それをあとから追いかけようとして急いでいたので、上り坂の砂地を上がったところの芝の傾斜に足をとられてしまったのだろう。小走りであわてていたためである。気を入れてトランプ大統領をもてなしているさなかであり、おそらく気を抜いていたのではない。

 空中から撮られた動画によって、世の中の知るところとなった。この決定的瞬間は、もし動画を撮っていなければ世の中の知るところとはならなかったものだろう。この動画による情報が、はたして国民の知る権利にあたるのかどうかはわからないけど、政府はこの動画を歓迎はしていなさそうだ。ほうっておくと拡散して定着しかねないので、何らかの手を打っているかもしれない。

 首相は転ぶのにおよそ似つかわしくない。格が高い。そうした人が転ぶことにより、似つかわしくないとされる人が似つかわしくないふるまいをすることによるおかしみみたいなのが生じることになる。文豪の夏目漱石は、面白さの一つのあり方として、不対法というのを言っているという。これは期待と裏切りのようなものである。社会でそれなりの地位にいる人なんかが、その地位にふさわしくないことをすることにより、面白くなるというものがそれに当たる。謹厳実直で知られている人が、くだけたことを言ったりやったりすると落差がおきるのでおかしみがある。

 首相というのは一国の長であり、えらい人であるとされる。そのえらさに似つかわしくないようなふるまいをすることで、ともすると面白さが生じる。お笑いでは、元々えらさを持っていることで、ふりがきいているので、落ちやすいのがある、とビートたけし氏が言っていた。えらさに比例して、てこの原理がはたらく。元々もっている社会の価値が高いのがあり、その価値がふいに下がることで、ふつうのどこにでもいる人と同じようになり、面白くなる。受けとる人にもよるけど、そうしたのがあるかもしれない。

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政治的公正において、公正でないと見なされたのかもしれない

 処刑されるくらいなら自決をする。それが美学なのだという。この処刑とは、米国美容外科学会が、日本の医師を会から追放するというものである。そうして追放されるくらいであるのなら、自分から退会するということで、それを自決としている。

 この日本の医師とは高須克弥氏のことである。米国美容外科学会はなぜ、会の創設メンバーでもあるという高須氏を追放しようとするのか。それは、米国のユダヤ人の人権団体であるサイモン・ウィーゼンタール・センターが関わっている。第二次世界大戦において、ドイツのナチスユダヤ人などを大量に虐殺したわけだけど、その通説を否定するのがあってはならないというわけである。歴史修正主義になりかねない。

 アウシュヴィッツ以後において、詩を書くことは野蛮である。哲学者のテオドール・アドルノはそうしたことを言っているそうだ。この詩とは、詩だけでなく文化一般をさす。アウシュヴィッツ以降、文化はすべてごみ屑になった、とも述べている。ナチスがきわめて非道な蛮行をしたことは通説であるのはまちがいない。いっぽうで、そうしたのとはちがう見なし方もある。それは個人または集団における信念であり、そうした志向性である。その個人や集団による信念であるところの志向性が、そこでは正しいものであるのだとしても、だからといって世界の中で広く正しいことには必ずしもつながらない。

 話は変わってしまうけど、少し前におきたものである、日本の理化学研究所での、STAP 細胞の問題では、STAP 細胞を研究者が発見したとしていた。しかしそれは客観で科学として証明できるまでにはいたらなかった。これは、STAP 細胞の発見者の個人による信念の志向性が、科学の世界の中で真実であるとなるまでにはいたらなかったことをあらわしている。

 話はもとに戻り、米国美容外科学会が決定したとされることについて、高須氏は気分が悪いと述べている。名誉が傷つけられたとしている。そして、会から追放される前に自分から退会することで、会の面子がつぶれただろうと見なす。

 いきなり会から追放してしまうのだとすれば、それはツイッターでいえば、いきなりユーザーのアカウントを凍結するしうちとちょっと似ているかもしれない。その点について、手続きとしてどうなのかというのはありそうだ。

