五輪と政治における目標―どのような目標のために何をやることがいるのか

 五輪の中止を言うのは反日だ。反日の歴史の認識をもつ人たちだ。与党である自由民主党の前首相は、雑誌の対談の記事のなかでそうしたことを言っている。

 前首相がいうように、五輪に反対することと反日であることとは関わりがあることなのだろうか。

 反日をもち出しているのが前首相だが、これはなに型(what)の思考だ。何であるのかにおいて、反日であるとしている。それとはちがい、なぜ型(why)の思考をはたらかせることが大切だろう。もっとなぜで見ていって、ものごとを深くまでほり下げて行く。

 なに型の思考によって、反日をもち出しているのが前首相だ。なに型の思考で反日をもち出すことをもってしてよしとしてしまっているのだ。反日をもち出しさえすればそれでまちがいであることが示されるのだとしている。そこにいちじるしく欠けているのがなぜ型の思考だ。

 何のために何をするのかの点によって整理して見てみたい。何のためにのところは目標だ。どのような目標のために何をするのかがある。

 政権が持っている目標はこうしたものだろう。政権の支持率を上げたい。選挙で政権が勝ちたい。自分たちの党が利益を得たい。とにかく五輪をひらいてしまいたい。国家主義(nationalism)をどんどん強めて行きたい。国の言うことをすなおに聞き入れる主体をどんどんつくって行きたい。

 政権がもっている目標とはちがい、国民の福祉(welfare、well-being)を少しでも高めて行くことを目標にできる。国民が少しでもましな生活を送れるようにすることを目標にするのであれば、五輪を中止にするのはその目標に近づくための一つの手だてになる。

 新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が広がっている。そのなかで五輪を無理やりにひらくのは、国民の生活をよりよくする目標から遠ざかることになりかねない。目標から遠ざかるのではなくて、目標に少しでも近づいて行くためには、五輪を中止にすることは一つの手だてとなるだろう。

 五輪をひらいてしまうと、目標からますます遠ざかっていってしまう。国民が健康で文化による最低限の生活を送ることから遠ざかっていってしまう。憲法の第二十五条でいわれている国民の生存権が満たされなくなる。

 政治家は表象(representation)であり、国民そのもの(presentation)とはちがう。政権がもつ目標は、表象がもつものだから、国民のためになるものではないことがしばしばある。

 国民にとってどのような目標を持つことがふさわしいのかがある。それは政権がもつ目標とは区別されるべきだろう。政権がもつ目標は、国民とはみぞやへだたりがあるものだから、国民がもつ目標よりも価値は劣る。

 国家の公ではなくて個人の私が大事なのだから、国家の公である政権よりも、個人の私である一人ひとりの国民のほうがより重みをもつ。個人の私である一人ひとりの国民がみな等しく生かされるようであることがいる。それが目標としては大事なものだから、国家の公である政権が表象としての目標をもつのだとしても、その目標が国民のためにはならないことは少なくない。

 参照文献 『「Why 型思考」が仕事を変える 鋭いアウトプットを出せる人の「頭の使い方」』細谷功(ほそやいさお) 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『公私 一語の辞典』溝口雄三現代思想を読む事典』今村仁司編 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら)