かけごとへの依存症から見る、人間のぜい弱性(vulnerability)

 かけごとに依存する。他人のお金を不正に得て、何十億円もの借金をつくる。

 依存症をわずらっていると、周りが見えなくなってしまう。それで他人のお金を不正に得てまで、ばく大な借金を作ってしまう。

 すごい多額の借金をつくってしまったかけごとの依存症の人は、どれくらい悪いと言えるのだろうか。すごいきびしい見かたとしては、万死に値するとまで言われているのがある。X(Twitter)のつぶやきによる。

 かけごとの依存症で多額の借金を作ってしまった人については、きびしく見るべきかそれとも甘く見るべきか、どちらがよいのだろうか。人それぞれでどちらの見かたもできるかもしれない。

 たとえきびしく見るのであるのにせよ、やり直し(redo)ができるようにして行く。それが大事なことだろう。人権によって、さいていでも命だけは保障されるのでないと、やりなおしができない。基本的人権尊重主義だ。

 いまの日本の憲法では人権が重んじられている。たとえかけごとの依存症の人であったとしても、人権が保障(ほしょう)されていることはまちがいない。人であるのならばもれなく保障されるのが人権だ。

 生きているのでないと、やり直しができない。命が保たれるのでないとならないのがあるから、人権によって生きることが認められるようにする。そのうえで、依存症を治療して行く。依存症が治ればやり直すことができるのだから、新しい人生を歩んで行くことがなりたつ。

 罪をおかしたとなると、どうしても原因の帰属を個人に当てはめてしまいがちだ。原因の帰属で、内か外かがあるけど、内だけではなくて外にも帰属させることがなりたつ。個人をとり巻く外の状況の要因だ。

 状況の要因を見てみると、かけごとの産業がある。かけごとの産業は、人からお金をまき上げてお金をもうけているところがあるのはいなめない。あまりよい産業とは言えそうにない。

 人をだまして、落とし穴のようなものにはめこむ。それでお金をもうける産業が中にはあるから、そうしたものは人を幸せにするものではないものだろう。

 できるだけやり直しの機会が多いのがよい社会だ。いまの日本を見てみると、やり直しの機会が多いとは言えそうにない。階層(class)の格差が固定化している。アメリカなんかもそうだろう。格差がしんこくだ。

 光とやみの二つがアメリカにはあるとすると、依存症は闇に当たるものだ。自分の力によってはどうにもならない。非力を認めざるをえない。無力さをつきつけられることになるのである。

 自分で自分をうまく制御して行く。自分がもっている力によってうまく生きて行く。努力して成功にいたる。アメリカの光に当たるところはそうしたものだけど、光が強ければ強いぶんだけ、闇もまた深くなる。

 自分の力をたのみにするあり方は西洋によるあり方だ。自恃(じじ)である。依存症はそれではうまく治りづらいものだろう。東洋のあり方がいる。自分の無力さをさとる。何とかしようと思えば、自分で何とかできるのではなくて、自分ではどうにもならないことが中にはある。

 自分の無力さをつきつけられるようなものについては、西洋のあり方であるよりも東洋のあり方がふさわしい。西洋のあり方によりさえすれば、たとえ何ごとであったとしても何とかなるものではない。何とかならないものも出てきてしまう。

 西洋のあり方や、アメリカの光のところは、勝利だ。かがやかしさがあるけど、その裏のところには敗北がある。依存症は敗北のところがあるから、敗北を認めることがいりそうだ。

 全てにおいて勝つとはなかなか行きづらい。どうしても勝てないものが中にはあるから、それを受け入れて行く。東洋のあり方によるようにして、人間中心主義や人間万能主義によらないようにして行く。人の力ではどうにもならないことも中にはあるのは確かだ。

 単純な分類づけではあるかもしれないが、性でいえば、西洋のあり方は男性のあり方であり、東洋のあり方は女性による。東洋や女性のあり方は手当て(care)だ。他の人の力を借りたり、自分への配慮をしたりして行く。手当てがすごく充実している社会であるのがのぞましい。手当てを充実させて行くために、西洋中心主義や男性中心主義を見なおすことがいる。

 参照文献 『ヘンでいい。 「心の病」の患者学』斎藤学(さとる) 栗原誠子 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信原理主義と民主主義』根岸毅(たけし) 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明罪と罰を考える』渥美東洋(あつみとうよう) 『クリティカル進化(シンカー)論 「OL 進化論」で学ぶ思考の技法』道田泰司(みちたやすし) 宮元博章(みやもとひろあき) 『構築主義とは何か』上野千鶴子