 この件と直接にはあまり関係がないことかもしれないが、高須氏が何を大切にしているのかが(はたから見たのにすぎないけど)うかがえるのがある。それは、自尊心であり名誉であり面子であるようだ。そうした体面なんかを大切にしている。名(な)といったらよいものかもしれない。そうしたのを大切にするのは誰しも多かれ少なかれあるのはたしかだ。そのうえで、おそらくではあるが、国家主義による、国の自尊心とか名誉とか面子とか体面を重んじるのにつながっていると見なせる。歴史観でいうと、栄光をとり、罪責をこばむ。そうしたのを重んじすぎると、認知が歪みかねないから、その点に少し気をつけられればよさそうだ。

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英語の助動詞でいうと、消費税を上げられる(can)のか、上げるべき(should)なのか、上げなければならない(must)のか、上げるつもり(will)なのか、などがある(その逆である否定形もある)

 消費税を上げることで、経済は停滞をした。しかし、景気は後退しなかった。景気は拡張をつづけている。二〇一四年に行なわれた消費税の増税について、内閣府による議論ではこのような意見が出されたという。先に予定されている消費税の増税の判断材料にするそうだ。

 消費税と景気の関わりについては、二つのことが言えるのではないか。一つ目のものは、景気がよければ(悪くなければ)、消費税を増税できる、というものである。増税してもさして問題はない。そして二つ目は、消費税を増税すると、景気が悪くなる、というものである。

 この二つの式があるとして、それぞれで矛盾してしまっているところがある。どちらかを正しいとすれば、もう一方がまちがいのようになる。どちらかの式によると、もう一方の式によれないことになってしまう。

 景気がよければ(悪くなければ)消費税を上げられる、しかしそうして上げると景気が悪くなる、なので上げるのはよくない、しかし景気がよいから(悪くないから)消費税を上げられる、というふうに循環する。二つの式をつなげてみたものである。これは景気が波動して自然に上下することにもよっている。

 景気がよいとか悪いとかいうのを認めるのが難しいのがある。はたして、景気がよいのか悪いのかの、事実の認定ができづらいのがある。景気がよいのか悪いのかを確定しづらい。ありのままの事実の記述というよりは、説明に近いようになってしまう。

 景気がよいのか悪いのかは、すごく重要であるともいえるけど、一方ではそんなに大したちがいはないとも言える。この大したちがいはないというのは、一定以上の水準を満たしている、ということである。食うや食わずでみんなが食べるものにも困っているという状態からはいちおう脱しているのがある。秩序は保たれている。こうした状態においては、イデオロギー論争のようになってしまうのを避けづらい。イデオロギー論争は白か黒かの二元論の形をとる。

 社会福祉を国家がになうものである、拡大国家においては、財政の赤字が増えつづけていってしまう。経済成長ができたり、無駄づかいをしないようにしたりできなければ、財政を均衡させづらく、赤字となる。このような拡大国家のあり方をとるのが前提にあることで、消費税を上げることの必要さがとられる。その反対に不要さによる意見もあるわけだけど、そうしたのとは別に、新自由主義(ネオ・リベラリズム)や自由至上主義による最小国家のあり方もあるそうだ。国家のやっていることを民営化してゆく。

 社会福祉を国家がになうのを社会民主主義(ソーシャル)であるとできるとすると、その反対であるのが新自由主義(リベラル)のようなあり方だといえよう。ソーシャルだと国家のなすことが肥大化していってしまうのが避けがたいことになる。その肥大化を改めて、すっきりさせたほうがのぞましいという見かたもとれる。のぞましいあり方を一概には決めつけられないけど、対立点としてどちらをとるのかをふまえることで、中途半端におちいってしまうのを避けるのもよいかもしれない。

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もともと、日本のものであるのかはあやしい

 盗んだ海老を食べさせる。この盗んだ海老とは、日本の側から見てということである。日本では竹島といっている島を、韓国では独島と呼んでいて、その名前を冠した独島海老をふるまう。韓国を訪れたアメリカのドナルド・トランプ大統領の晩餐の席で出された食材のなかの一つである。

