五輪と選手と政治家―選手がやるべきことと、政治家がやるべきこと

 東京都で夏に五輪をひらく。五輪をひらくことについてを、運動の選手と政治家を切り分けて見てみたい。それで見てみたらどういったことが言えるだろうか。

 運動の選手と政治家を切り分けて見たさいに、選手にはどのようなことがいるだろうか。選手にいることは、運動の競技が行なわれたとすれば、そこで自分ががんばることだろう。

 選手とはちがい、政権にいることとはいったい何だろうか。政権にいることは、五輪をひらくことをただやみくもにおし進めて行くことだとは言えそうにない。

 政権にいることは、政治の仕事をなすことだろう。政治の仕事とは、国民にきちんとものごとを伝えることがその肝心なことの一つだ。

 政治はお金と語りによる。お金は広い意味のもので、利益の分配だ。ばつやほうびを与えるのをふくむ。日本の政治はお金には熱心だが語りが弱い。お金には力が入れられているが語りには力が入れられていない。お金や票にならないところには力が注がれない。

 日本は国の財政が借金だらけなのだから、お金に頼ることができなくなっている。お金についてはきわめて苦しくてゆとりがない。財政の破綻の危機におちいっている。そのなかであとは語りくらいしか手が残されていない。その語りが日本の政治ではしっかりとできていない。語りの質と量がともに不十分だ。

 選手については、五輪に出たさいに運動の競技をがんばることになる。はれの大舞台だからそこでがんばることがのぞめる。

 政治家についてはどうかといえば、あまりにもがんばらなさすぎだろう。政治の仕事をしなさすぎであり、手を抜きすぎている。政治の仕事の中でももっとも大事なことの一つが国民にものごとを伝えることであり、そこがおろそかになりすぎている。

 日本の政治家には政治の仕事を行なう能力が欠けていることが少なくない。運動の選手であれば、運動の競技で少しでもよい結果を出すために、自分の能力を高めて行く。選手にはそれがのぞめるが、日本の政治家は政治の仕事の能力を少しでも高めて行こうといったところがほとんど見えない。

 運動の選手と比べると、かなり情けないことになっていて、ひどいありさまになっているのが日本の政治家には見てとれる。きびしく見ればそう言うことが言えるだろう。野党の政治家よりも与党の政治家のほうがよりひどさがきわ立っている。野党の政治家にはまだましなところがあるが、与党の政治家は政治の仕事のできていなさが目だつ。

 政権は、政治の仕事をしっかりとやるようにして、国民にたいしてものごとを正確で客観にすばやく伝えて行くことがいる。その反対に、政権が嘘を平気で言ったり正確性がいちじるしく欠けた主観のことを言ったりするようではまずい。

 運動の選手であれば、自分が運動の競技に出てそこで結果を出すか出さないかで評価が決まる。選手への評価はそこで下されることになる。政治においては、どのように政権のことを評価するのかがあり、そこで重要になってくるものの一つに政権が国民にものごとを伝える能力がある。

 伝える能力がいちじるしく欠けているように映るのがいまの政権だ。政権のことを政治において低く評価せざるをえない。与党よりも野党のほうがまだ少しは高い評価づけになる。与党よりは野党のほうがまだ少しは伝える能力があり、政治の仕事ができる見こみがある。ものごとを伝えることに重みを置くとすればそう言えるのがある。

 参照文献 『武器としての〈言葉政治〉 不利益分配時代の政治手法』高瀬淳一 『政治家を疑え』高瀬淳一 『言葉が足りないとサルになる 現代ニッポンと言語力』岡田憲治(けんじ) 『五人のプロに聞いた! 一生モノの 学ぶ技術・働く技術』阿部正浩(まさひろ) 前川孝雄編