社会の中における階層のあいだで負の相互作用がはたらくのと、与党と野党のあいだで負の相互作用がはたらくのがある

 いまはそれなりにお金を稼げている。ぜいたくを言わなければ暮らして行ける。だからいまの与党である自由民主党を支持している。そういう若者や壮年の意見が新聞の記事では言われていた。

 たしかに、いま自分が生活にそれなりに満足していて、大きな不満がないのであれば、いまの与党を支持するというのは、そこまでまちがった選択のしかたではないだろう。

 いま自分が満足しているから、いまの与党を支持する。それはそれでよいのはあるが、はたしてそれだけでよいのだろうか。それを疑うさいに、相互作用をもち出せる。

 いまの社会は、みんながそれなりに満足して生活できている、とは言えそうにない。弱者によりしわ寄せが行っている。自己責任だということで、弱者がさらに弱くなることで、それは弱者だけのことにとどまらない。全体に負の影響がおよぶ。不安が全体をおおうことになる。

 運がある者が生き残るといったような、運者生存のあり方になってしまっているのが、いまの世の中にはある。資本主義で、市場原理をとる中において、人間を商品のようにして価値をはかっている。これは交換価値だ。

 交換価値によるのではなく、いくら稼ごうとも、いくら稼がなくとも、人間がもつ使用価値(非経済的価値)を重んじるのがよいのではないだろうか。それを重んじて、まっとうな生き方や生活をすべての人が送れるようにする。

 貧困におかれると、たんにお金が無いだけではなくて、はく奪や社会的排除となる。基本的必要(ベーシック・ニーズ)を満たせなくなる。そうならないようにして、だれもが恥ずかしくない生き方ができるようにして、(最低限の)衣食住を満たせるようにしたいものだ。

 社会的包摂によるのぞましいあり方とは逆行しているのや、そうして行くのに無策であるのが、いまの与党である自民党のあり方なのだと、個人としては言わざるをえない。

 参照文献 『ここがおかしい日本の社会保障山田昌弘 『大貧困社会』駒村康平(こまむらこうへい) 『福祉が壊れる』杉山博昭

首相の発言の立ち場(前提条件や価値観)と、それ以外の立ち場

 大阪城を復元したときに、大きなミスをした。エレベーターをつけたことだ。首相は G20 においてそう言った。この発言が問題だということで批判を受けたことについて、首相は遺憾(いかん)であると言っている。

 体が不自由な人にはエレベーターがあることは有用だ。そのため、エレベーターはないほうがよかったというような首相の発言に反発がおきている。官房長官はこれにたいして、首相の発言はまったく問題がないものだと述べている。

 自分が言ったことなのにもかかわらず、それについて遺憾だというふうに首相は言う。二人の首相がいるのではないかということがツイッターのツイートで言われていた。

 発言が遺憾であるというよりは、(発言の内容についての)反応が遺憾だということなのだろう。負の反応がおきたことが、あるべきではないことであって、それが遺憾だということだ。

 首相が言う、いかんであると言うのには、大きないわかんをいだかざるをえない。体の不自由な人が利用できるようにするために、エレベーターをつけることが有用なのであれば、そうする必要性や理由があるということを示す。必要性があるていど以上あるのであれば、許容されてよいことだ。

 歴史や伝統を忠実に復元するのがよいということを首相は言いたかったのだろう。その前提条件に立つことから、大阪城にエレベーターをつけることが大きなミスだと言うことにつながっているのだ。この立ち場では、エレベーターをつけることが、まったく許容範囲外だということになる。つけるべきではないということだ。

 少なくとも、一つの立ち場や文脈だけではなくて、複数の立ち場や文脈に立ったうえで、発言をするべきだったのではないだろうか。歴史や伝統を忠実に復元するという立ち場に立てば、エレベーターはつけないほうがよいということが言えるかもしれない。その立ち場だけによってしまうと、ちがう立ち場である、エレベーターをつけることは必要性や理由があるので、十分に許容できるものだ、ということが切り捨てられてしまうのだ。

 参照文献 『究極の思考術』木山泰嗣(ひろつぐ)

