日本だからまたは日本的だからよいとは言えそうにない―日本または日本的なことと、よいこととを分けて見たい

 日本だからよい。日本的だからよい。はたしてそう言えるのだろうか。

 場合分けをしてみると、日本だからよいとは言えず、よくないものもまたあるだろう。これまでやいまの日本のあり方で、よいものだけではなくてよくないものもまたある。日本的なものだからといってすべてがよいわけではない。

 よくないものであるのなら、日本だからといって、または日本的だからといって、改めて行ければよい。たとえ日本ではなかったり日本的ではなかったりするのであっても、よいものであるのならものによってはとり入れて行ければよい。

 日本だからとか日本的だからというのではなくて、よいものであればそれはのぞましい。中には日本だからとか日本的だからよいと言えるものはあるものの、それは一部に限られるものである。たまたま日本や日本的なのとよいのとが一致しているだけなのにすぎない。日本や日本的なのにも悪いものもまたあるのであって、すべてがよいというのではない。

 日本的なあり方というのは、色々なものを外からとり入れて行くものだとされる。色々なものを外からとりこんで行く。日本に固有のものというよりは(それもなくはないが)、外からとり入れて行くということが強い。外のものを日本化して行く。そうしたあり方を生かすようにして、よいものをとり入れるようにするのはどうだろうか。それは必ずしも反日売国ということではないだろう。日本にはもとからそうしたところがあるからである。

 参照文献 『実践ロジカル・シンキング入門 日本語論理トレーニング』野内良三(のうちりょうぞう) 『「ロンリ」の授業』NHK「ロンリのちから」制作班 野矢茂樹(のやしげき)監修 『不思議な国のクラシック 日本人のためのクラシック音楽入門』鈴木淳史

西洋のスペインで環境の国際的なもよおしが開かれていた―環境の問題における社会的矛盾と逆説

 西洋のスペインで、環境の国際的なもよおしが開かれている。そこに日本の環境大臣が出席して、環境団体から化石賞を受賞していた。

 この化石賞というのはいわば皮肉の賞のようで、日本が化石燃料による発電を多くやっていることから、それへの批判をこめたもののようである。

 日本の環境大臣はこの賞を受賞したことを受けて、ややとんちんかんなことを言っていた。賞の意味あいがわかっていないのか、それとも大臣ともなると、色々なところに神経を使わないとならないから、角が立たないようにするために、何とも言い切れないということなのかもしれない。

 日本の登山家(その他日本の著名人の一部)は、スウェーデンの環境活動家のグレタ・トゥーンベリ氏のことを批判している。批判はあってもよいものではあるけど、登山ということでいうと、いわば環境をよくするという同じ山のいただきを目ざしているのであれば、行動の一部に一貫性がないところが少しくらいあったとしても、小さいことではないだろうか。

 そういう小さいところに目くじらを立てたり、陰謀理論を持ち出したりするのではなくて、大局を見るようにして、環境をよくして行くという山のいただきを見るようにしたほうが建設的だろう。

 環境の問題というのは、一つには社会的矛盾が関わっているとされる。そして逆説もまた関わっていることだろう。

 社会的矛盾が関わっているのは、社会心理学者の山岸俊男氏によって指摘されている。社会的矛盾とは、社会問題の多くに見うけられるもので、環境でいえば、ほんとうはみんなが環境によいことを少しずつやって行ければよいのを、それができずに利己的な行動をとってしまい、けっきょく自分たちまたは将来の世代の首をしめることになるというものだ。このさいのみんなというのは、国内でいえば国民だし、国際社会でいえば各国だ。

 逆説では、学者の西成活裕氏が科学のゆとりということを言っていて、これはことわざでいう損して得とれということである。いま損をしてもあとで得をとれるというのは、まさに環境をよくすることに当てはめられる。それができずに、いま得をして、あとで損になってしまうというのは、逆説がはたらくことでありまた社会的矛盾だ。

 参照文献 『社会的ジレンマ山岸俊男 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ)

桜を見る会についての批判と、その批判への批判―桜を見る会のことを批判することがもつぜい弱性

 桜を見る会のことで、いまの首相による政権は批判をあびている。それとともに、桜を見る会のことを批判することもまた、批判を受けている。

 桜を見る会についてを国会でとり上げるよりも、もっとほかにとり上げるべきことがあるのだから、ほかのことをとり上げるべきだ。これは、桜を見る会のことを批判することを批判している。

