母親がそうざいのポテトサラダを買うことはよくないことなのかどうか

 母親ならばポテトサラダくらい自分でつくったらどうだ。スーパーマーケットでポテトサラダのそうざいを買おうとしていた母親に、ほかのお客さんがそう言ったのだという。

 このことについてを許容できるかどうかの点から見られるとすると、母親がスーパーでポテトサラダのそうざいを買うことは、許容できないくらいによくないことだということになるのだろうか。もしもこれがどうしても許容できないことだとすると、かなり許容範囲がせまい。ポテトサラダぐらいと言っているのだから、それくらいのことは許容されるべきではないだろうか。

 ポテトサラダは自分でつくろうと思えばつくれるものではあるが、自分でつくれるものであれば、すでにでき上がったものを買ってはいけないとまでは言えそうにない。買うよりも自分でつくれ、というのであっても、その人がどういうものを自分でつくれるのかや、どういうものがつくれないのかはまちまちだ。

 場合分けをしてみるとすると、自分でつくれるものであったとしても、それを自分でつくるときもあれば買うときもまたある。自分でつくるのが難しいものであったとしても、それを自分でつくることにいどむこともあれば買うこともまたある。

 ポテトサラダよりももっとかんたんなお握りなんかを、どんなときであったとしてもつねに自分でつくらなければならないとは言えないから、お握りを買うことが悪いことだとは言えそうにない。自分でお握りをつくれるからといって、それをいついかなるさいにも自分でつくらないといけないとは言えず、買うことがあってもよいものだろう。

 自分でつくれるものを自分でつくるからといって、そこにまちがいなく高い合理性があるとは言いがたい。自分でつくれるものを自分ではつくらずにすでにでき上がったものを買うからといって、合理性が低いとは言えず、合理性が高いこともまたある。

 功利主義の点からすると、すでにでき上がったものを買うからといって、母親および子どもの効用が低くなるとは言えず、母親および子どもの効用が高いことは十分にある。自分でつくれるものだからといって、無理やりに自分でつくることにするとしても、効用が低くなることがある。

 スーパーなどでそうざいが売られているのは、それを不特定多数の人が買ってもよいことをあらわしているから、その買ってもよい人の中には当然に母親も含まれている。そうざいが売られていることから見てみられるとするとそう言えるのがあるから、もしも母親がそうざいを買うのがよくないのであれば、不特定多数にたいして売られているはずはないから、母親が悪いのではなくて、それをとり混く状況に悪さがあることになり、母親が責められるいわれがあるとは言えそうにない。

 スーパーというのは、食料品を買うための場所なのだから、そこにいるお客さんが母親であれそうではない人であれ、そこで売られているものは不特定多数にたいして売られているのだから、その中の商品を母親が買ってはいけないということはないだろう。買ったらいけないのであればはじめから売られていないはずだ。

 たとえそうざいであったとしても、それをお客さんの一人としての母親が買おうとするさいに、それをとがめるようなことをほかのお客さんが言うのは、お客さんとしての一線を越えているとも言えるのがあり、倫理としてふさわしくないことだとも言える。

 人それぞれによって色々にかかえている事情などを捨象して切り捨てて、一般論として母親はこうであるべきだという型を押しつけてもしかたがない。かりにそれを言うのであれば、それを言うのにふさわしい時と場所と機会があるから、面と向かってじかに言うのではないようにしたいし、言うにしてもできるだけ人を傷つけないようにするほうがよい。そこのいたわりがあってもよいのがあり、それがないと嫌がらせ(ハラスメント)になってしまいかねない。母親にたいする察しと思いやりがあってもよいものだろう。

 参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)

国や社会が困難や危機におちいることと、自由主義や立憲主義の有用性

 国が危機におちいっている。国の財政が苦しい。そのほかに国がさまざまなまずいことを抱えている。そうしたさいに、どういう手だてを打つことがいるだろうか。どういうことをして行けばよいのかがある。

 国がうまく行っていないとか危機のときがあるとして、そういうときにはなかなか有効な手だてを見出しづらい。うまい手を見つけづらい。ことわざでいう、おぼれる者はわらにもすがるといったふうになりがちだ。

 国が困難におちいっているようなときには、ついあわててしまうのはあるが、そういうときにこそ、自由主義立憲主義によるようにするのはどうだろうか。どうしたらよいのかがはっきりとわからないときには、自由主義立憲主義によるようにして、そこに立ち返るようにする。