 竹島(または独島)は、日本の文脈からすれば日本の固有の領土としているわけだけど、韓国には韓国の側の文脈があることもたしかである。実効支配をしているのはいちおう韓国だから、盗んだというのは当たらないのではないか。領土について、人の集団どうしがもめているのがあるわけだけど、それとは別に、そもそも島は誰のものでもないだろうし、(海で泳いでいた時点では)海老も誰のものとも言えないのがある。

 トランプ大統領をまねいた晩餐会の席では、従軍慰安婦の被害者の人が席を共にしたという。これについては、戦前や戦時中に日本が朝鮮半島を植民地として支配していたことにからむ問題である。戦争のさいに、性暴力の被害を受けたとされることについて、歴史の事実もふまえて、できるだけ誠実に対応できたらよさそうだ。

 日本を主体とすれば、韓国は客体である。主体である日本から見て、客体である韓国に負の面を押しつける。こうなってしまうとやっかいだ。というのも、主体と客体の関係は反転ができるからである。韓国を主体とすると、日本は客体となり、客体である日本に負の面を押しつけられる。

 関係主義からすると、主体と客体とはそれぞれに実体ではなく、関係することによっている。固定したものとは言えない。主体と客体とのあいだの境界線(分類線)は、揺らいでいると見なせる。仏教の禅では、主客未分の本来の面目というのが言われているそうだ。これは、主と客との二つに分かれてしまう前の、一のありようをさす。一とは、記号で媒介されていないようなものである。記号で媒介されることで、二となり、置換(リプレゼンテイション)される。

 主体はまったく悪くなく、客体がすべて悪いとしてしまうのではなく、主体にもまた悪い面があるとできたらよさそうだ。主体をまったき善とするのは、主体がもつ負の面の末梢であり隠ぺいとなりかねない。

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中国にのっとられたらというのも分からないではないけど、敵と決めつけずに、友とすることもできないではない(関連づけを見直してみる)

 もし沖縄が中国にのっとられたらどうなるか。そうしたら、沖縄で新聞記者として活動している人の娘さんが、中国人の慰みものになってしまう。そうしたことを、作家の百田尚樹氏は講演で言っていたそうだ。沖縄タイムスの記事に載っていた。

 沖縄がもし中国にのっとられたら、という仮定の前に、すでに部分的にアメリカにのっとられてしまっているのではないか。沖縄にはアメリカの駐留基地が集中している問題がある。そこでは、日本の法律が通用せず、治外法権となっている。

 仮定の話として、中国にのっとられたらという前に、沖縄ではアメリカの兵隊による女性への性的暴行の被害が生じている。そうした問題をとり上げて、批判することのほうが先なのではないか。アメリカの駐留基地がもしなければ、そうしたことはおこらなかったはずである。

 安全と安心はちがうということで、米国が運用している輸送機であるオスプレイの問題も無視できない。客観的には、ほかの飛行機と事故率はそこまで違わないのだとしても、現地の人にとっては、心理による不安が払しょくできないのがある。そこについては、数値による客観の語りでよしとしてしまうのではなく、現地の人の気持ちにできるだけ寄りそうべきである。

 軍の施設があれば、はたして安全が高まるのか。必ずしもそのように言うことはできない。そもそも、自分の国のではなく、他国の軍の施設があるのは正常なこととはちょっと見なせないのがある。それに加えて、もし自国の軍とその施設があったのだとしても、必ずしも安全が高まるとはいえそうにない。

 基本として軍というのは軍の論理で動くものであり、いざというさいに国民を守るかどうかが定かではないのがある。軍が幅をきかせることで、国民の自由が増えるのではなく損なわれるのもいなめない。かつての日本は、富国強兵をとり、国民の自由をいちじるしく犠牲にして戦争につき進んだことはたしかだろう。

 友敵論で見てみることができるとすると、はたして中国は敵なのだろうか。そしてアメリカは友なのだろうか。ここは疑問符がつけられることはたしかである。必然の次元によって、中国や韓国(や北朝鮮)を敵と見なすのは必ずしも適しているとは言い切れない。可能性の次元もあるからだ。可能性で見れば、友ともなることがあるわけだから、そこは定かではないのがある。

 さまざまな善があるとして、それらは遠近法の解釈による。そのうちのどれがもっとも正しいのかは一概には決めがたいものである。上から下(トップダウン)に見るのとは別に、下から上(ボトムアップ)に見るのがあれば、性急な一般化に待ったをかけられる。性急に一般化してしまうと、出力したものが固定化してしまう。それをずらすには、入力と思考回路を相対化するのがあるとのぞましい。

 中国は敵であるとするのは、一つの出力であり表出である。それを肯定するだけではなく、たまには否定するのがあってもよい。否定したほうが正しいおそれがある。否定することによって、関連づけをあらためる。出力や表出の前提となっている、入力や思考回路に偏りがあるのを見直す。こうした試しをすることが有益にはたらくことも場合によってはあるだろう。

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政(まつりごと)は、民の生活を安んじるためにあるものであり、それがしっかりと果たせているのだろうか

 死にたい。そのようなツイートをすると、いいねがもらえるという。世の中には、さまざまな人生があり、さまざまな歩みがあるのだろうけど、死にたいというふうにツイートするのはまったく分からないわけではない(他人ごとのようではあるが)。そこには、本音が少なからずあり、そのほかに色々な内面の動機がからんでいそうだ。

 神奈川県の座間市のアパートで、九人もの切断された遺体が見つかった事件が報じられている。女性が被害者となった。容疑者の男性は、ウェブのソーシャル・ネットワーキング・サービスを使い、被害者と関わりをもったのだという。

 この事件について、自由民主党山本一太氏は、ゲーム感覚による犯行だとしている。たしかに、ゲーム感覚のようなところはありそうだ。そして、最近のゲームやアニメが、残忍な描写が多いので、その影響をほのめかしていた。

 ゲームやアニメの影響といえば、ゲーム脳の説明が思い浮かぶ。今回の事件についていえば、こうしたのからの影響というよりは、もっと他のところの影響がからんでいるのではないかという気がする。加害者や被害者は、社会の中での疎外があったのだろう。加害者は、そうした疎外が行きすぎて、狂気にまでいたってしまったのではないか。

 現代の商品社会では、人間が商品と見なされる。物のようにして、お金に換算できるような量としてだけとりあつかわれてしまう。賃労働での労働者のあつかわれ方だ。質は切り捨てられることになる。ちまたでは、商品語が飛びかっている。ものを売るための売り文句だったり、買うときの文句だったりが、盛んにやりとりされる。それは、商品としての経済のよさを主としたものである。偶像であるといってもさしつかえがない。

 必ずしも今の与党である自民党のせいばかりとはいえないにしても、今回の事件では、失政が原因となっているのがあるのではないかという気がしないでもない。底辺や貧しい人たちが経済的に潤っていれば、死に魅せられてしまうのを防げたのではないか。もっと生きていたいと少しでも思えたのではないか。経済で見たとすると、そういうことが言えるのがありそうだ。

 現実のあり方が硬直しすぎてしまっているのかもしれない。現実が硬直しているので、個がたちうちができづらい。押しつぶされてしまう。人によって現実の感じかたはちがうだろうから、一概にこうだとは言えないのがあるだろうけど、とりわけ弱者にたいしてはあたかも壁のように立ちふさがってしまうのが無視できそうにない。身体感情が充実するような、生きる実感をもちづらい。砂を噛むようなひどく散文的な現実となる。灰色の道がずっとつづいている。こうした見かたは、あまりにも暗いものかもしれないけど、人によっては必ずしも非現実とはいえないかもしれない。

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