 桜を見る会のことを批判するのであれば、それを国会などでとり上げることになる。それをするよりもほかのもっと重要なことをとり上げるべきだというのは、桜を見る会のことの批判への批判だ。

 桜を見る会のことをとり上げるのは、さして意味のないことなのだろうか。これについては、意味がないといえばたしかにあまり大きな意味はないのかもしれない。引いて見てみればそう言えるのはあるかもしれない。それはあるかもしれないが、たとえ意味があまりないからといって、とり上げるべきではないとは必ずしも言い切れないだろう。

 桜を見る会のことを批判するのには、プラスの面とマイナスの面がある。プラスの面を見るのなら、批判したりとり上げたりするべきだとなる。マイナスの面を見るのなら、とり上げるべきではないとなる。

 桜を見る会のことをとり上げないのだとしても、そこにプラスの面とマイナスの面があることになるだろう。とり上げないで、ほかのもっと重要なことをやるのなら、それにプラスの面はあるものの、マイナスの面もまたあるのであって、すべてがプラスであるとは言えそうにない。桜を見る会のことの真相がはっきりとはせずにうやむやになって放ったらかしになりつづけるのがマイナスの面である。

 桜を見る会を批判することは、それそのものにぜい弱性をもつ。批判することもまた批判されるぜい弱性だ。そんなことはどうだってよいではないかとか、くだらないことだとか、とるに足りないことだとされる弱さをもつ。

 引いて見てしまえば、たしかにたいして大きな意味をもってはいないかもしれないが、そう見なすことには危うさがあるのだと言えないではない。引いて見るのは、いまの首相による政権がのぞむところだというのがある。できるだけわい小化させたい思わくがある。小さいことだと見なすのは政権にとっては願ったりかなったりだ。

 たんに引いて見るだけではなくて、引いたり寄ったりというふうに、色々に見ていって、色々にあるいくつもの文脈から見て行くほうが無難だろう。部分や全体像を色々に見て行くことができる。まだ全体像ははっきりとはしていないが。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』西林克彦 『できる大人はこう考える』高瀬淳一

山の木が紅葉していた

 山の上のほうに生えている木が紅葉していた。昨日は晴れていたので、山に生えている紅葉している木が、太陽の日ざしが当たることによって照明が当たっているようだった。金色に輝いているようできれいだった。

与党と野党とで、どちらがより頼りになるか(ならないか)と、それとはちがう見なし方―創造性の MRS 理論によって見てみたい

 与党よりももっと頼りないのが野党だ。頼りない野党よりも少しはましなのが与党だから、与党を支持するしかない。野党と比較すればまだいまの与党である自由民主党はましだというのである。

 与党と野党とどちらが頼りになって、どちらが頼りにならないのかというのではなくて、政治家や政党に何をのぞむのかの点で見てみたい。そののぞむことには創造性がある。

 創造性には MRS 理論というのがあって、動機づけ(モチベーション)と資源(リソース)と技術(スキル)によるとされる。この三つはお互いに生かし合いもして、殺し合いもするという。一つがよくなれば他もよくなるというよい循環にもなれば、一つが悪ければ他も悪くなるという悪い循環にもなる。

 創造性の MRS 理論で見てみると、与党の創造性はいちじるしく低いのだと言わざるをえない。これはあくまでも個人の評価づけであって、客観というのではないから、ほかにも色々な見なし方ができるのはあるだろう。

 個人としては、かなりからい見なし方をするとすれば、いまの与党である自民党には創造性がほとんどない。国民に広く益になるようなことをするという内発の動機づけがあまり感じられず、感じられるのは数字として目に見える評価を得たいという外発の動機づけの高さだ。

 資源の点では、日本に広くさまざまにある色々な利用できる資源を十分に使えていなくてその多くを無駄にしてしまっている。宝の持ち腐れになってしまっている。技術という点でもそう高くはないだろう。