 なにか手だてを打たなければまずいというときに、国家主義にたよるようでは、わらにすがってしまうことになりかねない。せっかくだったらわらにすがるのではなくて、それよりも多少はましなものである自由主義立憲主義にすがったほうがまだいくらかはましだ。

 国家主義はどちらかというと特殊な価値だ。一時としてしか通用しないことが多い。もうちょっと時間の幅を長くとることができるものが自由主義立憲主義だろう。国家主義だと短期の利益によりやすいが、自由主義立憲主義だと中期や長期の利益によりやすい。

 いっけんすると国家主義によることで短期の利益をすぐに得られそうなのがあるが、ことわざで言われる急いては事を仕損じるといったことになることがある。あえてあわてないようにして、中期や長期の利益を見すえて行く。ゆうちょうなことを言っていられないときもあるが、たいてい国などが失敗するときには事を急いているときが多い。功(成果)をあせって早まっているときには失敗しやすい。

 自由主義立憲主義で言われている価値には、憲法でうたわれているものがあてはまる。だからかんたんに言うと、憲法に立ち返るようにすればよいわけである。憲法で言われている価値には、究極のものとしては(すべての)個人の尊重がある。そのほかに、平和、民主主義(国民主権)、基本的人権の尊重、公平性、平等性、個人のさまざまな自由の保障、などがあげられる。

 憲法で言われている価値をもとにして、そこから色々なことを見て行けばよい。そうするとまちがいを少し避けやすくなり、安全性がやや高まる。そのさいに欠点としてはゆうちょうすぎることになるのがある。ゆうちょうなことを言ってはいられないことがあるから、そういうことには応じづらい。

 ゆうちょうなことを言ってはいられないときもあるけど、逆に言えば、そうしたときにこそゆうちょうさが必要なこともまたある。ゆうちょうさをもつべきときに自由主義立憲主義が役に立つ。てっとり早くぱっとものごとを行なうのは促成栽培だが、ゆうちょうにじっくりと時間や労力をかけて行なうのは低温熟成だ。

 ものごとをなして行くさいには、いっけんするとアクセルを踏んでいかに加速するのかが大事なようではあるが、それとはちがいブレーキを踏んでいかに減速して抑制するのかが大事なことは少なくない。アクセルを踏んで加速しすぎるとまちがった方向につっ走って行ってしまい、崖から転落したりわなにはまりこんだりすることがある。国ごと思いきり崖から転落してしまったのが日本の過去の戦争のときだ。そのさいにはブレーキが壊れていて、減速や抑制がまったくといってよいほどはたらいていなかった。

 具体論と抽象論では、具体論によりすぎるとアクセルを踏むことになって加速しすぎてしまうことがある。かたよりがおきることになるから、その具体論がまちがっているかどうかを改めて見直すためにも、抽象論によるようにするのは有益だ。それでつり合いをとるようにする。抽象論に当たるものとして自由主義立憲主義がある。

 抽象論は具体性が欠けているのが欠点だ。その欠点があるのはまちがいないが、利点としては、抽象論から見たほうがものごとの説明をしやすいのがある。具体論によらずとも、抽象論によることで、次元が引き上がるから、個別の具体論を持ち出さなくても説明ができる。次元が引き上がることは利点にもなり欠点にもなる。

 参照文献 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『まっとう勝負!』橋下徹 『警察はなぜあるのか 行政機関と私たち』原野翹(あきら) 『科学的とはどういうことか』板倉聖宣(きよのぶ) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫

命の選別がいるという政治家の発言にたいして批判の声がおきている

 高齢者には命の選別が必要だ。日本は情緒によりすぎているので、そこは冷徹にやらないとならない。れいわ新選組に属する政治家が動画でこう言ったのだという。これにたいして、おかしい発言だということで色々な批判が投げかけられている。

 日本の社会では高齢化が進んでいて、超高齢社会になっている中で、国の財源が苦しい。れいわ新選組の政治家が言っていることは、そうした文脈の中でのものかもしれない。

 なぜれいわ新選組の政治家は、高齢者には命の選別が必要だというような発言をすることになったのだろうか。この発言は政治の公正さ(ポリティカル・コレクトネス)からしてよくないもので、失言に当たるものだが、それがどうしておきることになったのだろうか。

