ドーピング(のようなもの)と陶酔すること

 薬物の使用は法に反するが、お酒を飲むのは法には反していない。テレビ番組の中で、出演者がお酒を飲みながら番組を進めるのは法には反していないし、ドーピングではない。そう言われていた。

 たしかに、お酒を飲むのは法に反することではないので、守らないといけない義務に反することだとは言えそうにない。テレビ番組の中においてお酒を飲みながら番組を進めるのは必ずしもいけないことだとは言えないことだろう。

 話は少し変わってしまうが、広くとらえられるとすると、ある点においては、日本の社会の中でさまざまなドーピングのようなことがまかり通ってしまっているのではないだろうか。ここでいうドーピングのようなことというのは、陶酔と関わるものであって、覚醒ではないものだ。

 日本はすごいということで、愛国をよしとするような集団中心主義(エスノセントリズム)がある。権力に迎合するような権威主義大衆迎合主義(ポピュリズム)がとられている。親方日の丸の心性も見のがせない。これらは、日本人がもつとされる自我の不確実感や不安感を表面において一時的に何とかするための陶酔の手だてだと見られる。

 ドーピングのような陶酔をうながすいさましい言説ではなくて、それとは逆の覚醒(目ざめ)をもたらす歯止めをかけるような抑制の言説は、そこまでとり立てられることが少ない。

 つい感情的になってしまうということにおいては、決して他人ごとではないのはまちがいがなく、また快をもたらす陶酔にはおちいりやすいがえてして一時的には不快なことがある覚醒はしづらいのはいなめない。こうだと見なすことを変えるような改心は自尊心があるためになかなかしづらいものだ。

 人間の行為には感情と想像(構想)と理性の反省といったようなものがあるが、感情や想像はいわば熱であって、理性の反省は冷のものである。熱にはなりやすいが冷はおろそかになりがちだ。加速は受けがよいのでやりやすいが減速は受けがそこまでよくはないのでできづらいのがあるから、そこのつり合いがとれればのぞましい。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『今村仁司の社会哲学・入門 目覚めるために』桜井哲夫 『日本人論』南博 『思考のレッスン』丸谷才一

憲法九条を守れと考えることはそこまでおかしいことなのだろうか

 憲法の九条を守れと考えている人は、知能が低いか反日思想の持ち主か売国奴かのどれかだ。ツイッターのツイートではこう言われていた。

 はたして、憲法の九条を守れと考えている人は、このうちの三つのどれかにみながもれなく当てはまるものなのだろうか。三つのほかにも色々とあるものだろう。

 ツイートで言われている三つのものはどれもが悪口のようなものだけど、もっとほかの悪口ではない選択肢(選言肢)をとって色々なあり方があるというふうに増やしたほうが、適した見かたになりやすい。選択肢(選言肢)が少ないとまちがった推論になることがある。

 憲法九条を守れと考えるのは、憲法九条が実定法に当たるものだから、実定法を守れということになる。これはそれほどおかしいこととは言えそうにない。絶対にまちがいなく正しいとは言えないかもしれないが、一つのあり方であることはまちがいない。

 憲法九条が実定法だということにおいては、それを守ろうとするのはそこまでおかしいことだとは言えず、それなりの正しさもあるのではないだろうか。

 憲法ができたころの出発点に立ち返ってみれば、そのころは憲法九条をふくむ実定法と、それを離れたかくあるべきという自然法とのかい離は小さかった。結婚でいうと、結婚式で愛をちかう最中のようなものだ。憲法九条を含めた憲法は、間接的に(当時の国政選挙の結果として)その当時の国民から肯定されていた。その当時の国民がおかしい判断をしたとは必ずしも言えないだろう。

 憲法九条をまちがいなく正しいものだとして絶対視するのはおかしいことかもしれないが、一般論として言うと、さまざまな法(実定法)というのは、それをつくるさいに、そのときの人びとがもつ知恵や考えが動員されてつくられるので、とんでもなくおかしいものはつくられづらい。

 わざとできの悪いものをつくるのは利益になるものではないので、そうしたことはあまり考えづらい。原則としてはそれなりによいものがつくられることが少なくない(例外はあるかもしれないが)。そういった一般的な法律や憲法のつくられ方をくみ入れれば、憲法九条を守れという考え方がそこまでとんでもなくおかしいことだとは言えないだろう。