日本で行なわれた G20 における、主催した日本によるおもてなしや客迎えのはきちがえ(できていなさ)

 日本の大阪府で開かれた G20 では、韓国の大統領はやや冷たいあつかいを受けていた。韓国だけ、日本からやや冷たいあつかいをされていたのだ。

 テレビ番組の報道では、日本から韓国が冷たいあつかいを受けているということで、それ見たことかといったような報じ方をしていた。それとなく、いい気味だといったような報じ方をしていた。

 日本の首相は、韓国の大統領と会談をしなかった。ほかの国の首脳とはたくさん会談をしたのにもかかわらずだ。日本は、韓国をのけものにしようとした。いまの与党である自由民主党は、それによって、日本の国内にいる自党の支持者にアピールを行なったと見られる。

 G20 が終わったあとに、アメリカの大統領は韓国や北朝鮮を訪問した。電撃的に、アメリカと北朝鮮と韓国の首脳が三者で会い、会談をしたのだ。日本はこのことを知らされていなかった。

 日本はあわを食ったというか、しっぺ返しを受けたというか、色々なぼろが透けて見えてしまった。アメリカと日本の首脳は蜜月だというのや、お互いにぴったりと一致しているというのは、本当だとは言いがたいことがあらわとなっている。

 国益という点でいうと、G20 において、日本は韓国を冷たくあしらうのではなく、温かく迎えるようにして、会談を行なうべきだった。それで少しでも交流を深めて情報をとり入れる努力をするべきだった。そういうことがふり返ってみれば言えるのではないだろうか。

 日本は韓国を冷たくあしらい、のけものにするようなことによって、日本の国益を損なうことになった。自民党は、国内にいる自党の支持者に向けてアピールをするような姑息なことはせず、日本の国益ということをふまえて、韓国と敵対するのではなく協調するように動けばよかった。それがおもてなし(ホスピタリティ)ということではないだろうか。

 日本は G20 において、客迎え(ホスピタリティ)ということをはきちがえてしまった。客迎えというのは、敵対する国などを軽べつすることではない。敵をつくらず、(対立はありつつも)協調をして行こうとするものである。第二次世界大戦や太平洋戦争の大きな失敗の歴史は、おもてなしや客迎えの意味あいを示している。それを欠くのなら、同じ失敗をふたたびくり返してしまいそうだ。

 参照文献 「排除と差別 正義の倫理に向けて」(「部落解放」No.四三五 一九九八年三月)今村仁司

政治は安定している、といういまの首相の政権による虚偽意識(イデオロギー)

 政治の安定がなによりだ。いまの首相はそう言う。前政権である旧民主党のときには、政治が混乱した。それがよくなかったというのだ。

 政治の安定よりも、政治の権力が嘘を言わないことのほうがより大事ではないだろうか。政治の権力が嘘を言って開き直っているのであれば、政治の権力が言うことに信用を置けない。いまの首相による政権によって政治は安定している、と言うことをうのみにできないのだ。

 政治の安定とはいっても、不安定なのが悪いということは必ずしも言えない。不安定だから悪いのだとは必ずしも言い切れないのだ。政治が安定しているといっても、それが現実から離れた虚偽意識(イデオロギー)であっては意味がない。

 安定とはちがい、階層化や分断化がおきてしまっているのではないだろうか。そうしたことがおきている中で、さまざまな批判を封じた上に築かれた幻想の産物が、政治の安定ということだと言ったら言いすぎになってしまうだろうか。

 政治の安定というからには、それは安定した柱や土台によって支えられていることがいるが、そうなっているのだとは見なしづらい。柱や土台がしっかりとしているのではなく、不安定性やぜい弱性をかかえている。もろさがある。壁に寄りかかろうと手をついたら、それが壁ではなくてのれんだった、といったようになっている。政治の権力は有力さをよそおってはいるが、じっさいにはその反対にひどく無力かつ無責任なのではないだろうか。

 参照文献 『どうする! 依存大国ニッポン 三五歳くらいまでの政治リテラシー養成講座』森川友義(とものり) 『二極化どうする日本』柴栗定夢(しばぐりさだむ)