 理想論と現実論の二つに切り分けられるとすると、政治の公正さは理想論だ。その理想論をふまえながら、政治におけるものごとを語って行くことがいる。そうしないと政治の公正さを欠くことを言ってしまうことがおきてくる。政治の公正さを欠くことを言ってしまうと、その文脈において正しくないことになってくるから注意が必要だ。

 ポリコレ棒を振りまわすなんていうことが言われるが、そう言われるのとはちがった見かたができるのもある。日本の社会では政治の公正さが西洋の国に比べて弱い。建て前よりも本音のほうがとり立てられている。本音を言うことのほうが価値があることなのだとされている。建て前と本音のあいだの緊張感があればまだしもよいが、そうではなくて本音だけをたれ流してよしとするのが目だつ。

 理想論や建て前は、お花畑のようなものだとして、現実論からすると馬鹿にされるのがあるけど、あんがい馬鹿にはできないものだ。現実をいくらくわしく見ていったとしても、そこから価値は出てはこない。哲学の新カント主義ではそう言われている。事実と価値を区別する新カント主義からすると、現実論からは価値は出てこないから、理想論や建て前などによって基本の価値をおさえておくことは有益だ。

 れいわ新選組の代表の山本太郎氏は、失言をした政治家を除名しないのだという。失言で言われていることは党の理念に反するものではあるが、除名はしないで、レクチャーを受けてもらう。それで学んでもらうようにする。

 山本太郎氏は失言をした政治家を除名しないようだが、これには部分的にうなずけるところもあり、うなずけないところもまたある。失言をした政治家にレクチャーをして学んでもらい考え方を変えることをうながすのは、もともとのまちがった思想を許すことになってしまいはしないだろうか。もともとまちがった思想を持っていてもよいのだということになりはしないだろうか。

 人がもともと持っている思想を、レクチャーを受けることくらいでたやすく変えることができるのかがややいぶかしい。それだったら、国の財政で言えば、レクチャーを受ければ緊縮派を反緊縮派にできたり、反緊縮派を緊縮派にできたりすることになる。信念といえるくらいの思想を持っているのであれば、レクチャーを受けたくらいではそうかんたんには変わらないだろう。

 こうあるべきだというのが理想論だが、その理想論をきちんとふまえられていれば、出てこない(出てきづらい)はずの失言がある。れいわ新選組の政治家の失言は、ほんらい理想論をしっかりと身につけていれば出てはこないまたは出てきづらいはずの失言だと受けとれる。理想論をしっかりと身につけていないことから失言をしたことがうかがえるので、そこからおしはかれることとしては、れいわ新選組において、党の理念がないがしろになっているのがあるのではないだろうか。理念がいいかげんになっている。ゆるさがある。

 もしもれいわ新選組が、党として理念を重んじているのであれば、失言をした政治家にたいしてきびしく対応して除名をするくらいのことをするべきではないだろうか。絶対に除名をしろとまでは言えないかもしれないが、レクチャーを受けて学んでもらって思想を変えてもらうというのは、ちょっと甘い対応かなという印象だ。れいわ新選組とはちがうが、与党の自由民主党なんかでも、許しがたい失言をいく度もする政治家が上の地位についていて、平気でふんぞり返っていばっているのはあるが。そういう政治家および党には、信頼が置けないし、価値をすり合わせづらい。

 参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや)

錯乱や狂いとしての人間とその集団―生の欲動(エロス)と死の欲動(タナトス)

 狂っているのかまともか。この二つの二分法があるとすると、人間はそのどちらに当たるのだろうか。人間と動物とを比べてみると、人間は狂っていて、動物はまともさがある。人間は戦争をして殺し合いをするが、動物はそれをしない。

 人間は本能が壊れているから、動物のように本能にしたがった自然な生き方ができない。学者の岸田秀氏はそう言っている。人間は本能が壊れているために、文化などをつくり出してそれを埋め合わせる。何かの観念の物語にすがり、それを自我の支えにする。その物語に当たるものに国家やお金などがあるが、それらは幻想といえば幻想だ。物語には穴が空いていて、穴にフタがされておおいがされている。

 幻想では思想家の吉本隆明氏は自己幻想と対幻想と共同幻想があると言っているという。人間はこうした幻想にたよっていて、それを抜きにしては生きて行きづらい。自分という物語や恋愛や家族の物語や国家の物語などがある。それらはまったく非現実のものだとは言い切れないとしても、現実と虚偽が合金のようにない混ぜになっているところがある。