 原理原則(プリンシプル)として、国際協調主義(自由主義)による専守防衛や平和共存というのは、どこからどう見てもまったくもってまちがっていることだとまでは言えそうにない。現実主義からすると非があるのはあるかもしれないが、現実主義による現実がまったくもって正しいとは言いがたいし、現実(何々である)と理念(何々であるべき)が同じだったら理念の意味はあまりない。現実と理念が同じではなく、そこにかい離があることがよかれ悪しかれ問題なのだ、というのは言えるのはある。

 参照文献 『正しく考えるために』岩崎武雄 『憲法主義 条文には書かれていない本質』南野森(しげる) 内山奈月 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』井上達夫 『法哲学入門』長尾龍一 『夢を実現する数学的思考のすべて』苫米地英人

国会議員は国民の代表であるからこそ、報道機関による権力チェックがしっかりとはたらくことがいる(権力が監視されることがいる)

 報道機関の記者は国民の代表なのか。国民の代表であるのはあくまでも国会議員であって、記者ではない。官房長官はこう言っている。

 たしかに、民主の手つづきで選ばれているのが国会議員だから、民主の正当性が高いのが国会議員だというのはある。報道機関の記者はそれが高くはなくて低いのはいなめない。

 国会議員は国民の代表だと、当の国会議員がさもえらそうに言えることだろうか。権力をになう政治家は、いざということになっても責任をとらない。辞めればただの人だ。権力をになう政治家のしでかしたことの尻ぬぐいというかたちで、最後に損をしたり馬鹿を見たりするのは国民だ。

 国民の代表であるかどうかというのは、代表を代理というふうに言い換えられる。国会議員も記者もどちらも国民の代理と見なせる。記者は国民の代理(媒介)として国民に情報をもたらす。

 国会議員はあくまでも国民の代理にすぎず、国民の全体とぴったりとは合っていない。時の政権は国民の全体の一般意思とはいえず、特殊意思に当たるだろう。与党は国民の全体を代表しているとは言えず、その一部分を部分として代表しているのにとどまる。

 国民の代表というのは、国民と国民の代表ということで、二つに分かれていることに注意をしたい。二つに分かれているということは、みぞがあく。言っていることと思っていることや、言っていることとやることとがずれることがあるのをあらわす。国民の代表(権力者)が嘘を言うことがしばしばあるということだ。

 二つに分かれているうちで、そのいっぽうである、国民の代表のほう(権力者)に、いちじるしい腐敗や不正がおきることがまずいことなのだ。これは二つに分かれてしまっていることにまつわるものだ。間接民主主義の欠点であり二面性(清と濁)だ。

 国民の代表であるかどうかということで人が言っていることの内容を見ると、発言者(発生論)で見ることになる。発言者がどうかということではなくて、言っていることの内容を切り分けて見るようにするのはどうだろうか。

 場合分けをすることができるとすれば、たとえ国民の代表(国会議員)であったとしても言うことが正しいこともあればまちがっていることもある。国民の代表ではないとしても、言うことがまちがっているだけではなくて正しいことがある。

 発言者と発言(の内容)を分けて見るようにすれば、発言者がどうかということで言っていることの内容をこうだと決めつけてしまうことを避けられる。同じ内容のことを言うとして、それを言う人が国民の代表であるかどうかによって、言うことの内容そのものが変わるわけではない。

 言っていることの内容がおかしいのであれば、誰が言っているのかは置いておいて、その内容に反論や批判をすればよいから、発言者がどうかということを必ずしも持ち出すことはいりそうにない。発言者がどうかというのを持ち出してしまうと、人に訴える議論におちいる。人に訴える議論であるから絶対にいけないとかまちがいだとは言い切れないが。

 参照文献 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『小学校社会科の教科書で、政治の基礎知識をいっきに身につける』佐藤優 井戸まさえ 『二極化どうする日本』柴栗定夢(しばぐりさだむ) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『憲法主義 条文には書かれていない本質』南野森(しげる) 内山奈月

いまの首相による政権が抱える危機と、危機がいつまでも片づかずにいまだにただよいつづけること

 いまの首相による政権が引きおこしたと見られる不正や失敗がある。それらの負のできごとの疑惑は、じっさいにあったのかどうなのかということでは、あるかないかの存在論で見られる。それとはちがい、かつてのものがいまにおいてただよっているということでは、憑在(ひょうざい)論で見られる。存在論と憑在論は、哲学者の篠原資明(もとあき)氏が言っていることだ。

 政権は、自分たちが抱える危機を、自分たちの手できちんと片づければ、かつてのものがいまにおいて憑在しづらい。片をつけられれば区切りがつく。そのいっぽうで、自分たちが抱える危機に向き合わず、対応しないで、危機から逃れつづけるのであれば、いまだに憑在することになる。危機は去らず、ただよいつづけるのだ。

 不正や失敗などの負のできごとがあるのにも関わらず、それをないとして押し通すのは、存在論で見れば無理やりにごまかすことができるところがあるかもしれないが、憑在論で見ればそれはできづらい。あるかないかではなく、いまとかつてとして見られるものだ。

 参照文献 『空海と日本思想』篠原資明 『危機を避けられない時代のクライシス・マネジメント』アイアン・ミトロフ 上野正安 大貫功雄訳

洗脳やねつ造と虚偽意識(イデオロギー)との関わり

 洗脳やねつ造を持ち出すのは、虚偽意識(イデオロギー)に通じるところがある。あることについて虚偽意識だと言うのは、そう言っている人にもまた当てはまるのがある。お前もそうだろ、といったものだ。

 洗脳やねつ造を持ち出すさいに、そこに含意や両面性があるのが見てとれる。自分がこうあってほしくはないように洗脳やねつ造がされていることがあるということについて、その逆もまた成り立つ。自分がこうあってほしいというように自分が洗脳やねつ造されていることもまたあるのだ。

 洗脳やねつ造があるとすることには、再帰性(reflexivity)があるのがうかがえる。自分がもつ、こうであるのにちがいないという見なし方が、外に反映されることになる。それが自分にはね返ってくるというものだ。大きな物語は成り立ちづらく、小さな物語によることになる。

 小さな物語によるとはいえ、何が正しいのかということをひどくおろそかにしてしまうような相対主義はまずいかもしれない。その点については、真理か虚偽かということで、対応や整合や実用(対応説や整合説や実用説)で見て行くことができる。そのほかに、言っていることがさし示すものが何かや真か偽かなどを見る意味論や、言っている人やその状況を見る語用論がある。

 歴史における負のできごとがおきたことについて、その負のできごとを体験したり立ち会ったりした人がいるとすると、それらの人が言うことについて語用論で見られる。発話者の状況をくみ入れられる。

 語用論においては好意の原則をとれるので、歴史における負のできごとを体験したり立ち会ったりした発話者の言うことがまちがいなく虚偽であるという具体の証拠がないかぎりは、真理だとして受けとることが成り立つ。

 参照文献 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『暴走するインターネット』鈴木謙介構造主義がよ~くわかる本』高田明典 『本当にわかる論理学』三浦俊彦

いまの政権に、記者が投げかける質問の質についてあれこれ言う資格があるとは言えそうにない

 記者がとんちんかんな質問をしてくる。官房長官は、それをいけないことだと言う。

 たしかに、記者が投げかける質問が、よいものか悪いものかというのはあるだろう。それは質問の質についてのことだ。質問の質をうんぬんするためには、そのもととして、質問にまともに受け答えをしていなければならない。

 どういった質問であっても、答えられるものである限りにおいて、できるだけまともに投げかけられた質問に受け答えることによってはじめて、質問の質をうんぬんできるようになる。官房長官やいまの政権にこれができているのかというと、まったくできているとは言えそうにない。とくにひどいのは官房長官というよりは首相だ。

 質問を投げかけるほうが有利で、受け答えるほうが不利なのはじっさいにはあるが、受け答えるほうである官房長官やいまの政権が、まともに質問に受け答えることができていない。信号無視話法やご飯論法やすれちがい答弁ばかりしている。問われたことにかみ合っていないことを言うものだ。

 説明をするさいに、こうだからこうだというふうに、結論とそのわけ(why と because)を直線で言うとわかりやすい。これとは逆に、えんえんと堂々めぐりに持ちこむのが円のようにぐるぐると回る説明である。いまの政権はぐるぐると回る円の説明に持ちこむことが多い。時間や労力を無駄に空費するもとになっている。

 いまの政権は、記者のことをとやかく言うよりも前に、自分たちが信号無視話法やご飯論法やすれちがい答弁をしていることをまず改めるべきである。自分たちがまともに受け答えることができてからはじめて、質問の質をうんぬんするという順番をふんでほしい。この順番によらなければ、そもそも質問の質などわからないはずである。とんちんかんなのはいまの政権のほうだと言いたい。記者が一〇〇パーセント正しいとは言えないにしてもだ。

