日本の国の心でっかちや心主義のあり方と、教育勅語

 教育勅語(ちょくご)を政治家がよしとする。そのことについてをどのようにとらえられるだろうか。

 教育勅語によって、背すじが伸びるか、それとも背すじが凍るか。好きか、きらいか。どちらの受けとり方になるのかを、政治家がウェブの X(Twitter)によって調べていた。X の利用者に問いたずねていた。利用者の回答の数を調べる機能が X にはある。

 勅語とは、天皇の命令の言葉である。天皇の意思を表示したものだ。教育に関する勅語なのが、教育勅語である。戦前の一八九〇年に発布された。戦前の日本は勅語の体制だった。

 何をうたがうようにするべきかがある。教育勅語そのものであるよりも、それをよしとする政治家をうたがう。政治家を疑うようにすることがいるのがある。

 固有の性質によるのが教育勅語である。(受けとり方によっては)いくら文章の中によいことが記されているからといっても、特殊なものにとどまる。普遍のものではない。

 つねに当てはまる性質なのが普遍のものだ。教育勅語はそうではないけど、いまの日本の国の憲法は普遍のものである。政治家であるのであれば、教育勅語をもち出すのは意味があまりない。批判するために持ち出すのでないかぎりは、意味がほとんどない。

 どういうことが実践の正義に当たるのかといえば、政治家が教育勅語をもち出すことがそれに当たるのだとはできづらい。教育勅語をもち出す政治家は、何かよからぬ意図をもっている見こみが高い。国民をだます。国民にうそをつく。

 心の中の像(image)を外に表現したものなのが表象(representation)だ。教育勅語をよしとするのは、そうした表象をもつことである。良いものとして表象しているのである。

 国民そのもの(presentation)なのではなくて、その代理なのが政治家だ。代理だから、国民の表象に当たるのである。表象であるのが政治家なのだから、うそをつくことが少なくない。批判することがいるのが政治家なのである。

 憲法であれば、制度の正義に当たるけど、教育勅語はそれに当たるものではない。政治家なのであれば、制度の正義によるようにして行く。制度の正義である憲法を、政治家が守って行く。教育勅語をもち出してもとくに国民の益にはならないが、制度の正義である憲法を政治家がしっかりと守るようにすれば国民の益になる。

 心でっかちなのや心主義なのが日本にはある。国が、人の内面に入りこみ、内面を支配して行く。政治家はそれをねらう。人の内面の支配をたくらむ。教育勅語は人の心の中を支配するねらいをもつものである。

 何かよこしまだったり悪かったりするこんたんを持っているのでなければ、政治家が教育勅語をもち出すことはあまりないものだろう。一般の人は置いておくとして、政治家が教育勅語をもち出したら、十分に警戒しておきたい。悪い意図を政治家がもっていて、それを隠している見こみが低くない。

 道徳によるのだと、日本の心でっかちやこころ主義の悪さを防ぎづらい。道徳であるよりも、法の決まりを重んじるべきだ。法の決まりでは、制度の正義として、憲法がある。政治家であるのなら、教育勅語をもち出すのではなくて、憲法をもち出すようにして、それを政治家が自分で守るようにすればよい。

 政治家が教育勅語をもち出したいのであれば、批判としてもち出すのならよいだろう。批判するのではなくてそれをよしとする形で政治家が教育勅語をもち出すのは、とくに実践の正義になっていない。政治家としての良い行動になっていないのである。表象なのが政治家だから、それを疑ったり批判したりするようにして行きたい。

 参照文献 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『ナショナリズム 思考のフロンティア』姜尚中(かんさんじゅん) 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『一三歳からの法学部入門』荘司雅彦 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『教育勅語を読んだことのないあなたへ なぜ何度も話題になるのか』佐藤広美森毅(たけし) 『日本が「神の国」だった時代 国民学校の教科書をよむ』入江曜子 『天皇論』鷲田小彌太(わしだこやた) 『政治家を疑え』高瀬淳一 『うたがいの神様』千原ジュニア憲法という希望』木村草太(そうた)