 人間とはどういうものなのかは色々に言われるのがあるが、その中で人間は錯乱している(ホモ・デメンス)とされるのがある。ていどの差こそあれ多かれ少なかれ人間は錯乱している。

 錯乱を広い意味でとらえられるとすると、人間は可びゅう性をもつ。まちがいのない絶対の正解を得づらく、大きいか小さいかはともかく、まちがいをしでかす。限定された合理性しかもっておらず、合理性に限界がある。盲点をかかえている。

 人間は錯乱しているのがあり、その度合いがある。少し狂っているかとても狂っているかがあって、狂いがひどくなって悪く出ると死の欲動(タナトス)に向かう。人間には生の欲動(エロス)と死の欲動があるとしたのが精神分析学のジグムント・フロイト氏だ。

 一人の人間が生の欲動と死の欲動をかかえているのとともに、集団にもまたそれがあるのだという。個人と集団が入れ子の構造になっていて、部分と全体が相似のフラクタルになっている。部分と全体がたがいに照応して呼応し合う。錯乱や狂いもまた個人と集団でともにそれをかかえている。とりわけ集団の死の欲動や錯乱や狂いに目を向けたい。まとまった集団になると人は理性を失い狂いやすいところがある。集団に酔ってしまう。

 人間の集団が死の欲動に向かうと戦争になることがある。集団の錯乱が大きくなり狂いが強くなることによっている。それで戦争が終わって、それまで錯乱していたことに気づけたときには反省することができる。一時だけ覚めて理性の反省ができる。その反省は一時のものにすぎず、ことわざで言われるのど元すぎれば熱さを忘れるになりやすい。くり返し想起しつづけないとたやすく忘却してしまう。

 先週の日曜日に行なわれた東京都の都知事選では、排外主義をかかげる立候補者が十七万票くらいを得たのだという。どのような立候補者に票を入れたとしてもそれはその人の自由だからよいのはあるが、排外主義をかかげる立候補者に十七万票もの票が集まるのは、日本の社会の集団の中に錯乱や狂いがやや強まっているのを示しているかもしれない。集団に死の欲動がおきているところがある。

 選挙で票を入れるのは、絶対の正解があるわけではないから、どういう票の入れ方をしたとしても、絶対の正解だとか絶対のまちがいだとかとは言えそうにない。正しいかやまちがいかを単純に見てしまうのはいけないが、生の欲動と死の欲動があるとすると、生の欲動への人気や支持よりも、死の欲動つまり破壊への人気や支持がおきてしまう。そういう見かたもまたなりたつ。

 色々な見なし方ができるのがあるから、楽観論で見なすこともできるのはある。その楽観論とはちがう見なし方ができるとすると、日本の社会の集団の錯乱や狂いがやや強まっているところがあり、その活力が国家主義に向かっているのがある。錯乱や狂いがさらによりいっそう強くなれば、国家主義に向かうのがより大きくなって、自由主義が損なわれることになるだろう。いまでもすでに自由主義は損なわれているのがあるが、決定的にそれが損なわれることになると、いよいよ錯乱や狂いが全面に開花する。

 いまはまだ日本の社会の集団の錯乱や狂いが全面に開花しているとは言えないだろうが、全面の開花が一〇だとすると、いまはどれくらいの度合いに当たるだろうか。度合いを〇にすることはできないにしても、できるだけその度合いを小さくできればよいし、それを小さくするための知恵が自由主義立憲主義などだ。

 自由主義立憲主義は中世の西洋の宗教戦争で宗派どうしがたがいに血みどろの殺し合いをしたことの経験から来ているとされる。死の欲動や錯乱や狂いが集団で強まってそのままつっ走っていったことの失敗があって、それをもとにしているのが自由主義などだ。それらが損なわれてしまっているのがあるから、集団の錯乱や狂いが強まることの歯止めがかからなくなっていて、集団の錯乱や狂いの活力があばれ出すことがおきないではない。

 参照文献 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『唯幻論物語』岸田秀 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『社会をつくる「物語」の力 学者と作家の創造的対話』木村草太 新城(しんじょう)カズマ

緊縮の政策は絶対にまちがっていて、反緊縮の政策は絶対に正しいのかどうか

 国の財政について、緊縮と反緊縮の政策がある。この二つを二分法でとらえると、どちらがよいのかとなる。緊縮はまちがっていて悪くて、反緊縮は正しくてよいものなのだということが言えるのだろうか。