 参照文献 『論理パラドクス 論証力を磨く九九問』三浦俊彦 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『「六〇分」図解トレーニング ロジカル・シンキング』茂木秀昭

薬物を使った製作者(当事者)が一定の制裁を受けていれば、作品には罪はないということで作品は罰を受けなくてもよいのではないか

 薬物を使っていた人がつくった作品には、場合によっては罪がある。ある種、ドーピング作品になる。だから、薬物を使っていたことがわかった人がつくったり関わっていたりする作品は、駄目なものであるし、公開するのはやめたほうがよいことがある。テレビ番組において出演者はそう言っていた。

 たしかに、薬物をまったく使っていない人と、使っている人とが、同じ線引きとして同列にあつかわれるのには、公平さの点で違和感がないではない。そうではあるけど、では薬物を使っていた人がつくったり関わっていたりする作品に罪があるのかというと、そうとは言えないのではないだろうか。

 作品に罪があるというのは、個人的にはあまりうなずくことができそうにない。作品に罪があるということになると、作品が罰を受けるということになるが、作品が薬物を使用していたわけではないし、作品というのは人格ではないから、作品には罪はないのではないだろうか。

 つくった人が薬物を使用していたから、作品に罪があるとか、作品が悪いのだというのには、そこまで賛同することができないのがある。つくったり関わったりした人が、薬物をやっていようといまいと、よい作品はよいということがあるのではないか。それまではよい作品だなと受けとっていたものが、ひとたび製作者や関係者が薬物を使用していたとわかったら、よい作品ではなくなるのだろうか。そうなると、薬物の使用という文脈(コンテクスト)の情報があるかないかで作品(テクスト)の質が変わってしまうことになる。

 ドーピング作品という言い方に少し違和感がある。スポーツの競技におけるドーピングと、芸術や文化の作品とを、類似したものとして見なすことは必ずしもできそうにない。類似していないとすれば、ちがうあつかいをしてもよいところがある。

 スポーツの世界は健全であることがいるが、芸術や文化の世界では、退廃(デカダンス)ということがある。退廃とはいっても、罪にまみれすぎていては駄目かもしれないが、まったく非のうちどころのない健全そのものなあり方からすぐれた芸術や文化は生まれるものなのだろうか。人間の文化の本質は過剰さ(exces)にあると言われる。

 スポーツの世界であれば、薬物を使ってドーピングをするのは、少しでもよい結果を出すという目的にじかにつながっている。そのいっぽうで、芸術や文化の世界においては、スポーツのような数値によるよい結果というのだけがものさしになるのではない。たんによい作品をつくるために薬物を使用するとは限らず、人間や社会のもつ闇のようなものとも関わっている。

 薬物を使用することと、すぐれた作品を生み出すこととは、そこまではっきりとした相関関係があるのかはわからない。精神の苦痛を和らげるためだということであれば、すぐれた作品を生み出すこととはまたちょっと別だというとらえ方が成り立たないではない。薬物を使わないとして、準薬物と言えるようなもの(お酒やたばこなど)を使うことは、薬物を使うのとどうちがうのか。それぞれの人の置かれた環境のちがいや、運や不運や、むくわれるかむくわれないかなどのちがいを見ることがあってもよいことだろう。

 参照文献 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信

歴史の負のできごとはねつ造や洗脳であるとする、歴史修正主義と、立証の責任

 その時代に生きていた人たちは真実を知っている。そのいっぽうで、洗脳された人たちには真実がわからない。いまの人たちは洗脳されているので真実がわからないのだというツイートがツイッターで言われていた。

 歴史においておきたナチス・ドイツホロコーストでいうと、ホロコーストはじっさいには無かったのだというのは歴史修正主義だ。この歴史修正主義をとるとすると、ホロコーストがおきた時代に生きていた人たちは、ホロコーストが無かったのだという真実を知っていて、洗脳されているいまの人たちはその真実がわからないので、ホロコーストはあったとしていることになるが、これはおかしいことだ。

 歴史修正主義において、無かったという真実を、あったというふうに逆に洗脳することは、いったいどういうふうにやるのかが定かではない。一八〇度のまったく逆に洗脳することになるし、世界中の人たちを洗脳することになる。歴史修正主義における真実から洗脳(ねつ造)へという転換の時期に、何の反対もおきずに滑らかに行なわれることはありえづらく、非現実的である。