映画の作品における、主題の優秀さ

 じっさいに映画は見ていない。なので、映画の感想ということではないが、新しく公開された映画である新聞記者では、映画でとりあつかっている主題がすぐれているのではないだろうか。この映画では、政治の権力にいどむ新聞記者のことが描かれているという。

 作品がすぐれているかどうかは、主題がどういうものかということによるのが一つにはある。新しく公開された新聞記者の映画では、それが意味あいの大きいものだということが言えるだろう。現実の社会に参与しているのだ。

 現実の政治では、いまの首相による政権のあり方には、よくないところが目だつ。国民にたいして説明責任(アカウンタビリティ)をきちんと果たしていない。開かれたあり方になっているとは見なしづらい。

 政治の権力について、権力チェックをしないとならないのが大手の報道機関だが、それがあまりできていないのだと言わざるをえない。政治の権力に逆らわず、ことなかれ主義で、右へならえといったようになってしまっている。まるで多くの高級な役人(官僚)のように、付和雷同になっているのだ。上が駄目なら、下も駄目になる、というところだろうか。

 大手の報道機関は、NHK がとくにそうだが、だらしがないところが少なくはない。その中で、数は少ないが、がんばっている報道機関や記者はいるが、映画の新聞記者では、そのことがとり立てられているという。

 現実の大手の報道機関による報道では、NHK なんかがとくにそうだが、時の権力であるいまの首相のことを、美化してしまっているのがある。いまの首相のことを、主役みたいな形でとり上げているのだ。これは、とり上げ方としておかしいことだと個人としては言いたい。いまの首相を美化するようにして、主役のようにとり上げるのは、権威主義のあり方だ。

 権威主義ではなくて、民主主義をとるのであれば、もっと大手の報道機関は、権力チェックを行なうように努めなければならない。そこに力を入れることが大切だ。そのためには、時の権力の太鼓(たいこ)持ちや幇間(ほうかん)になるのでは駄目だ。いまの首相のことを、美化して主役のようにとり上げるのではなく、逆に、映画の新聞記者のように、権力チェックをがんばって行なっている記者のことを、主役のようにとり立てるくらいでちょうどよいのだ。

 参照文献 『新・現代マスコミ論のポイント』天野勝文 松岡新兒(しんじ) 植田康夫 編著

闇の拡散

 お笑い芸人が闇営業をやっていた。それがわかったことで、お笑い芸人は処分を受けているという。反社会勢力に当たる詐欺をはたらく会社の営業を行なっていたとされる。

 闇か、闇ではないか、というちがいは、改めて見ると、そこまではっきりとはしないのではないか。闇と、闇ではないものとは、はっきりと分けられるというよりは、そのあいだの分類線は揺らいでいる。

 単独で闇があるというのではなくて、闇があるところのそばに、別の闇がある。また、闇を包摂する闇がある。入れ子の構造になっている。そういった見なし方もできるだろう。

 参照文献 『構造主義がよ~くわかる本』高田明典(あきのり)

国会の標準化の必要(正統と異端)

 選挙に向けて、候補者を立てる。国会議員の山本太郎氏によるれいわ新選組は、いく人かの候補者を立てているようだ。それを受けて、国会はもっと標準化(ノーマライゼーション)されることがいるのではないかというのがある。

 国会が標準化されることがいるというのは、標準とされる人が、もっと変わることがいるということだ。標準とそうではない(非標準)という二分があるとすると、このうちで変わることがいるのは、標準ではないとされる方ではなくて、標準だとされる方である。それが標準化ということだ。

 標準化は人間化(ヒューマナイゼーション)かつ平等化(イクォーライゼーション)でもあるという。国会や社会の中に、非人間的だったり非平等だったり自由がさまたげられていたりするところがあるのは無視できそうにない。そこを改めて行くのが標準化だ。

 社会の中には色々なちがいをもつ人たちがいるのであって、ちがいをもちつつ、生きて行きやすいようになってほしいものだ。そのためには、社会に色々なちがいをもつ人たちがいるということを、国会がもっと反映することがあってよい。国会がそれをすくい上げることが必要だ。