 緊縮は悪くて反緊縮はよいとするのだと、階層の秩序(ヒエラルキー)の二項対立がとられることになる。よいと悪いの二項対立を固定化させるのではなくて、流動化させることもまたなりたつ。

 緊縮がなければ反緊縮もまたない。関係主義で見られればそう見られるのがある。関係主義では関係の第一次性が言われていて、関係が先だつのだとされる。関係主義によって色々な理屈がなりたつ点に立てるとすると、緊縮の政策もまた一つの理屈だということが言えるだろう。

 色々な理屈があるのを、フランス語ではチュ・ア・レゾン(tu as raison)と言うのだとされる。レゾンというのは英語ではリーズン(reason)であり理屈や合理をさす。たった一つの反緊縮の理屈だけが絶対に正しいのだとまでしなくてもよいのではないだろうか。

 参照文献 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編

東京都の都知事選では現職の小池百合子氏が勝ったようだ

 東京都の都知事選では、現職の小池百合子氏が勝った。もともと現職が優勢だとされていたのがあるから、もとから言われていたのとそう変わらないような結果が出たことになった。

 ちょっとだけ意外だったのは、れいわ新選組山本太郎氏への票がそこまでではなかったことだ。山本氏の言っている反緊縮の政策は、人々への受けがそれなりによいものだというのがあるから、票を多く得られていてもおかしくはない。

 ウェブのソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)では山本氏のことを支持する人が多かった。山本氏にたいする支持が盛り上がっていたのがあったから、もしかしたら山本氏が都知事になるのではないかという見かたもあり、それはまったくの非現実だとまでは言えないような気がしていた。

 ウェブの SNS での盛り上がりや、街頭演説などで人々を動員(mobilization)する力はけっこうあるようだったから、少なくともそれなりの票を得るのかなという気がしていたのだが、そこまでではなかった。

 日本の選挙は報道のあり方におかしいところがあって、選挙の期間中には報道はひかえめで、選挙が終わったあとに盛り上がる。これはほんとうはあべこべでないとならない。そのことがツイッターのツイートでも色々な人から言われている。日本の報道機関の選挙の報道は、やっていることがずれてしまっていて的外れだ。そのことにたいする反省もない。

 ほんとうはテレビの報道などにおいて選挙の期間中にこそ盛り上がるようでないとならないのがあり、それがもしも行なわれていれば、現職の小池氏はそこまで大きな票を得なくて、他の立候補者の宇都宮健児氏や山本太郎氏なんかの票がもっと伸びたのはあるかもしれない。

 参照文献 『デモクラシーは、仁義である』岡田憲治(けんじ)

ふつうの日本人とか、ふつうに日本の国を愛するというさいの、ふつうということ―ふつうさとふつうでなさ

 ふつうの日本人とか、ふつうの愛国者と言われる。このさいに、ふつうということが言われるが、そもそもの話として、日本という国そのものがふつうではないということもあるのではないだろうか。

 そうしてみると、ふつうではない日本の国においてのふつうさというのはいったいどういうことになるのだろう。

 日本の国にはおかしいところが色々とあるように見うけられる。そういうおかしいところがぜんぜんなければふつうの国と言ってもよいかもしれないが、おかしいところが色々にあるのであれば、ふつうではないのが日本の国だと言ってもおかしいことではないだろう。

 日本の国のことを、ふつうの国と言ってもよいし、特別な国だと言ってもよい。ふつうの国ではないと言ってもよいし、特別な国ではないと言ってもよい。それらのうちのどれにも当てはまるのだといえば当てはまるのがある。

 自分たちの文化は常識的で、ほかの国の文化は非常識だというのがあるが、これは自分たちの国の文化をもとにしていることによる。自分たちの国の文化をふつうだと見なしていることによるから、客観によるものではない。自分たちの国の文化をまったく抜きにして、ただたんにふつうだとかふつうではないというのではない。

 ほかの国の文化からしたら、自分の国の文化は非常識に映る。それはほかの国の文化をもとにしていることによる。このことをくみ入れられるとすると、自分たちにとってふつうであると見なせることであったとしても、それを絶対化できるとは言えそうにない。視点の置きどころを変えて見れば、ふつうなことがふつうではなくなることがあるし、ふつうではないことがふつうになることがある。