 政治家の個人の創造性と、その集団である政党の創造性と、それらをとり巻く環境の創造性というのがあって、それらを少しでも改めていって、非創造的になっているのから、創造的になるようにできればよい。それができるのであれば、いまの与党である自民党でなくてもよいし、野党であってもよいのである。それができないのであれば、いまの与党である自民党ではないほうがよいし、野党にもまたきびしい目を向けたい。

 政治をどういうふうに見なすのかには色々な視点があるだろうから、たんに創造性だけですべてがこうだと決めつけるのは正しいとは言いがたいことだろう。何に重きを置くのかでは、個人としては創造性はかなり重要だというのがあるので、それで見てみるとすると、きびしい見かたになってしまうのはあるが、いまの与党である自民党には創造性はほとんどなく、いまのところ期待のしようがない。

 参照文献 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『徹底図解 社会心理学山岸俊男監修

反社会的勢力という記号表現にたいする独断と偏見―意味の拡散と収束

 反社会的勢力という語は、その時々の社会の情勢によって変わるので、限定的または統一した定義づけをすることができない。政府はそう言っていた。

 限定的または統一した定義づけができないのだとしても、まったく定義づけができないということにはならないだろう。

 みんながうなずくような完全に客観の定義づけはできないとしても、おおよその主観の定義づけはできるはずである。

 ある語の定義づけというのは、議論をする中においては、たいていは主観によっていて、自分に都合のよいものを使うことになることが多いとされる。自分に都合の悪いものであれば、議論をする中において自分が不利になってしまうから、それは避けられる。偏りがおきるのだ。

 いまの首相による政権にとって、とくにさしさわりがなくて都合の悪いものではないのなら、無難な定義づけがされることになるだろう。政権に都合が悪いものであるのなら、政権にとってできるだけ有利になるように定義づけがされたり、または定義づけそのものを避けることになったりするだろう。

 反社会的勢力という語の定義について、できるだけ適したとらえ方をするにはどうするべきなのだろうか。そのさいには、反社会的勢力という語について、独断をもってして性急に決めつけないようにしたい。

 語の定義づけをするさいには、どういう機能によるのかや、どういう構造によるのかによって定めるのがよいのだという。反社会的勢力であれば、それがどういう機能をもち、どういう構造によるのかがある。また、どういうものから区別されているのかというのもある。

 反社会的勢力の語の定義づけについては、もし定義づけができるのであれば、そうされているだろう。その証拠として、いまの首相による政権が、第一次の政権だったさいの二〇〇七年くらいに、反社会的勢力の語について定義づけをしていたそうなのだ。

 いまの首相による政権は、いぜんに自分たちで定義づけができていたのに、いまになって定義づけは困難だとしている。ということは、ある時点から定義づけが困難になったことを示す。いったいいつの時点からどういうわけでそれが困難になったのかを示すことがいるだろう。そうでないと、定義づけができたりできなかったりしているのだから、矛盾していることになる。

 政府が言うようにその時々の社会の情勢で、言葉の意味が変わってくることはあるかもしれないが、そうであるからといって、社会の情勢が変わったからといって、反社会的勢力ということで一般の不特定の人たちをさすようになるのだとは見なしづらい。特定の否定的な人たちをさすというのは変わりづらいところで、まったく反対となるものをさし示すようになるほど劇的に意味が変わることはありえづらい。

 反社会的勢力ということで、そこにどういう人たちが具体的に含まれるのかというのは、厳密にはっきりとさせることは難しいだろう。そこのちがいは人それぞれでおきるのはあるにしても、基本としては、できるだけ同じ意味のものとして反社会的勢力の語を使って行くことがいる。語の意味が同一になるようにしないと、あるときにはこれをさしていて、別なときにはまた別なことをさしている、といったふうになってしまう。

 そのときどきにおいて、意味がちがう使われ方をするようだと、統一性を欠く。関係者という語を何回か使うとして、あるときには深い関わり合いの人のことをそうあらわして、次に使うときには軽い関わり合いのある人をそうあらわす。そういうように、語の意味が使うときどきによってまちまちになっていると、語の意味が同一でないことになって、まずい発言の内容になってしまう。

 使う人や受けとる人によって、どういうふうに使うのかや、どういうふうに受けとるのかの幅はあるていどはあってもよいものだろう。その幅が色々でよいというのが行きすぎると、いい加減なあり方になってしまうし、正確さをいちじるしく欠くとらえ方になりかねない。

 できるだけ正確な語の使い方になるようにするためには、同じ送り手ではなるべく同一の意味で使うようにするべきだし、たがいにずれがあるのなら意味をすり合わせるように努めるべきだろう。意味が遠心に拡散しっぱなしでばらばらであってはまずいのであって、あるていど適したところに収れんや収束させることがいる。

 参照文献 『増補版 大人のための国語ゼミ』野矢(のや)茂樹 『正しく考えるために』岩崎武雄 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信

その時代でほかよりも飛び抜けてすぐれた人と、その人のまちがい―たとえすぐれていてもまちがう

 その時代の中で、ほかの人よりも飛び抜けてすぐれた人がいる。ほかの人よりも飛び抜けてすぐれた人であったとしても、まちがいをおかす。まちがいをおかすことを避けられない。哲学の歴史ではそうしたことが言えるそうだ。

 いまの時代には、ほかの人よりも飛び抜けてすぐれた人というのは、なかなか出てきづらいのがある。昔とはちがって、高度に情報化された社会になっているから、誰でもがそれなりに情報に接することができるし、平準化されている。抜きん出るということはなかなかないことで(まったく無いわけではないが)、とりわけ出るくいは打たれがちな日本の社会ではそうだろう。

 すぐれた人と凡人とであれば、すぐれた人であってもまちがいをおかすことを避けられないので、まちがいをおかすという点においては、凡人とそこまでちがいはないということになる。

 ことわざでは、天才と馬鹿は紙一重と言うが、これの意味するところとしては、天才であってもまちがいをおかすことを避けられないのだと受けとれる。天才だからまちがいをおかさないのではない。すぐれた人だからまちがいをおかさないというのではないのをあらわす。似たようなことわざでは、かっぱの川流れとか、さるも木から落ちるとか、弘法も筆の誤り、なんていうのがあげられる。

 政治で政策を行なうときには、どんなにすぐれた人であっても、まちがいをおかすことが避けられないのをくみ入れることは益になることだろう。すぐれた人でも、政策をどう見なすのかというのにはまちがいがつきものだし、それは愛国者であってもまたそうだ。すぐれた人だからまちがえないとか、愛国者だからまちがえないということは無いことだろう。

 愛国者がまちがうというのは、歴史においてその実例がある。戦前や戦時中の日本は、ほとんどみんなが愛国者だったのだし、そうさせられた。愛国者であればあるほどまちがえないのであれば、戦争につき進んでいって自国や他国の人を含めてとんでもない被害や失敗を生むことはなかっただろう。愛国者だとしてもまちがうときには当然のこととしてまちがうのだと言わざるをえない。

 たとえどのような人であっても、政治の政策をどう見なすかや、どれがよいかということでは、まちがいをおかすことを避けられない。それがひと握りのすぐれた人であっても、すぐれていないわれわれのような凡人であっても、また愛国者であっても、反日売国とされる人であっても、みんなそうなのである。無びゅうではなくて可びゅうだという点では横ならびとなっている。

 参照文献 『生きてるだけでいいんです。』香山リカ 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『国を愛する心』三浦綾子

反社会的勢力という記号表現(シニフィアン)とその記号内容(シニフィエ)―修辞による意味のあいまい化

 反社会的勢力が何かは、定義づけができづらい。政府はそう言っている。

 反社会的勢力が何かは、その時々の社会の情勢によって変わってくる。限定または統一した定義は困難だという。

 政府の言っていることは、反社会的勢力というのを、修辞化しているように映る。反社会的勢力ということの意味をあいまい化してぼやけさせている。これは修辞学で言われる、多義またはあいまいによる虚偽に当たると見てよいだろう。

 反社会と言っているくらいなのだから、ふつうの社会で許容されているものとはちがうということをさしているものだろう。反というところが、しるしつきのものとなっている。しるしつきというのは、特殊なものに用いられるもので、たとえば非国民というのがある。国民というのはしるしがついていないが、非国民という言い方にはしるしがついていて、国民は無徴(無標)だが、非国民は有徴(有標)だ。

 肯定の意味あいか否定の意味あいかに大べつすれば、反社会的勢力というのは、肯定の意味あいを持っているとは見なしづらい。否定の意味あいを持ったものだろう。大きく見ればそうであって、そこから意味をしぼって行けばよいのではないだろうか。

 反社会的勢力という記号表現があるのだから、その最大公約数となる記号内容がはっきりしないというのは、極端に言うと、人それぞれでぜんぜん使い方がちがうということとなるし、てんでんにばらばらな使い方がされているありさまだ。意味論としては、反社会的勢力というのがいったいどういうことをさしているのかが分からなければ、それを用いた文(命題)の真偽もよくわからないことになってくる。

 反社会的勢力というのがどういう定義なのかというのは、言い換えてみる手が用いられる。かんたんな言い方に言い換えられれば、うまく定義づけができていることを示す。たとえば、社会の中でこれは許されるだろうとされる許容範囲の中におさまらないで、その外にあることをしている勢力をさす、なんていうふうに言えるかもしれない。できるだけかんたんな言葉に言い換えてみて、敷えんしてみたり、置き換えてみたりしたら、定義がはっきりしてきてわかりやすくなる。

 参照文献 『ダメ情報の見分けかた メディアと幸福につきあうために』荻上チキ 飯田泰之 鈴木謙介 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『本当にわかる論理学』三浦俊彦

憲法の改正の議論(argumentation)と、その論拠(argument)―不確かさが大きく、保証がない

 国民の多数が、憲法の改正の議論をすることをのぞんでいる。国民の多数からの声を無視するわけには行かない。憲法の改正の議論をやらなければならない。首相は記者会見の中でそうしたことを言っていたという。

 国民の多数が憲法の改正の議論をのぞんでいるというのは本当のことなのだろうか。国民の多数の声とはいっても、その声には、たんに憲法の改正の議論をのぞむものもあれば、そうではないものもまたあるのであって、いちがいにこうだとは決めつけられそうにはない。

 多数か少数かということでは、多数の声だから正しくて、少数の声だからないがしろにしてよいとは言えそうにない。そこで肝心になるのは、正当性を問いかけることだろう。正当性を問いかけるには、多数だから正しくて、少数だからまちがっているというふうには言えず、少数の声であったとしても、それを重んじてみることがいる(少数の声だから正しいということではないが)。

 憲法の改正の議論では、その議論の担保や根拠がいることになるのだというのがある。担保や根拠もなしに、憲法の改正の議論をやっても、十分に実りのあるものになることは見こみづらい。

 いまの首相が、憲法の改正の議論をやっていって、それがうまく行くのだという担保や根拠はいったいどこにあるのだろうか。それを示してほしいものである。

 うまく行くのではなくて、うまく行かないであろうという理由はあげられる。ほかのところでの議論がきちんと行なわれていないことがある。国会では、野党の議員から質問されたことについて、それとはかみ合わないすれちがった答えかたをしばしばしている。

 議論の中には質疑応答も含まれるので、質疑応答のやり取りがきちんとできていないのであれば、議論がきちんとできていないことになる。

 きちんとした議論が行なわれるという保証がないのであれば、ずさんな議論のやり取りになりかねない。それだったら、まだやらないほうがましだろう。ずさんな議論のやり取りにはならないという十分な担保があるのだとは言えそうにない。そこがしっかりとしていることがなくて、やればうまく行くというのであれば、行きあたりばったりだと言ってよい。どう出るのかがかなり不確かだ。

 憲法の改正の議論をやることがいるのだというのは、絶対にまちがったものとは言えないが、それについてをうのみにはせずに、批判として見られるのはたしかだ。

 まず、ほかのことをさしおいて、なぜ憲法の改正の議論をやらないとならないのかということの論拠が確かとは言いがたい。憲法の改正の議論についやすことになる時間や労力にたいして、かけた時間や労力に見あうだけの実りがもたらされるのかの保証が十分ではない。悪く出ることもないことではないだろう。

 二分法によって、白か黒かや一か〇かで見るのは適してはいないから、絶対によいとか絶対に悪いというのではないが、憲法の改正の議論にまつわる色々な不備があるように見うけられる。その不備を放っておいて、ただ議論をしても、広く国民に益があることになるかは不確かだ。