 歴史の大きな負のできごとにおいて、少なからぬ体験(経験)者や立ち会った人たちがいるのだとすると、その人たちすべてをだますことはできづらい。体験者や立ち会った人たちが、歴史の大きな負のできごとがあったというふうに認めたり伝えていたりするのであれば、それは基本として立証されていることだと見なせるものだ。その立証がすんだことを、歴史修正主義ではねつ造だというのであれば、ねつ造であることを客観としてていねいに立証する責任がある。

 歴史は相対的なものだという歴史相対主義をとるとしても、必然としてねつ造や洗脳が行なわれたとは見なしづらい。可能性として、歴史の負のできごとがあった(おきた)ということは、過去の負の痕跡が残っている以上はそう見なすことができるものだ。

 過去の負の痕跡はさまざまに残っているのだから、歴史修正主義による洗脳やねつ造だというしたて上げには無理がある。歴史の負のできごとは本当は無かったが、洗脳やねつ造によってあったとされているというのは、そうしたて上げることになるが、そのようにしたて上げて抽象化することで、捨象されてしまう大事なことが色々とおきてくる。かんたんに整合して割り切れるものではない。

 おきたことそのものではなくて、伝えるさいに主観の筋書きが入りこんでしまうのはあるから、それについてはいかなるできごとにおいても当てはまるものであって、物語の形式になってしまうのは避けづらい。だからといってまったく真実ではないということはできそうにない。文豪のゲーテは、詩と真実ということを言っているという。詩ということで、多少の主観は入りこんでしまう。

 参照文献 『論理パラドクシカ 思考のワナに挑む九三問』三浦俊彦 『使える!「国語」の考え方』橋本陽介 『姜尚中政治学入門』姜尚中 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信現代思想を読む事典』今村仁司編 『論理的に考えること』山下正男

政権が目をつぶりたいような不都合な事実を、政権が無いのだと言えば事実では無くなるわけではない

 事実にもとづかない質問を記者が平気で言い放つことは絶対に許されないことだ。官房長官はそう言う。記者が自分の意見や主張を述べて、質問が長くなることがあるから、それもよくないことだと言う。

 はたして、東京新聞の記者は、官房長官が言うように、事実にもとづかない質問を平気で言い放っているのだろうか。このさいの事実というのは、あくまでも政権が事実だと思っていることであって、本当の事実だとは限らないということがある。政権が事実だと思っていることが事実だとは限らないし、政権が嘘をつかずに事実を言うというまちがいのない保証があるとは言えない。

 官房長官は、事実にもとづかないというふうに言うが、事実というのは素材であって、政権や記者が言うことが真(真実)か偽(虚偽)かということが大切だ。これは事実であるとか、これは事実ではないとかと言うとしても、それが真だとは限らず、偽であることがある。ちなみに、質問というのは(何々であるという文ではないので)真か偽かに直接には関わらない。

 たとえ官房長官が、これは事実であるとか、これは事実ではないとかと言ったとしても、それが白い(正しい)仮説であるとは限らず、黒い(まちがった)仮説であることがある。政権がはじめにもつ認知のゆがみが大きければ、言うことがまちがえやすい。偽になりやすい。

 東京新聞の記者にたいして、事実にもとづかない質問を平気で言い放つと定義(性格)づけするのは、権力を不適切に用いることだ。特定の記者にたいして、権力を持つ者が一方的な定義づけをすることはふさわしいことだとは言えそうにない。

 政権が事実だと思っていることは、本当の事実とは限らないものであって、政権による定義づけであるのにとどまっている。政権は権力を持っていることから、これが事実なのだという定義づけをするわけだが、それは力(might)によるものであって、正しい(right)ものであるとは限られない。

 東京新聞の記者が、事実にもとづかない質問を平気で言い放っているかどうかは、改めて一つひとつを具体として個別に慎重に見て行かなければならない。質問をするさいに、決めつけになるような修辞疑問(閉じた質問)に過度になりすぎないようにすることはいる。

 事実と言えるためには、客観の固い証拠がいるのだから、それを政権は示さないことには、事実はこうだとははっきりとは言えないはずだ。具体の証拠がないのであれば疑いをもたざるをえない。

 政権は、どういう証拠があって、どういう理由づけができることから、これが事実なのだというふうに言うことがいる。そういった証拠となる情報やデータや論拠(理由づけ)を言わないで、ただ事実なのだとか事実ではないのだとかと言っても、説得性や信ぴょう性は高くない。