 日本の国を愛するということを見てみると、日本の国を愛するということがそもそもふつうではないということも言えないではない。もしもこれがまったくふつうのことであるのだとすれば、それに特別な意味あいはおきてこないのではないだろうか。まったくふつうのことで、そこに特別な意味あいがないのであれば、とくにことさらに言及することはいりそうにない。いちいち、いま自分は空気を吸っていますとか、いま自分は生きていますとかと(特別な状況を除いて)ほかの人に告げることがいらないのに等しいものである。

 生きていることはとりたてて言うほどのことではなくてふつうのことだと言ってしまったが、これは改めて見るとふつうではないとも見られる。生きていることは宝くじの一等が当たるよりもずっとまれなことだという。学者の木村資生(もとお)氏によると、何かの生きものに生まれてくるのは確率からすると宝くじの一等が一万回ほど連続で当たるくらいのもので、人間に生まれてくるのはさらにまれだというから、それをくみ入れられるとするとふつうなことではない。

 関係主義から見てみられるとすると、ふつうであるというのは、ふつうではないことがあってはじめてなりたつ。関係主義では関係の第一次性が言われて、関係が先だつのだとされる。ふつうであることがえらくて、ふつうではないことがえらくはないとは言い切れず、その二つの優と劣の見なし方を反転させることができることがある。ふつうであってもとくに価値はないことがあるし、ふつうではなくても価値を持つことがある。

 ふつうの日本人とか、ふつうに日本を愛するというさいには、ふつうと言っているけどじつはふつうではないということがあるから、ふつうかふつうではないかは定かとは言い切れそうにない。まったくもって自明だとは言い切れず、自分はふつうだと思っていたとしても思いちがいをしているだけでありじっさいにはふつうではないということがあるし、みんながみんなふつうだと思っていたとしても本当はふつうではないということがなくはない。

 日本の国がふつうだとははっきりとは言えないのがあるし、ふつうではなかったとしても必ずしも悪いとはかぎらず、またふつうだったとしてもそれがよいとも限らない。ふつうだとしていてもふつうではないことがあるし、ふつうではないとしていてもふつうなこともまたあるだろう。

 これがふつうなのだということがあるとしても、それが多数の人がそうしているということなのであれば、多数の人がまちがっていることがあるから、ふつうだということをもってしてまったくもって正しいことだとは言い切れそうにない。ふつうではないということが少数に当たるとしても、それがまちがっているとは言い切れないから、それが承認されることがあってもよいことだろう。

 参照文献 『実践トレーニング! 論理思考力を鍛える本』小野田博一 『構造主義がよ~くわかる本』高田明典(あきのり) 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編

やりたい政策とやれる政策のちがいと、やれる政策とやれない政策の線引き―やりたいことがやれるのだとは限らずやれないこともまたある

 れいわ新選組山本太郎氏は、東京都の都知事選に立候補している。山本氏は反緊縮の政策を行なうことを目ざしている。都が債権を発行して、十五兆円や二〇兆円といったお金をつくり、それを都民に配るのだという。

 東京都が十五兆円くらいのお金をつくることを、総務省から教えを受けたと山本氏は言っているようだが、総務省のほうはこれを否定しているようである。総務省は山本氏にそうした説明をしてはいないとしていて、食いちがいがおきている。

 総務省と山本氏のたがいの話が食いちがっているのがある中で、山本氏がもしも都知事になったとしたら、十五兆円くらいのお金をつくることはじっさいにできることなのだろうか。それで都民にお金を配ることができるのだろうか。

 東京都が十五兆円くらいのお金をつくって、それを都民に配るというのは、願望思考(wishful thinking)が入っているように見うけられる。願望(wish)またはそれよりも強い意志(will)があったとしても、それがまちがいなく現実化するとは言い切れそうにない。願望は願望であり、現実は現実だというのがある。

 十五兆円くらいのお金をつくりたいとか、それを都民に配りたいというのは、願望に当たるものではあっても、現実化するのは難しいのではないだろうか。願望と現実を混同しないようにするのだとすると、したいことがあるのだとしても、それができることだとはかぎらないのがあるから、したいことであってもできないこともまたある。

 予備校講師の林修氏は、やりたいこととやれることとやるべきことがあるとしている。これらをそれぞれに区別して見て行くことがたまにはあったほうが有益にはたらく。

 どのようなことであったとしても、やりたいことがあって、それがまちがいなくできるのだとは言い切れないから、どのような制約があるのかを見て行かないとならない。色々な制約があることをくみ入れた上で、その中でできることをさぐるようにして行く。

 まったく無制約に何でもやってよいというわけには行かないから、色々な制約があることをくみ入れざるをえない。その中で東京都が十五兆円のお金をつくれず、都民にお金を配れないのであれば、その中で色々とできることを探って行くしかない。そういうふうな形の中で最適化して行く道もまたあるはずだ。というよりも、そういう制約ありきの道を歩んで行くよりももっとてっとり早い即効薬となるような道があるのだとはちょっと見なしづらい。

 山本氏がやりたいような反緊縮の政策がじっさいにできるのであればそれに越したことはないだろうし、可能性としてはゼロではないのかもしれないが、不確かさがあることもまたいなめない。うまい手があるのだとして、それをやろうとするのだとしても、西洋の哲学でいわれる弁証法のようなものがはたらき、よいとされていたことが悪いことに反転することはないことではないから、そこに気をつけることもまたいることだ。よいとされることであっても、その反対物である悪いことに転化することがある。

 参照文献 『憲法の涙 リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください二』井上達夫 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき)

夜の街という言い回しは、何をさし示しているのだろうか―夜の街の記号表現とその記号内容

 夜の街で感染がおきている。東京都知事は夜の街が悪いのだということをにおわせているようである。このさいの、夜の街という言い回しは改めてみると適したものなのだろうか。

 新型コロナウイルスは夜だけに活動しているのではない。ツイッターのツイートではそう言われていた。たしかにウイルスは二十四時間いつでも活動しているものだから、夜だけを選んで活動しているのではないだろう。

 夜の街の言い回しを改めて見てみると、夜と街の二つからなりたっている。この二つはどちらもあいまいさがある。夜とは何なのか、街とは何なのかがはっきりとしているとは言えそうにない。

 夜は朝や昼に比べて暗い。ウイルスは目には見えないが、夜は暗いからなおさら怖さが倍加する。ウイルスの得体の知れなさを、夜の暗さがうながす。そういう印象がおきてくるのがある。

 夜は暗いから何となく不安な印象があるが、それをかっこに入れられるとすると、朝であっても決して安全とは言えないし、昼であってもそうだ。朝の街が安全とは言い切れないし、昼の街もまたそうである。朝の街であっても感染がおきるし、昼の街であってもそうだから、そこについてを見て行くことがいる。

 時間帯と場所をもっと細かく区切って、どこの時間帯のどこの場所で感染がとくにおきやすいかをはっきりとさせて行く。どこの時間帯のどこの場所で何が行なわれていて、それのどこにまずいところがあって、それをどう改めればよいのかをしめす。

 ここがとくに悪いのだということで、それを夜の街ということに集約させるのだとしても、夜の街ということが何となく得体の知れないものに受けとれるのがある。得体の知れないままにしておこうというのだと、はっきりとはしないままになってしまうから、そこをはっきりとさせるようにしたい。

 語には大きいのから小さいのまで色々な大きさがあるのをくみ入れると、夜の街の言い回しは大きめなのがある。語の大きさをもっと小さくするようにして、色々なものをいっしょくたにしてしまわないで、個別にして行くようにする。個別に細かく認知するようにして、それぞれを評価して、こういうふうにしたらよいというふうに指令を出す。

 適したやり方になるようにするには、一つずつを個別に見ていったほうがやりやすい。色々なものをいっしょくたにして、それらを一まとめにする形で夜の街の言い回しを用いて、夜の街が駄目なのだとすると、認知が大ざっぱになり、評価が大づかみになるから、正確な指令を出しづらい。

 夜の街という形でそこに言及するのであれば、責任をもって細かく見て行くようにして、たんに夜の街にたいして責任をなすりつけるようではないようにしたい。それにあわせて、夜の街だけをとり上げるのではなくて、朝の街はどうなのかや昼の街はどうなのかもとり上げるようにして行く。二十四時間のうちすべての時間帯をまんべんなく見るようにして行き、時間帯にもれが出ないようにしたい。

 時間帯のうちでとくに夜だけをとり上げるのだと、とくに夜ということを有徴(ゆうちょう)化することになる。朝と昼は無徴(むちょう)化される。印(mark)がつけられているものとつけられていないもののちがいだ。記号論ではそのちがいがあるとされるが、その印のつけ方が適したものなのかどうかを見てみたい。夜から朝や昼になったらとつぜんに街が安全になるのではないだろうから、感染の点から言って、夜だけではなくて朝や昼の街のあり方の中にもまずいところはあるのではないかとおしはかれる。

 参照文献 『自分で考え、自分で書くためのゆかいな文章教室』今野真二(こんのしんじ) 『論理表現のレッスン』福澤一吉(かずよし) 『語彙力を鍛える 量と質を高める訓練』石黒圭

日本人と韓国人との交際と、自然主義の誤びゅう

 日本人の芸能人が韓国人と交際をしていることがわかったという。そのことにたいして批判の声がおきていた。日本人の芸能人が韓国人と交際するとことで、日本人の血の中に韓国人の血が入るからだめなことなのだということが言われていた。

 日本人の芸能人が韓国人と交際することはよくないことに当たるのだろうか。芸能人にかぎらず、日本人が韓国人と交際することもまた駄目なことなのだろうか。

 人どうしが交際をするのは、個人どうしが関わり合いをもつことであり、国がどうかや民族がどうかはもっとも重要なことだとまでは言えそうにない。

 自分ではないほかの人はすべてが他人だ。他人は自分とはちがう文化をもつ。同じ日本人であったとしても、それぞれの日本人が身につけている文化はそれぞれでちがう。その文化のちがいの延長線上にちがう国や民族の人がいるのだと言えるのがあるから、日本人か韓国人かということではっきりと線引きができるというよりは、ていどのちがいということもまた言えるだろう。

 韓国人と交際するのは駄目なのだとしてしまうと、何々である(is)から何々であるべき(ought)を導くことになる。これは自然主義の誤びゅうだ。ナチス・ドイツでは、ユダヤ人だから駄目なのだということで民族のせん滅(ジェノサイド)がはかられた。国や民族を一くくりにして駄目なのだとしてしまうと、ナチス・ドイツユダヤ人にたいしてやったことと同じことをすることになりかねない危なさがある。

 価値についてを見てみれば、日本人だからといってみんながよい人ばかりではない。悪い人やよくない人もいっぱいいる。全員がよい人だとは言えないのがある。悪い人やよくない人も色々にいるのに、そのことを捨象して切り捨てて、日本人はみんながよいのだとするのはまちがったことだろう。日本人だということは、それだけをもってすれば、とくに何を意味するものではないし、その中にさまざまな人がいるというのが言えるくらいだ。それは韓国人についてもまたそうだろう。

 範ちゅうと価値を切り分けて見ることができるから、日本人の範ちゅうに当たるからよいとはまったく言えないし、韓国人の範ちゅうに当たるから駄目だとも言えないものだ。日本人の範ちゅうの中にも悪い価値の人がいるだろうし、韓国人の範ちゅうの中にもよい価値の人がいるから、ぜんぶを十把一からげに言うことはできづらい。それぞれは十人十色だ。

 日本人の血の中に韓国人の血が入るということでは、何々人の血というのははたしてあるのだということが言えるのだろうか。血というのは純粋なものではなく雑種のものだ。色々なものが混ざり合っている。純粋な血があるとするのは虚偽に当たる。

 人間の血ということは言えたとしても、何々人の血というものがまったく純粋なものとしてあるのだとは言えそうにない。かりに純粋な日本人の血があるとするにしても、それがあったところでそれに何かよい価値があるのだとは言いがたい。それに日本は少子化と高齢化がどんどん進んでいるから、近いうちにそれは消えてなくなることになるおそれが低くない。純粋なものは虚構のものだし、よい価値をもっているとは言い切れないし、きわめて不安定でぜい弱なものである。

 日本の芸能人がどのような人と交際をしようと、それはその人の自由に属することだろう。同じ日本人となら交際してもよいが、他民族とは交際してはいけないというのは、守るべき義務の水準を高くしすぎである。自由主義からすると守るべき義務の水準はできるだけ低いほうがよくて、最低限の義務を守っているのであれば、あとのほかのことは個人の自由な決定に任されていたほうがよい。へんに国家主義をもち出して守るべき義務の水準を高くすることは、個人の自由がせばまることになるから反対だ。

 参照文献 『天才児のための論理思考入門』三浦俊彦 『ぼくたちの倫理学教室』E・トゥーゲンハット A・M・ビクーニャ C・ロペス 鈴木崇夫(たかお)訳 『トランスモダンの作法』今村仁司