 標準ではないというのを排除するのではなくて、標準ではないというのに感化されることによって、標準だとされるものが、もっと変わって行くようであればよい。

 国会が数の多い少ないによって動くだけなのではなくて、それによりすぎないようにして、質を重んじられればよい。質のちがいを少しでも重んじるようにすることが、国会を標準化するということだ。同質の者だけによる独話や会話ではなく、対話ができるようにする。社会的排除が少なくなるようにして、社会的包摂が十分にとられるのがのぞましい。

 正統と異端がいるとすると、標準化がいるのは、異端ではなくて正統のほうなのだ。みんなができるだけ生きて行きやすい社会にして行くためには、そうなって行くように変革や微調整をして行くことがいる。それをになうのは正統ではなくて異端だ。変革は異端がになうということだ。よいほうへ変革できるとは限らないのはあるが、そうするためには、抑圧や搾取や排除される者ができるだけ生まれないためにどうするかという視点がいる。

 参照文献 『福祉国家から福祉社会へ 福祉の思想と保障の原理』正村公宏(まさむらきみひろ) 『日本の危機 私たちは何をしなければならないのか』正村公宏 『砂漠の思想』安部公房 『内なる辺境』安部公房

批判をするなら、対案や代案を示せ、ということと、問題の所在を明らかにすること(原因にたいして手を打つ)

 年金について、批判を投げかける。それにたいして首相は、投げかけられた批判を受けとめないようなことを言っている。

 これまでに、年金について、いまのとはちがう案を示した人はいない。経済の成長をすることが、年金をよくする唯一の道だ。首相はそう言う。

 年金についてのことに限らず、いまの首相による政権について、批判を投げかけると、それならどうすればよいのか、というふうに言われるのがある。じゃあどうしろというのだ、ということだ。批判をするのなら、対案や代案を示せ、というのである。

 たとえば、よい案というのは、必ずしも野党が示さなくてもよいのがある。野党が示さなくてもよいというのは、野党にはそこまでの力がないのがあるからだ。もっている力の制約がある。なので、野党が自力でやらなくてもよくて、ほかのところにどんどん頼ればよい。ほかのところに目を向ければ、色々な案(私案や試案など)が示されているのがある。中心だけではなくて、目だちづらい辺境にまで目を向けることが必要だ。

 対案や代案というのは、手だてということだが、これは、単体でということよりも、どういう問題かということによってくる。まずは、問題を発見することが何よりもいることなのだ。そのためには開かれた中での話し合いがいる。

 問題を見つけて、それがどういうものかを定めて、問題の所在を明らかにする。そのことが肝心だ。それができれば、そこから自然とどういう手だてをとるのがふさわしいのかが分かりやすくなる。原因が何かということが分かれば、それにたいして有効な手を打つことができる。

 対案や代案となる手だてを示すことよりも、むしろ問題の所在や原因(または複数の要因)を明らかにすることのほうが値うちがある。それが明らかになれば、どういう手だてをとるのがよいのかが分かりやすくなるからだ。

 問題を見つけていって、話し合いをするようにして、どういう手だて(変換操作)がふさわしいのかを探って行く。これを逆から言うと、問題を見つけず、隠ぺいして、話し合いをせず、唯一の手だてにしがみつくことしかできていないのが、いまの首相による政権のあり方ではないだろうか。案のよし悪しというよりも、問題が見つけられていないのだ。開かれた話し合いができていない、という問題がある。

 参照文献 『ぎりぎり合格への論文マニュアル』山内志朗(やまうちしろう) 『市民の政治学 討議デモクラシーとは何か』篠原一(しのはらはじめ) 『考える技術』大前研一 『創造力をみがくヒント』伊藤進

予測と誤差と、近代の変容(大きな物語による第一の近代と、小さな物語による第二の近代)

 予測にたいする誤差がおきる。予測が外れるということだ。

 こういうふうにすれば、こういうふうになる、というのがある。大きな物語による近代のあり方では、予測が当たるということがほぼ自明のこととされる。

 予測が当たるのがほぼ自明というのは、個人において、人生の先行きがあるていど読めるということだ。大きな物語による近代のあり方では、それができていたのだが、そこに誤差がおきるようになった。

 大きな物語による近代のあり方では、個人の人生は、あるていど同じような枠の中におさまった。それが、大きな物語がなりたたなくなったことで、色々な小さな物語になるようになった。働き方では、なろうと思えば基本としてみんなが正社員になれるのではなくて、非正規の労働が四割以上にのぼるようになる。ワーキング・プアが生じることになる。

 予測が当たるということなら、大きな物語による近代のあり方をとることになる。そうではなくて、予測に誤差がおきるという、誤差のところに目を向ければ、小さな物語となる。

 社会のあり方は、いまだに大きな物語のときのありようを引きずりつづけている。それにたいして、個人の人生は、予測がなりたちづらく、先行きが読めなくなっていて、小さな物語となっている。そのあいだのずれが無視できないものになっている。

 大きな物語によるのが第一の近代だ。小さな物語によるのが第二の近代だ。いまは第二の近代になっていて、近代の変容がおきている。それにもかかわらず、社会のあり方は、いまだに大きな物語のときのありようを引きずりつづけているのだ。それでくいちがいがおきている。

 予測は当たる、といったことを、国の政治ではとっているのだが、じっさいには誤差が大きくおきているのだ。これは、国の政治がとっている公共政策が、国民がのぞむものとはちがうものになっているということだ。

 いまとり沙汰されている、年金のことについては、かつて与党をになっていた(いまもになっているが)自由民主党が、かなり甘めの楽観の予測をして、ばらまき政治をしたことが、いまにおいてまずいこととなってあらわれている。甘めの予測に誤差がおきたのだ。この責任は自民党と高級な役人にあると言えるだろう。大手の報道機関にもまた責任はある。

 不易(ふえき)と流行ということで、不易に当たるものは、変えてはいけないので、保守することがいるが、流行に当たるものであれば、枠組み(パラダイム)を根本から見直すようにするのはどうだろうか。近代の変容ということで、小手さきで対応するのではなくて、枠組みを変えたほうがよい(または改めて見たほうがよい)ことは、中にはあるだろう。

 参照文献 『市民の政治学 討議デモクラシーとは何か』篠原一(しのはらはじめ) 『快楽上等! 三・一一以降を生きる』上野千鶴子 湯山玲子(ゆやまれいこ) 『ここがおかしい日本の社会保障山田昌弘 『大貧困社会』駒村康平(こまむらこうへい)

憲法九条の信者をなぐることと、国というもののおかしさ

 憲法九条をよしとする。九条をよしとする信者がいるとすれば、その人をなぐってみたい。九条の信者は、人からなぐられたとしたら、いったいどうするつもりなのだろうか。それを見てみたいものだ。そういうツイートがツイッターで言われていた。

 このツイートで言われていることというのは、こういうことだと見なすことができるのではないだろうか。国というのは、なぐる主体なのである。なぐるというのは悪いことなのだ。そこから、国は悪いものなのだということが導かれる。

 憲法九条というのは、国はなぐるものであって、そういうことをする国というのは悪いものなのだ、ということをあらわしているところがあるものなのではないだろうか。

 憲法九条が絶対の正義だと言うつもりはない。ただし、個人の信条としては、九条は守ったほうがよいのではないかというのがあるのはたしかなのだけど、それは置いておけるとして、焦点を当てたいのは、国はなぐるものだということや、国は悪いものだということである。これは、国というものにほぼ例外なく当てはまるものだと見なしたい。自国であっても例外ではないということだ。

 悪い国から自国を守るということよりも、むしろ国というのが基本として悪いものなのではないかという気がしてならない。国は悪いというふうに言うと、極論に響くところがあるかもしれないが、自国は大切だとか、国(普通の国)はよいということは、虚偽意識(イデオロギー)なのではないだろうか。

 世界平和のためには、国というのを超えて、超国家(トランス・ナショナル)であったり、あるいは国を分化したものである、地方自治体による自治だったりというのが大切になってくる。平和をはばむ元凶として国というものがあるのではないだろうか。国そのものが平和をはばむ元凶になってしまっている。国そのものが、紛争を呼びおこしている。歴史と事実をうやむやにしてしまっている。そういうところが少なからずあるように見うけられる。

 参照文献 『現代思想のキイ・ワード 増補』今村仁司