 政権は東京新聞の記者にたいして、負のレッテルを貼るべきではないし、不当な一般化である敷えん(誇張)をするべきではない。人間のすることなのだから、政権が事実をとらえちがえることはしばしばあることだろうし、記者もまた事実ではない質問をときにはすることがあるものだろう。政権も記者も、どちらも限定的な合理性をもつ。

 はだかの事実をとらえているのではなく、政権も東京新聞の記者も、どちらもそれぞれの認知の枠組み(フレームワーク)によってものごとを見ている。認知の枠組みがはたらいているのだから、一〇〇パーセントのはだかの事実というのではなく、色めがねによって意味づけされることになる。

 政権や記者が発することは、それぞれの認知の枠組みや思考回路を経たものであるために、一〇〇パーセントの客観とは言えず、主観となる。主観であるのはていどのちがいになってくる。絶対のとは言うべきではなく、相対的なものだろう。相対的なものにとどまるのだから、政権は他からの批判に開かれていないとならないし、灰色のものにたいしては記者から質問される前に自分たちから説明を尽くすことが必要だ。

 参照文献 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅 『「説明責任」とは何か』井之上喬(たかし) 『自己変革の心理学 論理療法入門』伊藤順康 『プロ弁護士の「勝つ技法」』矢部正秋 『「六〇分」図解トレーニング ロジカル・シンキング』茂木秀昭 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫 『論理パラドクス 論証力を磨く九九問』三浦俊彦

議会内の反対勢力(オポジション)を軽んじて、議会外の反対勢力(記者など)も軽んじているのは、いまの首相による政権が自由民主主義をないがしろにしていて、寛容性が欠けているのだと見られる

 東京新聞の記者を守れ。いまの政権の官房長官は、官房長官の記者会見において、政権にとってうとましい質問をしてくる東京新聞の記者を排除しようとしている。特定の記者が質問することを制限しようとしている。これはあってはならないことだという声があがっている。

 東京新聞の記者にたいしては、英雄を気どっているのではないかという批判が投げかけられている。また、記者クラブの閉じたあり方が悪いという批判が投げかけられている。

 たしかに、東京新聞の記者のあり方が一〇〇パーセント正しいかどうかはわからないところだ。それにくわえて、記者クラブの閉じたあり方は改められたほうがよいのはある。開かれたあり方になったほうがよいから、記者クラブにたいする批判は有益なものだろう。

 問題の所在はどこにあるのだろうか。それはひとえにいまの首相による政権にあるのだと見なしたい。そう見なしてみたいのは、一つには、だれに責任があるのかといえば、政治権力をになっている政治家にあるということができる。いまの首相による政権は、自分たちに都合の悪い報道をしてほしくないばかりに、報道の自由の度合いを高めることをちっともやろうとはしていない。やる気がない。

 報道の自由の度合いが高まって、さまざまな報道が行なわれるようになったら、いまの首相による政権にとってははなはだ困ることなのだ。報道が抑圧されることになったほうが、いまの首相の政権にとっては都合がよい。そうはさせじということで、東京新聞の記者は出る杭というような形になってがんばっているのではないだろうか。出る杭になることによって悪玉化されている(打たれている)のだ。

 いまの首相による政権は、出る杭となっている東京新聞の記者のことを悪玉化するのではなく、官房長官の記者会見や報道の自由について、根源(ラディカル)として見るようにするのはどうだろうか。

 政権と記者とのあいだで紛争がおきているのであれば、紛争の一方の当事者を排除しようとするのではなくて、争点を解消するように努めることが政権には求められる。政権は、数の力にものを言わせて、力を持っているということでいるのかもしれないが、力(might)と正しさ(right)は分けて見られる。

 力と正しさは分けるようにして、紛争の争点において、力にものを言わせないようにして、政権が自分たちで抱えている自分たちの危機から逃げないようにしないとならない。自分たちの抱える危機についての危機管理や説明責任(アカウンタビリティ)が政権には問われている。

 どうあるべきかということにおいては、温故知新主義をとるようにして、これまでをさまざまにふり返って、これからの新しいあり方をどうするのかを色々と見て行く。隠れてこそこそやらないで、おもて立って明らかにしてみなに開かれた中でさぐるようにしたい。それをしないのであれば、いまの首相の政権は責任を果たしているとは言いがたい。

 参照文献 『歴史という教養』片山杜秀 『「野党」論』吉田徹 『一三歳からのテロ問題 リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『「説明責任」とは何か』井之上喬(たかし)