 議論(argumentation)には理由(argument)を示すことがいるのだから、議論をすることをさも当然であるかのように当前視するのではなくて、国会での質疑応答のようなかみ合わないすれちがいの答弁にはならないのだということの十分な根拠を示すべきである。それが示せないのであれば、国会での質疑応答のようなすれちがいやかみ合わない議論が行なわれる見こみは小さくない。

 きちんとした議論になるというまともな根拠があるのならまだよいが、そうではないのであれば、しっかりとした理由を欠いたまま議論を行なうことになってしまう。議論をやるからには、それが民主的で効果のあるものであることがいるから、そうなることが保証できるのであることがいる。その保証があるかどうかをまず議論することがいるだろう。

 そうして色々に見て行かないとならないのは、もとを正せばいまの首相による政権が、国会の質疑応答において噛み合わないすれちがいの答弁をしていることによるのだし、説明責任を果たしていないことによっている。

 時間や労力をできるだけかけずに、憲法の改正の議論を行なうのはできづらいことで、ましてやいまの首相による政権だとなおさらそれはできづらい。理想的な議論や説明の能力をもった首相による政権ならともかくとして、その理想のあり方からかけ離れているのであれば、なおのこと時間や労力がかかってしまう。それは、いまの政権の日ごろの行ないがたたっているのであって、ほかの誰のせいというわけではない。

 開かれたあり方ではなくて、閉じたあり方なのであれば、たとえ政権にとって都合がよいのだとしても、いざというさいには、適正にものごとを行なうためには、時間と労力が必要以上に多くかかってしまうことになる。

 時間と労力が必要以上によけいにかかってしまうのは、いまの政権の言うことややることの不確かさがとても大きいからなのである。その不確かさというのは、言っていることの根拠が不明だとか、根拠が不確かだとか、十分な説明がないとか、批判を受けとめていない、といったことによる。また、いまの政権をとり巻いている社会の不確かさが大きいと言ってもよいだろう。

 参照文献 『よくわかる法哲学・法思想 やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ』ミネルヴァ書房 『増補版 大人のための国語ゼミ』野矢(のや)茂樹 『安心社会から信頼社会へ 日本型システムの行方』山岸俊男 『希望と絆 いま、日本を問う』(岩波ブックレット)姜尚中(かんさんじゅん) 『議論のレッスン』福澤一吉(かずよし)

よい政策は、よいだけなのか―プラスとマイナスの面があるととらえられる

 政策をよしとするさいに、気をつけないとならないことは色々とあるだろう。

 まず、ある政策をよしとするさいには、よいか悪いかというふうに二分法で見るのは必ずしも適したことだとは言い切れない。よいだけとか悪いだけといったことはあまりないことだろう。

 よい政策だとされていることであっても、よいというだけではなくて悪い面もまたある。その悪い面が見落とされているとまずい。そこを見落とさないようにして、利点だけではなくて欠点もまた見ないとならない。利点だけを言うのは危ないし、欠点だけを言うのもまたまちがいになりかねない。

 政策をよしとするさいには、それが必要条件なのかどうかがある。必要条件というのは、どうしてもそれで(が)なければならないものだ。これは、何々であらねばならないとか、そうでなければならないという思考だ。

 ねばならないの思考は、必ずしも適していないことが少なくない。そうではなくてもよいこともまたあるから、ねばならないの思考である硬派だけではなくて、そうではなくてもよいのではないかという軟派でもいちおう見ておいたほうがよいだろう。

 ある政策が、何が何でもそれをしなければならないというのであれば、それは硬派だ。硬派であれば必要条件に当たるけど、軟派なのであれば必ずしも必要ではないことを示す。何が何でもそれでなくてはならないというのではなくて、場合によってはそれでなくてもよいことを示している。

 軟派などはけしからんことだというのは、硬派による見かたであって、硬派というのには欠点があることもまた無視することができづらい。手段の目的化になってしまう危なさがある。そこに気をつけるようにして、手段の自己目的化にはならないようにして、硬派だけではなくて軟派でも見てみたほうが、つり合いは取りやすくなることが見こめる。

 参照文献 『実践ロジカル・シンキング入門 日本語論理トレーニング』野内良三(のうちりょうぞう) 『目のつけどころ(が悪ければ、論理力も地頭力も、何の役にも立ちません。)』山田真哉(しんや) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『自己変革の心理学 論理療法入門』伊藤順康(まさやす)