円安であったとしても、生活には何も関わりがない。そうつぶやかれている。
もしも生活が苦しいのだとしたら、それは円安のせいではない。あなたが悪い。ウェブの X(Twitter)ではそうしたつぶやきが言われている。
円安であろうとも、円高であろうとも、人々の生活には何の関わり合いもないことなのだろうか。円安で物価高になって生活が苦しいのは、自分のせいなのだろうか。
いまはかなり円安になっていて、一時的に円が一六〇円に達した。
為替で円が安くなったり高くなったりすることに、何の関心も持たなくてよいのかといえば、そうとはできそうにない。為替の円の値の動きには、つねに関心を持っていたほうが良いのである。関心を持たないよりも、持っていたほうがのぞましい。なぜかといえば、生活に関わるからだ。いろいろな商品は、外から輸入されたものからなりたつものが少なくない。
自己責任論によるのだと、円安で物価高で生活が苦しいのは自分のせいだとされてしまう。自己責任論によらないようにして、挙証の責任を転じるようにしてみたい。挙証の責任を転じてみると、自分が悪いのであるよりも、自分をとり巻く外の状況に悪さのもとを見いだせる。人々の生活を安んじさせるのが政治の主の役割の一つだ。
ばあい分けをしてみたい。ふ分けをしてみると、円安であってもよいのと悪いのがある。円高であってもよいのと悪いのがある。
物価についても、物価安でよいのと悪いのがある。物価高でよいのと悪いのがある。
アベノミクスは、円安が良いのだとした。物価高は良いのだとしたのである。円安で悪いのと、物価高で悪いのをとり落としている。
アベノミクスがとり落としているところのものである、円安で悪いのと、物価高で悪いのが、いまの日本ではおきていそうだ。
状況の思考によってみてみると、アベノミクスがしているように、円安だから良いとか、物価高だから良いとは含意をこめられそうにない。状況によっては、円安で悪いことがあるし、物価高で悪いことがあるのだ。
どういうことがアベノミクスでは欠けていたのかといえば、ばあい分けをしてふ分けをすることだ。あと状況の思考が欠けていた。それらが欠けていたために、円安なら良くなるのだとか、物価高であれば良くなるのだとしてしまった。円安で悪いのや物価高で悪いのをとり落とした。
ほかにアベノミクスでとり落とされたものとしては、円高でも良いことがあるのや、物価安でも良いことがあることだろう。円高は悪いとか、物価安は悪いのだと決めつけたのがアベノミクスだった。ばあい分けをしてふ分けをするのや、状況の思考によるのが不十分だった。
いまの日本は、事実として円安や物価高がおきている。何々であるの事実(is)から、何々であるべきの価値(ought)を自動では導けそうにない。たとえ事実として円安や物価高になっているのだとしても、そうだからといってそれらが良いとはかぎらず悪いことがある。
事実から価値を自動で導いてしまったのがアベノミクスだった。自然主義の誤びゅうにおちいっていたのである。たとえ円安や物価高の範ちゅう(集合)であったとしても、よい円安やよい物価高だけではなくて、悪い円安や悪い物価高(stagflation)をふくむ。たとえ円高や物価安の範ちゅうであったとしても、その中に悪い円高や悪い物価安だけではなくて、よい円高やよい物価安をふくむ。
範ちゅうと価値の二つをふ分けしてみると、同じ範ちゅうであったとしても正と負の価値をふくむ。いまの日本では、円安や物価高の範ちゅうにおいて、負の価値がおきていそうだ。アベノミクスがとり落としたところのものである、円安や物価高の負の価値がおきているのがあるかもしれない。
参照文献 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『「通貨」を知れば世界が読める “一ドル五〇円時代”は何をもたらすのか?』浜矩子(はまのりこ) 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『東大人気教授が教える 思考体力を鍛える』西成活裕(にしなりかつひろ) 『思考のレッスン』丸谷才一(まるやさいいち) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『社会認識の歩み』内田義彦(よしひこ) 『十八歳からの格差論 日本に本当に必要なもの』井手英策(えいさく) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『「責任」はだれにあるのか』小浜逸郎(こはまいつお) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『幸・不幸の分かれ道 考え違いとユーモア』土屋賢二 『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや)